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浄土真宗・他力信心の境地

「他力信心のお味わい」を「お聖教の引用」ではなく「私の言葉」で書き連ねています。

獲信までの道のり(番外編)

2021-05-26 19:53:05 | 【獲信までの道のり】

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◆◆ (番外編)もしも阿部信幾先生に出会っていなかったら ◆◆

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 わたくし「れおん」の「獲信までの道のり」を要約するとこんな感じです。

 

★物心ついたときに「自分の存在」に疑問を持つ

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★大学3年の時に「高森会長の飛行機の譬え」を聞いて「後生の一大事」に驚く

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★夏合宿でK先輩の「唯識論」に感動して、親鸞会に入会する

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★「浄土真宗(大無量寿経)」の教えを聞く

  ↓↓↓↓↓

★「後生の一大事」解決のため、親鸞会職員として就職する

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★2年で脱落し、その後21年間幽霊会員となる

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★嶋田講師の「あなたの白道」を読んで、親鸞会教義が間違いだと知る

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★親鸞会を脱会して本当の浄土真宗の教えを探す

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★阿部先生のお話を聞いて「本当の浄土真宗の教え」を聞く

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★コロナ禍に疑問を持ち、世の中の矛盾を調べる

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★「自分の存在」が「無我」だと知らされ「空(般若心経)」の境地が腑に落ちた

 

 …で。ここで、ふと思ったことは…。

 

「あれっ?これって、起点「唯識」→終点「空」で救われているのなら、真ん中の「浄土真宗の教え」って、なくてもよくね?」って思いませんか?(笑)

 

まぁ、「浄土真宗」とまでは言わなくても、「後生の一大事」が心に掛からなければ「阿弥陀様のお救いに遇う」ことはできないので、「仏教の基礎を教える親鸞会とのご縁」は、絶対に外せないと思うんですよ。

 

でも、そのまま何もしないで過ごしていても、2020年の「コロナ禍」はやってくるワケで。

 

別に「阿部先生のお話(本当の浄土真宗の教え)」を、ここであえて聞かなくても、「この世の中の矛盾」を「れおん」が淡々と調べていれば、どっちに転んでも「私の正体は無我だ!!」って知らされて「阿弥陀様のお救いに遇うんじゃね?」って。

 

そう思いませんか???

 

実は、これについても考察しました。結論は…。

 

やっぱりありえません!!!!

どう頑張ってもあり得ません!!

なぜか?というと、阿部先生は、常に「私の自力心が廃る」お話をされているからです。

逆に、阿弥陀様のみ心を、正しく話していない先生は、常に「私の自力心を募らせる」お話をされます。

実は、それだとダメなんです。。。

 

私が出会ったご縁で言うなら…。

「諸善のできない自分の心の観察」や

「罪悪感の観察」や

「生活態度の改善」などなどです。

 

 では「自力心を募らせる」お話を聞きながら「私の正体は何なのか?」を探したらどうなるのか?…というと…。

おそらく、「出離の縁のない私」ではなく、頑張っても頑張っても、ぜんぜん掘り下げられない「罪悪深重の私」をひたすら探し求めていたと思います。

 

 実は今回、この「獲信までの道のり」を書いたとき、私は改めて、この「機の深信」が「二重トラップ」になっていることに気が付きました。(←あくまでも「れおん」のお味わいです。)

それは何か?というと「世間虚仮」と「自身虚仮」。

「世間虚仮」は「火宅無常の世界は そらごとたはごと まことあることなき」。

「自身虚仮」は「虚仮不実のわが身にて」。

この2つが揃って、初めて私は「機の深信」が立ったのだと思いました。

よくオタク?が好きなアニメやゲームのラスボスが「ウソと欺瞞にまみれたこの世界を・・・。」みたいなセリフを吐きますが、実はコレ、「ウソが世間虚仮」で「欺瞞が自身虚仮」となっていて、結構的を射ているんですよねぇ…。(笑)(←ゲーム作成スタッフ!なかなかイイ線イってるなぁ。(←…ってか、ゲームネタ多すぎだぞ!!))

なので、もし「本当の浄土真宗の教え」を聞いていなかったら、見つかるのは「世間虚仮」のみで、「(出離の縁のない)自身虚仮」は見つからなかったと思います。

 

 結局のところ、「正しく話していない先生」の教えは「自力心」を募らせます。

自分に課題を与えて「自分の心」を見つめていくと「こんなんじゃダメだ!!」と「自分の心」を責めるのでしょうが、それと同じく「他人の心」も責めてしまいます。

「そんなことはない!私だけが悪い人間だ、と知らされる!!」という人もいるかもしれませんが、私の場合は、「親友部」という究極の「カネなし時間なし体力なし」という環境にいましたので、ちまたで見る「楽しそうにバカ騒ぎをしている人」を非常に恨めしく思っていました。

自分を追い詰めれば追い詰めるだけ「自分を責める心」・・・。どころか「他人を責め立てる心」も募らせてしまいました。

 

 なので、そういう心の状態で「コロナ禍」を迎えて「世の中の矛盾」を調べたとしても、最終的には「アイツに騙された!!コイツに騙された!!ムキーーーーッ!!」となり、「他人を責めて、他人のせいにして、ハイ終了!!」となっていたと思います。

 

 …ということで、「自力心を募らせるお話」ではなく「自力心がなくなるお話」を聞くことはとても重要です。

阿部先生は「助からない「機」」のお話ではなく、常に「必ず助ける「法」」のお話をされます。

「必ず助ける弥陀がいるから、私のはからい(自分の心を見つめること)は要らないよ。」というお話をされます。

「自分の心(機)」を問題にするお話はされません。

「阿弥陀仏の本願が成就したかどうか」を問題にします。

私はそのお話を理解できなくても、毎日よ~く聞いていた時点で、目線が内側「自分の心(機)」から外側「阿弥陀仏の御心(法)」に向かっていたのだと思います。

その時点で、既に「機」が熟柿状態に熟していて、いつ疑蓋が外れてもおかしくない状態になっていたのだと思います。

「正しくお話しする先生」のお話を聞いていたからこそ、「キッカケがあれば、いつでも他力の世界に飛び出る寸前の状態にまで出来上がっていた」のだと思います。

 

だから…。

 

みなさん…。「ご縁」っていうのは本当に大事なんですよぉぉぉ。(。≧ω≦)ノ

「阿弥陀様の御心を正しくお話しする先生のお話」を、正しく聞いてくださいね。(*^▽^*)ノ

 

なもあみだぶつ♬(^^♪


獲信までの道のり(1/5)

2021-05-20 21:15:06 | 【獲信までの道のり】

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◆◆  はじめに  ◆◆

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 ちょうど去年の9月ごろに、別のブログにも投稿しました「先月辞めた元会員」です。「先月」がだいぶ遠い過去になってしまったので改めてハンドルネームを「れおん」にさせていただきます。

(「れおん」の由来?は、私が他力に出遇うキッカケ(一念)が、「私の正体(阿頼耶識)」を阿弥陀様の光明でむき出しにされてしまったからです。「私」という人間には本当は実体がなかった、カメレオンのような存在だったから「れおん」です。(笑))

 私「れおん」は、2020年の8月末で親鸞会を脱会し、それから各地の勉強会巡りをして、最終的には浄土真宗本願寺派西福寺の阿部信幾先生のお話を聞くようになり、2021年2月初旬に阿弥陀仏のご本願を喜ぶ身とさせて頂きました。

 私は元々のキャラが「自由人」で、本当に自分の好きな事だけをやって生きてきた、お気楽ご気楽人間です。今まで真面目に何かに取り組んだことは、う~ん、あんまりなかったかなぁ。その場のノリだけで生きてきた人間だったので、まさかまさかの展開に、救われた本人が1番驚いています。「えっ?助かるのちょっと早すぎじゃね?」「なんで私なワケ!?」「阿弥陀様、助ける人違えたんちゃう?」ってな感じです。

 多分これを読まれた皆さんも【早く「信心決定」出来そうな人はこんな人!】(←真面目で人間性に優れている人!)というイメージを心の中でな~んとなく持っていると思います。私も救われる前はそう思っていました。でもそんなのはまやかしでした。阿弥陀様は、年齢、性別、人種、国籍、職業、職制、才能、などなど。そういうものは、まったく問いませんでした。【いつでも、どこでも、どんな人でも救う!】それが阿弥陀様のお救いです。

 今回私が、自身の「獲信までの道のり」と「他力信心の境地」を投稿しようと思ったのは、そもそも、私の他力との出遇いが、【途中でお聴聞が惰性になり、仏法そっちのけで「別の調べもの」に明け暮れていたのに、なぜか「仏法と全く関係ないところで出遇ってしまった!」】ということで、(←こんなノリですんまへん。)きっと「ご信心を頂こう!」と頑張ってお聴聞している皆さんが必ず思うこと。

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「常に阿弥陀様のことを思い浮かべてお念仏をしていないと、救われないのではないか?」とか

「お勤めやお聴聞をサボってしまったら、救われないのではないか?」とか

「私はお聖教のご文をまったく知らないから、救われないのではないか?」とか

「労力も時間もお金も、すべて投げ捨てて求道しなければ、救われないのではないか?」(←親鸞会的発想)」とか

「実際、他力の世界を生きるってどんな感じよ?」とか

「で、結局、私は何をすれば救われるのよ?」(←これが一番難解で厄介だったわ)とか。

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 このあたりの素朴な疑問に「経典、七高僧、祖師聖人のお言葉の引用」ではない「平成令和の現代の日本語」で書かれているものが見当たらなかったので、「絶対に、み~んなコレ知りたいだろうなぁ。」と思い、筆を執った(マウスだろ!)次第です。

