goo blog サービス終了のお知らせ 

浄土真宗・他力信心の境地

「他力信心のお味わい」を「お聖教の引用」ではなく「私の言葉」で書き連ねています。

「機責め教団へのツッコミ」と「仏法の結論」(13/13)【「救いの結論」は「現在完了」④】

2023-12-28 13:13:13 | 【親鸞会教義のここがヘン!】

・・・てか、

「浄土真宗辞典が・・・
いったい「何故」こんなコトになっているのか???

 

( ^ω^)・・・。

 

・・・ってのを考えてみると、

じつは「れおん」の「愛読書」にも。。。(ー∀ー;)

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█

「開かれた信心と閉じられた信心」(8ページくらいから)

蓮如上人の『御文章』-宗名の章「一の十五」にあるが如く、
「自余の浄土宗はもろもろの雑行を認める、わが聖人はこれを是認しない」ところに
「【真】の一字を加えた」とあるのは至言である。
この浄土異流は「名号」を彼方に【静的に】おかれているが、
このような信仰が「宗教そのものの一般常識」であろう。

かつて先哲は、『教行信証』行巻の「大行」を「行体」と「行相」に分別し、
【行体の名号の「活動相」を称名】とされている意が知られる。
「念仏」とは【動的に】【正しく動いている】「名号法」である。

宗祖が愛用された「十字名号」【帰命尽十方無碍光如来】
その「十字名号」の内容を開いたものが「十二光」であり、
宗祖は特に、最後の【超日月光】に最も注意されている。

(なぜなら)日月の光はいつでも、どこでも、だれにでも既に出世以前から与えられているが、
これらは、かくれる場所も逃げることも可能である。
(しかし)「南無阿弥陀仏の名号法」は、
いつでも、どこでも、だれにでも、自ら求めるより先に既に与えられているのである。
このことは、今ここに存在しているこの私の上に自ら求めるより先に既に与えられ、
【はたらきかけつつある】ことを意味する。

しかも「十二光」の内容は一光一光が「南無阿弥陀仏の妙用」を示されたものである。
この十二光を一つに統摂したのが【無碍光】といわれる。
はじめの無量光と無辺光はいつでも、どこでも、この私の存在するところは、
より先に既に与えられ【はたらきつつある】ことを意味する。
これを具体的にいうと、「南無阿弥陀仏」には逃げる場所もかくれる場所もない。
しかもその内容は、このわたしの(後生)すくわれない心配も、(後生)どうしたらたすかるかという心配も、
すべて【「南無阿弥陀仏」の上に先に取られ無用】となっているのである。

それは『御文章』-「四の八」にあるが如く、
【この私の往生定まりたる証拠】が「南無阿弥陀仏」なのである。
あたかも今日の「ただ今の天気」の如くである。
今は天気である、と「思う必要も」「いう必要も」ない。
(私が)【間違いないと思っているのが間違いない】のではなく、
【間違いないモノガラは天気そのもの】である。

このことを宗祖は「無疑」といわれる。
元来「無疑」は決定が略され、この決定は「過去完了」でも「未来完了」でもない。
【現在完了を場としている】といわれるのである。
それ故、「無疑」と「不疑」はその意を異にし、無疑決定の決定によってその意を異にするのである。

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█

・・・ってな感じでさ。。。

 

「稲城和上の本」には、「この本」だけでなく、いたるところに

「現在完了」という「言葉」そのものや

「現在完了」をあらわす「説明文や比喩表現」

と、それとともに「~つつある」を併用していますワ。。。(´-∀-`;)

 

 

まぁ、「こういうコト」から察するに。。。

「言葉」というモノは「時代とともに変化をするモノ」だから。。。

 

かつてあった「言葉」が消滅する。。。

かつてあった「言葉」が別の意味に置きかわる。。。

「蓮如上人」「御文章」の「たのむ」の意味が

「おまかせ」から「おねがい」に「変わってしまった」ように。。。

 

「戦前」と「戦後」で、もしかして「ナニカ」が変わったカモ?

・・・と「インターネットを漁って」みて・・・思ったコトは。。。

 

・「現在完了」を表現する「言葉」は「昔は存在した」が「どこかで」使われなくなった

・しかしながら「物事が進行するさま」を表わす「助詞」として「~つつ」は存在するため

 「分別せず」そのまま「使用していた」

・「戦後」になって「英語の義務教育」で「現在完了形」と「現在進行形」を学習することになり、

 「学習指導要領」で「現在進行形(be + ing)」を「~つつある」と訳すように定められたため、

 「その当時の言葉」で止まっている「浄土真宗辞典」が「取り残されて」現在にいたる

 

・・・ってなトコロかなぁ~、と推測しています。。。(´・ω・`)ショボーン

 

 

・・・ってコトなので!!

 

コレだけは言えるコトとして。。。

「辞書」を鵜吞みにしない!

「教科書」を鵜吞みしない!

「XX先生の言葉」を鵜吞みにしない!

「れおんの言葉」を鵜吞みにしない!

「凡夫の言葉」を鵜吞みにしない!

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█

「過信」はそのまま「自力心」そのままおまかせ「他力信心」 - 浄土真宗・他力信心の境地 (goo.ne.jp)

(2023年9月24日)より抜粋

 

「教科書が全て正しかったら科学の進歩というのは、ないわけでね」

「教科書に書いてあることも、実は間違っていることが、たくさんある」

「人が言っている事、あるいは教科書に書いてある事を鵜吞みにしない」

信じたら、そこで「進歩がない」ということになりますから」

「だから「何故か?」と
「摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ」
が重要だと思っています」

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█

なのであります!!!! (๑•̀ _•́)و✧

 

 

 

🔶さて、ココからは「〆の言葉」になりますが。。。

最後は・・・

「仏法の結論」「救いの結論」は「現在完了」であるコトが書かれた

・「方便法身の解説の抜粋」

・「れおん」の「言葉で綴った結論」

をもって「終わり」としたいと思います。。。(`・ω・´)ゞ

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█

「開かれた信心と閉じられた信心」(11ページくらいから)

「浄土真宗」では「念仏往生」とか「信心往生」といわれる。
往生は行きづまることではない。
往生は動詞であり、つぎに浄土が略されている。
浄土はそのまま無上の仏果のさとりの世界をいう。
それ故「往生即成仏」といわれ、
死の壁をこえた世界が、この私に因法として直接しているのである。

(そして)この「念仏の法」はいつでも、どこでも、だれにでも
既にこの私の求めるより先にとどけられている。
それ故、この南無阿弥陀仏の法に遇う場は「今ここ」の外にはあり得ない。

宗祖も本願名号に遇う場合には、
「教行信証」「総序」にも「化身土巻・三願転入」にも
「今」という言葉を出されている。
今は「今」ととらえたら既に「過去」に流されるので
「今」の時間は、「ここ」の空間の場の外にはあり得ない。
「今ここ」は最も具体的な立場であり、
実証も論証も必要としない「この私の存在している場」である。

蓮如上人の生涯のご教化は「平生業成」に摂することが出来得る。
この「平生」は臨終に対したものといわれるが、平生は臨終をも包摂しているので、
具体的にいえば「いつでも」ということであり「いつでも」は「今」であるため、
「平生業成」の平生は「今ここ」であり、
「この私の存在している場が」「往生浄土の因の決定する場」なのである。

