以前「れおん」は【「疑心」を問題にする心が問題】という記事を書きました。。。(*^_^*)ノ
「疑心」を問題にする心が問題 - 浄土真宗・他力信心の境地 (goo.ne.jp)
((・・・って、「この記事」から既に「2年以上」が経過しているんですね。。。Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン ))
((なんつーか。。。当時と比べて「記事の雰囲気」もすっかり変わってしまって(笑)。。。
「時間の流れ」ってマジでコワいっスわ~。。。:;((•﹏•๑)));:…))
で!!
そのときの「結論」ってのは・・・。
「疑心」を問題にする心は「自力心」だよ~!!(^▽^;)ノ
・・・っつーコトだったのですが。。。
あのあとに。。。
どうして「疑心あることなし」にこだわるんだろう。。。( ˘⊖˘) 。o?
・・・って、チョイと考えてみると。。。
まぁ・・・結局は。。。
「過信」だなぁ。。。
「過信」だよなぁ。。。
「過信」に尽きるよなぁ。。。
・・・と、思ったので。。。ココで、
「過信」を戒められた「偉人さん」のお言葉
・・・を「2例ほど」ご紹介したいと思います。。。(*^。^*)ノ
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🔶 (その1)仏教学者「鈴木大拙氏」
「1964年」「NHK 婦人の時間 」「この人この道」より
聞き手・・・犬養道子
「犬養道子」「科学というものは限られたものですね」
「鈴木大拙」「科学というのは万能ですね」
「なんでもかんでも 科学で解釈するようにいいますが」
「しかし、実際、科学というものは」
「小さな目の網をはっている様なもので 網は魚でも取る様なものだといっています」
「(網の)目が粗ければ魚しか入らないが 目が細かければ魚も昆虫も入ってくる」
「しかし、細くても粗くても目には限りがある」
「顕微鏡でみても網であっても(顕微鏡の倍率を)無限大にすればすべて見える」
「とろこが無限大にはならない」
「人間のやることだから 何かで限られている」
「そういう網にかかったものだけを 科学は検証するが」
「それで全てを見ていると考えるのが 科学者の間違いですね」
「宗教には関心を持っている科学者はいくらでもいます」
「科学が万能だというのは近代人の一つのミスですね、フィクションだと」
「私はそう心得ています」
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🔶 (その2)ノーベル賞受賞医学博士「本庶佑氏」
「NHK ニュース9 」「大切にしている考え方」より
「本庶佑」「まあ大体、世の中の事っていうのは嘘が多いですからね」
「教科書が全て正しかったら科学の進歩というのは、ないわけでね」
「教科書に書いてあることも、実は間違っていることが、たくさんある」
「それを正して、更に前へ進んでいくということだから」
「基本は、やはり」
「人が言っている事、あるいは教科書に書いてある事を全て信じない」
「信じたら、そこで「進歩がない」ということになりますから」
「だから「何故か?」と疑っていくことが重要だと思っています」
((って、「れおん」の個人的な感想は「本庶佑さんのお話」は「鈴木大拙氏」への反論回答にも見えましたが・・・。))
((まぁ、「その道を極めた人」ってのは「どちらも」「どの立場においても」「過信を戒めている」んですね。。。))
((それと、「親鸞聖人」「教行信証総序」の
「摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ」の「聞思」も
な~んとなく「こういう意味で言っている」のかなぁ・・・と思ったりもしています。。。(*^。^*)ノ))
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ってコトで、「上述の例」は・・・
「科学」や「医学」等の
「近代テクノロジー」に対する「過信」。。。
((「科学論文」に「こう書いてある」から「間違いない」!!))とか
((「医者」が「こう言っている」から「間違いない」!!))とか・・・ね。。。ヾノ´-ω-`)アゥトアゥト