 …ってか実は私…。漢文とか古文とかがめちゃくちゃ苦手です。色んな人が「経典」や「七高僧、親鸞聖人のお言葉」を引用、抜粋して説明してくれても、頭の中は「???」状態。まず言葉が分からないと、その時点で身体が拒否反応を起こして思考が停止してしまいます。でも、よくよく考えてみれば世の中の人の大半は、私のような「難しい古文なんてイヤ!」っていう人ばかりだと思うんですよ。なので、私のこの投稿文については、お読みいただいたみなさんが「こんな教学に無頓着な自由人でも、ところかまわず救われる。それが阿弥陀仏の本願なんだ!阿弥陀様ってスゴイ!!」…ということを、少しでも分かっていただけたら幸いです。まぁ早い話、「こんなのでも救われる!っていうイロモノ案件の見本市」だと思って見てみてください。(笑)

 

 さて。前置きは長くなりましたが、さっそく本題に入ります。

 

◆私「れおん」:年齢40代半ば、性別女性、配偶者子供あり。職業会社員。

 

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◆1.学生時代(2年間在籍)◆

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 私の仏法との出会いは、大学3年生の初夏でした。同じ学部にカッコイイ人がいて話しかけたところ「親鸞会会員でした!」というオチで、飛び込みの夏合宿をへて、そのまま入会致しました。(笑)

 ここでもその場のノリノリ人間パワーが発揮されていますが、でも、仏法を聞こうと思ったきっかけは「後生は一大事!」「死んだらどうなるか?」。これがなかったら、いくら誘った彼がイケメンでも入会は致しません。その当時、彼が私に話してくれた「高森会長の飛行機の譬え」はめちゃくちゃコワくて、ショックで夜も眠れませんでした。一週間くらい落ち込みました。私は生まれて物心がついた頃から、「私はいったい何処から来たのか?これから何処へ向かうのか?そして私は何者か?」と、常に心に問いかけてきたので、この譬えが、ド・ストレートに心に刺さりました。そしてその答えが知りたくて、急きょ飛び入りで夏合宿に参加致しました。

 夏合宿では、突然降って沸いてきた「新人ちゃん」の担当として、めちゃくちゃ博識なXXX大学博士課程のK先輩の個人レッスン?を受けました。そこでは「一般的な新入生勧誘合宿の内容」ではなく、なぜかK先輩が個人的に学んでいた「唯識論」をバンバン私に披露してくれて。でもその内容が、当時大学で学んでいた「化学理論」を超えた壮大なスケールで、あまりの奥深さに圧倒された私は、「これこそ、私が追い求めていた科学だ!」と感銘を受けたのです。お釈迦様がお説きくださった「仏教」、それこそが真の科学だ!…と。

 私はその「唯識論」を含む「仏教の教え」の、無限に広がる荘厳な教えに大変共感し、「これは絶対に聞いて聞きぬかなきゃ!!」と心に決めたのを今でも覚えています。で、その時に教えてもらった彼の言葉は、今振り返れば、このたび私が今生で阿弥陀様のお救いに出遇えた重要なワードとなりました。なのでK先輩にはもう感謝しかありません!!

 

(彼は机に指をさして)

「ここに机がある。これをあなたは机だと思っているが、それは本当は机ではない。これはあなたの阿頼耶識があなたの脳や眼を通して生み出した「机なるもの」である。それと同じで、あなたが見ているこの世界というものは、ここに存在しているのではなく、あなたの阿頼耶識があなたの身体を通して生み出している世界に過ぎない。だからこの机は、あなたは「あなたが生み出した机」を見て、私は「私が生み出した机」を見ている。同じようで同じでない。」と。

 

 そして私は、【後生の一大事】の解決と、心の奥底にいる【私なるものの正体】を知るために、卒業後は、親鸞会の親友部(教団職員)に身を置くことにしました。

 

 …って、これもねぇ。親友部に行くキッカケも、まぁ不純と言えば不純で、大学4年の時に高森X晴講師のご法話が地元であって、私は接待に抜擢されたんですよ。で、その時に、高森講師が私のことをとても気に入ってくれて「親友部に来ないか?」って誘われて、そのまま「ラッキー♪」ってな感じで進路を決めてしまったのがキッカケでした。(笑)(←って、本当に超重要な進路もその場のノリで決めちゃっていますね。(汗))

 

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◆2.親友部(教団職員)時代(2年間在籍)◆

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 はい、ここは真っ黒黒の黒歴史です。色々ありましたが忘れてしまったので省略します。(笑)

 とにかくアニメアニメアニメアニメ、カネカネカネカネ。(←ただひたすらにアニメ頒布と財施の活動。)しかも常に講師部の捌け口にされて執拗に叱られたものですから。もうめちゃくちゃ過酷だったー!!1年半で追い詰められて精神をやられて、2年ちょっとでサッサと実家に戻りました。そしてその後は21年間幽霊会員でした。

 で、この親友部時代にはものすご~く「間違った真宗教義・親鸞会的おかしな感覚」を植え付けられてしまいました。詳細は以下の通りです。脱会後は、まず、これらを払しょくするのに一苦労でした。

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・「仏教を聞く目的(人生の目的)」は「絶対の幸福」になること。そのためには「宿善」を厚くしなければならない。

・「宿善」を厚くするために「廃悪修善」「六度万行」を実践。特に厚くなるのは「破邪顕正」「アニメ頒布」「多額の財施」。

・「三願転入の縦の線と横の線」があり、横の線(19、20願)の道を進んでいくと、その先に決勝点の縦の線(18願)があり、そこで「絶対の幸福」になる。

・全てを投げうって求道しないと信心決定できない。

・「善知識高森会長」とのご縁を一座でも多く持たなければ救われない。

・「善知識高森会長」>「講師部員」>「上司」の言うことには無条件服従。

・聞いて聞いて善をして善をして、善ができない地獄一定の人間だと知らされて救われる。知らされないのは求道が足りないから。

・名号以外のご本尊(木像・絵像の阿弥陀如来像)は気味が悪いもので排除しなければならない。

・毎日活動(アニメ頒布・破邪顕正)をしなければこの道は進めない。

・頑張って求道した人には臨終に「観音菩薩の臨終説法」があってワンチャン救われるかも。

・「平成業成」とは言っていても周りに救われた人がいないのでおそらく今生の獲信は無理だろう。

・「平生業成」とは言っても「人生の目的」は「多生曠劫の目的」なのだからおそらく今生の獲信は無理だろう。

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 思いついたものをパパっと書き出してみましたが、上記のものは全て間違いでした。浄土真宗は「誰もが、今聞いて、今救われる教えですから!」みなさん安心してくださいね。

 ただ親鸞会では「後生の一大事の解決のためには、命がけで仏法を聞かなければならない」と教えられましたが、それは本当でした。酷い目には遭ったけれど、仏法を聞く基礎(後生の一大事)を教えて貰った親鸞会にはとても感謝しています。

 

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◆3.幽霊会員時代(21年間)◆

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 親友部時代があまりにも過酷だった分、その反動で地元では「幽霊会員リア充組」を満喫していました。とは言っても「後生の一大事」の解決はやっぱり諦められず、選んだ道が「若いうちは遊びながらも、せめて「宿善」だけは厚くしよう!」ということで、「報恩講」「降誕会」「大型財施」には参加し、あとは全てを老後に賭けて「ワンチャン観音菩薩様の臨終説で絶対の幸福に!」…と思い、ダラダラと21年間を過ごしてしまいました。

 

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◆4.親鸞会脱会(半月間)◆

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 今この文章を書いているのが2021年5月なのですが、阿弥陀様のお救いに出遇ってしまうと、その当時の高森会長に騙された辛く悔しい気持ちが、心の逆転換で、楽しくて嬉しくて懐かしいキラキラした思い出に変わってしまって、正直、まったく昔の出来事が思い出せなくなっています。困った困った。もうね!「高森会長に騙されたー!!マジ死にそう…。」だったのが「高森会長に騙されてラッキー♪♪やったね♪♪」ってな感じで、感謝カンゲキ雨嵐です。(笑)

…ということで仕方がないので、親鸞会の実態を知ってしまった直後のメールのやり取りを一部掲載しながら話を進めます。(相手方の内容の掲載はご本人の了承を取っています。)キッカケは2020年8月、コロナ禍で行われたオンライン降誕会の2日目。「高森会長の座談会」にて、会長の様子が既におかしかったことと、運営側が予告していた「ライブ」ではなく「録画」だったことから、そこはかとない不安に襲われ、何を思ったのかふとインターネットを検索して【親鸞会の実態】を知ってしまった次第です。検索して一番衝撃だったのは「嶋田講師」の書かれた【あなたの白道】でした。迫真の内容に、一気に最後まで読みました。

 

((えぇー!?これって本当なの?…し、信じられない。信じたくない。考えられない…。もしかして、私は今まで高森会長に…騙されていたの…?!))