(この)「平生業成」は、当時の民衆に直接する答えであった。
「平生業成」は平易な言葉でいうと「ただ今のおたすけ」ということである。
「ただ今」とは、この私の存在している場の外にはあり得ない。
(そして)この私の存在している場の外に救いの法を求めると、
逆に「拒絶」となり、永恒に救いの法に「遇う」ことは出来得ない。

それ故、(「救いの法」に「遇う」ことは)「神と私との出会い」ではなく、
「正信偈:一生造悪弘誓」「浄土文類聚鈔:弘誓」
と、「全く夢にも思ったことのないものに偶然に遇う」場合に用いられる。
というのは(「遇う」という語は)「出会い」のような
「神と私との対応的立場がになっているからである。

(そして)この逆対応の論理性の上に救済の論理を明らかにされたのが
(宗祖の主著)『教行信証』一部六巻の内容といわれる。

即ち『教行信証』一部六巻を順観すると、
「何よりも先に救いの答えは与えられている」ことを前提とする。
逆に最後の「化身土巻」-特に真門釈-から逆観して、
私の側が先行すると、永劫に救いの答えは与えられない。

親鸞聖人の主著『教行信証』一部六巻には
「真宗」という言葉はしばしば出ているが、「真宗これなり」と、
その内容を一言にして尽くされているのは「信巻」の横超の釈に「一ヶ所のみ」である。
 「横超とは即ち願成就一実円満の真教、真宗是なり」とあり
覚如上人の『外邪鈔』にも
 「十八の願にとりてはまた願成就をもて至極とす」とある。

それ故、蓮如上人の『御文章』は、
善導大師の「六字釈」と「本願成就文」によるものといわれるのである。
これによって『御文章』の帰結は「たすけたまへとたのむ」の
真宗安心の根本義を一文不知の庶民にも通ずるものをだされたのである。

元来、宗教一般の上でも、更に仏教の上でも第一前提となるものは信であるが、
この信は(一般的には)未現前のものに向かった場合に用いる。
「今は晴天であると信じる」とはだれもいわないが、
「明日は天気だと信ずる」は、だれしも通ずる。
(しかしながら)親鸞聖人の信の解釈は『教行信証』の上では、
「疑蓋間雑あることなきが故に信楽と名く」といわれ、
この言葉を略して「無疑」といわれる。
無疑は決定が略され、この決定は「過去完了」でも「未来完了」でもない。
「現在完了」で「ただ今」を場とする。

それ故、蓮如上人の最晩年の和歌に
 「阿弥陀仏 たすけたまへの ほかはみな おもふもいふも まよひなりけり」
とあり、更に『御文章』四の八には
 「その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、今の南無阿弥陀仏なりとこころうべし、
 これすなはちわれらが往生のさだまりたる証拠なり」とある。

「たすけたまへ」は、この私が先行すると、
「鎮西義」や「かつての三業惑乱時の解釈」となり、
この私が後手になり、「たすけたもう法」が先となれば、
「たのむ」と同義の「信順帰命の釈」となる。
「今」が臨終でも十分間にあっているのである。

「本願名号」に遇う場は「今ここ」。

このことを蓮如上人は「平生業成」といわれる。

それは、自らが求めるより先に既にいつでも、どこでも、
更にだれにでもとどけられているからである。

それ故、今が臨終でも十分間にあっているのである。
聞くより先のおたすけを聞くのである。

「今ここ」に私の上で残されるもの、間違いないものは、
「南无阿弥陀仏の六字の法」の外にはあり得ない。

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█

 

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█

【雑記(その1)】「マンデラエフェクト」から見た「弥陀の本願成就」 - 浄土真宗・他力信心の境地 (goo.ne.jp)

(2021年6月15日更新)

 親鸞会時代には、こんなお話がありました。
「一念」のお話です。
「一念」とは「いま」ということ。

「「いま」は過去と未来をつなぐ接点」であり、
「い」「ま」と言うとき、「い」と言う時は「ま」はまだ「未来」で、
「ま」と言う時は「い」は既に「過去」である、と。

そして、これは「何を意味するのか?」というと、
常に私たちの現実は「今のこの瞬間しか存在していない」ということで、
「過去」も「未来」も「今」見ている「夢幻」すなわち「幻覚」
ということになります。( ̄▽ ̄;)

・・・ということは???

「今」になんらかの変化があったとします。
そうなると、その瞬間に「過去」も「未来」も変化し、
本当は「過去」も「未来」も「今」観測している「結果」ということで、
すべてが「今」に含まれてしまいます。

つぎに、上述の事柄を、また別の違う角度から表現してみると、
「実は、この世界には「ありとあらゆる事象」が存在している」
ということになります。

・・・で、その中で「どの視点から「任意の事象」を見るのか?」
というのが、我々の「認識」であり「意識」ということになります。

さて・・・。「その視点」を違う場所に順次当てていく、とします。
そうすると「時間」を追うごとに「事象」「現象」が変化しているように感じられます。
これが「時間が存在・流れているという思い込み」に繋がります。

「時間」というものは、「過去」と「未来」をつなぐ接点の「今」が連続的に流れている・・・と、
私の阿頼耶識が錯覚させているから「時間」という概念が存在しているだけで、
本当(のおさとりの世界)は、時間的な連続性は存在しない、と思われます。

・・・ということから、これは・・・
「私たちが新しく発見したもの」というのは、別に新しいワケでもなんでもなく
「実はもう既に最初からあったもの」というコトになるのです。( ̄▽ ̄)v

なので、結論としては・・・。

「何か問題が発生した!!」という問題は、
問題があることも、その解決策も「実はもう既に存在している」
コトになり・・・

それは、すなわち・・・。

 私たちの究極の問題である「死の解決」は、
「問題がある」コトも「その問題の解決策」も
「実はもう既に【今】存在している」コトになり。。。

 私たちの究極の問題である「生死出づべき道」は、
それが「問題になった」時点で
「実はもう既に【今】解決済み」なんですよね ♡ (*^。^*)ノ

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█


「機責め教団へのツッコミ」と「仏法の結論」(12/13)【「救いの結論」は「現在完了」③】

2023-12-24 12:12:12 | 【親鸞会教義のここがヘン!】

・・・ってコトで!!

 

((一時は、どうなるかと思いましたが、なんとか「着地予想」が見えてきました。。。(´-∀-`;)))

 

いよいよ「最終話」(の一歩手前)ございます!!!! (`・ω・´)ゞ

 

 

 

さてさて。。。

前回の記事の「11話」では「現在完了形」の「文法説明」をいたしましたが。。。

もう一つ前の記事の「10話」・・・

「機責め教団へのツッコミ」と「仏教の結論」(10/12)【「救いの結論」は「現在完了」①】

「この記事」を書くキッカケとなった・・・

 

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█

「御文章」の「現代語訳」を読んでみよう~!!٩( ๑•̀o•́๑ )وムオー!

・・・と思い「現代語訳」のほう「も」拝読しはじめたワケですが。。。

「現代語訳」が!! な~んか、ますます!!

「本来の「御文章」の意味」とはかけ離れた「翻訳」になっている気がして・・・。

( ー̀ωー́ ).。oஇ う~~~ん

「これはおかしいぞ!!」

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█

・・・の「起点に戻る」と。。。

 

 

じつは、「蓮如上人」の「御文章」が書かれた「室町時代」。。。

そしてワリと近年(戦前あたり)までは、どうやら・・・

「日本語」にも「現在完了形」の「用法」は存在した

・・・らしいのですが。。。

 

でも・・・

戦後になって、その用法はなくなってしまった・・・みたい。。。( ;∀;)ノ

 

なので!

