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浄土真宗・他力信心の境地

「他力信心のお味わい」を「お聖教の引用」ではなく「私の言葉」で書き連ねています。

親鸞聖人生誕850年特別展に行ってきました

2023-05-05 15:15:28 | 【親鸞聖人の旧跡を巡る旅】

え~と。。。今回は、コチラの「正月の記事」

「元旦は」「やっぱり京都の」「本山お参り」!! - 浄土真宗・他力信心の境地 (goo.ne.jp)

にてご紹介しました

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「親鸞聖人生誕850年特別展」

に行ってきましたので、

さりげなく少しだけご紹介しておきますね。。。(^▽^;)ノ

 

・・・というのは。。。

まぁ・・・至極当然なのですが

「博物館内」は「撮影禁止」なので!!

ココで「ババン!!!!」・・・と出せる「お宝写真」もなく、

「南都北嶺のゆゆしき先生方」のように「ウンチク」を披露できるような「知識」

もありませんので、

「行くまでの道中」のみ

・・・を淡々と載せていこうと思います。。。(´・ω・`)ショボーン

 

まぁ、「雰囲気」くらいは感じ取れるかなぁ。。。

 

・・・ってコトで、よろしくお願いいたします。。。(o*。_。)oペコッ

 

 

 

 

🔶まずは「京都国立博物館」の場所から~♡ (≧∇≦)ノ

 

 

まぁ、こんな感じで、「最寄りの駅」がない、めっちゃビミョーな「場所」で。。。

しかも「京都駅」~「京都国立博物館」までは「約1.7キロ」

・・・とこれまた「ビミョーなキョリ」でさ。。。

普段鍛えている「れおん」にとっては、ワザワザ「交通機関」を使うまでもない位置関係のため、

とりあえず歩いていくコトにいたしました。。。( ̄▽ ̄;)ノ

 

 

🔶そして本山お参り~♡ (≧∇≦)ノ

 

目的は「親鸞聖人の名宝展」だけれども。。。

せっかく「京都」まで来て「阿弥陀様を素通りする」・・・ってのは、

ちょ~っと気が引ける・・・というか「有り得ない選択肢」だと思うので。。。(^▽^;)ノ

北へまっすぐ「本願寺」に直行です!! (`・ω・´)ゞ

 

( ^ω^)・・・。

 

・・・とは言っても、「お西」は「目的地の反対側」なので。。。

「東本願寺」のみの参詣でした。。。申し訳ないっす。。。(^▽^;)ノ

 

・・・ってコトで、境内に入ってみると。。。

というか「入る前」から「観光バス」も横付けされていて、

やけに賑やかだなぁ・・・と思ったら、、、

どうやら「イベント中」だったみたいです。。。ヽ(=´▽`=)ノ

 

((あ、行ったのは4月末ですので、コチラのイベントはもう終了しています。。。(´・ω・`)ショボーン))

 

まぁ・・・なんにせよ、

「お寺にヒトが集まる」ってのはイイことだね。。。(*・∀-)bグッジョブ

 

 

「お正月」は・・・ヒトがゼンゼン居なくて、閑散としていたから。。。( ;∀;)ノ

とりあえず「ちびっ子」たちがいて、ホッといたしました。。。(´;ω;`)ブワッ

 

 

この「お買い物広場」のプレハブなんだけれど。。。

コイツがココにいる(ある)せいで「建物の写真」がめちゃくちゃ撮りづらかったので、

そこがちょっと残念だったかなぁ・・・と。。。(^▽^;)ノ

でも、ぱっと見、

(後ろもお手洗いだし)ココに設置するしかないから仕方がないっすね。。。(´・ω・`)ショボーン

 

・・・ってコトで、

ココの場所のギリギリのところで撮った写真がコチラっす。。。(`・ω・´)ゞ

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まぁまぁ、、、なんとか撮れていると思いました。。。(*^。^*)ノ

 

 

🔶京都タワー~♡ (≧∇≦)ノ

 

「東本願寺」の「阿弥陀堂門」を出たところから「パシャリ」。。。(❀╹▿╹)ノ☆

 

 

「雲一つない」イイお天気でした。。。✌('ω'✌ )三✌('ω')✌三( ✌'ω')✌

 

 

🔶鴨川の風景~♡ (≧∇≦)ノ

 

 

もう「数百メートル」歩くと「目的地」の「京都国立博物館」です。。。(*´∀`*)ゞ

 

 

🔶京都国立博物館~♡ (≧∇≦)ノ

 

「親鸞聖人の看板」がデカデカと掲げてあるのですぐわかります。。。

 

 

写真は撮っていませんが、右手は「三十三間堂」です。。。

「帰りに寄ろう~♡」・・・と、思っていたのですが、、、

「親鸞聖人特別展」の「出品数」がボリューミー過ぎて、

時間が無くなってしまい行くことができませんでした。。。Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン

 

・・・ってか、

「親鸞聖人展」をフツーに留まらずに見て回っても「2時間~2時間半」掛かるので、

ワリと早い時間から観光しないと時間的にかなりキビしいです。。。(lll-ω-)ズーン

 

お気をつけあれ!!!! (`・ω・´)ゞ

 

・・・ってコトで、「券売機となり」の「看板」。。。

 

そして「館内」までの「庭園」。。。

 

 

・・・ってコトで、

「写真」はココでお~しまい!! ( ;∀;)ノ

 

あとは。。。

みなさんが「親鸞聖人-生涯と名宝展」に足を運んで。。。

宗祖「親鸞聖人」の「御生誕」と

「親鸞聖人」がお伝えくださった「弥陀の本願成就のみ教え」を喜びましょう。。。(≧∇≦)ノ

 

2023年5月21日(日)まで開催していますので、

是非是非、ご覧くださいませ。。。(*- -)(*_ _)ペコリ

 

 

 

🔶最後に、たいして役に立たない個人的な忘備録。。。

 

「れおん」は、人間がもともと「しょ~もないヤツ」なので、

「歴史的背景」「学術的説明」や「伝記的エピソード」等は、

まったく語ることができません。。。( ;∀;)ノ

・・・が、すこ~し「所感」を書いておこうと思います。。。(^▽^;)ノ

 