 

 あまりの衝撃的な内容に、ご飯も喉を通らず家でグダグダと「五体投地」していました。でも、いつまでもそうしていられず、数日後、気力を振り絞って嶋田さんの奥様にメールを書きました。

 

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件名:今更ながら「私の白道」「あなたの白道」を拝見しました。

2020/08/15

 

嶋田講師とは光戦の北海道作戦の報告等、XXXXでご縁がありました。

 

今更ながら「私の白道」と「あなたの白道」を読ませていただきました。

嶋田さんが「私の白道」を書かれた2008年から12年後にこんなことを知らされるなんて。

何と言うか。何と言うか。

何故今まで気が付かなかったんだろう。お恥ずかしい限りです。

しかも嶋田さんがお浄土に旅立たれてから既に数年が経過していて。後の祭りですね。

ほんとにバカだなぁと。

余りの間の悪さに情けなくて情けなくて涙が出てきます。

 

親鸞会の内部のことはあの親友部時代の2年で嫌ってほど分かっていたのに。

その後の親鸞会の「無駄に箱モノ(会館)ばかりを建てまくる法戦」も

「親鸞聖人の御教えとさほど関係のない弁当屋」も

「親鸞聖人750回忌のよくわからない同朋の里の散策」も

「芸能人を呼んでのディナーショーのような報恩講」も。

ここ10年は普通に考えれば色々と可笑しなことは多々あったのに。。。

思考が停止していて「全て高森先生の深い御心」で済ませてきてしまいました。

 

時間と体力とお金を消耗しボロ雑巾のようになって親友部から逃れたあの日からは、

財施と降誕会・報恩講・追悼法要しかご縁のない幽霊会員でしたが、

それでも求道歴は25年、主人は30年。

財施だけはそこそこ頑張っていたので掛けた金額はざっとX千万~X千万。

交通費や宿泊代を含むともっといっていると思います。

人生の半分以上を親鸞会と共に過ごしてきた身としては、

親鸞会にかけた時間と体力とお金が余りにも大きすぎて。

ショックを通り越して苦しくて無気力状態です。(幽霊会員の私ですらそんなだから、頑張っていた会員さんはそれどころじゃないですね。)

 

こんなことを知らされて一刻も早く親鸞会と縁を切らないといけない。

…と思いながらも、自分でもよくわからない罪悪感で出ていくのが怖いし。

今までお世話になった講師の方々や会員さんのことが思い浮かんで。

辞めるって言えば悲しむ人の顔が浮かんだり。

辞めるなんて言おうものなら私自身が謗法罪で罵られ嫌がらせをされる気もして。

(実際に親友部から出ていくときはそんな感じでした。)

それに。そんな謗法罪を強調した罵声や嫌がらせを自分が受けたせいか、

担当講師や幹部会員さんが当時の私と同じ目に遭うのではないかと思うと現在は踏み出せずにいます。

 

ど、どうしよう。

とりあえず会費は半年先まで納めているのでその間に考えます。

 

主人は、嶋田さんのブログを読んでも。

それでも「組織は狂っているかもしれないけれど教えは正しい!」と思っています。

高森会長の教えをつらつらソックリそのまま言ってくるのでたちが悪いです。

「六度万行」が宿善になると身体にしみこんでいます。

そういう私も何故か常に「財施しなきゃ!」って気持ちに駆られています。

親友部在籍の際、先輩会員さんに「この世の中のものは全て仏法領です。

必要最低限のもの以外は全て財施に使いなさい!」と強く言われました。

「しのごの言わずに出しなさい!」みたいなことも言われました。

富山にいたときの会合の大半は財施の会合でした。

市場のセリのような激しい金額の争いがコワくてコワくて今でもトラウマです。

財施の金額が少額だと「こんな近くで聞かせていただいて祖師聖人・高森先生に申し訳ないと思わないのか!」と罵られ、「そんなこと言われてもないものはない!」って泣き泣き暮らしていました。

なので幽霊会員になった今でもトラウマは抜けません。

親鸞会は「仏法が大事。ご縁が大事。後生が大事。」と言いながら

財施の大小で差をつける差別主義だよなぁと思いました。

で、結局「それなら財施がたくさん出来る会員になってやる!」となり、

一般会員になったあとは資産のある今の主人と結婚して、

私自身も子育てをしながら仕事を持ち現在に至ります。

なので私の心の中は「親鸞会から文句を言われない程度の財施さえしていればなんとかなるだろう!」って気持ちが全く抜けません。

親鸞会は財施さえしていれば普段の会合に出なくても何も言われません。

お金さえ出していれば楽な求道ですよ。

って。。。この気持ちは本当にねじ曲がっています。

でもそう思いながらも、親鸞会から縁が遠のいて別の所で親鸞聖人の御教えを求めても、このねじ曲がった気持ちは抜ける気がしない。

親友部にいたときに植え付けてしまったこの気持ちは常に私の根底にあります。

死ぬまで抜けないのかなぁ。かなり重症です。

 

親鸞会でのあの日々はなんだったんでしょうねぇ。

悔しいけれど「高森会長の野望の歯車」だったのかなぁ。

高森会長はご法話の最初に「あわれあわれ存命のうちにみなみな信心決定あれかし」って言われるけれど、そんなことこれっぽっちも思ってないんですね。

会員の(後生)のことをバカにしていますよね。

…と怒る気にもなれないくらい

「高森会長から聞く親鸞聖人のみ教えが間違っていたこと」には凹んでいます。

 

とりあえず今は親鸞会でご縁を求めて良かったことだけを見つけて納得することにします。

もともと見た目は派手なネーチャンだったので、まぁ親鸞会と出会わなかったら仏法を聞くご縁はなかっただろうし。

親鸞会がご縁で主人と結婚して子供もできて普通に生活できているし。

まだ40代だし。お金も体力もある、子育てもほぼ終わって一番頑張れる年代だし。

 

…と長くなりましたが、

この先どうしてよいのか分からないので(すみません。長々書いてやっと結論です。)

「あなたの白道」を2冊頂きたく思います。

嶋田さんの魂の叫び・遺言を読みながら今後のことを考えます。

お浄土の嶋田さん、ご教導よろしくお願いいたします。

 

追伸。。。

 

私は本当に財施がメインの幽霊会員でした。

親鸞会がどのような状態なのか気が付かないくらいの幽霊会員です。

なのに当時の担当講師が私の家を訪問して、結構長い間(1,2時間くらい玄関先で)

嶋田さんの誹謗中傷を聞かされました。

めっちゃ熱が入っていましたが、

今思うと当時親友部にいてご縁があったので私から嶋田さんを遠ざけたかったのですね。

何かそういう「嶋田さんと縁があったリスト」があったのかな?(←私の勝手な想像です)

おかげで「謗法罪の嶋田さん」のイメージがついてしまい、まったくインターネット情報に触れずに過ごしてしまいました。

 

今回嶋田さんのブログに出会うキッカケになったのは、

ここ最近、遂に親鸞会がインターネット布教に力を入れる!とかでメディア財施?とネット配信の聴聞が本格的になりました。

「L大学」なるものがYouTubeで配信されています!とのことだったので、

「幽霊会員の私達でもこれなら仏法を聞けるよなぁ。」と思って繋げたら関連動画で清森講師の配信動画が出てきて

「懐かしいなぁ。なんで辞めちゃったんだろう。」と思い、さらにネット検索して嶋田さんまでたどり着きました。

 

読んで衝撃!!

 

そりゃ、あの時は罵声でしか縁を遠ざける方法はなかったよなぁ。

親鸞聖人の御教えを正しくお話していると思うから会員を続けるのであって、

「浄土真宗」でも「親鸞」聖人の御教えでもない「浄土真宗親鸞会」はただのカルト教団じゃないかい!!

今頃ですが気づけて良かったです。

本当にありがとうございました。

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 いやぁ、9ヶ月前の私はこんなことを思っていたのですね。自分で言うのもなんですが、めっちゃ鬼気迫る内容にビックリです。今じゃとてもこんな文章書けないわ~。「変わり果てたる我が心かな」をつくづく実感しています。

 …で、このメールの返信が以下の通りです。2通ありますので一部カットしてまとめています。以下の通りです。

 

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件名:ありがとうございます

2020/08/15

 

メール有難うございました。

主人とご縁のあった方がまたお一人連絡下さった事に心から嬉しく有り難く思っております。

よく気が付かれましたね。

 

私も主人も通った道なので痛い程よく分かります。

私達も会を辞める時は大変な勇気と覚悟が要りました。

でも最終的な決め手はここにいても助からないとはっきり分かったからです。

後生の解決をしたくて求めているのにそれができないのでは何の意味もないと腹をくくりました。

どんな非難攻撃があるかと構えていましたが誰も破邪顕正に来る人はありませんでした。

まだ決心が着き兼ねておられる様ですが当然です。

不安一杯でしょうね。

主人はそんな人を思って何とか気付いてくれよ、分かってくれよと亡くなる10日前にこの本を完成させました。

主人の思いが届く事を信じています。

私でお役に立てる事がありましたら連絡下さい。

 

親鸞会はもはや宗教団体ではなく企業に成り下がっていると思います。

次々と箱物を建てるのはどうしてだと思いますか?

箱物はお金を集める手段です。

実際の建設費用に上乗せして募りプラスの分は真生会病院に流れているという情報があります。

病院の経営が悪化しその補てんに使われているらしいです。

宿善の為、後生の解決の為

とんでもないです。

皆高森の欲の為に動かされているのです。

何も知らないのは善良な会員さんだけです。

高森は会員の後生など全く心配していません。

自分さえ良ければそれでいいのです。

これが高森会長の実態です。

主人は会員さんの後生を思い高森会長に毎月正しい教えを説いてほしいとたよりを出して訴え続けましたがただの一度も返事はありませんでした。

真実を知った主人に反論など出来るはずはありません。

私の思いとしては一分一秒でも早く退会して正しい教えを聞いてほしいという気持ちですが「れおん」さんが納得されて退会するのが一番いいですからよく考えて決められたらいいと思います。

今年はコロナ禍で世界じゅうが翻弄されています。

今日あって明日ない命だと教えられているようですね。

気をつけましょうね。

南無阿弥陀仏

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 そして数日後「あなたの白道」が届き、本と一緒にお手紙が入っていました。以下の通りです。

 

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前略

 阿弥陀仏に救われるにはまず自分から宿善を求め阿弥陀仏に近づいていかなければならないと教えられてきましたよね。いわゆる横の線です。

会を離れて正しい教えを聞いた時、それが全く正反対だった事に驚きとショックを受けました。

 私が近づくのではなく阿弥陀様の方が私に近づいて来て下さっていると聞いたからです。どうしてか?そもそも私には近づく力もなければ智恵もありません。その事を阿弥陀様は法蔵菩薩の時に既に私の罪業を調べ上げられ突きとめられたのです。

 微尽の善もできず罪を造ることしか知らなかった私、そんな私の為に私に代わって兆載永劫の御修行をして下さった、その功徳の全てを南無阿弥陀仏に封じ込め私に与えて救ってやろうとして下さったのです。

何という教えか、こんな教えが浄土真宗だったのか、知らなかった知らなかった。でも私にはその南無阿弥陀仏を受け取る力がないこともご存知でした。

ですから「この弥陀にまかせよ、必ず救う」と誓われたのです。「まかせよ」と言われてもまかせられない、そのまま救うと言われても信じられない。

必ずこの疑いが起こってきます。これが「疑情」です。

この疑情が晴れるまで聴聞を重ねるのです。必ず南無阿弥陀仏のお力で晴れる時が来ます。

自力が破れる時がきます。

正しい教えを聞かなければ疑いも起きてきません。

 それでは宿善とは何か?