これらを「平成・令和の現代語で翻訳」すると・・・

「別の用法」に置きかわってしまい、とたんに・・・

「意味が全く異なる現代語訳」

・・・となってしまうのでありますよ。。。(´・ω・`)ショボーン

 

まぁ・・・悲しいけれど。。。

「言葉」というモノは、時代によって、

意味がドンドン様変わりする「代物」なので。。。

「言葉」でしか「物事は伝えられない」けれど、

「言葉」を「過信するのも禁物」なんですね。。。(´・ω・`)ショボーン

 

 

 

・・・ってコトなので、

(ちょっとやけくそ!)ココからは!!

 

「戦前まではあった」であろう

「ほれぼれしちゃう♡」「現在完了形」の「日本語の文章」

・・・と

「現代の日本語にはナイ」「現在完了形」を

「平成・令和の現代語で翻訳」して

・・・となってしまった

「なんともガッカリな現代語版」

「比較して見ていきたい」と思います。。。(´・ω・`)ショボーン

 

 

 

 

 

🔶まずは「ほれぼれしちゃう♡」

  むかしの「現在完了形」の「文章」から。。。

 

・・・って、それは・・・まぁ、当然のことながら。。。

「室町時代」に書かれた「蓮如上人」の「御文章」

なのであります。。。( ̄∇ ̄+) キラ~ン♪

 

「恵日会」の「勉強会」にて、聞かせていただきましたが。。。

「浄土真宗の帰結は(弥陀の)本願成就を第一前提とする」

常に「蓮如上人の御文章」を解説してくだされた「稲城選恵和上」

((「稲城和上の本」は「れおん家」に「十数冊」ありますが、どれを読んでも「同じコト」しか書いていないっす!!))

・・・が一番好きだった、、、といわれる、

「御文章 四帖目八通」の「八箇条」のアノ一節。。。( ꈍᴗꈍ)ノ.☆.。.:*・゜

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█

「かるがゆゑに、阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、
「衆生仏に成らずはわれも正覚成らじ」と誓いましますとき、
その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、
いまの南無阿弥陀仏とこころうべし。
これすなわち われらが往生の定まりたる証拠 なり。
「蓮如上人」(御文章四帖目八通)

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█

ってさ~。。。

 

われらが往生の「定まった」証拠

ではなく・・・

われらが往生の「定まりたる」証拠

・・・なんですよね。。。( ꈍᴗꈍ)ノ.☆.。.:*・゜

 

コレってスゴくないですか?! (((o(*゚▽゚*)o)))

 

じつは「現在完了形」が!!
「御文章」の「カナメの文」にあるんですよ!!

「仏願の生起本末」の 
「末」は「現在完了である」!!

・・・って。。。

「過去」から「現在」までず~~~っと!!
「不生不滅」「不増不減」で「つながっている事象」を!!
「定まりたる」の「この一言で言い尽くしている」んですよ!!

 

スゴイですよね~♪ 

「ほれぼれ」しちゃいマ~~~ス ♡ ヾ(=^▽^=)ノ

さすがは!!

「稲城選恵和上」が「大好きな御文章の一節」

・・・なだけありますね。。。☆*ヾ(-∀・*)*+☆

 

 

🔶つぎに「ほれぼれしちゃう♡」

  すこ~しむかしの「現在完了形」の「おうた」をご紹介。。。

 

たまたま、「ネットサーフィン」をしていたら見つけちゃいました。。。(*´▽`*)ノ

それがコチラで~~~す。。。(≧∇≦)ノ

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█

仏法は 信じるでなし 聞くでなし

  ただ名号の 響きわたれり」(稲垣瑞劔師)

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█

ってさ~。。。

 

「ただ」「名号の」「響きわたれりって。。。

 

コレ、スゴくないですか?! (*゚0゚*)…オオォォ♡

 

「(響き)わたり」(ラ行四段「わたる」の連用形中止法)

「(響き)わたる」(ラ行四段「わたる」の終止形)

「(響き)わたるとき」(ラ行四段「わたる」の連体形)

ラ行四段「わたる」の已然形(今既に起こっているコト)「わたれ」に!!

助動詞「り」をつけて完了の意味をあらわしている。。。

 

コトから・・・

「仏法の生死出づべき道」の 
「結論」は「現在完了である」!!

・・・って。。。

こんなに「短い」「五七五七七」の「おうたの中」に!!

「仏法の結論を言い尽くしている」んですよ!!

 

これはスゴイ!! (*゚0゚*)…!!

ってか、こんなに「端的」に!!

「七千余巻のお経の結論」をサラっと「おうた」にできちゃう

その才能がスゴイ!!(*゚0゚*)…!!

 

「れおん」は「言葉遊び」が大好きだからさ。。。( ̄▽ ̄)v

こんなに「才能あふれる先生」とは、是非、直接お会いして、

「サシ」で「他力信心」の「大喜利大会♡」

をしてみたかったです。。。(´・ω・`)ショボーン

もうちょっと、早く生まれていたら「出遇え」ていたのかな。。。( ;∀;)ノ

残念だなぁ。。。( ;∀;)( ;∀;)( ;∀;)ノ

 

じつを言うと・・・

「歎異抄」を書かれた方(唯円さん・・・かどうかは知らないけれど)

とも、直接お会いして、やっぱり、夜な夜な

「他力の境地」の「大喜利大会♡」を開催してみたかったです。。。( ;∀;)ノ

 

なんつーか。。。

(たぶん、怒られると思うけれど)

「れおん」にとって・・・「歎異抄」ってのは、

「テレビ番組」「笑点」と「同じ位置づけ」

・・・で味わっています。。。(m´・ω・`)m ゴ、ゴメンナサイ…

 

「稲垣瑞劔先生」の「おうた」もそうなんだけれど、コレは・・・

「弥陀のお救いの世界」をどれだけ「上手いコト表現できるか!」

っつー「お遊びの一種」で。。。

 

もし仮に「大喜利大会が開催された」と仮定したなら、、、

「歎異抄」は「ノーベル賞」受賞作

「れおん」の「アホネタ」は「イグノーベル賞」受賞作

・・・ってなトコロかなぁ~とニヤニヤと想像しています。。。( ̄▽ ̄)v

 

ってコトで、以上が!!

「ほれぼれしちゃう♡」「現在完了形」の「ご紹介」

でした!!!! (`・ω・´)ゞ

 

 

( ^ω^)・・・。

 

 

🔶さてさて、最後に。。。
 「平成・令和の現代語で翻訳」すると、
  とたんにズッコケてしまう・・・
 「なんともガッカリな現代語訳」のご紹介なのですが。。。

 

上述の2つと比べちゃうと、

「ホントに」「ガッカリ感満載」なので、

「めちゃめちゃ驚き」ますよ。。。(´・ω・`)ショボーン

・・・な~んてね。。。(^▽^;)ノ

 

そんな「現代語訳」が・・・コチラです。。。(lll-ω-)ズーン

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█

「浄土真宗辞典」(本願寺出版社発行)

「仏願の生起本末」(573ページ)

 阿弥陀仏の名号のいわれ。
仏願の生起とは、阿弥陀仏が本願を起こした理由、すなわち自らの力では
決して迷いの世界より出ることのできない衆生を救うために、本願が起こされたことをいう。
仏願の本末とは、仏願の因果という意で、法蔵菩薩の発願修行を本(因)といい、
その願行が満足しさとりを成就し、
名号となって十方衆生を済度しつつあることを末(果)という。

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█

ってさ~。。。

 

名号となって十方衆生を済度しつつあるって。。。(¯―¯٥)ノノ

 

「節子」それ「現在完了形」やない!!