🔹拝観料は、大人1,800円、大学生1,200円、高校生700円。。。

🔹博物館内すべてが「親鸞聖人関連」の「展示物」で、
 まず、3階に案内されて、そこからぐるぐると1階まで展示されています。。。

🔹所要時間は、フツーに回って「約2時間強」かなぁ。。。(^▽^;)ノ

🔹出品数は全部で181点ですが、展示期間が異なりますのでご注意ください。。。

🔹全体的に「おぉ!!!!」って思う「名宝」は「高田派」のモノが多かったです。。。

🔹去年、群馬県に行ったときに

 【2022年夏の旅(その2)】【群馬県邑楽郡板倉町「宝福寺」】 - 浄土真宗・他力信心の境地 (goo.ne.jp)

 「宝福寺」というお寺を見学しましたが、
 そのときに「カギ」が掛かっていて拝観できなかった「性信上人坐像」が展示されていました。。。
 ((9か月ぶりの再会だー!!・・・って、あのときは見てないんだケドね。。。(´・ω・`)ショボーン))

🔹以前、どこかの書き込みで「高田派のお坊さん」が・・・

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 「念仏を称えてください」と伝えているのは「念仏が往生の正因である」からです。
 専修寺と本願寺の中で「往生の正因は信心なのか念仏なのか」という議論は、
 覚如上人の時代から延々と議論され続けている所であります。
 しかし「信心正因 称名報恩」は覚如上人がいいだしたことでありますから
 「覚如上人の教え」ではありますが「親鸞聖人の教え」ではありません。

  ↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

 ってのを読んでいたので、

 「覚如上人」の頃から「宗派間でイザコザ」があったのかなぁ。。。( ;∀;)ノ

 ・・・と思いきや、
 「高田派」が「名宝」として大切にしている「親鸞聖人伝絵」の詞書が「覚如上人」だった
 ので、ちょっとズッコケました。。。(笑)

 「人間が言うコト」は「個人の都合」や「思い込み」が入っているから、、、
 「れおんが思うコト」には「個人の都合」や「思い込み」が入っているから、、、
 「見聞きしたすべて情報」を「参考程度」に留めておかないとなぁ・・・ってコトと、
 やっぱり物事は「伝言ゲーム」よりも「百聞は一見に如かず」だよなぁ。。。

 ・・・とつくづく思いましたとさ。。。(*^。^*)ノ


【2022年夏の旅(その2)】【群馬県邑楽郡板倉町「宝福寺」】

2022-08-28 05:53:37 | 【親鸞聖人の旧跡を巡る旅】

ハイ!

・・・ってコトで、続きから再開します。。。(`・ω・´)ゞ

 

2か所目は「群馬県邑楽郡板倉町」の「宝福寺」に行ってきました。。。

 

で!!

ココは、「何で選んだのか?」というと。。。

「現・元親鸞会会員」にとっては、非常に感慨深い「お寺」ございまして。。。(^▽^;)ノ

 

なんと!!

「アニメ世界の光親鸞聖人第四部」の!!

「親鸞聖人」が「大飢饉」を「目の当たり」にして

「浄土三部経」を千回読もうとされた「お寺」だそうで!! 

 

(*゚0゚*)…おお~!!

 

これは、もう・・・

「行ってみて!!」

「この目で確かめてこなきゃ!!」=͟͟͞͞( ๑`・ω・´) トォーッ!!

・・・ってな感じで。。。( ̄▽ ̄;)ノ

 

1か所目の「牛之塔」からは、少し遠いのですが、

「夕方のご法話」までには余裕で間に合うので、早速行ってきました。。。(*^〜^*)ノ

 

そんでもって「地図」はコチラで~す。。。

 

が!! コッチも前回と同様に!!

「群馬県の土地勘」がナイ!!ってコトで「広域地図」を載せてマ~~ス。。。( ̄▽ ̄;)ノ

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(* ̄∇ ̄*) ・・・。

 

こうやって「記事」として「まとめて」みると、、、

やっぱり「広域地図」の方がわかりやすいですね~。。。(*^。^*)ノ

 

「親鸞聖人」が「浄土三部」を詠まれた場所は「群馬県のお寺」ではあるけれど。。。

「群馬県」と「栃木県」と「埼玉県」と「茨城県」の

「4県が隣接する県境」にある「お寺」であることがわかります。。。(*-`ω´-)9

 

・・・ってコトは!!

 

まぁ、、、だいたい「田舎の県境」になりそうな場所ってのは。。。

「山に囲まれた場所」やら「川で隔てられた場所」やら、、、

非常にんぴ・・・・・。あ、間違えた!!(笑)

「大自然に恵まれた場所」なワケで。。。( ̄▽ ̄;)ノ

そ~なると当然「自然災害」も多い!・・・ってコトになるワケで。。。

 

コチラの「お寺」の「ホームページ」には、次のよう書かれていました。。。(´・ω・`)ショボーン

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浄土真宗開祖親鸞聖人御旧跡めぐり (coocan.jp)

【浄土三部経千部読誦】

 関東へと向かわれた親鸞聖人は、
上野国(こうずけのくに)佐貫(現在の群馬県邑楽郡板倉町)宝福寺に滞在されました。
この地は佐貫氏の荘園でしたので、このように呼ばれていました。
大河利根川の恵みにより、豊かな土地ではありますが、しかしそれは自然災害と隣り合わせということです。
「吾妻鏡(あずまかがみ)」には、当時大地震・大干ばつ・大洪水が立て続けに起こったことが記されています。
大地にしがみついて生きる人々。豊かな稔りをもたらす自然は、荒ぶる神となる。
天変地異に唯涙するしか無い現状…。
その惨状を目にした聖人は、比叡山時代に20年間も培った祈願方法、
無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経の浄土三部経を1000回読誦の法力をもって、
現状の好転をはかろうとしました。

 

(*・ω・)(*-ω-)(*・ω・)(*-ω-)うんうん…。

「地図」で見てみても・・・

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「一級河川」の「デカい川」が南北に2本も流れていて、、、

さらにすこし東側に合流地点」があれば、そりゃ、、、

「大洪水」が起きれば大変なコトになるよなぁ・・・と思いました。。。(´・ω・`)ショボーン

 

 

・・・ってな「事前情報」を入手している間に!!

「現地」の「群馬県邑楽郡板倉町」の「宝福寺」の「入り口」に到着で~~~す。。。ヾ(´▽`*;)ゝ"

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でも、じつは、この「お寺」・・・。

「現地」に行ってみてビックリだったのですが。。。(^▽^;)ノ

「群馬県指定重要文化財」「親鸞聖人高弟性信上人座像」

・・・があるのに

「浄土宗」でも「浄土真宗」でも「天台宗」でもない!!

「真言宗」「大同山」「豊山派」「寶福寺」

・・・でございました~。。。(¯―¯٥)ノノ

 

 

( ╹▽╹ )えっ!?なんで!?