それは阿弥陀様のお育てのことです。

過去世から今に至るまで後生も気にかけず欲に明け暮れ、六道輪廻している私に聞けよ聞けよと働きかけて下さった阿弥陀様の善です。そのお陰で今私は聞かせて頂ける身になったのです。私の力など微尽もありません。

まだまだ言いたいことは尽きません。まずこの本を読んで疑問なりありましたら遠慮なく連絡下さい。お役に立てれば嬉しいです。

 毎日猛暑が続いています。コロナもあります。どうぞ御自愛下さいませ。

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 そして、お手紙を何度も何度も読みました。でも親鸞会の教えの根幹である「三願転入」で頭の中が一杯だった私は、この内容が全く理解できませんでした。そこで書いたメールがこちらです。

 

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件名:「あなたの白道」が届きました。

2020/08/17

 

こんばんは。

この度は「あなたの白道」を送っていただきありがとうございました。

取り急ぎご連絡致しました。

 

それとご丁寧なお手紙をありがとうございます。

読んでいて涙が出てきました。

生前の嶋田講師にお会い出来なかったことが本当に悔やまれます。

 

あと私自身、親鸞会の教えにどっぷり浸かっているため、嶋田さんのお手紙の最初の3行しか理解できませんでした。何回か読み返しましたが本当の阿弥陀様のお働きが全くわかりません。

ど、どうしよう…です。

本当の宿善の意味とか、阿弥陀様のお育てとかお働きとか…。意味不明で全然わかりません。一応親鸞会でも「うわべ」だけはそう教えられましたが、実際はそうではなく、自分で宿善を厚くする様に教えられてきたため、そう言われても全く理解できません。大真面目に困ったなぁ…です。(>_<)

 

この先どうやってご縁を求めたら良いのか、どうやって善知識を求めたら良いのか、それも不安です。とりあえず親鸞会とは今月中に縁を切って、身を綺麗にして親鸞会の教えから脱却したいと思っています。

 

あと、もしよろしければ、辞めて自由になった?その際には、一度、ご信心を頂いた後の嶋田講師のことを知りたいです。福井にお邪魔してもよろしいでしょうか?

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 そして、まずは「早く親鸞会と決別しなければならない!」と思い、どうやって辞めようか考えました。私のモットーは「思い立ったら即実行!」です。なので、色々な人のお話を聞く前に、まずは、「退会して1日でも早く間違った教えから離れる」ことを最優先としました。

 そこで思いついたのは、嶋田講師の「あなたの白道」にも書かれている退会方法(ハガキに署名捺印をして本部会館住所に送る)でしたが、私自身の思いとしては、どうしても「離れられないダメ男と決別」する心の線引きが欲しかったので、そのまま近くの弁護士事務所に駆け込み、相談料5万円を支払い、弁護士さんを代理人として退会の内容証明郵便を送りました。(あとで「そこまでしなくて良かったのに。」って笑われましたが、私としては手切れ金ですので大変充実した投資でした!(笑))

 そして晴れて2020年8月末日をもって浄土真宗親鸞会を退会致しました。退会の期日までは、まだ多少の時間がありましたが、自分としては、もうやることはやったので、次は「真実の教えを知るための勉強会巡りと先生探しをしよう!」と思いました。そして、早速、嶋田さんにメールを書きました。その内容がこちらです。

 

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件名:退会しました。

2020/08/26

 

私事ですが弁護士さんを代理人に立てて

今月末で退会する旨の内容証明郵便を送りました。

退会理由に嶋田講師の「私の白道」と「あなたの白道」を読んで決意しました と書きましたので多分大丈夫かと思います。

 

きっと私も親鸞会にとっては接触禁止の危険人物になっちゃうのかなぁ。(-ω-;)

人生を懸けて親鸞会でご縁を求めている友人の顔が思い浮かび、何とも言えない気持ちになってしまいます。私の支部の支部長は、私が学生時代に勧誘した新入生だったので、な~んか「あの時誘って良かったのか悪かったのか?」複雑な気持ちです。

 

最初に私を誘った彼はまだ講師部にいますし。

親友部時代に大変なお世話になったXX講師とかX課長とか。個人的に好きだったXX講師とかXX講師とか。なんか…自分のこともそうですが皆さんの後生を願わずにはいられません。

 

こうなると…会員全員が高森会長の被害者になっちゃうのかなぁ。

せっかく後生の一大事の解決の方角まではあっていたのに。何故高森会長は世俗的な組織拡大と拝金主義に走っちゃったのかなぁ。

みんな飲まず食わずの生活を送っていたのに。

高森会長は自分の駒として扱ってきた会員さんの後生を一体どう思っていたんだろう。

私はとてもあの壇上でそんな大ウソはつけない…というかつく度胸がないので。胸が痛まなかったのかなぁと思います。

 

今思えば言っていることとやっている事が真逆のおかしな集団だったなぁと思います。

私が親友部にいた時も法律違反で普通は捕まるようなことも「真実開顕の方便だから善だ!」と言っていましたし。

 

高森会長には、せめて親鸞聖人のみ教えを、解釈入れずに正しく教えて欲しかったです。誰だって間違えはあるんだし自分を立派な先生だと良く見せようとする心はあるし。

でもせめて教えの間違いや過去の事は隠さないで、正直に言って欲しかったです。残念です。

 

さて。

私は学生時代に「人生の目的がある」と言われ、学生部の講師や先輩に言われるがまま、

「他人の意志」でここまで来ましたが、

ここからは「自分の意志」で善知識を探してご縁を求めなければなりません。

よくよく考えてみれば、後生の大変な一大事を

「他人から言われて求める」

というのもおかしな話だったと思います。

そんな大層な目的なら

何故自分で本当のみ教えを調べなかったのか?

何故高森会長だけを唯一無二の善知識だと思い込んでしまったのか?

…あとになって気づかされます。

 

…と前置きが長くなりましたが、晴れて親鸞会とも縁が切れて自由になりましたので、一度福井に伺ってもよろしいでしょうか?

9月X日、X日、X日の日でご都合の良い日はありますでしょうか?

御教導をよろしくお願い致します。

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 そして私は2ヶ月間、「本当に救われる教えを説く先生」を探すため、各地を飛び回りました。

 

((続く))


獲信までの道のり(2/5)

2021-05-20 21:04:00 | 【獲信までの道のり】

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◆5.勉強会巡りと先生探し(2か月間、計5か所を巡る)◆

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◆5-1.埼玉恵日会「RCさん」との出会い(東京築地本願寺)◆

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 ここから私は、まず「本当の浄土真宗の教えは何なのか?」を知るために、どうすれば良いのか考えました。…といっても、親鸞会以外は四方八方何もわからない状態です。もう、まったく知識なし。暗中模索。ど、ど、どうしよう。

 ということで、とりあえずインターネットを見ながら今後どうするか?について考えました。以下、私のとった行動と心の推移です。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

・((お話を聞こうと思った「嶋田講師」はもういない。けれど、状況は嶋田さん(奥さん)に聞けば分かるはず!))

⇒既に直接会いに行って聞くことが決定!

・それまでに送っていただいた「あなたの白道」の本を全部読む!

⇒分からなくてもとりあえず読む!読んで読んで読みまくる!

・((他にも目ぼしい人を見つけなきゃ!選択肢が1つってのは、やっぱりコワいよなぁ。比較できないしなぁ…。))

⇒ということで、親鸞会関係者のブログを読む。「私の白道」「あなたの白道」「さよなら親鸞会」「親鸞会を脱会した人へ」「あさ川進の、宗教と私」あたりを重点的に読む。外部から見た親鸞会の現状が知りたいので、まずは状況把握です。

・上記のブログをさかのぼって全て読みつくす。

【全てを読み終わり、思ったことは…。】

((やっぱり、仏法っていうのは対機説法だよなぁ。本当に聞きたきゃ足で聞け!家でのゴロゴロ聴聞じゃなくて、膝と膝を突き合わせて聞きぬかなきゃ絶対ダメだ!))

 ⇒ということで、勉強会に行ってみようと思い探したところ、ちょうど【あさ川進の、宗教と私】にて「【投稿文】勉強会のお知らせ」の案内があり、その勉強会に参加しようと連絡先を探しました……が、その投稿文に連絡先がありません。

・((げげっ、連絡先が書いてナイじゃん!どうしよう。…せや、とりあえず連絡先がある投稿文のアドレスに連絡すればテキトーに誘導してくれるはず!))

⇒そう思って記事を探すと3つ下の記事に「【投稿文】埼玉恵日会、再開のお知らせ」があり「RCさん」の連絡先が書かれていたので、そちらにメールを送りました。これが阿部信幾先生との出会いのキッカケとなりました。(笑)(←ノリが軽くてゴメンナサイ。)

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

 そうしたら、連絡先間違いを誘導されるのかと思いきや、「RCさん」からの怒涛の長文メール6連発!!ド長いったらありゃしない!(笑)

もう、大変長文の阿部信幾先生のご法話の文字起こしが「ドドドドドドっ!」と来てめっちゃビビりました。

((相変わらず「RCさん」の、この空気を読まない押しの強さに、最初はかなり面喰いましたが、でも、このお節介さがなかったら私は阿弥陀様に出遇うことができませんでした。当初はちょっと鬱陶しかった(笑)ですが、本当にありがとうございました。だから皆さん、「RCさん」の「うわぁ。(絶句)」っていうメールを「うわぁ。(絶句)」って思わずにちゃんと読んでくださいね。あれは阿弥陀様に救われた喜びを身体全体で表現しているんですから!))