「現在進行形」や!!!!

 

なっ、なっ・・・

 

(;ノ° ロ°) ノ゙~~なんですと?

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

 

しかも「辞書」だからこ~んな雰囲気で。。。

いかにも「むずかしそ~」で。。。

「ありがたそ~」「雰囲気を醸し出している」けれど。。。

 

「今まさに」
「移行している」「途上にある」ってさ~!!

 

((言い換えれば、それは・・・
「法/真如」に「増減」「加減」「生滅」「盛衰」が存在し「変化が生じる」
コトになる・・・。))

 

って、「それ、ゼンゼン」
「弥陀の本願成就」「してない」じゃん!!!

 

 

 

( ^ω^)・・・・・。

 

 

ってコトで!!

 

こういう「例題一つ」を取り上げてみても・・・

「仏法の結論」「生死出づべき道」は「現在完了」

とはいいながらも、

「現代の日本語」に「現在完了形」の用法がナイ!!

から

「救いの結論」を「現代の日本語で伝える」のが「至難の業」

となり、

サブタイトル【「救いの結論」は「現在完了」】
「最終章冒頭」の

何故「南無阿弥陀仏のおはたらき」がわかりにくいのか?
何故「御文章の現代語訳」がオカシナコトになるのか?

の「要因の一つ」になってしまうのかなぁ~?

 

・・・と思いましたとさ。。。(´・ω・`)ショボーン

 

 

((つづく。。。))


「機責め教団へのツッコミ」と「仏法の結論」(11/13)【「救いの結論」は「現在完了」②】

2023-12-20 11:11:11 | 【親鸞会教義のここがヘン!】

さてさて。。。

さっそく、前回からのつづきですが、

え~~~っと・・・どこから説明しようかなぁ。。。(^▽^;)ノ

 


( ー̀ωー́ ).。oஇ う~~~ん

 

・・・って、フツーに考えたら、、、

まずは!!

「現在完了形」とは、いったい何ぞや???

・・・からですよねぇ。。。(*-`ω´-)9

 


・・・ってコトで!!

「お勉強のコト」をわかりやすく「簡潔に聞く」には、

やっぱり「その道のプロ」である・・・

「家庭教師の先生」に聞いてみるのがヨイかと思いましたので、

そちらから、すこしだけ「拝借」を。。。( ̄▽ ̄;)ノ

 

で!! 調べてみると、どうやら、、、

「現在完了形」とはこんな感じみたいです。。。(´-∀-`;)ノ

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█


って、「めっちゃハッキリ」書いてありますね。。。

「苦手だな~」という人がとても多いです ってさ。。。(笑)

もし仮に「救いの結論」「現在完了形」であるならば!!

「救いの結論」「現在完了形」である。
「現在完了形」「苦手な人(理解できない人)がとても多い」。
③ゆえに「救いの結論」「苦手な人(理解できない人)がとても多い」。

・・・っつー「最凶の三段論法が成立」しちゃうワケで。。。
そりゃあ「出遇うコトが稀」になるワケだよなぁ・・・。(´・ω・`)ショボーン

・・・と思ったりもしますが、そうは言っても。。。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█

「現在完了形」は「日本語にはない用法」ですが、

実は たった1つのイメージ 

をおさえてしまえば、スッキリ理解できます。。。

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█

だそうですので、ご安心ください。。。(*^。^*)ノ

 


で!! その「イメージ図」がコチラです。。。(*^_^*)ノ

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

ってコトで「現在完了形」は・・・ 

「過去から」「現在まで」「ずっと」「つながっている」イメージ  

・・・であると。。。

 


なので「例文」としては。。。

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█

・I have studied here since 8:00. 
 「わたしは、8時から (ずっと) 勉強しています 。

・He has been busy for a long time.
 「彼は、長い間 (ずっと) 忙しいです 。

・I have just cleaned the room.
 「わたしは、ちょうど部屋を掃除したところで (今も継続中) です。

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█

・・・となり、まぁ、要するに!! ( ̄^ ̄)ゞ

 

「英語」なら・・・

「過去」から「現在」まで「ず~っと」つながっている事象を!!
「現在完了形」「have + 過去分詞」の(単語2つ)で表現できるので!!

「英文」が「have + 過去分詞」となった時点で!!

((あぁ、これは「継続中の事象」なんだなぁ。。。))

・・・と「普段の会話でも」すぐにわかるのですが!!

 


逆に「日本語」だと・・・

「日本語の文法」に「現在完了形」のような「用法がナイ」ので!!
上述の「イメージ図」「長ったらしい説明文」
「いちいち必要に」なってくる!!

・・・というワケなのです。。。( ;∀;)ノ

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█

 

ってコトで、以上が!!

「義務教育で習う」「現在完了形」の説明でした。。。(*^▽^*)ノ

 

 

 

 

では、次に!!

「お救いの結論」は「現在完了形」だお♡

と説明されている「本」をご紹介いたします。。。o(★≧∇≦)o゛

 

・・・って、

探してみるまでもなく、「稲城選恵和上」が「ご著書」で多用されていましたので、

そのうちの「一部」を抜粋いたします。。。(*^▽^*)ノ

((・・・が、「だいぶ長い」ので、いつも通り「れおん」の言葉で短くまとめています。。。(´-∀-`;)))

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█

「わかりやすい名言名句」「蓮如上人のことば」(稲城選恵著)
(206~207ページより抜粋)

元来「浄土真宗のご本尊」は、「本願成就をお姿で示したもの」といわれる。

今、南無阿弥陀仏の名号は本願のとおりにはたらいている。
この名号を「帰命尽十方無碍光如来」といわれる。
この名号は「信ずる対象として彼方におかれている」のではなく、
「いつでも、どこでも、誰にでもすでに与えられ、届けられている」。

この私の(後生)救われる、救われないという問題の
すべてが「既に仏の側に成就」し、いつでもどこでもはたらいている。
すなわち、「今ここに」「この私の存在する場に与えられている」のである。
南無阿弥陀仏のはたらきは、いかに逃避しようとしても逃げ場所もなく、かくれ場所もなく、
この私の存在するところにはすでに与えられているのである。

(だから私が)聞いて解決するのではない。
「往生のさだまりたる証拠」が「南無阿弥陀仏である」から
「すでに解決の出来ている法」なのである。

それは「過去完了」でもなく「未来完了」でもない。
今ここに私の存在するところに
すでに与えられている「現在完了」を場とする。

それゆえ、聞信と同時に即得往生の益をうる のである。

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█

 

・・・ってコトで!!

 

「救いの結論」である
「南無阿弥陀仏のおはたらき」は「現在完了」である!!

・・・と、

「稲城選恵和上」が「御著書の中」で「スッキリ解説」

してくださっていますね。。。(*´▽`*)ノ

 


・・・ですが!!

これは言うまでもなく「説明文」です。。。

「現在完了形」としての「文法」ではありません。。。( ;∀;)ノ

 

 

では、次に!!