((ちょっと「いきさつ」を知りたいですね。。。(^▽^;)ノ))

 

 

しかも!!

「カギ」が掛かっていて中に入れナ~~~イ!!

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・・・・。Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン

 

「見学者用」の「立派な案内看板」もあるのに!! ( ;∀;)ノ

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そんでもって「矢印↓の位置」からも、写真を撮ってみたけれど。。。(´・ω・`)ショボーン

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((・・・って、このコソコソ撮ったようなアングル!!

なんだかヘンタイ「盗撮ヤロー」みたいだよなぁ。。。(´・ω・`)ショボーン))

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・・・ってコトで、コッチ側にも、

「見学者用」の「立派な案内看板」があるのですが。。。

 

「表の門」にはおもっきし!!

「ALSOK」のステッカーが貼ってあって!!

 

 

この柵を飛び越えて「写真を撮ろう」モンなら!!

「25分以内」に駆け付けた!!

「ウルトラマン」に捕まってまうので。。。Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン

((・・・ってか「ウルトラマン」の「3分しか戦えない」っつー「設定」はどこにいったんだよ。。。(´・ω・`)ショボーン))

 

いやぁ~ん♡ たすけて~~~!! (( ;> д <))アワワワワ

 

・・・とならないように!!

 

とりあえず「お寺の雰囲気」だけを収めて帰路につきましたとさ。。。(´・ω・`)ショボーン

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この正面の「建物」が「お堂」かな。。。(*・ω・)ン?

そんで、コッチには「性信上人の座像」が納められていて。。。

手前の「建物」には「聖徳太子童子像」が納められているみたいです。。。(*^。^*)ノ

 

で!!

あとで「阿部信幾先生」にこのコトをお聞きしたら。。。

どうも「お寺」に「泥棒が入った」らしく!!∑( ̄◇ ̄|||) ナニィィイイイ!

それで「盗まれないように」「厳重に警備」をしているそうで、

「公民館?」「自治会?」の方に「事前予約」をすれば見学できるそうです。。。(´・ω・`)ショボーン

 

・・・って、まぁ、「面倒くさい」からワザワザ予約してまでは行かないけれど。。。

 

でも。。。

なんとも、さもしい「世の中」になったモンだなぁ。。。( ;∀;)ノ

・・・と感じたのは言うまでもありません。。。,,,( ̄^ ̄゜)

 

 

( ^ω^)・・・。

 

 

あとは。。。最後に、

「宝福寺」の「石碑」について書かれている「お寺」の「ホームページ」をご紹介いたしますね。。。(*^_^*)ノ

「れおん」の「スマホの写真」では(遠すぎて)「案内文」が読めませんので引用いたします。。。(^▽^;)ノ

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法福寺 (dti.ne.jp)

【宝福寺】

 恵信尼公のご消息(手紙)に、
「親鸞聖人が三部経千部読誦を始められ思い返して中止された地」として「さぬき」が記されています。
現在「さぬき」は宝福寺のある板倉町という説が有力です。

【三部経読誦】

 大正10(1921)年冬、本願寺の蔵より親鸞聖人の内室恵信尼公が
末娘の覚信尼公に宛てて書かれた消息(手紙)が発見されました。
親鸞聖人ご往生の翌年、弘長3(1263)年2月10日付けのお手紙の中で
「寛喜3(1231)年(親鸞聖人59歳)の時、(聖人が)風邪をめされて、
熱が出て体が火のように熱くなって、頭痛もひどくいらっしゃいました。
病に臥して4日目の暁に苦しみの中『まはさてあらん』と仰いました。
うわごとを申されたのでしょうかと(恵信尼公が)申しますと、
(親鸞聖人が)臥して2日目より常に大経を読んでいた。
目を閉じると教典の文字が一字も残らず、つぶさに見えた。これはおかしなことだ。
念仏の信心の他になにか心にかけることがあろうかと考えてみると、
16、7年前に誠実に三部経を千部読誦して、衆生利益のために読誦し始めたところ、
自から信じ人を教えて信ぜしむることが本当に仏恩に報いることだと信じながら、
名号(南無阿弥陀仏)の他に何が不足で、
経典を読誦しようとするのかと思い返して読誦をしなかったことが、いまだに残っていたのだろうか。
人の執心、自力の心はよくよく考えなければならないと思い直してから教典を読むことが止まった。
そのようなことで臥して4日目の暁に『まはさてあらん』と申したのだと仰せられました。
そして汗が流れて恢復されました」(趣意)と記され、
続いて「三部経を誠実に読誦しようとしたことは、
信蓮房が四歳の時、武蔵国か上野国かさぬき(佐貫)というところで読誦し始めて4、5日で思い返して読誦を止めて、
常陸国にお出でになったのです」と書き「信蓮房は今年53歳になったと記憶しています」と記されています。
この記述により親鸞聖人が越後より常陸に来られたのが健保2(1214)年であることが確定されました。


【石碑】板倉町宝福寺

 このご消息が発見されてから
親鸞聖人が三部経千部読誦を思い立たれた「さぬき」という地がどこであるか諸説がだされました。
その中でも群馬県邑楽郡明和村佐貫説が有力でした。
しかし明和村佐貫の地に親鸞聖人の伝承が全く残っていないことから知切光歳氏は疑問を持ち
佐貫荘の地域の地誌を調べたところ板倉町にある宝福寺(新義真言宗・現在無住)にて
親鸞聖人の直弟性信房の座像が発見されたことを見つけました。
宝福寺には、親鸞聖人ご逗留の伝承があることが判り、現在では板倉町説が最も有力な説です。
『上州館林伊豆山後又号大同山観音院宝福寺縁起』には同寺を聖徳太子の開基とし、
かつて常行堂(阿弥陀如来を安置し不断念仏を修するお堂)、
聖徳太子自刻の像を安置した大師堂、三重塔(塔内に如意輪観音)があったとし、
恵心僧都によって常念仏が始められ今に至るまで絶えることがないと記されています。
宝福寺の宝庫には昭和35五(1960)年に板倉町の民俗調査で発見された「性信房座像」が安置されています。
宝福寺はかって広大な寺域を持ち、江戸期には徳川家の保護も受けていましたが、
明治に行われた廃仏政策で打撃を受け、大正期には無住となって伝承も途絶えてしまっていました。
宝福寺の墓地に寛政8(1796)年に建てられた碑があります。
碑には「親鸞聖人直作阿弥陀如来像 聖徳太子像 玉日像 性信上人古蹟」と刻まれ
江戸日本橋の同行が建てたと記されています。
この時期まで親鸞聖人と性信房の旧跡として巡拝がなされていたことが判ります。
同寺縁起には「親鸞聖人越後より常陸へ行く時、この寺に参詣された。その時湖水に大蛇がいて人を苦しめていた。
聖人はお弟子の性信御房を残し、自刻の像を付属されて常陸へ行かれた」と伝えています。