 でも、とにかく「本当のみ教え」が知りたい私は「RCさん」からのメールを貪るように読みました。ワケ分かんない人からワケ分かんないメールが大量に来て、アホみたいに長かったですけど、繰り返し繰り返し読みました。全く理解できませんでしたが、とにかくとにかく、読んで読んで読んで読んで、身体にしみ込むまで読もうと思い、そのままコンビニに行ってネットプリントで出力して(全37ページ)バインダーに入れて持ち歩き、メールの原文は、ワードにコピペして、会社のデスクトップに貼り、(ゴメンナサイ)勤X時間中に読んでいました。(この読書?は約1~2ヶ月間行いました)

 で、このメールでの私にとって一番の衝撃内容は次の部分でした。

 

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 皆さんの中で、自分が信心を頂けたのか頂けていないのか、気にしている人はいませんか?

私も最初問題にしたのは、その事でした。

「私は浄土に生まれられると信じている」

私の思い込みは信心ではありません。

信心を頂いていなければ後生仏になれないし、信心を頂いていれば今晩臨終でも仏になれる。

信心の「中身」が問題なのです。

親鸞聖人は、「信心の中身」は『至心』とおっしゃいます。

『至心』はまことの心ですから仏さまの心です。

『至心』の体は、名号(南無阿弥陀仏)です。

だから「信心を頂く」 とは、「南無阿弥陀仏を頂く」という事になります。

では、「南無阿弥陀仏を頂く」とは?

 それよりも、まず、私達は確かめなければならない事があります。

阿弥陀仏の元のお名前は、「法蔵菩薩」と言います。

法蔵菩薩は仏になったのか?まだご修行中なのか?

法蔵菩薩がお悟りを開いて仏になっていなければ、私は仏に成れないし、

法蔵菩薩が仏になっているのなら、私は仏に成れる。

だから【私が信心を頂いたか頂いていないか】って。

問題にするのはそこではなく、

【法蔵菩薩がお悟りを開いたのか開いていないのか】。

これこそが大切な問題なのです。

結論は出ています。

「弥陀は、十劫をへたまえり。」

阿弥陀仏が私を仏にするはたらきは、もう始まっていて、

あなたは救いの中にいるのです。

((以下略))

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 頭の中が高森会長の「廃悪修善」「三願転入」「宿善を厚くする」で凝り固まっていた私は、突然の「法蔵菩薩の登場」に、思考があさっての方角へ飛ばされました。

「はぁ?どうすれば助かるか?が「法蔵菩薩の修行」ってナニソレ?どういうこと?!」

その時の衝撃はすさまじかったです。

「私の心がどうなるのか?」が問題ではなく「法蔵菩薩が悟りを開いたかどうか?」が問題だと。

そして「私たちは既に救いの中にいる。」

…………………………………。

頭の中がパニック状態でした。

「えっ?えっ?この人何言ってんのかゼンゼン分からない。(滝汗)と、とにかく話を聞かなきゃ!!」

ということで、いきなりこのメールを頂いた週末に「築地本願寺」で待ち合わせをしてお話を聞くことにしました。

で、いきなり事前学習なしで行っても段取りが悪くなるだろうと思い、現状、私が思っている疑問を思いつく限り書き出して」その上でお会い致しました。

 質問の内容は以下の通りです。ちなみに、信後にこれを見ると、方角がずれていて、恥ずかしくて穴があったら入りたいのですが、当時の正直な気持ちなので敢えて載せますね。(滝汗)

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

・そもそも本当の浄土真宗って何なの?

 →本願成就を喜んでお念仏する教えです。

・誰から話を聞いたら(聴聞したら)良いの?

 →ご信心の確かな先生から聞いてください。

・正ご本尊は親鸞会のままで良いの?

 →良いですよ。

・もう親鸞会の本は読まない方が良いの?

 →親鸞会発行の「御文章」はとても良い御文章ですよ。

・お聖教や本は何を買えばよいの?

 →下に記述しました。

・お仏花は生花じゃないとダメなの?

(親鸞会の時はダメだと言われました)

 →お礼の気持ちが大事です。

・念仏はどう称えたら良いの?なむあみだぶつ?なもあみだぶつ?なんまんだぶ?なまんだぶ?

 →称えやすいもので良いですよ。

・「聴聞」の行為自体が19願の善のすすめじゃないの?親鸞会とどこが違うの?(←親鸞会のときは聴聞も19願の善のすすめだと言われたような…。)

 →「仏願の生起本末を聞きて」の「聞」はお聴聞ですよ。

・信心の沙汰とは本当は何をするの?(←親鸞会では「仏法讃歎」と言われ、聴聞の記憶力大会でした。)

 →今していることですよ。

・「縦の線と横の線」「宿善まかせ」「三願転入」はどう間違っているの?

 →私たちがあの道を進むのではなく、既にお救いの中にいるのですよ。

・「アニメ第一部の親鸞聖人」「王舎城の悲劇の韋提希夫人」の獲信のイメージは正しいですか?(←みんなあれをイメージしています。)

 →「RCさん」の「他力との出遇い」を聞かせて頂きました。

・親鸞会では「学生部は恋愛禁止」「親友部は飲酒禁止、投資禁止、ギャンブル禁止、贅沢は禁止」で禁欲生活が求められましたが、贅沢しても信心決定できるの?

 →浄土真宗はそういう教えではありません。

・親鸞会内で語り継がれた「高森会長が出てきたときに「この先生はほんまもんやー!」と腹底から沸き上がった?」というあの話は本当ですか?演出ですか?(←当時から演出っぽい気がしていたので)

 →私(RCさん)は、あーはなりません。

・親鸞会では「破邪顕正」と言われて「他宗・他派」との間に波風を立てていましたが、誰でも救う仏様のお慈悲の教えで、何故わざわざケンカをしなきゃならないのか?

 →あれは「組織を拡大するための活動」です。

・「RCさん」のメールでは「これからは楽しくお聴聞しましょう!」と書かれていましたが、「苦しくなければ求道でない」と教えられてきたので違和感があります。本当は?

 →「何かを投げ出さないと助からない」という教えではありません。

・命がけの聴聞なのにYouTubeで見ると「ながら見」になってしまいますがそれはイイの?

 →ご縁があるときにお聴聞してください。

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 朝10時から夕方5時までの計7時間、ず~~~っとお話をしました。上記の質問の内容は、サッサと終わりました。むしろ話した内容の大半が「仏願の生起本末」についてです。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

私「どうしたら助かりますか?」

RC「仏願の生起本末」を話す。

私「どうしたらイイですか?」

RC「仏願の生起本末」を話す。

私「で、何をしたら助かりますか?」

RC「阿弥陀様はそのまままかせよ、とおっしゃいます。」

私「で、私は何をすればいいですか?」

RC「浄土真宗は、もう届いているお救いに気づいて、お救いを喜ぶご法義です。法蔵菩薩様の御

修行が完成されて、あぁ良かった。南無阿弥陀仏。これが信心決定です。」

私「…………。で、私に何かすることはありますか?」

((以下、ループ))

挙句の果てに

RC「…………。私、もう…あなたに、話すこと、ないんだけどなぁ。(息切れ)」(←って、今思えば、あのスーパーかまいたいちゃん?の「RCさん」を呆れさせる私って、結構ツワモノかも!(笑))

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ということで、ただひらすらに「どうすれば?どうすれば?」を連発した私でしたが、今思えば、「どうすれば?」は全く必要なかったなぁ、としみじみ昔を思い出しました。

それでも、何とか「RCさん」から「この先どうしたらよいか?」をゲットしましたので、そのときの要点を以下にまとめます。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

・「浄土真宗(親鸞聖人のみ教え)」は日本で一番門徒数の多い教団です。では何故広まったのか?それは「蓮如上人」が「漢文で書かれた難しい教行信証」をかみ砕いて、「私たちが分かる平仮名の御文章」をお書きくださったから日本中に広まったのです。「御文章」こそが浄土真宗です。なので「御文章」をよ~く読んでくださいね。

・「御文章」にはね、これしか書いてないんですよ。「雑行、雑修、自力の心をふり捨てて、後生たすけたまえと弥陀たのめ」。そこに「三願転入」はありましたか?「念仏して往生」はありましたか?「善をしてできないと知らされて往生」はありましたか?ないでしょう?「どうしたら助かるか?」は「ただ弥陀をたのめ(そのまま弥陀にまかせよ)」それしかないんです。

・「御文章」が「親鸞聖人のみ教えの物差し」なんですよ。

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

 ということで、この日から「御文章」の繰り読みが始まりました。また「御文章」の解説書として【稲城選恵著「わかりやすい名言名句 蓮如上人のことば」】を、また「真実信心とはどんなものか?」ということで、難しいですが【内藤知康著「安心論題を学ぶ」】も紹介されました。

 あとYouTube動画では【石田智秀先生「信は願より生ずれば」】【阿部信幾先生「蓮光寺ライブ法座」】を紹介されました。「蓮如上人のことば」は持ち歩き、「安心論題」は難しいので雰囲気だけ掴み、YouTube動画は通勤中に聞きました。

 

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◆5-2.嶋田さんとの出会い(福井県)◆

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 「RCさん」と会った次の週、「あなたの白道」を片手に福井県の嶋田さんのところにお話を聞きに行きました。内容は、ほぼ「嶋田講師との思い出」と「親友部時代の話」が中心でした。まぁ、懐かしいので昔あった出来事を色々と話しました。で、ここでは嶋田さんから以下のことを教えていただきました。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

・親鸞会時代の縦の線と横の線はもう忘れること。

・私達が阿弥陀仏に近づくのではなく、私達は既に阿弥陀仏のお救いの中にいるということ。

・善ができない私達に代わって、阿弥陀仏が兆載永劫の御修行をして下さり、その功徳を「南無阿弥陀仏」に封じ込めてはたらきかけているということ。

・ただ「どうしたら助かるか?」は華X会では「機責め」があり、人によって「合う合わない」がある。

・紹介はするけれど「機」に合わない場合があるから、ひと通り、色んな人から教えを聞いて、最後は「この人」という先生を1人選んで、その人から教えを聞くとよい。

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((そうか!色んな人にとりあえず会って話を聞いて、最後は「先生を1人選んで」聞けばイイんだな!))