「稲城選恵和上」の「お弟子さん」の「阿部信幾先生」は、

「お救いの結論」は「現在完了」である

コトを、どのようにおっしゃっているかといえば、以下のとおりなのですが。。。

((コチラも、編集の都合上「れおん」の言葉で要約しています。。。(^▽^;)ノ))

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█

「ありがたい【ご法話の文字起こし】のご紹介 (^^♪」
(2021年6月12日)より抜粋

ありがたい【ご法話の文字起こし】のご紹介 (^^♪ - 浄土真宗・他力信心の境地 (goo.ne.jp)

((「読んでいない方」はこの機会に是非お読みください。。。 ))
((「何年前のオハナシなのか?」は、わからないけれど・・・
「もう、コレ以上のご法話には出遇えないだろうなぁ・・・」ってなレベルのオハナシです。。。(*^。^*)ノ))

 ↓↓↓↓↓

「南無阿弥陀仏」のご名号のお謂れですが。
(法蔵菩薩が)「あなたを仏にできなければ、私は仏と名乗りません」とお誓いくださった、
その本願が、今どうなったのか?
「成就しました。」
成就したから「阿弥陀」となられたのです。

「本願が成就した」から「私を仏にする仏が、もう(すでに)はたらいている」ということです。
もう(すでに)はたらきの中に私たちは存在しているのです。
ところが、はたらきというものは、目に見えませんから、
私に「はたらいている」ということを告げなければ、それは救いでもなんでもありません。
もう(すでに)はたらいている」、「あなたは間違いなく仏になる人である」
と、告げてくださるのが「南無阿弥陀仏の名号」なのです。

「南無阿弥陀仏の名号」の謂れを聞くとは、
「私が間違いなく仏になれる法と出遇う」ことなのです。
「私が間違いなく仏になれる」と、なぜ、そんなことが言えるかというと、
それは法蔵が阿弥陀となって、現にはたらいておられるからです。
「私がさとりを開いた暁には、南無阿弥陀仏が全ての世界に届いて聞こえますように」
既にはたらいています。

「南無阿弥陀仏」とは、「全ての者が仏になる」という如来の告知です。
「後生、助かる」ということは、
「この人生のその次が、仏のさとりの世界になる」ということで、
お釈迦さまと同じおさとりが、私の臨終の時に(すでに)用意されている、
というのが浄土真宗です。
おさとりを開くというのは、そのまま極楽浄土に生まれるということなのです。

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█

 

・・・ってコトで!!

 


コチラの「ご法話の中」でも・・・

「現在完了」という言葉は使っていないにせよ、

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█

・「私を仏にする仏が、もうはたらいている」
もうはたらきの中に私たちは存在している
・法蔵が阿弥陀となって、現にはたらいておられる
既にはたらいています。

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█

・・・と、「もう」「現に」「既に」という言葉で、

「救いの結論」である
「南無阿弥陀仏のおはたらき」は「現在完了」である!!

・・・と、お話してくださっていますね。。。(*´▽`*)ノ

 

・・・ですが!!

これも、やはり「説明文」であって、

「現在完了形」としての「文法」ではありません。。。( ;∀;)ノ

 

・・・ってか。。。

「もう」とか「現に」とか「既に」という単語は
「副詞」ですので、
常に「副詞」を「動詞」に付与して
「くどくど」「くどくど」「説明する」コトで、
はじめて「コレは現在完了形(同じ状態で継続中)

・・・と「ようやくわかる」のですよ。。。(^▽^;)ノ

 

 

((・・・って、むずかしいよね。。。( ;∀;)ノ ・・・「この記事」を書きながら、
「読み手が」「パソコン/スマホの前で」「ドン引きしている姿」が目に浮かぶモン。。。( ;∀;)ノ))

((ただでさえ「他力」は「視点が真逆の世界」なのに、さらに「コレ」だからさ。。。(´・ω・`)ショボーン))

((「れおん」は、書きながら、悲しくなってきたよ。。。( ;∀;)ノ))

 

 

ってコトで!!

「現在完了形」の「文法説明」は以上となります!! (`・ω・´)ゞ

 


いやぁ。。。

「現代の日本語」に「現在完了形」の用法がナイ!!
ってのは「致命的」ですなぁ。。。(´・ω・`)ショボーン

まぁ・・・それもあってか。。。

「救いの結論」「生死出づべき道」を「現代の日本語で伝える」
ってのは「至難のワザ」なんですねぇ。。。( ;∀;)ノ

 

 

それに!!

そもそも「浄土真宗親鸞会」「会員さん」の「頭ン中」は・・・

   ↑↑↑↑↑

「上図の左側」になっていて、

「凡夫の思考」的には、コッチの方がわかりやすいしね。。。(´・ω・`)ショボーン

そりゃぁ、「親鸞会」を辞めた直後は、、、

「お救いの結論」「生死出づべき道」は「三願転入」

で凝り固まっているから、尚更、わかるワケないんだけどさ。。。(´・ω・`)ショボーン

 


って、まぁ、それだからこそ!!

「救いの結論」「生死出づべき道」を
正しく教えてくださる「先生やご法義」に「出遇える」かどうか?

・・・ってコトが「めちゃくちゃ重要」だったんだよなぁ。。。

と、この記事を書きながら改めて思いましたとさ。。。(^▽^;)ノ

 

 

「まことに宿善まかせとはいいながら、述懐のこころ暫くも止むことなし」
「蓮如上人 御文章」(四帖目十五通)

 

・・・の「お言葉」が重く感じる今日この頃です。。。( ;∀;)ノ

 

 

((つづく・・・。))


「機責め教団へのツッコミ」と「仏法の結論」(10/13)【「救いの結論」は「現在完了」①】

2023-12-16 10:10:10 | 【親鸞会教義のここがヘン!】

※ ココからは最終章の「結論の章」となります・・・ので、

 「これまでの記事」とは「一線を画して」

 進めていきたいと思います。。。(`・ω・´)ゞ

 

 

って・・・「一線を画す」ってのは、、、

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

((左のヤツ・・・「中国雑技団」でもキケンだと思うぞ。。。Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン))

 

 

シーー( ̄、 ̄*)ーーン・・・。

 

 

さてさて。。。(´-∀-`;)

 

まぁ・・・「浄土真宗の、親鸞聖人み教えの結論」だなんて、

今まで散々

「罪悪深重の私を知る」でも三願転入」でもなく

「念仏唱えて助かる」「念仏正因」でもない・・・

「弥陀の本願成就だよ~~~ぉ♡」

・・・と書いてきているので、今さら「あらたまって書くまでもない」のですが。。。

 

それでも、今回は!!

コレが最後の「まとめ記事」となりますので、

「有終の美」として「おもいきって」!!

「弥陀の本願成就」を
「別の切り口」から述べていきたい

・・・と思いマ~~~ス。。。(*^。^*)ノ

 

 

・・・というのも、、、

最後の最後に・・・「れおん」の本音(の半分)を言ってしまうと。。。

結局のところ「三世にわたる迷いの因」は「自力心」なワケで。。。

言い換えれば「他力に出遇った」ならば「自力心がなくなる」ワケで。。。

言い換えれば「自力心がなくなった」コトが「生死出づべき道」なワケで。。。

 

・・・コレを言っちゃ、ダメなのかもしれないけれど。。。

「他力」ってのは「さえぎるモノがなく」「分け隔てがなく」「不増不減・不生不滅」だから。。。

じつは「どんな宗派でも」「どんな教えでも」「どんなモノでも」「どんなキッカケでも」。。。

「他力に出遇った」ならば「自力心がなくなる」ワケで。。。

 

「浄土真宗」では「他力」を「弥陀の本願力」の「方便法身」でお話しされるけれど。。。

「他力」を「真如」と置き換えたならば、

「法性法身」の「真如」に「出遇った」コトも「生死出づべき道」ワケで。。。

 

「わたしのような愚かな者」は「浄土真宗」でなければ助からなかった。。。

と、仮に「ネームバリューのある聖人」(例えば「親鸞聖人」とか)が「述懐した」として、

それを曲解して、

「アンタのような愚かな者」はあの「親鸞聖人」より劣るんだから、

「アンタのような愚かな者」は「浄土真宗」でなければ助からない!!