・・・を挙げているけれども。。。
「浄土真宗」の「ご門徒さん」の・・・
「どうしても「後生の一大事」を解決したいんです!!」
「聞いても聞いても安心できません!!」
・・・っていうのも結局は、
「自分自身」への「過信」であって、
「信じる対象」は異なれど「根本は同じコト」かなぁ~と思いました。。。(´-∀-`;)ノ
「阿弥陀仏 たすけたまへの ほかはみな」
「思ふもいふも まよひ(逆さ)なりけり」(蓮如上人)
って、まぁ、こ~んな「蓮如上人」の「晩年の和歌」があるのだけれど。。。
この「たすけたまへ」とか「御文章」の「たすけたまへとたのむ」の文言が。。。
「無疑」(はからいなし)となるか
「不疑」(うたがいなし)となるか。。。
「自身」への「揺るぎない信頼」が「境目」なのかなぁ~
・・・と、そう思ったりもしています。。。(´・ω・`)ショボーン
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「横超」とは即ち「願成就」
「一実」「円満」之「真教」「真宗」是れなり
「浄土真宗の名号法」の「帰結」は「弥陀の本願成就」であり、
この本願成就を開いたのが「親鸞聖人の教行信証」であり、
「蓮如上人」の「御文章」も「本願成就」と「六字釈」が竪条と横条になっているのである。
この「本願成就」を「帰命尽十方無碍光如来」といわれる。
この私の後生救われる答えは、いつでもどこでも既に与えられていることを第一前提とするのである。
このことを「蓮如上人」の上では「たすけたまへとたのむ」と言われているのである。
(「稲城選恵和上」のお言葉ですが、若干、「れおん」のアレンジが入っています。。。(^▽^;)ノ)
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ま、なんつーか。。。
「たすかる法」が「私」より「先手」なんだけれど。。。
「往生の証拠」の「南無阿弥陀仏」が「私」より「先に届けられている」んだけれど。。。
たすかりたい「私の方」が「前のめりになっている」から「安心できない」んだろうなぁ・・・と。。。
「れおん」自身で言うなら。。。
「私」には「実態がない」し
「私の思い」は「全く当てにならない」
んだけれど。。。
おそらく「安心できないヒト」ってのは・・・
「私の思いが当てになる!」と思っているから「当てにしている」。。。
「弥陀の本願成就」が「当てにならない」から「お聴聞してもスルーしてしまう」。。。
・・・ってコトなんだろうなぁ・・・と思ったりもしています。。。
それでそれで。。。
「私が当てになる!」と思っている「心」って一体なんだろう?
・・・って考えたときに。。。
コレって結局のところ・・・。
「盲目的」に「XXしすぎてしまう心」
「自分自身」への「過信」
・・・なんじゃないかなぁ
・・・って、やっぱりそこに行きついてしまうんですよね。。。(´・ω・`)ショボーン
まぁ・・・結局は、
どれも「根っこ」はおなじ「過信」かなぁ・・・と。。。(´-∀-`;)ノ
それだから、
「浄土真宗」でいう「ご信心」をいただくコトに「ポイントを絞る」と。。。
「本願成就」・・・と、そう聞いていても・・・
「信心正因」だー!!
・・・って誰かが言えば「信心正因」に関連する「お聖教」を探しにいって・・・。
「念仏往生」だー!!
・・・って誰かが言えば「念仏往生」に関連する「お聖教」を探しにいって・・・。
「聞其名号 信心歓喜」だー!!
・・・って誰かが言えば「喜ぶ心」を「自分の中」に探しにいって・・・。
「仏願の生起本末を聞いて疑心あることなし」だー!!
・・・って誰かが言えば「無疑心」を「自分の中」に探しにいって・・・。
「乃至一念」の体験で「スッキリハッキリ」だー!!
・・・って「高森先生」が言えば「スッキリハッキリ体験」を「自分の中」に探しにいって・・・。
「機の深信」は「罪悪深重」だー!!
・・・って「華X会」が言えば「罪悪を責める体験」を「わざわざ起こし」にいって・・・。
「真実の自己」を「知らされないとダメ」だー!!
・・・って誰かが言えば「善をして善をして、まったくできない自分自身」を探しにいって・・・。
「お聖教」を「よく読まなきゃダメだ」ー!!