 

((・・・って、ホント「明治維新」ってのはロクなモンじゃないね。。。(´・ω・`)ショボーン))
((「明治」の「焚書」の中には「隠された歴史」が数多く存在していると思うよ。。。(´・ω・`)ショボーン))
((・・・ってコトで、余談ですが「本当の明治維新」を調べてみると面白いかもしれません。。。( ̄▽ ̄;)ノ))
((この前の「XX元総理暗殺」も「XX教会」も元をたどればココに関係があるかなぁ・・・な~んてね。。。(笑) 物事ってのはぜ~んぶ繋がっているんだよね。。。(´・ω・`)ショボーン))

 

【性信房座像(県指定重要文化財)】水害と揚舟

 板倉町は利根川と渡良瀬川に挟まれ、町の東には栃木・群馬・茨城・埼玉の県境に位置する渡良瀬遊水池があります。
この地は低湿地地帯で度々水害に襲われました。
地域の人々は自らの命や財産を守るために母屋や納屋の天井・軒下などに揚舟を保管し水害に備え、
水害時には揚舟を軒下から降ろして、水塚や高台に非難しました。
親鸞聖人は水害に襲われ苦しむ人々に接せられて三部経の読誦を思いたたれたのかもしれません。
しかし、それは根本的な苦悩の解決には繋がらないと思い直し、この地の人々のために直弟子性信房を残されたのかもしれません。

 

 

・・・ってコトで、

「2022年夏の(じみ~な)旅」は以上となります!! (`・ω・´)ゞ

また、時間が出来たら「どこか」に「お出かけ」いたしますね~ ♡ \( 'ω')/

 

 

なもあみだぶつ♬ ε-(/・ω・)/ トォーッ!!


【2022年夏の旅(その1)】【群馬県太田市「牛之塔」】

2022-08-24 05:45:43 | 【親鸞聖人の旧跡を巡る旅】

※注) この記事は、めっちゃ地味~な【親鸞聖人の旧跡巡り】なので。。。(´・ω・`)ショボーン

    「ひとさまに公開」していますが、あくまでも「れおん」個人の「旅日記」。。。

    なので、「ウケ狙い」でも「見せる記事」でもなく、

    ホントにただの「思い出アルバム」ですので、過度に期待しないでくださいね。。。( ̄▽ ̄;)ノ

 

((最近、、、「ネタ」を「期待して」読んでいるであろう「雰囲気」・・・をやたらと感じているので。。。))
((こういう「地味~な記事」が、な~んかアップしづらくて、困っているんですよぉ。。。( ;∀;)ノ))
((なので「旅行」をしても、「写真」だけがたまっていくのです。。。(。>д<)ノ))

 

 

・・・ってコトで、

とりあえず「気にしない」ようにしながら、淡々と「写真」を張り付けていきます。。。(*^_^*)ノ

 

 

え~っと。。。

2022年8月6日(土)と8月7日(日)は、、、

主人と2人で「群馬県みどり市」の「西福寺」に「お聴聞」にお出かけいたしました。。。

 

で!!

8月7日(日)の「ご法話」の予定は「夜のみ」・・・ってコトでしたので、

「朝」と「昼間」は、まるまる「ヒマ」(笑)!! (-ω-;)ノノ

特に「するコト」もナイので、近場の「親鸞聖人にまつわる旧跡」を見学しに行ってきました。。。

 

 

「見学場所」は次の2か所です!!

1か所目は・・・「群馬県太田市」の「牛之塔」

2か所目は・・・「群馬県邑楽郡板倉町」の「宝福寺」

選んだ理由は・・・

「とりあえず」

「日帰りで」

「帰って来られる場所」・・・だったからであります!! (`・ω・´)ゞ

((アハハハハ・・・。。。めっちゃ、単純な理由だなぁ。。。( ̄▽ ̄;)ノ))

 

 

( ^ω^)・・・。

 

 

それでは、順次、説明していきマ~~~ス。。。(*^。^*)ノ

まずは、「群馬県太田市」の「牛之塔」から。。。

「地図」はコチラで~す。。。

が!! 「れおん夫妻」は「群馬県の土地勘」がナイので「広域地図」を載せています。。。( ̄▽ ̄;)ノ

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

「阿部信幾先生」の「西福寺」から「約7キロ先」にある「牛之塔」という「史跡」は。。。

 

「Googleマップ」の「ストリートビュー」で確認するとこんな感じで・・・

「田舎道の脇」にポツン・・・とある

「時代から取り残された感」の「遺跡」です。。。(^▽^;)ノ

 

 

「うあぁ~!!」

「めっちゃ地味~~~!! Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン」

((「日本三大ガッカリ」の「高知県 はりまや橋」くらい地味~~~!! ))

 

・・・と思ったのですが、それもそのハズ。。。(^▽^;)ノ

 

「由来」は、「群馬県太田市」の「ホームページ」によると、

建立時期は「鎌倉時代の初期」だそうで。。。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

【牛之塔】
 この牛之塔と呼ばれ守られてきた宝篋印塔の建立時期については、明らかではありませんが、
基礎に飾りがなく簡素であること、笠部が六段で隅飾(馬耳状突起)がほぼ垂直に近いこと、
規模が大きく安定感があることなどから、鎌倉初期の元久頃(1204〜1206)と考えらます。

 またこの塔を建立した由来は2説あります。
(1)智明が京都から阿弥陀如来像を崇禅寺へ運ぶ途中に牛車の牛が死んだので牛の供養のために塔を建てた
(2)啓禅が石の塔を鎌倉から運ぶ途中に牛が死んだので、その石の塔をそこに建てた

 どちらの説も真相を伝えているかわかりませんが、物を運ぶ途中に牛車の牛が死んだので、
供養のために塔をたてたということは共通しており、「牛之塔」と呼び伝えられてきました。

 

・・・というコトだそうです。。。(*^。^*)ノ

 

また【萬松山 崇禅寺】の【歴史・沿革】には次のように書かれています。。。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