 

 更に勉強会巡りと先生探しは加速します。

 

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◆5-3.華X会の方の勉強会参加(京都府)◆

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 嶋田さんのご紹介で、翌週に早速、京都市内の華X会関係者の勉強会に参加しました。教えていただいた内容は以下の通りです。

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・「仏願の生起本末」「南無阿弥陀仏の六字のおいわれ」をよく聞くこと。

・「勉強、教学、修行」を積んだ人は、その「積んだこと」によって、かえって聞きにくくなってしまう。

・助かるための過程として「自身の【無常】と【罪悪】を深く見つめる」。

・私たちにとって何よりも大切な仕事は「自己の正体」を聞かせてもらい、この世は何一つ真実なるものがない絶望の世界であることを徹底して聞かせていただくのです。(←信後に分かったことですが、「機の深信」は「自己の正体を知る」のは「罪悪生死の私」ではなく「迷いの世界から出ることができない私」でした。なので「罪悪感」を掘り下げると、逆に、阿弥陀様のお救いから遠ざかるような気がします。)

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 「高森会長の古巣」ということで、親鸞会とかなり似た雰囲気で、まぁ分かりやすかったのですが、でもそれは私が「親鸞会の教えに慣れてしまっているからかなぁ。」とも思いました。

 ただ、ここで「ある疑問」が生まれたので、嶋田さんに以下の質問をすることにしました。これは意外と重要だと思いましたのでここに掲載致します。

 

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【「れおん」からの質問】

 「勉強、教学、修行」を積んだ人は、その積んだことがかえって聞きにくくなってしまう。(この聞きにくくなってしまう…というのは南無阿弥陀仏のご名号かな?)教学は邪魔になることがある。まずは教えを正しく理解しなさい。」と聞かせて頂きました。

 親鸞会では教学に励むことは重要だと言われました。また聴聞と教学はどちらも大事だとも言われました。また聴聞と破邪顕正は車の両輪で、どちらもやらないと一ヶ所に留まってしまい求道は進まない!とも言われました。

 そこで質問です。「仏法は聴聞に極まる」と言われる通り、私達はとにかく聴聞に極まれば良いのでしょうか?やはり教学も必要でしょうか?また破邪顕正をしないと他力の信心を頂けないのでしょうか?ご教導をよろしくお願い致します。

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【嶋田さんからのお返事】

 教学は信心決定するために必要ではありません。教学は知識欲です。知らないことを知りたい、知ればもっと知りたい、これはどういう意味だろう?と知識欲がどんどん駆り立てられます。知識は増えても肝心の「私」が置き去りになってしまいます。それは獲信から遠ざかっている姿です。今日とも明日とも知れない命を抱えている私にとってそこに時間を注ぐ暇はありません。

 私とは一体何者か?ということを聴聞して仏様から教えて頂くのです。これが肝心です。生起ですね。なぜ本願が発されたのか?誰の為か?何の為か?そこが分かってきたら本末は自ずと分かってきます。阿弥陀様のみ心も知らされます。

 だからそこに教学は必要ないのです。まず「れおん」さんが信を獲ることです。その後に教学を深めればいいのです。破邪顕正も必要ありません。

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これを読んで、私は「忘れてしまった教学を覚えなおすのはヤメ」て「正しい教えを正しく知る」ことに徹しました。なので、それからのお聴聞は「【私が】お話の内容を全て覚えようと聞くのではなく、【話す先生が】何を一番伝えたいか?を聞く」ことに致しました。

 

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◆5-4.阿部信幾先生との出会い(岐阜県)◆

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 華X会関係の勉強会参加の5日後、ちょうど私の住んでいる近く?(近くない!)で「阿部信幾先生」の永代経法要があることが分かり、会社を休んで参詣しました。初めてのお寺突撃です。(笑)私は、見た目がこんなの(どんなの?)ですので、お寺の雰囲気にぜんぜん合っていなくて、めちゃくちゃハードルが高かったですが、グダグダ迷ってもいられないので受付に行きました。

そうしたら案の定…。

世話人「ネーチャン、誰の代理人?」

私「お、お話を聞きにきました。」

世話人「ふ~ん。地区はどこ?」

私「……XX県です……。」

世話人「…は、はぁ?」

私「………(ですよねー)………。」

ってな感じで、絶対あるであろうこのやり取りを突破してご法話に臨みました。後ろの方でおっちゃん達にヒソヒソ噂されながらも、気にせず真剣にお話を聞きました。

 ここで阿部先生から教えていただいたことは以下のとおりです。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

・阿弥陀仏は「そのまままかせよ」とはたらきかけて下さっている。「本願成就」を聞いたらもう「私のはからい」は要らないのです。

・阿弥陀様の命がけのみ心を命がけでお聴聞してください。

 →実はこれに私は衝撃を受けました。何で?って。

((あぁそうか!「阿弥陀様の命がけのご修行」が親鸞会では「高森先生の命がけのご布教」に、見事にすり替わっているよね~!))ってね。

・永代経法要は、名もなき妙好人さん達が「代々繋いで咲かせてくれたお念仏(信心)のお花」を感謝し喜ぶ法要です。

 →実はこれに私は衝撃を受けました。何で?って。

((あぁそうか!親鸞会に「永代経法要」がない(←追悼法要はある)のは「アッチにもコッチにも獲信者が居た」んじゃ「蓮如上人以来の善知識 高森先生」の箔が落ちちゃうもんね~!))ってね。

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

 そして、上記の「阿部先生のご法話」と【5-3】の「華X会系の先生のお話」のお話の【比較・感想】を「RCさん」に送ったところ次のようなお返事を頂き、信心の沙汰を致しました。とても重要な内容なので以下に記します。

 

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【「RCさん」から「れおん」へのメール】

「仏法は聴聞に極まる」のです。

命がけで聴聞して、信心を頂きたいと思わなければ信心は頂けない。

でも、その命がけで聞いて信心を頂こうという気持ちが、信心を頂く一番の邪魔をしている。

謎解きみたいですね…。

「私が聞いて救われる」のではなく「救いが完成していることをお聞きする」

というのが浄土真宗のお聴聞です。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

【「れおん」から「RCさん」へのメール】

RCさんのおっしゃる

「命がけで聴聞して、信心を頂きたいと思わなければ信心は頂けない。

でも、その命がけで聞いて信心を頂こうという気持ちが、信心を頂く一番の邪魔をしている。」

は、完全な2行矛盾。結局はここで堂々巡りになってしまうんです。

「じゃぁ!どうすればイイのよ?!」

「そのままのお救い」と言われても、

コッチは「聴聞をするか!」「何もしないか!」の二択しか考えられません。

どうればいいのですか?教えてください。

自身の無常観、罪悪感を掘り下げればイイのですか?

聴聞をしていない日常はどうすればイイのですか?

無常観は、ふと自分の時間ができるとき、不安な心がむくむく出てきます。

罪悪感に至っては、仏法を聞き始めた当初から何も感じません。反省する気持ちもありません。

無常観、罪悪感を取りつめれば救われますか?

何かやることを下さい。

以上、ご教導をよろしくお願いします。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

【「RCさん」から「れおん」へのメール】

高森会長は、華X会の出身です。

だから、親鸞会と華X会の教え方はよく似ています。

親鸞会も華X会も、自身の無常観、罪悪感を掘り下げよと言いますが

正しい浄土真宗のご法義にはそんな教えはありません。

「凡夫往生の手鏡」といわれる『ご文章』(三帖目一通)には

【わが身の罪のふかきことをばうちおきて、】

と書いてあります。

【自分の罪悪は、放っておけ】

とおっしゃっておられます。

凡夫の私の罪悪観など、どれほど掘り下げても、たかが知れています。

無常観と言っても、とても死ぬなどと思えない私です。

〈自身の無常観、罪悪感を掘り下げることは日常で必要ですか?〉

仏さまの教えをお聴聞させていただいて、私は果てしなく六道輪廻する者であると知らされます。(←これが本当の機の深信です)

信心決定に、自分の無常観、罪悪観を掘り下げよ、というのは、

「自力を募らせる」だけです。

「他力の信心をいただく」とは、「めいっぱい自力を募らせて」「自力では救われない」と「知らされて」「自力を捨てて」「他力をいただく」というパターンではありません。

全く違います。

「もろもろの雑行、雑修、自力の心を振り捨てて、一心に弥陀に帰命すれば」というのは、

そういう意味ではありません。

「他力の信心をいただく」とは、「既に他力がはたらいていて」「弥陀にまかせよ」と「知らされて」「自力に用事がなくなって」「他力をいただく」ということです。

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◆5-5.元親鸞会講師の方の話を聞く(地元)◆

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 福井の嶋田さんのお会いした時に色々と質問をしましたが、そのときに「【安心問答】は読んでいますか?」と聞かれました。私は「そちらは殆ど読んでいません。」と答えたところ、「ふぅ~ん。そうなの…。」という反応だったので「あぁ、それ読まなきゃけないのかぁ?」と思い、それから記事を遡って読み始めました。…といっても2009年頃からあるので、記事が大量すぎて、情報量が多すぎて、正直なところ「何をどう読めばよいのか」分かりませんでした。そこでコンタクトを取って「仏願の生起本末」が「親鸞会」と「本当の親鸞聖人のみ教え」でどこがどうちがうのか?を教えて頂きました。さらに、地元に来て頂き「親鸞会教義は何が違うのか?」を詳しく教えて頂きました。

 元講師部の方ということで、なんやかんや昔が懐かしくなって、話す内容が「あの人は今?」と「あの時どうしてた?」と「あの事件の真相は?」辺りの雑談が多くなってしまいました。(笑)((←まぁ仕方がないよね。))なので親鸞聖人のみ教えは、随時更新されるブログの記事でご縁を深めることにしました。でも、ここでも大変重要なことを教えて頂きましたので要点を以下に記します。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