・・・としてしまうと、

たちまち「自力心」「分別智」「過信」「正義」の「虜(とりこ)」なワケだし。。。

 

既に「虜(とりこ)」を「拗らせているヒト」に、

「親鸞会は」「三願転入の領解が」「間違っているコトを」「謝罪し」そして、

「これからは」「どんな時にも」「親鸞聖人の教えを」「学ぶことを怠らず」

「聖人のお心を」「お伝えすると」「約束せよ!!」\(*`∧´)/

な~んて「ヒステリック」に切りかかっても「火にガソリンを注ぐ」だけだし、

そもそも「吹っ掛ける」時点で

「言ったヒト」も「過信」「正義」の「虜(とりこ)」なワケだし。。。

だいたい「親鸞聖人」がどう思っていた・・・なんて、

ぶっちゃけ「本人じゃないとわからない」し。。。

その本人だって「自分で自分が何をしたいのかわからない」コトだってあっただろうに。。。

それに、、、

「親鸞聖人」は「普通の人とは違う特別なお方」なんだからそんなコトはない!!

・・・と言われたところで

それは「曲がった松」をどうにかして「真っすぐ見ようとしている」ワケだし。。。

 

たいがい「諍い」とか「戦争」ってのは、

「過信」を燃え滾らせた「正義の押し付け」

から始まってんじゃないの~???

・・・と個人的には思っているので、

まぁ・・・

「それぞれのにあう教え」で救われてくださいな。。。(´・ω・`)ショボーン

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█

「わかりやすい名言名句」「蓮如上人のことば」(稲城選恵著)
【32.押し売りしない教え】より抜粋)

蓮如上人の「御文章」の中には、しばしば人を勧化する場合、、
宿善無宿善の有無を沙汰して勧化するようにいわれている。

蓮師の生涯で最も嫌われたものは「争い」であった。
しかも、この「争い」の回避 は、蓮師のみに限らない。
釈尊自らも最も嫌われたといわれる。
しかし、宗教ほど争いの原因となるものはなかろう。
というのは、自らの側は絶対に正しく他は邪悪、となるからである。

人間の争いは理性分別を場とする。
自らの正義や真実に、神という名において協力し、
絶対化するのが宗教であり、信心ということである。
自らの信じた真実は、自分だけでなく他人に強要する。
相手が背を向けても無理にでも強要し、自らの真実を弘めんとする。

真実や善意は人間にとって重要であるが、
強要されると相対化してしまい、絶対性を喪失する。
仏教でいう真実は不生不滅不増不減の法である。
力を入れなければ通じない、というものではない。

本当に真実を知るものは争うことがない。

信ずる自己を認めている「自力の信心」は、
必ず他者に強要するものである。

それゆえ親鸞聖人は「自信教人信」の文を
「教行信証信巻」の常行大悲の益の意を述べるところに出され、
さらに二十願のところに引用されている。
二十願に引用されている自信教人信は、簡び(えらび)のため
といわれ、本当の自信教人信は成立しない意といわれる。
「信巻」の意はあたかも米と藁の関係の如く、
信の上からは求めずして自然に展開されるのである。

それゆえ(真実は)弘めるのはなく弘まるのである。

蓮師の宿善無宿善を沙汰して勧化するということは、
相手に真理の押し売りを戒めたものといわれるのである。

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█

 

「華X会」も「親鸞会」も・・・。

今まで書いてきたとおりで

「それは浄土真宗の他力信心ではない」なぁ。。。

と思い、一応「主張」はしてきましたが、、、

だからといって、

かたくなに「信じているヒト」に「無理強い」はいたしませんので、

「あれっ?おかしいな?」って思ったときに、

「このブログ」を見つけて、読んでいただけたら幸いです。。。( ꈍᴗꈍ)ノ.☆.。.:*・゜

 

 

 

・・・ってコトで、ココからは!

「浄土真宗の」「親鸞聖人のみ教え」の結論の「弥陀の本願成就」

「聖道門」の「生死出づべき道」の結論の「空」

そして・・・・・・(ピーーーーーッ♪)・・・・・・・・・

・・・の「すべて」に通じる「広域的な言い回し」で書いてみよう!!

と思い、サブタイトルを【「救いの結論」は「現在完了」】

として、以後、言及していきたいと思います。。。(`・ω・´)ゞ

 

 

🔶まず最初に・・・。

なんで「れおん」が

「救いの結論」「生死出づべき道」は「現在完了」だなぁ。。。

と思ったのか・・・をお話しますと。。。

もう、かれこれ「2年以上前」になるのですが、、、

以前、「れおん」は、、、

「御文章」の「そんな事情」までわかりません。(^▽^;) - 浄土真宗・他力信心の境地 (goo.ne.jp)

・・・という「記事」にて。。。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█

「れおん」は「漢文」も「古文」も読めないけれど・・・。

だからといって「平仮名まじり」の「御文章」も「500年前に書かれたモノ」だから、
やっぱり、イマイチ「わからない言葉」もあって。。。

それなら!!!!
「御文章」の「現代語訳」を読んでみよう~!!٩( ๑•̀o•́๑ )وムオー!

・・・と思い「現代語訳」のほう「も」拝読しはじめたワケですが。。。

そうすると・・・。

「現代語訳」が!! な~んか、ますます!!
「本来の「御文章の意味」」とはかけ離れた「翻訳」になっている気がして・・・。

( ー̀ωー́ ).。oஇ う~~~ん

「これはおかしいぞ!!」

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

・・・ってコトで!!

 

この「御文章」の「現代語訳」があまりにも!!

「れおん」の「信心」とかけ離れていて。。。

結局「読まずじまい」になっていたのですが。。。(´・ω・`)ショボーン

 

そこへ「ウチの旦那さん」が。。。

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█

「オイコラっ!!耳の穴かっぽじってよ~く聞け!!( ̄△ ̄;)」

「後生どうしたら助かるか?」は「現在完了」だぞ!!
「仏願の生起本末」は「現在完了」だぞ!!
「南無阿弥陀仏のはたらき」は「現在完了」だぞ!!

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█

と、唐突に「ものすごい核心」をついてきて。。。

((「このヒト」は、ほかにも色々と「すごいコト」を言っているのですが・・・。))
((でも「れおん」には、ご披露するだけの「知識と能力がナイ」ので、ご紹介できなくてホントに残念です。。。( ;∀;)ノ))

 

「れおん」は、それを聞いて!!

「あぁ、そういうコトだったのか!!(*゚0゚*)…ワオ♪」

・・・と、

「親鸞会」「高森先生」の「ご信心」のように
「スッキリ♡」「ハッキリ♡」いたしました♡

・・・ので、ちょっと、ご紹介したいなぁ~と思った次第です。。。( ̄▽ ̄)v

 

 

(* ̄∇ ̄*) エヘヘ♪

 

 

ってか、「他力に出遇う前」の「れおん」も含めてさ~。。。

「弥陀のお救い」が「いったい何なのか?」
「何度聞いても」「サッパリわからない!!」

ってヒトは「一定数いる」と思う・・・のですが。。。

 

何故「南無阿弥陀仏のおはたらき」がわかりにくいのか?