 鎌倉時代に吾妻山の西方、小倉村に園田成家と言う武士いました。
鎌倉幕府の全盛期で、その勢力は関東一帯に広がり、成家も巡回警護のため京に上がりました。
そこで、京の町を巡回するうちに、東山黒谷にお経を唱え、信徒に説教する法然上人に接し、
仏の魅力に引かれ二十八歳で弟子となり、智明坊と名乗り修行僧となりました。

 智明坊(園田成家)は、念仏修行に没頭の日々を送っていましたが、鎌倉時代初期の元久二年(1205年)に
満五年の修行を終えて、懐かしい故郷に帰る事となりました。
このとき、智明坊は別れに際して、法然上人より阿弥陀如来像を与えられました。
 智明坊は、東国への長い道のりであるため、この阿弥陀如来像を牛の背に大切に載せて故郷を目指しました。
ところが、東山道は険路であるゆえ、上野国に入って、
故郷小倉山が見える薮塚村の中原で、牛は力尽きて倒れてしまいました。
そこで智明坊は、苦労をかけた牛のために宝篋印塔を建立して手厚く供養を成しました。
これが中原の「牛之塔」となり、現代まで語り継がれています。

 

・・・というコトだそうです。。。。*:.。☆..。.( ꈍ▽ꈍ人)

 

・・・が!!

「地味~~~!!」なものはやっぱり、どう頑張っても「地味~~~!!」なワケで!!

 

なんとか!! なんとか!! なんとか!!

「がっかり写真」にならないように・・・

「周囲の迷惑」にならないように・・・

「道の真ん中」で撮ってみたのですが!! (←そもそも「車」も「ヒト」も通らないんだけど・・・。(lll-ω-)ズーン)

これが・・・「限界」・・・でございます。。。( ;∀;)ノ

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

 

 

・・・・・・・・・・・。

 

「Googleマップ」の「ストリートビュー」よりは!!

まぁ・・・、きも~ち「マシな感じ」で撮ることができました。。。(¯―¯٥)ノノ

 

ふう・・・でも限界。。。

 

・・・ってコトで、

あとは「単体」で「ドアップ」で撮れば、たとえ「地味」でも、

そこそこ「見栄えのある写真」の出来上がりです。。。(*´∀`*)ゞ

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

【一番左の碑】

 

【真ん中の碑】

 

【一番右の牛之塔】

 

 

・・・・・・・・・・・。

 

・・・って!!

この「大ウソつき」め~!! (・◇・)ノ

 

((やっぱり「見栄えのある写真」・・・と呼ぶには、ちと「ムリ」があるね。。。(´・ω・`)ショボーン))

 

 

( ^ω^)・・・。

 

・・・ってコトで、残念ながら、

・・・こんな感じの「地味~~~な記事」がもう一つ続きます。。。(´・ω・`)ショボーン

 

 

 

(((その2)【群馬県邑楽郡板倉町「宝福寺」】に続く。。。(;・3・)~♪))

 

 

なもあみだぶつ♬ (¯―¯٥)ノノ


「親鸞聖人を訪ねて」を訪ねて(その7.5)【常陸 9-3.板敷山山頂】

2022-01-22 05:49:23 | 【親鸞聖人の旧跡を巡る旅】

ハイ。。。(・ω・)ノ

 

・・・ってコトで!!

 

前回の【親鸞聖人の旧跡を巡る旅】(2021年11月18日)

「親鸞聖人を訪ねて」を訪ねて(その7)【常陸 9-3.大覚寺(板敷山)】 - 浄土真宗・他力信心の境地 (goo.ne.jp)

にて、グダグダと言い訳をして行くことができなかった

「板敷山山頂」に行ってきました。。。( ̄▽ ̄;)ノ

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前回の「板敷山 大覚寺散策」(行ったのは2021年の夏休み♪)からは約2カ月が経過していて・・・。

「2021年10月初旬」に行ったのですが。。。(¯―¯٥)ノノ

((・・・って、それを今ごろ記事にするのかよっ!??Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン))

 

やっぱりさ~。。。

「元親鸞会会員」でありながら!!

「アニメ世界の光親鸞聖人第四部」を「繰り返し」視聴していながら!!

「弁円」さんが、あの「板敷山で待ち伏せ」している場所に行かない!!

・・・ってのは、

「ネタ職人」としてど~なのよ!??

・・・・( ̄、 ̄*)???

・・・と、思っていたので。。。

 

「れおん」の「プライド」にかけて!!

再度、行ってまいりました!!(`・ω・´)ゞ

((おぃおぃ!!そんなトコロに「プライド」をかけるなよ。。。┐(*´~`*)┌ ヤレヤレ))

 

・・・ってコトで、きっとかなり昔のコトで忘れていると思うけれど。。。

とりあえず「前回の地図」で! 場所を!!

おさらいしておきますね~。。。( ̄▽ ̄)v

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この地図の「親鸞聖人法難之遺跡」「弁円の護摩壇跡」で~す。。。(*´▽`*)ノ

 

まずは、地図左上」の「板敷」( ∴ の青のマーク)に車を停めて歩きます。。。(*^_^*)ノ

 

「下の写真の方向」に進むと前回行った「板敷山大覚寺」があります。。。(*^。^*)ノ

相変わらず「のどかな山村」です。。。(;´▽`A``

 

・・・で!!

今回の目的地は「板敷山山頂」なので

「北筑波稜線林道」を奥に向かってテクテク歩きます。。。(*^▽^*)ノ

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まだ日の光が当たって明るいのですが、そのうちに薄暗~くなります。。。(^▽^;)ノ

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この先は、行程の景色を「法難之遺跡」まで淡々と載せていきま~す。。。( ̄▽ ̄;)ノ

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そして「親鸞聖人法難之遺跡」に到着です。。。

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・・・・・・・・・・・・・・。

( ^ω^)・・・。

うん。。。「碑」が「ポツン」と立っているだけでしたね。。。(´・ω・`)ショボーン

さ、寂しいトコロだなぁ。。。( ;∀;)

 

そんでもって「弁円の護摩壇跡」は?

・・・っていうと。。。(¯―¯٥)ノノ (¯―¯٥)ノノ (¯―¯٥)ノノ

 

コチラの写真の「壁」を登っていきます。。。工エー=͟͟͞͞(꒪ᗜ꒪ ‧̣̥̇)!?

((「道」なんてあるワケない!!Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン))

 

虫~!!虫なんて大キラ~い!!(/≧◇≦\)ヒイイイイイ…

で、でも、頑張って登りマ~ス!!٩( ๑•̀o•́๑ )وムオー!

