※この記事は「親鸞会」と「「高森会長」の古巣の「XXX」」の双方と関わりのある「お同行」に、、、
「「秘事法門の信心」は「他力信心」とはどう違うのか?」
・・・を「ご指名」で聞かれましたので、
それにお答えした「お手紙の一部」をアレンジしてお送りいたします。。。(*^。^*)ノ
。* ゚ + 。・゚・。・。* ゚ + 。・゚・。・。* ゚ + 。・゚・。・。* ゚ + 。・゚・。・。* ゚ + 。・゚・。・。* ゚ + 。・゚・。・
XXXXX 様
ども~!!
「れおん」で~~~す。。。(・ω・)ノ
正直、「阿弥陀様」のお救いに出遇って、ワリと「気ままな生活」を送っている「れおんタン」にとって。。。
「ご指名」でかつ「内容限定の考察依頼」ってのは・・・
結構ハードルが高いっす!!Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン
なんつーか・・・。
「テキトー」に言いたいコト「だけ」を書いているように思われますが・・・。
こう見えて・・・。
じつは、ワリと頭を使っている・・・つ、つもりなので。。。 (・д・) えっ?ウソつけ!
「XXさん」みたいに「猪突猛進」で「記事を書く」!!(←名前を伏せてもバレています!(笑))
・・・って、なかなかできないんですよ。。。(笑) ( ̄▽ ̄;)ノ
・・・ってことで、いろいろと悩んだ結果。。。
「間違いのポイントはどこなのか?」を明確にしたうえで、
お話した方がわかりやすいと思うので、
長文になりますが、そのスタイルで進めさせていただきます。。。(*´▽`*)ノ
( ^ω^)・・・。
まず!!
「秘事法門の信心」ってのはいったい何なの?
・・・というコトの前に、
このお話に入る前段階の「最低限知っておいてね♡」ってコトを書いておきますね。。。(*´▽`*)ノ
「阿弥陀仏に救われたヒト」は「どんな信心なの?」
・・・ということは、「浄土真宗親鸞会」では
「「二種深信」が立つことだ!!」
・・・と教えられました。。。(←これは「正しい」です!!(・ω・)ノ)
では次に、「「二種深信」とは何ぞや?」
・・・ってコトになるのですが。。。
これは「善導大師」の「機法二種一具の深信」を言い、
「「機」と「法」が同時に知らされるコト」として次の御文が挙げられます。。。
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
【観経疏「散善義」】
「深信」といふはすなわちこれ深く信ずる心なり。また二種あり。
(機の深信)「一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。」
(法の深信)「二には決定して深く、かの阿弥陀仏の、四十八願は衆生を摂受したまふこと、疑なく慮りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず。」
で!!「高森会長」は「ご法話」の際に、この「二種深信」を・・・
「絶対に助からない私」と「絶対に助かる私」が同時に知らされる
「絶対矛盾の信心だ!」
・・・と説かれましたが、
「高森会長」さん、これは間違いです!!(`・ω・´)ゞ
(* ̄▽ ̄)フフフッ♪
・・・ってなコトを説明しようと思っていろいろと探していたら、
この件について簡潔に書かれている「文節」が、ちょうどタイミングよく!!
「安心論題を学ぶ」(内藤知康著)にありましたので、
「四、二種深信」の一部を抜粋いたしますね。。。( ̄▽ ̄)v
こんな感じっす。。。(・ω・)ノ
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
信機と信法との関係(その一) (106頁~)
この信機(機の深信)・信法(法の深信)を、たとえば、信機を地獄ゆき間違いなしの私と知ること、
信法をお浄土まいり間違いなしの私と知ることと見るとします。
『歎異抄』には親鸞聖人のお言葉が示されていますが、第二章には「とても地獄は一定すみかぞかし」とあり、
第九章には「いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ」とあります。
この二つのお言葉について、前者が信機にあたり、後者が信法にあたると見るのです。
このような見方は、二種深信を矛盾の信を表現したものという見方に展開する場合が多いようです。
一方は真っ逆さまに地獄に墜ちる私、一方は真っすぐにお浄土に生まれていく私ということになりますと、これは矛盾です。
(中略)
宗教の世界では、私たちの理論では矛盾としか言いようのないことも成り立つということを根拠にして、
二種深信は宗教の世界のことであるから、
私たちの理論では矛盾としか言いようのないことが成り立っているのだと主張することはできません。
最初の【題意】の項で述べましたように、この二種深信は、信機と信法が矛盾でないと論じるのです。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
そんでもって!!