何故「御文章の現代語訳」がオカシナコトになるのか?

 

の「要因の一つ」に、

 

「現在完了形」の「用法」が・・・
「現代の日本語にはナイ構文」
だから、なんじゃないの???

 

って、思ったからなんですよね~。。。(^▽^;)ノ

 

 

一応「現在完了形」ってのは、

「戦後の義務教育」の「英語の授業」で学習するのですが。。。

コレが「学習要領」の「一ジャンル」になっている

・・・というコトは!!

「現代国語にこんな用法がナイ」

から、ワザワザ「学校で詳しく学習する!」

んであって!!

「義務教育課程」を経たヒトは「全員が知っているハズ」の「構文」でも。。。

「むか~し卒業」しちゃった「むか~し若かったヒト」
は、特段「使うコトもない」から「忘却の彼方」

・・・だと思いますので。。。Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン

 

ココから先は・・・

「英語の現在完了形」を復習しながら、

「救いの結論」「生死出づべき道」を考察していきたいなぁ♡

・・・と思いマ~~~ス。。。(*^。^*)ノ

 

なので、なので。。。

むか~し、むか~しから
「お勉強が苦手」だったみなさん。。。

ホンンンントにゴメンナサイ。。。( ;∀;)ノ

 

 

最後の最後!!

「有終の美」が「れおん」の「自己満足記事」

になってしまう確率がめっちゃ高いのですが・・・。

もしよろしければ、しばしのお付き合いをよろしくお願いいたします。。。(o*。_。)oペコッ

 

 

 

・・・ってか、

「れおん」のような「ほぼ無宗教」に近い「現代人」。。。

そして「化学に携わった」「合理的な思考の人間」にとっては。。。

 

唐突に!!

「後生の一大事の解決」は「宗教にあり!!」

「浄土真宗にあり!!」

「親鸞聖人のみ教えにあり!!」

「三願転入して阿弥陀仏に救われるコトだ!!」

な~んて言われたって・・・。

 

なんで「現実的な生死の問題の答え」突然、

「阿弥陀仏」とかいう「存在が定か」でない
「超常的な概念に飛ぶ」んだよ。。。(´・ω・`)ショボーン

ってな感じで、

「浄土真宗親鸞会に所属」しながらも、心のどこかで「アレルギー」が出まくって。。。

結局、「お救いに出遇う」まで

「方便法身のみ教え」が「れおん」自身に合わなかったので。。。Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン

 

最後(くらい)は、、、

すこしだけ「浄土真宗のご法義」の「枠外」の

「お勉強ネタ」で!!
「れおん」の「おもうがまま」「自由に言及」♡

してみたいと思います。。。(^▽^;)ノ

 

((・・・ってか、今までも「ご法義無視」の「メチャクチャ理論」だったクセに。。。))

((コイツ・・・何を今さら。。。(´・ω・`)ショボーン))

 

 

 

((つづく。。。))


「機責め教団へのツッコミ」と「仏法の結論」(9/13)【「機責めの信後」は何故か「地獄行き」を喜ぶ】

2023-12-11 09:09:09 | 【親鸞会教義のここがヘン!】

・・・ハイ!!

またまた「文字数制限」で「尻切れトンボ」になっちゃいましたので、

気を取り直して、続きを再開いたします!! (`・ω・´)ゞ

 

・・・ってコトで、ついでにもう一つ!!

「華X会」と「親鸞会」の「双方」の「信後の味わい」

を取り上げておくと。。。

どうやら「双方」は、、、

「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」
(善導大師・二種深信の機の深信)

「とても地獄は一定すみかぞかし」
(唯円・歎異抄第二条)の「両方を根拠」として

【信心決定する】には・・・
【地獄行き間違いないと知らされ】たそのときに
【極楽行き間違いないと救われる】のだから、、、

まずは「地獄行き」を知らされるために「機責め」を行い、

それによって「救われた(とされる)方々」が、

「地獄行きを喜ぶ」「お味わい」を持たれるようであります。。。(^▽^;)ノ

 

 

って、それは「2コ前の記事」

「機責め教団へのツッコミ」と「仏法の結論」(7/13)【「機責め」根拠の「二種深信」②】 - 浄土真宗・他力信心の境地 (goo.ne.jp)

でご紹介した

「「機の深信」が抜けている」と主張される方の「典型例」

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█

「アナタ様」は「機の深信」の前半部分
「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫」をどのように味わわれておりますでしょうか?
「阿弥陀様の本願成就」を喜ばれる方が「十劫安心だと疑われる」のは、
この前半部分を飛ばして喜んでいるように感じるからです。
「アナタ様」の「味わい」は、いつも「機の深信」の「前半部分を飛ばして」書かれています。
私は「罪悪生死と疑い無く」聞き「地獄行きを喜ばせて」いただいております。

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█

のとおりでございまして・・・。(´・ω・`)ショボーン

 

 

「れおん」はコレを

「機責めの秘事法門」という「カテゴリー」

で一括りしにていたのですが、、、どうもコレは・・・

「地獄秘事」という「別ジャンル」の「異安心」

らしく・・・以前、調べてくれた方の「資料を転記」してみると。。。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█

「浄土真宗用語大辞典」(稲城選恵著)

上巻(P365~366)の説明によると、

地獄秘事というのは江州地方(※江州とは滋賀県)にかつてあったといわれるが、
二種深信の誤解からきたものである。
……地獄秘事とは地獄必定と自覚せられたことが信心をいただいたことといわれる。

自らの救われないことは自らが問題にするに先行して「仏かねてしろしめして煩悩具足の凡夫」
とあり、仏願の生起本末の生起の内容となっているのである。
自らの地獄一定の自覚を条件とするものであり得ない。」

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█

 

・・・というコトで、

「わたしは地獄行きだー!」と堕ちたところに、
「そんな、そなたを助けるぞー!」という阿弥陀仏の声が届く

・・・という「ジャンル」だそうで、

コレを「地獄秘事」というらしいです。。。(ー∀ー;)ノノ

 

 

そういえば「3つ前」の記事の

「機責め教団へのツッコミ」と「仏法の結論」(6/13)【「機責め」根拠の「二種深信」①】 - 浄土真宗・他力信心の境地 (goo.ne.jp)

にてご紹介した、この内容も、、、じつは。。。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█

「安心論題を学ぶ」(内藤知康著)

二種深信の関係を考察する考え方の中には、法の深信の前に機の深信があるという理解があります。
これは、阿弥陀如来の救いにあずかるためには、
まず自分自身が地獄に堕ちきってしまうことが必要だ、という言い方がされたりします。
そればかりか、まず地獄に堕ちきるためにといって、
周囲からの罪の告白や懴悔を迫って責めたてて一種の精神的パニックをおこさせ、
その瞬間に今こそ救いが成立したといって喜ばせるなどする秘密の儀式を行ったりもします。
ここまできますと、さすがに正しい信心でないということは明らかなのですが、
これほど極端ではなくても、

二種深信に前後関係をみるのは基本的に間違った見方であります。

これを、二種深信は前後起ではないといいます。

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█

 

まさに!!