・そもそも親鸞会教義の「浄土真宗の目的」がおかしい。「信心決定して後生の一大事を解決して絶対の幸福になること」ではなく「私が後生仏になる(成仏する)こと」。

・そもそも親鸞会教義の「どうしたら助かるか」がおかしい。「私が仏さまに向かう【三願転入】」ではなく「阿弥陀仏が私を救済しようとはたらきかけていること(名号南無阿弥陀仏)を聞く。

・そもそも親鸞会教義の「間違い」は「どこが違うか?」というよりも「肝心なものがない」。「名号南無阿弥陀仏」の存在は言っても、肝心の「名号南無阿弥陀仏が既に私たちにはたらきかけていること【本願力回向】」が全くない。

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

 

 また、この後も「あの時の、あの先生のお話を、もう一度、聞きなおしたい!」ということで「華X会の方の勉強会(京都府)」と「阿部信幾先生の勉強会(埼玉県)」に参加しました。

そして、直接会ってはいないけれど「元親鸞会関係者のブログ」もそのまま読み続けて、【5-2】の嶋田さんに言われた通りに、その中から「1人の先生を選ぶ」作業を行いました。

 

 

((続く))


獲信までの道のり(3/5)

2021-05-20 20:46:57 | 【獲信までの道のり】

________________________

◆5-6.まとめ/勉強会の総括と1人の先生選び◆

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

◆ひととおりまわってみて、まずは「勉強会で学んだこと」をまとめてみました。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

【目的】

「後生の一大事を解決する」ために「親鸞聖人のみ教え」を聞く

【結果】

後生仏さまになる

【そのためには】

お聴聞する

【何を聞くのか】

「仏願の生起本末」を聞く

【結果を得るまでのアプローチ方法】(ここがそれぞれ異なります)

(親鸞会)三願転入、廃悪修善・六度万行をする ←既に除外しています

(華X会)無常観と罪悪感を深く見つめる

(阿部信幾先生)法蔵菩薩の修行が完成したかどうかを気にする、私はそのまま

(元親鸞会講師)南無阿弥陀仏を南無阿弥陀仏と聞く

(ブログ)念仏を称えて阿弥陀仏の本願を疑いなく受け入れる

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

((さぁ、どうしよう…。))

 

◆まずは【「今の私」が聞いて分かりやすい順番(昇順)】に並べてみました。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

[1位](親鸞会)三願転入、廃悪修善・六度万行をする

[同率](華X会)無常観と罪悪感を深く見つめる

[3位](ブログ)念仏を称えて阿弥陀仏の本願を疑いなく受け入れる

[4位](元親鸞会講師)南無阿弥陀仏を南無阿弥陀仏と聞く

[最下位](阿部信幾先生)法蔵菩薩の修行が完成したかどうかを気にする、私はそのまま

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◆更に視点を変えて、今度は上述に【アプローチの主体は誰か?】を加えてみました。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

[1位](親鸞会)【私】三願転入、廃悪修善・六度万行をする

[同率](華X会)【私】無常観と罪悪感を深く見つめる

[3位](ブログ)【私】念仏を称えて阿弥陀仏の本願を疑いなく受け入れる

[4位](元親鸞会講師)【私?仏さま?】南無阿弥陀仏を南無阿弥陀仏と聞く

[最下位](阿部信幾先生)【仏さま】法蔵菩薩の修行が完成したかどうかを気にする、私はそのまま

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

 

◆考察の結果は。。。

今の私の心は「自力心」であり「迷いの心」。

「自力心」の私が、分かりやすく心に響く教えは、おそらく「自力の教え」。

「自力心」の私が、難解でワケが分からない教え、それこそが、おそらく「他力の教え」。

そのように推測した「自力」の私は、

「阿部信幾先生がきっと「他力」を教える先生だ!」と思い、教えを聞くようになりました。

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

◆6.他力との出遇いまで(3か月)◆

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 普通ならここから「アニメ世界の光親鸞聖人第一部」のように「これから 雨の日も風の日も 「れおん」の火の付くような求道聞法が始まったのであります」…というナレーションが入りそうな展開になるのですが、結果は、やっぱりそうはなりませんでした。(笑) ある程度、浄土真宗の本当の教えが分かってくると、私の頭の中は、すっかり「三願転入」や「廃悪修善」的な考え方もなくなって。結果、ま~た「幽霊会員」の時と同じように趣味の勉強?に没頭するようになります。

 というのも、なぜかと言えば。。。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

私「「聞即信」とお聞きしますが、どう聞いたら救われますか?」

⇒「そのままのお救いです。」

私「日常生活はどう心がけて過ごせば良いですか?」

⇒「そのままのお救いです。」

私「どのように真剣にお聴聞すればイイですか?」

⇒「そのままのお救いです。」

私「毎日おつとめをすればイイですか?」

⇒「そのままのお救いです。」

私「お念仏はいつ称えればイイですか?何回称えればイイですか?」

⇒「そのままのお救いです。」

私「いやいや、それでも何かすることってあるでしょうよ?」

⇒「そのままのお救いです。」

私「…………………………。」

⇒(黙っていても)「そのままのお救いです。」

私「フザケンナ!!」

⇒(怒っていても)「そのままのお救いです。」

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

 もう、ナニを聞いてもコレだよ!「そのまま、そのまま、って。そればっかりで、もうウンザリ!こっちはど~すりゃイイのよ?」ってな感じで困り果ててしまいました。なのでこの先は深く考えるのをアッサリと捨てて、でも「何もしない!」ってワケにはいかないので以下のことを行いました。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

・【御文章】の繰り読みをする。(毎夜)

・「埼玉恵日会」「東京恵日会」の阿部信幾先生の勉強会をzoom聴聞する。(月1回)

・「浄土真宗の法話案内」で【阿部信幾先生のお話】を探してネット聴聞する。(通勤中)

・おススメの動画を繰り返し聞く。(通勤中)

 聞いたお話は

 【石田智秀先生「信は願より生ずれば」】

 【石田智秀先生「『阿弥陀経』また会える世界」】

 【稲城選恵和上「1983年」(1)(2)】

 【稲城選恵和上「1986年」(1)(2)】

 【阿部信幾先生「蓮光寺ライブ法座」(1)(2)】

 【阿部信幾先生「築地本願寺条例布教」(1)~(8)】

・おススメの本を読む。(昼休み)

 読んだ本は

 【稲城選恵著「わかりやすい名言名句 蓮如上人のことば」】と

 【内藤知康著「安心論題を学ぶ」】と

 【稲城選恵著「念仏の土壌~他に臨終説法等~】

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

 そうしてだいぶ心に余裕ができてきたので、上記のことをやりながら、空いた時間で【仏法とは関係のない別の調べもの】に没頭するようになりました。

 

◆◆◆◆ ここからは浄土真宗のご安心とは全く関係ない方向に行きます ◆◆◆◆

 

 2020年は劇的な年でした。「コロナ禍」ということで「100年に1度の感染症大流行」の年となり、中国の武漢やイランやイタリアなど各地で「バタバタと人が倒れる動画」を目の当たりにし、さすがの「親鸞会、ザ・幽霊会員」の「れおん」も「これはヤバい!!」と真面目に後生の一大事を考えるようになりました。ところが、夏を過ぎてくると「あれ?コワいと思ったけれど、そうでもないかも!」と思うようになりました。私の身の回りに亡くなった人が全くいないからです。(今現在2021年5月時点も誰もいません。)なので「この状況を「パンデミックだ!」っていうのは、ちょっとオオゲサじゃね?」と、マスコミに疑念を抱くようになりました。さらに11月には「ワクXンが出来た!!やったー!」と世界中が大騒ぎして、アメリカダウ平均株価も大高騰しましたが、私の心の中は更に「そこはかとない不安感」でいっぱいになりました。

 というのは、私は、大学時代は「工学部化学専攻」でしたので「あまりにも期間が短く」て「投与後の経過観察を行っていないであろうワクXン」に対して「開発成功!」と発表してしまうのは、おかしいのではないか?と思ったからです。

「なんか…人が死なないパンデミックって…やっぱりおかしくね?」

「なんか…株価の上がり方も妙に不自然だし…。」

「なんか…見えない何かに誘導されているような…。」

「もし仮に、短期間でワクXンの開発が成功した、というのなら、それは、「未完成を完成と偽ったのか?もしくは(流行を知っていて)最初から出来上がっていたのか?」のどちらかだ。」

 

 そう思った私は、「一連のコトの顛末(原因)」を調べるようになりました。上記の最後の考察である「ワクXン完成は、未完成を完成と偽ったのか?最初から出来上がっていたのか?」については、「おそらく後者だろう」と目星をつけました。こうやって書くとかなりの暴論に見えますが、なぜそう思ったのか?…というと、このコロナ禍が、な~んとなく、見えない何かに誘導されているような感じで、漠然とした不安が、私をそんな気持ちにさせたのだと思います。そして、ここからは範囲を広げて「一体この世の中は、何がおかしいのか?」について考えるようになり、発想を変えて「世間の常識の逆」を考察するようになりました。

 思いつく限り、様々な常識を書き出し、そこから矛盾点を考察しました。例えば…。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

【物心ついた頃からの世界の常識】

・地球は本当に丸いのか?

 →「赤道に沿って1週」はしたことがあるけれど「北極から南極にかけて1週」はしたことはないよね?もしかしたらドーム型かもしれないじゃん!とか。

・月は本当に丸いのか?

 →満ち欠けがあるから丸いような気はするけれど、満月の月が均等に輝いているのっておかしくね?普通、球体に光を当てたら必ず暗い部分ができると思うけれど。それなら自分で発光しているの?それとも平面なの?とか。

【歴史的快挙の常識】

・人類は本当に月へいったのか?

 →アポロ11号の後は誰も行ってないよね?何で?そもそも月から地球へはどうやって帰ってきたの?地球の重力に逆らって仰々しく飛び出したワリには、やけにあっさり帰ってきているよね?とか。

・南極大陸発見!でも南極観測隊って何してんの?

→各国が仲良く基地を作って共存しているけれど。あんな広大な大陸(領土)なのに独り占め

しようとする国がないのはなぜ?とか。

【教科書で習った歴史の常識】

・日本最古の歴史書は本当に「古事記」と「日本書紀」なの?