「安心論題を学ぶ」(内藤知康著)には、更に・・・
「秘事法門の信心」についてもすこ~しだけ書かれていましたので、
それも抜粋いたします。。。( ̄▽ ̄)v
こんな感じっす。。。(・ω・)ノ
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
信機と信法との関係(その二) (110頁~)
二種深信の関係は、
信機=自力無功=捨機=捨自
信法=他力全託=託法=帰他
このような二種深信の関係は、先輩によって闇去明来とたとえられています。
(中略)
つまり、闇が去るということと明かりが来るということとは一つの出来事です。
一つの出来事ですから、そこに前後関係はありません。
闇去明来のたとえで考えてみますと当たり前のことなのですが、
二種深信の関係を考察する考え方の中には、法の深信の前に機の深信があるという理解があります。
これは、阿弥陀如来の救いにあずかるためには、まず自分自身が地獄に堕ちきってしまうことが必要だ、
という言い方がされたりします。
そればかりか、まず地獄に堕ちきるためにといって、
周囲からの罪の告白や懴悔を迫って責めたてて一種の精神的パニックをおこさせ、
その瞬間に今こそ救いが成立したといって喜ばせるなどする秘密の儀式を行ったりもします。
ここまできますと、さすがに正しい信心でないということは明らかなのですが、
これほど極端ではなくても、二種深信に前後関係をみるのは基本的に間違った見方であります。
これを、二種深信は前後起ではないといいます。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
・・・と、長々と「安心論題を学ぶ」(内藤知康著)を引用抜粋いたしました。。。
長くてすんまへん。。。(´・ω・`)ショボーン
コチラは「教学」「真宗学」からみた「異安心の間違いの説明」なのですが、・・・
「れおんタン」は「一文不知の尼入道」ですので!!(←コラッ!無知を誇るな!!(`・д・´)ノ)
難しいコトは、ぜ~んぶすっ飛ばして!!(笑)
「他力信心」からみて「これは、おかしいぞ!」
ってコトに絞って、これからお話いたしますね。。。( ̄▽ ̄;)ノ
((で!! ここからが、や~~~っと本題です。。。ワリと長かったなぁ。。。( ;∀;)))
↓
↓
↓
・・・ってコトで、まず!!
「れおんタン」から見ても「秘事法門の信心」の「明確な間違い」
・・・ってのは、やっぱりあります!!(`・ω・´)ゞ
ポイントは2つ!!
1つ目は「機の深信」は「罪悪深重の私」ではない!
ということと、
2つ目は「方便法身の仏さま」の「擬人化の度合い」が行き過ぎている!
ということ。。。
そこが「本当のお救いから外れている」から!!
「高森会長」の古巣の「XXX」は・・・
「救われた体験を重視」して、(←「凡夫の体験」は当てになりません!←「当てにならない」を知ったのが「機の深信」」です!)
「罪悪を徹底的に知る(知らせる)」ために「(他人)攻撃が正義」になって、(←いわゆる「機責め」で「無常と罪悪」を「責め立て」ます!)
「自己」を追い詰めて「精神を圧迫」した結果、「弥陀の擬人化の度合い」が強くなりすぎて「ヒステリックな信心」になるキライがあります。。。(←「機責め」の結果の「強迫観念の刷り込み」です!)
ですので「XXXの他力信心」は・・・残念ながら、
「迷知の行き過ぎた「強迫観念」」によって「無理やり造り出された人工信心」となります。。。( ;∀;)ノ
・・・ってコトで、
こ~んなヒトが「典型的」な「XXXの他力信心」かなぁ・・・
という【「人工信心」のテンプレート的「文章」】を例に挙げてみたいと思います。。。( ̄▽ ̄;)ノ
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
厳しい言い方になりますが、自分の気持ちをあれこれ言ってもキリがありません。
そうしてきてもどうにもならなかったのではないですか。
一旦阿弥陀様の身になって下さい。
どうにか助けたいけれど、あれこれ言って結局その通りに聞いてもらえない、どうにもやりきれない、
それでも何度でも「必ず助ける」と呼び掛けて下さる阿弥陀様のお気持ちを受け取って下さい。
阿弥陀様が「必ず助ける」と呼び掛けて下さるのを当たり前のことと思っておられるのでしょうか?
どうにか助けたい、の阿弥陀様の身になって、阿弥陀様の眼を通して、自分のことを見つめて下さい。
どうしてもなら、鏡の前に立ってその顔を見て下さい。
阿弥陀様が何がなんでも救いたい人の顔がそこにあります。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
・・・・・・・・・・・・・・。
<(゚ロ゚;)>ノォオオオオオ!! <(゚ロ゚;)>ノォオオオオオ!! <(゚ロ゚;)>ノォオオオオオ!!
・・・ってさ~!! マジ悪いけれど・・・
ちょっと何言っているかわからない!!!!\(°o°;)/ !?
「青」・・・「他力に出遇うため」に「阿弥陀仏」の立場に立って「考えて」、「阿弥陀様の気持ち」を知る「努力」をしろ!!
・・・は「無条件のお救いに出遇うため」には「凡夫の努力が必要だ!」という「条件付きのお救い」です。。。
((「弥陀のお救い」は「無条件のお救い」です。。。))
「茶」・・・言い換えると「XXX」なのに「あなたは(そんなことも)わからないの?」となり、
・・・このような「言い回し」は別名「正義の押し付け」といい「世間一般」ではそれを「同調圧力」といいます。。。
((「正義の押し付け」は別名「分別智」といい「自力心の塊」です。。。))
「紫」・・・「阿弥陀様の身になって、阿弥陀様の眼を通して、自分のことを見つめて下さい。」
・・・は「無謀」です。。。
((「獲信」しても、「今生」は「仏さま」にはなれません。。。))
「緑」・・・鏡の前に立ってその顔を見て下さい。阿弥陀様が何がなんでも救いたい人の顔がそこにあります。
・・・は「小泉構文」です。。。
((「小泉構文」とは「中身がありそうで中身のない言い回し」のことをいいます。。。( ̄▽ ̄;)))
鏡の前に立ってその顔を見て下さい。阿弥陀様が何がなんでも救いたい人の顔がそこにあります。
・・・は、「鏡の前に「私」が立てば「私」が映る」のは当然のことで、それ以上でも以下でもありません。。。(´・ω・`)ショボーン
・・・ってコトで!!
「わたしの努力」と「他人の強迫観念」によって「真実の自己」が知らされ、
「そんな者をお救い下さる「阿弥陀様」とご対面」
・・・というのは、このように検証してみると、じつは・・・
「自力心」をこじらせた「妄念」
なのであります。。。(´・ω・`)ショボーン
((つづく))