ドンピシャの「地獄秘事」だったんだですね。。。(^▽^;)ノ

 

 

( ^ω^)・・・。

 

 

ってか、「れおん」の「親鸞会時代」にも、

「一度地獄に堕ちきって救われる」というお話はよ~く聞いていました。。。(^▽^;)ノ

特に「学生時代」(約30年前)には、

「世界の光 親鸞聖人第一部」の「親鸞聖人 獲信の場面」

についての会合が多かったため、

当時「学生部の先輩」から「名もなき妙好人のお言葉」なる「プリント」が配られ、

「地獄の釜が開いて堕ちたらそこは阿弥陀様の網の中」((←ゴメン、昔過ぎて「うろ覚えの記憶」です。。。(^▽^;)ノ))

みたいな「おうた」の解説、そして、

「親鸞会発行」の「正信聖典」の「信心数え歌」を拝読しましたが・・・。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

 

・・・ちょ、ちょっと待て!!

 

「信心数え歌」の「一つ目」!!!!

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

必定地獄と聞きながら~♪ うぬぼれ心にだまされて~♪
堕つるこの機と云うことは~♪ ほんに今迄知らなんだ~♪」

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

・・・って、コレ。。。

「地獄秘事」の「教義」そのまんまじゃん!!

 

 

・・・ってコトで、

この「信心数え歌」「他力信心のうた」として、

ありがた~く「いただいちゃって」いる「華X会」と「親鸞会」は。。。

やっぱり、「機責め」「地獄秘事」の「姉妹教団」なんだなぁ。。。

・・・と、つくづく実感いたしましたとさ。。。(^▽^;)ノ

 

 

さてさて、、、

そんな「地獄秘事」ですが。。。。

 

な、なんと!!

 

今回「お同行」からいただいた「会報誌のコピー」

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

の中にも「地獄秘事」の「お味わい」と思われる部分がありました!! (^▽^;)ノ

それがコチラです。。。(¯―¯٥)ノノ

とりあえず「コレは!!」と思われる「箇所」を文字起こししてみると。。。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█

サブタイトル【この爺は知りませんが】の「11ページ」

ある法座で御院主様が、「このたびの後生はまことにもって大事であるが、今度やりしくじったら万劫の後悔である。
皆様どういう心持ちか」と尋ねられた。すると今までざわついていた座が急に静かになって、
一同プシッと押し黙ったままうつむいてしまった。そこに(和泉の)吉兵衛いわく、
「御院主様、ちょっと申し上げます。このたびの後生はまことにもって大事であると仰せ下されても、
大事がどんなやら、このたびやりしくじったら万劫の後悔やと仰せくだされても、万劫の後悔がどんなやら、
このお爺は知りませんが」。すると今度は御院主様がプシッと押し黙ってうつむかれた、とあります。

たよりない御院主様だね。「大事も知らぬ、万劫の後悔も知らぬ、とは、爺よ、まさしく地獄行きだな」
くらい言えなかったのでしょうか。言ってあげたら吉兵衛爺さん、小躍りして喜んだでしょうに。

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█

 

・・・って、やっぱり、ちょっと待て!!

 

コレってもう少し言葉を補完すると、、、

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

「大事も万劫の後悔も知らぬ、とはまさしく地獄行きだな
くらい言えなかったのでしょうか。
言ってあげたら(地獄行きを)小躍りして喜んだでしょうに。

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

・・・ってコトになりませんかねー!? Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン

 

しかも、「この部分」の「この書き方」ってのは、、、

「吉兵衛さん」の「言行録」

・・・ではなく

完全に「この先生」の「地獄行きを喜ぶお味わい」

にすり替わってんじゃん!!

 

 

・・・ってか、コレを読む限り。。。

も、も、もしかして・・・だけど、

ワリと「有名な妙好人」の「和泉の吉兵衛爺さん」って、

ホントは「地獄行き」を「小躍りして喜んでいたヒト」だったのね???

 

 

ってコトになっちゃいますよね。。。(´-∀-`;) ...アセアセ

 

でも・・・そうは言いつつも、

「れおん」は「和泉の吉兵衛さん」が、どんなヒトなのか?

・・・ってのは「ほとんど知らない」ので言及できませんが。。。

「有名な妙好人」という「最初に聞いた一次情報」

「地獄行きを喜ぶヒト」という「華X会の二次情報」を見た時、

「れおん」は「人間」である以上、どうしても「自身の脳」に騙されて

「一次情報」を「正」とみてしまう「穿った思考」がありますので。。。(´-∀-`;)

「和泉の吉兵衛さん」が本当に「おっしゃった言葉」ってのが、

「いったいどんなモノであったのか?」は、非常に興味があります。。。

知っているヒトがあれば、どなたか、教えてくださいな。。。(^▽^;)ノ

 

少なくとも「この先生」の「お味わい」の部分を除けば、

「れおん」の「お味わい」は、、、上述の引用部分の・・・

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█

「御院主様、ちょっと申し上げます。
このたびの後生はまことにもって大事であると仰せ下されても、大事がどんなやら、
このたびやりしくじったら万劫の後悔やと仰せくだされても、万劫の後悔がどんなやら、
このお爺は知りませんが」

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█

・・・は、

「救われてしまえば「地獄」も「(悪しかできない)機の有り様」も問題ならないお♡ (∀`*ゞ)テヘッ」
「だって「聞くより先のお救い」だからもう「用事がない」んだよね~♡ (*・∀-)bグッジョブ」
(BY 「れおん」)

・・・って読んだのですが。。。

まぁ、コレばっかりは「本人じゃないとわからない」ケドね。。。(^▽^;)ノ

 

・・・ってコトなので。。。

「経文」も「妙好人のエピソード」も・・・

「同じコト」が書いてあっても、

それを「読むヒト」によって「領解がまったく変わってしまう」から。。。

「信心の沙汰をする」ってコトが、すごく大事なんだよなぁ・・・と、

「今回の記事」を書きながら、つくづく実感いたしました。。。(*^。^*)ノ

 

だって、、、

「弥陀の本願成就」を示された「御文章」のお言葉・・・

「雑行雑修、自力の心をふり捨てて、後生たすけたまえと弥陀をたのめ」

「機責め」の根拠 として使ってしまうくらいですから。。。(´・ω・`)ショボーン

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█

話だけ聞いとっては駄目なの。
「今こそ、あきらかに知られたり。ヘェー、そうでございましたか」と、
まことの塊のお念仏さまが、私を完全に占領してくださる。降伏するのす。
「雑行雑修、自力の心をふり捨てて、後生たすけたまえと弥陀をたのめ」
と、なんと短い言葉の中に、こんな御親切なお救いを、
ゴッソリと入れ込んでお示しくださったお言葉は、ほかにはないでしょう。

▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█▓█

 

 

・・・ってコトで!!

コレをみちゃうと、やっぱり。。。

「本願寺」の「教学研鑽」の「安居」・・・ってのは、

とっても重要なんだなぁ~ってことが、よ~くわかりましたとさ。。。

 

 

 

以上!!

 

ココまでが

(高森会長の古巣の)「華X会」の「会報誌」について・・・

「何が親鸞聖人の信心と違うのか?」という「全体のテーマ」の

「マクロ的な観点」から見た「考察」(2~4話)

「ミクロ的な観点」から見た「考察」(5~9話)でした。。。

「つぎの記事」からは、最終章・・・

「仏教の、浄土真宗の、親鸞聖人のみ教えの結論」(10~13話)に入ります。。。( `ー´)ノ

 

 

((つづく。。。))