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((・・・・・・・・・・・・・・。))

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((へ、ヘビが出たらどうしよう。。。Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン))

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((蜘蛛の巣もカンベンして~!!!!(( ;> д <))アワワワワ))

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((足元が草ボーボーだ~ぁ!!!!(( ;> д <))アワワワワ))

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((早く目的地に着いてくれ~!!!!(( ;> д <))アワワワワ))

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((・・・・・・・!!!!! (*゚0゚*)…も、もしかして・・・。))

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や~~~っと、「弁円の護摩壇跡」に到着で~~~す。。。(*^▽^*)ノ

((・・・って、オオゲサな!!

多分、10分くらいしか歩いていないと思うぞ・・・。(´・ω・`)ショボーン))

 

・・・ってコトで、「石碑」と「護摩壇跡」で~す。。。( ̄▽ ̄;)ノ

 

こ~んな「鬱蒼とした場所」で!!

「山伏」だった「弁円」さんは、「親鸞聖人憎し!!」

・・・と「護摩」を「焚いて」いたんですね。。。((((_ _|||))))ドヨーン

 

怒りの炎メラメラで・・・。

アワワ ヽ(□¯ヽ))…((ノ¯□)ノ アワワ

待ち伏せして「親鸞聖人」を亡き者にしようと・・・。

ヽ(゚ロ゚; )ギャアア!!三三\(  )/三三ギャアア!!( ;゚ロ゚)/

「護摩」を焚いて祈祷する「弁円」さんは・・・。

「憎悪の鬼」と化していたのだと想像します。。。Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン

 

【板敷山大覚寺縁起略述】(略縁起現代語訳)

 当時、常陸の楢原の地に修験道の山伏の道場がありました。頭領の播磨公弁円は、山伏のまとめ役として、常に災害を除き、厄をはらう法を修し、専ら現世の福利をもって人の心をおさめとり、人びとの崇敬の念をとても受けていました。しかし聖人のお念仏がひろがると、深く仏教の因果や業の理に徹して、仏智回向の大悲を喜ぶ者が日に日に多くなり、修験道の法にたのむ人は少なくなってしまいました。

 播磨公弁円は、自分たちの修験道の法門が衰えてしまったことに怒り、聖人を怨むこと蛇蝎の如くでした。遂に自らの弟子三十五人と謀り、聖人に危害を加えようと、板敷山南麓の無住の庵に屯し、何日も聖人の行化の行き帰りをうかがいましたが、出会うことが出来ません。そこで板敷山の山上に護摩壇を築き、三日三晩懸命に念じましたが、聖人に何ら危害を加えることは出来ませんでした。

 このため播磨公弁円はますます炎腸を焦がし、刀杖を手にはさみ、単身聖人のいる稲田の草庵に押し入ったのです。それにもかかわらず聖人は、ためらいなく草庵から出て参りました。播磨公弁円は、尊顔に向かって危害を加えようとする気持ちが忽ちに消滅し、それだけでなく後悔の涙を止めることが出来ず、聖人に乞いてお弟子となり、明法房弁円と名を改めたのです。聖人四十九歳、弁円四十二歳の秋の時でありました。

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そして、弁円さんは「阿弥陀様のお救いに出遇い」かつての自分自身を振り返ります。。。(*^_^*)ノ

「山も山 道も昔に変わらねど 変わり果てたる 我が心かな」

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さらにさらに。。。

 年を経て三十年、建長三年(1251)十月十三日、明法房七十一歳にして浄土往生を遂げられました。京都洛中におられた聖人は、弁円の往生を聞き、常陸の門侶にあてて、御感慨深い御消息を送られたのであります。聖人御帰洛後十六年、聖人七十九歳の御年でございました。

 

ってコトで!!

「親鸞聖人御消息」にはこのように書かれていますね。。。ヾ(*´∀`*)ノ

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「明法御房の往生のこと、おどろきまうすべきにはあらねども、かへすがへすうれしく候ふ。」

 

この度の「明法房の往生」めでたし!!(≧∇≦)ノ

 

だってさ。。。ヾ(=^▽^=)ノ

 

ワーイ♪\(^ω^\)( /^ω^)/ワーイ♪

ワーイ♪\(^ω^\)( /^ω^)/ワーイ♪

 

だ~か~ら ~♪

「浄土真宗」には「闇がない」んですよ~。。。( ꈍᴗꈍ)ノ.☆.。.:*・゜

だ~か~ら ~♪

「浄土真宗」では「故人の冥福を祈らない」んですよ~。。。ヽ( ꈍ▽ꈍ)ノ* ゚ + 。・゚・。・

「本願成就」だ~か~ら ~♪

「私の後生」は「究極のハッピーエンド」なんですよ~。。。*:.。☆..。.( ꈍ▽ꈍ人)

 

「本願成就」がいつも嬉しい!!(≧∇≦)ノ

いつでも嬉しい!!どこでも嬉しい!!(≧∇≦)ノ

 

・・・・・・・・・・・・・・。

 

あぁ!! 仕事のレポート忘れてた・・・。Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン

 

・・・・・・・・・・・・・・。

 

アワワ ヽ(□¯ヽ))…((ノ¯□)ノ アワワ

・・・ってなっても。。。

 

それでも「弥陀」に捨てられない!!

「摂取不捨」の「究極のハッピーエンド」なのであります!!(`・ω・´)ゞ

 

「本願成就」が嬉しいね♡(⋈◍>◡<◍)。✧♡

 

なもあみだぶつ♬ (*・∀-)bグッジョブ


「親鸞聖人を訪ねて」を訪ねて(その7)【常陸 9-3.大覚寺(板敷山)】

2021-11-18 05:21:38 | 【親鸞聖人の旧跡を巡る旅】

随分と「画像の編集」が遅れましたが、やっっっと!!!!

「「親鸞聖人を訪ねて」を訪ねて」の復活デ~~~ス!!

 

そんでもって、本日は「茨城県 板敷山の大覚寺」デ~~~ス!!(・ω・)ノ

 

「板敷山」っていったら、「れおん」が思い浮かべるのは、まぁ当然。。。

「現親鸞会会員」や「元親鸞会会員」にはお馴染みの「アニメ世界の光親鸞聖人第四部」で!!

あの「弁円」が「親鸞聖人」に襲い掛かった!(*□*ノ)ノ アウッ!!