・・・って誰かが言えば「お聖教」を「理解してモノにしよう」としにいって・・・。
・・・・・・・・・・・・・・。
って、こうやって書き出してみると。。。
「私の思い」ってモンには「一貫性がなく」て
傍から見たら「ちゃんちゃらおかしい」んだけれど。。。(^▽^;)ノ
「盲目的」に「XXしすぎてしまう心」
「自分自身」への「過信」・・・が邪魔をして、
それすら「判らなくさせている」のかなぁ・・・と。。。(´・ω・`)ショボーン
それだから、
「横超」とは即ち「願成就」
「一実」「円満」之「真教」「真宗」是れなり(親鸞聖人)
「阿弥陀仏 たすけたまへの ほかはみな」
「思ふもいふも まよひ(逆さ)なりけり」(蓮如上人)
(訳)「弥陀の本願は成就」しているから「私のはからいはいらないよ」
・・・という「無条件のお救い」に、
おもっきし「私の努力」を「つけ足そう」
と「一貫性のない空回り」を繰り返しているんじゃないかなぁ・・・
・・・と、そう思ったりもしています。。。( ̄▽ ̄;)ノ
まぁ、結局のところ「自力心」ってのは、
「盲目的」に「何かにこだわりすぎて」しまって。。。
「あれをやったり」「これをやったり」。。。
でも、結局のところは「どれを選んでも」、
「自分が過信した「何か」確証のある「モノガラ」」をつかんでしまって、
いくら「仏願の生起本末」を「お聴聞」しても、
ぜ~んぜん「まるで聞いちゃいない!」のだと思いました。。。( ̄▽ ̄;)ノ
以上っす!!!! (`・ω・´)ゞ
なもあみだぶつ♬ ヾ(´▽`*;)ゝ"
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・・・ってコトで、「過信は禁物よ!」ってだけで記事を終えてしまうと
じゃぁ、そういう「アンタ」は一体どうなのよ?(`・д・´)ノ
・・・って気持ちで「読み手がモヤモヤ」するだろうなぁ~と思いますので、
ココからは、少しだけ「自身の味わい」を書いてみようかと思います。。。(^▽^;)ノ
え~~~っと。。。「れおん」自身は・・・というと。。。
もう「「仏さま」におまかせ」して「生活している」ので、
「自分」に対する「こだわり」が「さほど」ありません。。。(^▽^;)ノ
((「さほど」というのは、人並みに「煩悩」はありますので「さほど」・・・です。。。))
それに「れおん」にいたっては。。。
「救われた経緯」ってのはが、ちょっと独特(「唯識」→「空」)で・・・。
「この世の中」も「れおん自身」にも「実体がない!」って知らされて。。。
そしてズバッと斬られて。。。
明後日の方向(他力の世界)に飛ばされて。。。
「世のヒト」の「夢中のシャドウボクシング」を
「ポツン」と「眺めている状態」です。。。( ̄▽ ̄;)ノ
((そして、それを眺める「れおん」自身も「絶賛シャドウボクシング中」・・・と。。。(´・ω・`)ショボーン))
じゃぁ、結局、救われても何も変わらないんじゃないか?
・・・って言われたらそうでもない。。。( ̄▽ ̄;)ノ
( ー̀ωー́ ).。oஇ う~~~ん。。。
例えるならば。。。
「お浄土はあるか、ないか?」
・・・って聞かれて。。。
「西日」が差す中で、向こうに「人影」が見えるんだけれど。。。
「ボンヤリしていて」「姿形をハッキリ」見ることはできない。。。
けれど。。。
そこに「何かがある」「誰かがいる」コトは「確実にわかる」。。。
・・・ってそんな感じかなぁ・・・と。。。
それを「親鸞聖人」は「正信偈」にて。。。
能く一念喜愛の心を発せば 煩悩を断ぜずして涅槃を得
凡・聖・逆・謗斉しく廻入すれば 衆水の海に入りて一味になるが如し
摂取の心光は常に照護したまう 已に能く無明の闇を破すと雖も
貪愛・瞋憎の雲霧 常に真実信心の天を覆えり
譬えば日光の雲霧に覆われるけれども 雲霧の下明らかにして闇無きが如し
・・・と謳われたのかなぁ・・・と「れおん」は味わっています。。。(*^。^*)ノ
まぁ・・・なので。。。
みんな「お互いがお互いに」「過信を貫いて」「喧々諤々」としていますが。。。
正直・・・。「れおん」は「夢中の出来事」にイチイチ本気になるなんて。。。
バカバカしくて、とても出来ないんですよ。。。(´・ω・`)ショボーン
「過信」が取られた「世界」。。。
そして「過信」は別名「正義」とでも言うのかな。。。
「私の正義」が当てにならないそんな「世界」では。。。
バカバカしくて、ムキになれない。。。(´・ω・`)ショボーン
で、この状態が「分別智」の「れおん」に「無分別智」の「南無阿弥陀仏」がはたらいて
「仏凡一体」になって「弥陀の十二光」がはたらいている状態なんだなぁ。。。
・・・と味わっています。。。ヾ(*´∀`*)ノ
そんな感じで~す。。。(≧∇≦)ノ
「自己中心」の「私」から解放された「私」ってのは。。。
とっても清々しいですよ~。。。(((o(*≧▽≦*)o)))
なので・・・。みなさんも。。。
「弥陀の本願成就」を喜びましょう~♪( ̄▽ ̄)v
「私は救われている」とか「救われていない」とか・・・。
関係なしに。。。
ただただ「ありがとう♡」のお念仏~♪(*^_^*)ノ