・・・という「板敷山」ですねぇ。。。(σ* ゚ー゚)σ…。

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「加持祈禱中」の弁円さ~ん♪

 

そんな「弁円さん」なのですが。。。

本日ご紹介する「大覚寺」は、「板敷山」の「親鸞聖人法難之遺跡」近くで、

「弁円さん」ご一行の「山伏たち」に「親鸞聖人」がご説法をされた「ゆかりのお寺」みたいです。。。

 

((これって「「弁円さん」とは直接関係がないお寺」・・・なのかなぁ。。。(๑• - •`๑)ハテ?))

 

・・・ちょっと詳しいことはわかりませんが。。。

「親鸞会会員」にとっては、まぁ、そこまで馴染みがないんですよねぇ。。。(^▽^;)ノ

 

・・・・・・・・・・・・・・。

 

そんでもって、今回は、あの「親鸞会作成のアニメ」に描かれていた、

「親鸞聖人法難之遺跡」「弁円の護摩壇跡」も行っておりません。。。Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン

 

・・・ってことで、初っ端からグダグダでゴメンナサイ。。。

(o*。_。)oペコッ

 

いやぁ。。。

なんつーか、先に断っておきますが!!

「れおんタン」は何を隠そう「ネタ職人」なのでございます。。。

その「ネタ職人」が「なかなか画像の編集がはかどらない!」・・・ということは。。。

 

・・・・・・・・・・・・・・。

 

察してください。。。(´・ω・`)ショボーン

 

「考えられうる理由」は・・・

「「肝心な遺跡」に(いろ~んな都合で)行っていない!」

もしくは、

「そんなに馴染みのないお寺で、ネタというネタが思い浮かばない!」

・・・のどちらかなんです。。。( ;∀;)

 

そして、これからご紹介する「板敷山」は、何を隠そう!!

その両方なんです!!!!(`・ω・´)ゞ

そして、大真面目に記事を書くだけの「面白ネタがナイ!!」んです。。。( ;∀;)

 

なので、ぜ~んぜん筆がのらず、しばらく寝かせておいたのですが。。。

やっぱり「面白くなりそうな要素」もなく。。。( ;∀;)

 

季節もすっかり「夏」から「晩秋」になってしまったので、

泣く泣く・・・淡々と・・・ただ「写真を掲載するだけ」の、

「ネタ職人」にとっては「最大の汚点」になる記事を掲載いたします。。。( ;∀;)

 

申し訳ないのですが、ご了承くださいませ。。。(。>д<)

 

あと、ちょっと余談なのですが。。。(^▽^;)ノ

 

なんつーかさ「「あるものごと」をお伝えする!」ってさ・・・。

「読書感想文」でもそうなんだけれど。。。

「本の内容」で「感動したコト」「面白かったコト」「悲しかったコト」などなど。。。

「「わたしが感じたコト」「これ一つ伝えたいぞ!」ってコトを書く!」じゃないですか!!

・・・で!!

そんときに「一番困るコト!」ってさ。。。

「本の内容がつまらないコト!」じゃないんです!!

「本の内容(特徴)がまったくないコト!」なんです!!( ;∀;)ノ

・・・・・・・・・・・・・・。

もし「本の内容が退屈だった!」のならさ。。。

「なぜ退屈なのか?」ってコト自体が、その本の「内容(特徴)」じゃん!!

でもさ。。。

(本の)「内容がナイよ~!」(←ダジャレさぶっ!Σ( ̄ロ ̄lll))

っつーのは、マジで!! どうにもならないんですよ。。。

だって「書くことすら」ないからさ!!

だから、どうにも取り上げようがないんですよ。。。(´・ω・`)ショボーン

 

・・・ってことで、ここでダラダラと言い訳を言っていてもラチが明かないんで

さっそく本題に入ります。。。(^▽^;)ノ

今回は「れおん的」に「お寺に対するツッコミがゼンゼンない

茨城県の「板敷山 大覚寺」に行ってきました。。。

乁( •_• )ㄏれれれ~♪

 

まずは、前回載せた「関東ご布教」の「旧跡」の「全体図」からで~す。。。(。-∀-)ノ

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「上図の中央部」が「板敷山の大覚寺」で~す。。。(*^_^*)ノ

雰囲気的に「めっちゃ山」ですね。。。(。-∀-)…。

( ^ω^)・・・。

場所が「山」ってことは。。。

・・・・・・・・・・・・・・。

そうなんです。。。

な~んもナイんです!!!!( ;∀;)

前回の記事の「小島の草庵跡」の「だだっ広い田園」とはまた別の雰囲気の・・・

「さびれ・・た・・・」ではなく!

「非常にのどかな山村」でした。。。( ̄▽ ̄;)ノ

 

こんな感じ~♪(; ̄3 ̄)~♪

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これは、ちょっと小高い「大覚寺」から撮影した「ふもとの景色」なのですが。。。

・・・・・・・・・・・・・・。

まぁ、こんな感じの「お店」もなく「民家」もまばらな、そういう土地柄でございます。。。(^▽^;)ノ

 

・・・で、

「親鸞聖人を訪ねて」のHPで紹介されている、「9.関東でのご布教」では、

この「大覚寺」はこんな感じで紹介されていマ~~~ス。。。(・ω・)ノ

信州~常陸(1214年~1232年)|親鸞聖人のご生涯|親鸞聖人を訪ねて(御旧跡巡拝ガイド) (shin.gr.jp)

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【大覚寺】弁円が親鸞聖人の命を狙った地

親鸞聖人の弟子・善性房(周観大覚)が開山した寺院で、明法房こと山伏弁円の伝承で有名な板敷山の付近にあります。

本堂には「親鸞聖人御満足の像」と「弁円懺悔の像」が安置されています。

境内の庭園には、京都の桂離宮を模した回遊式をとっており、池を中心として散策路が配置されています。

この庭はどこから見ても「裏がない」ことで、「裏みなしの庭」と称されており、石岡市指定名勝に指定されています。

また、板敷山山頂には「弁円護摩壇」の跡が残されています。

 

・・・だそうです。。。(*^_^*)ノ

 

そんでもって、周辺付近の地図はこんな感じデ~~~ス。。。( `ー´)ノ

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・・・・・・・・・・・・・・。

序盤でもグダグダと書きましたが。。。

今回は、残念ながら「大覚寺」のみの散策で・・・、

「親鸞聖人法難之遺跡」と「弁円の護摩壇跡」には行っていません!!( ;∀;)

 

・・・というか、まぁこの「親鸞聖人を訪ねて」のホームページは「不親切」なもので。。。

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

((あぁ!! コイツ、ついに「ホームページに責任転嫁」しやがったぞ!!? (¯―¯٥)ノノ ))

 

「板敷山山頂」って書かれているだけで、

「行く手段」や「ルート」が書いてあるモノがなかったので、ワリとマジで行けませんでした。。。( ;∀;)

((まぁ、目的が「西福寺お聴聞」だったので時間もなかったしね。。。(^▽^;)ノ))

 

・・・ってことで、もし「ココに行きたいぞ!」っていう方がいらっしゃいましたら、

こちらのお寺のホームページをご参照ください。。。

とっても詳しくご紹介されています。。。(*^_^*)ノ

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板敷山弁円護摩壇跡への行き方(車) (wixsite.com)

 

・・・・・・・・・・・・・・。

さてさて。。。

「前半部分」は、グダグダな言い訳でめっちゃくちゃ尺を伸ばしましたが、

ここからは腹をくくって「大覚寺」の写真を淡々と載せていきますね~。。。(lll-ω-)ズーン

まずは、「大覚寺」よりだいぶ手前に「銘板」があり、観光客をお出迎えしてくれます。。。( `ー´)ノ

 

場所はこちらです。。。(。-∀-)ノ

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つぎに、お寺の正面から撮影した写真で~す。。。(・ω・)ノ

 

山門の左側の道は「裏みなしの庭」に続きます。。。(*^_^*)ノ

 

「正面の山門」をとりあえず進みます。。。(*^_^*)ノ

「親鸞聖人法難の遺跡」って書いてありますが、

「弁円さんゆかりの遺跡」の場所は「ココのお寺」じゃないで~す。。。( ̄▽ ̄;)ノ

 

こちらは右手で~す。。。(*^_^*)ノ

パンフレットによると【親鸞聖人説法石】だそうです。。。(。-∀-)

「親鸞聖人がこの石にお座りになり、山伏弁円の弟子35人の山伏たちにお念仏の教えをお説きになりました。」

・・・ということです。。。(・ω・)ノ

 

そしてこちらは左手で~す。。。(*^_^*)ノ

 

こちらは本堂右側の境内で~す。。。(*^_^*)ノ

 

そんでもって、こちらは「裏みなしの庭」(恨みなしの庭?)で~す。。。(*^_^*)ノ

 

そして、こちらは「本堂」で~す。。。( ̄▽ ̄;)ノ

基本的に「真っ暗」で~す。。。(¯―¯٥)ノノ

 

・・・・・・・・・・・・・・。

なんかさ・・・「お寺」ってさ。。。

人がいないと・・・さみしいね。。。(´・ω・`)ショボーン

お隣は「庫裏」だったけれど。。。

ゼンゼン人の気配もなくって・・・。

でも。。。

お庭は「夏」の草ボーボーになる時期なのに、めっちゃキレイで。。。

だから。。。

お手入れはしているので「廃寺」ではない・・・とは思うのですが。。。

でも、それだと。。。

「浄土真宗のお寺」には「闇はないんですよ!!」

・・・って、おっしゃった「「阿部先生」のお言葉」とは裏腹に・・・。

フツーに「闇」(物理!)

・・・なのがちょっと皮肉でした。。。( ̄▽ ̄;)ノ

 

そして「本堂」を出るとこんな感じで~す。。。(*^_^*)ノ

 

最後に。。。

「大覚寺」の「案内板」の中に「パンフレット」があったので、

それを少しご紹介して終わりにしたいと思いま~す。。。(・ω・)ノ

 

【板敷山大覚寺縁起略述】(略縁起現代語訳)

 板敷山大覚寺は、親鸞聖人法難の遺跡として、浄土真宗開宗弘通の有縁の地です。その由来を尋ねると、人皇後鳥羽上皇の第三皇子正懐親王は、比叡山で出家し、周観大覚と名のられました。その後、東国諸国を行脚された時、ここ板敷山の南麓に草庵を結ばれました。その時親鸞聖人が越後から常陸に来られており、笠間の稲田におられたので、自ら聖人を訪れ、念仏の深意を聞信し、遂に師弟のみぎりを結び、善性房鸞英と名のられ、それ以来聖人に随って聞法して、聖人のご教化を助けておりました。

 当時、常陸の楢原の地に修験道の山伏の道場がありました。頭領の播磨公弁円は、山伏のまとめ役として、常に災害を除き、厄をはらう法を修し、専ら現世の福利をもって人の心をおさめとり、人びとの崇敬の念をとても受けていました。しかし聖人のお念仏がひろがると、深く仏教の因果や業の理に徹して、仏智回向の大悲を喜ぶ者が日に日に多くなり、修験道の法にたのむ人は少なくなってしまいました。

 播磨公弁円は、自分たちの修験道の法門が衰えてしまったことに怒り、聖人を怨むこと蛇蝎の如くでした。遂に自らの弟子三十五人と謀り、聖人に危害を加えようと、板敷山南麓の無住の庵に屯し、何日も聖人の行化の行き帰りをうかがいましたが、出会うことが出来ません。そこで板敷山の山上に護摩壇を築き、三日三晩懸命に念じましたが、聖人に何ら危害を加えることは出来ませんでした。

 このため播磨公弁円はますます炎腸を焦がし、刀杖を手にはさみ、単身聖人のいる稲田の草庵に押し入ったのです。それにもかかわらず聖人は、ためらいなく草庵から出て参りました。播磨公弁円は、尊顔に向かって危害を加えようとする気持ちが忽ちに消滅し、それだけでなく後悔の涙を止めることが出来ず、聖人に乞いてお弟子となり、明法房弁円と名を改めたのです。聖人四十九歳、弁円四十二歳の秋の時でありました。

 聖人この逆謗摂化の勝縁を喜ばれ、山伏たちの集まっている先の周観大覚善性房草創の板敷の草庵に阿弥陀如来の影像を安置して、大覚阿弥陀堂と称せしめ、山伏たちに百日間のご説法をされたのです。

 年を経て三十年、建長三年(1251)十月十三日、明法房七十一歳にして浄土往生を遂げられました。京都洛中におられた聖人は、弁円の往生を聞き、常陸の門侶にあてて、御感慨深い御消息を送られたのであります。聖人御帰洛後十六年、聖人七十九歳の御年でございました。

 

【親鸞聖人ゆかりの地】の「護摩壇跡」

 

【親鸞聖人ゆかりの地】の「人喰橋」と「蛇塚」

 

以上で~す!!!!ヾ(´▽`*;)ゝ"

 

なもあみだぶつ♬ (๑•̀╰╯-)و.。.:*✧