 →書かれたのが8世紀ってちょっと遅くね?その前に書かれた書物は本当にないの?とか。

 →ってか「ヲシテ文字」(古代文字)って何よ?とか。

・縄文時代は本当に狩猟だけをしていたのか?大規模な民族移動は全くなかったのか?

 →「三内丸山遺跡」を見ると高度な文明があったような感じだけれど。それに「日本語」と「ヘブル語」(古代イスラエル)の音と意味が同じ単語がめっちゃ多すぎなんだけど。これって偶然で片づけてイイの?とか。

【あの事件の常識】

・「日航機墜落事故」は本当に機体の整備不良が原因なのか?

 →調べれば調べるほど不可解なことが多すぎだよね。とか。

・「アメリカ同時多発テロ事件」って本当に旅客機がビルに突っ込んだの?

 →調べれば調べるほど不可解なことが多すぎだよね。とか。

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

 「私、なんで急に、こんなことを調べだしたんだろうね?」って、今でもたま~に考えます。でも、これって【世間虚仮】を私に知らしめるための「阿弥陀仏の強い本願力」だったんだなぁと、つくづく思い知らされます。本当にこの時期は【世間の常識の逆】を走っていましたね。

 

 そしてこの【世間の常識の逆】の考察は「宗教史」こと「仏教」にも及びます。

【テーマ:お釈迦様は本当は何を説かれたのか?】

 ついにここにも手を出してしまいました。というのは、上記の【「日本語」と「ヘブル語」の音と意味が同じ単語がめっちゃ多すぎ】の件について、とあるYouTubeチャンネルで詳しく解説している動画があり、そのチャンネルの関連動画で、私は初めて【大乗非仏説】を知ってしまったからです。(←「今頃知ったのかよ?」っていうツッコミはやめてくださいね。(笑)親鸞会にいるとこういう常識に疎くなるんですよ。)

「えっと、お釈迦様がお生まれになったのが紀元前6世紀で…。」

「大乗経典ができたのがお亡くなりになった500年後で…。」

「ちょうどキリスト教が広まったころで…。」

「大乗経典は原始経典には存在しなくて…。」

「大乗経典の譬え話とよく似た譬え話がキリスト教の聖書と福音書にいくつかあって…。」

 

((えっ?えっ?ど、どういうこと?どういうこと?))

 

この人の説をとると、お釈迦様は小乗仏教を説かれて、没後500年が経過してキリスト教と融合して、大乗仏教が誕生した…ってことになるけれど…。まさか、まさか。そんなことは!!!!

 

 頭の中が真っ白になりました。

「えぇ~っ!つい最近、親鸞会高森会長に裏切られたばかりなのに、まさか、お釈迦様まで…。ウソ?ホント?」

「わ、私、もしかして、お、お釈迦様にも裏切られたの!?」

「浄土仏教がお釈迦様の教えじゃないなら、その後の七高僧、親鸞聖人は、一体ど~なんのよ!?」

「私は今まで、時間もお金も体力も使って、後生の一大事の解決の為に、ただただ仏教を聞いてきただけなのに。じゃぁ、私は今まで一体何を聞いてきたの?!!!」

 

 さらに絶望の淵に追いやられた私は、今度は親鸞聖人について調べるようになりました。

「し、親鸞聖人はこのこと(大乗非仏説)をご存じだったの?」

そしてインターネットで検索すると、、、親鸞聖人の愛読書に「世尊布施論」(ネストリウスキリスト教の新約聖書)や「馬太傳」(マタイの福音書)が出てきて…。

「えーっ!これって知っていて読んでいたの?知らずに読んでいたの?どっち?」

「でも、頭の良い親鸞聖人のことだから、きっとこれは知っていて読んでいたんだろうなぁ。。。」

「やっぱり…騙されたってこと?!」

「…ってかもう、何もかもがどうでも良くなってきちゃったなぁ。。。」

 

 しばらく自暴自棄の日々が続きました。こんなことは誰にも言えなくて、主人には話しましたが他の人には話しませんでした。そうして絶望に明け暮れて、たそがれながら自身の過去を色々と振り返りました。

「あんなこともあったなぁ、こんなこともあったなぁ。」

「楽しいこともあったけれど、辛く悲しい時もあった。」

「子供が生まれた時のこと、結婚したときのこと、青春時代のこと、子供のころのこと、学校でいじめられた時のこと。」

ず~っとず~っと過去をさかのぼって、あの頃の私が何を思っていたのか考えました。そしてさらに考えました。

 

「ここのところ「裏切られたとか騙されたとか」、いつもいつも思っているけれど。じゃぁ、本当に騙しているのは一体誰なのよ?!!」

 

((だって…。))

 

「お釈迦様は、おそらく、普通に生きて普通に教えを説いた。でも2500年が経過して、その途中で「何らかの意思が働いて」違う形で伝わった。だからお釈迦様は騙していない。」

「親鸞聖人は、おそらく、普通に生きて普通に教えを説いた。でも、750年が経過して、その途中で「何らかの意思が働いて」違う形で伝わった。だから親鸞聖人は騙していない。」

 

「じゃぁ【何らかの意思】っていったい誰の意思なの?」

 

((そもそも))

 

「私が知っている「歴史・史実・常識」って本当に正しいの?」 だって…。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

「私は、地球は「丸い」と教えられた。でも、知らなければ「平ら」に見える、と思ってしまった。」

「私は、月は「丸い」と教えられた。でも、知らなければ「平ら」に見える、と思ってしまった。」

「私は、アポロ11号は「月へ行った」と教えられた。でも、その後誰も行かないのは「行った、と見せるのが目的だ」と思ってしまった。」

「私は、南極大陸が存在して「観測調査隊がいる」と教えられた。でも、税金を掛けて居続けるのは「観測が目的ではない」と思ってしまった。」

「私は、日本最古の書物は「古事記」だと教えられた。でも、それより前の「書物」が認められないのは「認めたくないから」と思ってしまった。」

「私は、文明は中国大陸から朝鮮半島を渡って伝えられたと教えられた。でも「日ユ同祖論」を認めないのは「認めたくないから」と思ってしまった。」

「私は、「日航機墜落事故」は機体の整備不良と教えられた。でも、不可解な証言が多いのは「何かを隠したいから」と思ってしまった。」

「私は、「アメリカ同時多発テロ事件」はアルカイダの犯行と教えられた。でも、不可解な証言が多いのは「何かを隠したいから」と思ってしまった。」

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

 「事実」(真実)というものは、必ず1つしか存在しない。だけれども、それを「知っているか」「知らないか」で、「現実」は既に2通りが存在してしまう。それに、「事実」(真実)は「伝える人間の意図」によって、何通りもの「現実」として、どうにでも歪められてしまう。

 それならば「事実を歪めた人間」はいったい誰なのか?

「お父さん?お母さん?おじいちゃん?おばあちゃん?友達?学校の先生?テレビ?新聞?どっかの偉い社長さん?官僚?政治家?」「政治家?!」「時代の権力者!!」

 あぁ、そうか。「権力者」が「前の権力者」の功績(正義)を塗り替える→「前の権力者」が「前の前の権力者」の功績(正義)を塗り替える」→「前の前の権力者」が「前の前の前の権力者」の功績(正義)を塗り替える」→(以後ループ)。だから…。

 「歴史」ってもしかして。「事実」の積み重ねじゃなくて、為政者たちが功績(正義)を塗り替え続けた、何通りもの「歪んだ現実」の積み重ねの1つで…。その集大成が「今現在」。

「じゃぁ、私は、まんまと彼らに騙されて、壮大な虚構の世界を今まで生きてきたってこと?」

 

((いや違う!!))

 

「この壮大な「虚構の世界」を作ったのは、「私」ではない「他の誰か」なのかもしれない。でも、こんな「虚構の世界」を「真実の世界」であると、固く信じて、さらに歪めて、大真面目に生きてきた人間は、いったい誰なのか?」

「そして、「他の誰か」によって作られた「他の誰かの価値観」を、あたかも「私の価値観」であるとすり替え、騙し続けてきた、本当の犯人はいったい…?」

 

「わ、わたし自身だった!!!!」 

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

「【私】が見ているこの世界というものは、ここに存在しているのではなく、【私】の阿頼耶識が【私】の身体を通して生み出している世界に過ぎない。だからこの世の全ての出来事は、【あなた】は【あなた】が生み出した出来事を見て、【私】は【私】が生み出した出来事を見ている。同じようで同じでない。」

 

((大学時代のK先輩のあの言葉は…。))

 

「世間虚仮」

 

((そして…。))

 

今、「私が固く信じている価値観」は、私が最初から身につけていたものではなく、その前に「他の誰かが話していた価値観」で、それを聞いた私が、あたかも「私の価値観」かのように振舞っていただけ。

その前に、「私が固く信じていた価値観」は、その前の前に「他の誰かが話していた価値観」で、それを聞いた私が、あたかも「私の価値観」かのように振舞っていただけ。

そうやって「過去」をたどっていくと…。おそらく「私の価値観」なるものは、私の生まれるず~っと前から、他の何かを縁とした「他の誰かによって作られた価値観」であって、それは「私の本当の価値観」ではない…。

 「じゃぁ、この先の「未来」はどうなの…?」って、それもやっぱり同じだ。この先、「他の誰かが話した真新しい価値観」を私が聞いて、あたかも、それが「私の価値観」であるかのように、まことしやかに振舞っていくだろう。結局はその繰り返しだと…。

 

((だから…。))

 

「私の価値観」は全て、他の何かを縁とした「他の誰かに作られた価値観」であって、それは私にとって「本物ではない」。その誰かによって作られた「ニセの価値観」を「真の価値観」として生きている「私」は、「まやかしの私」であって、それは「本当の私」ではない。「私」は、今も昔もこれからも、どこまで行っても「他人」の仮面を被った「私」でしかない。すなわち、

 

「私虚仮」

 

…………………………………………あぁ、「私自身」にも「実体」がなかった!!

「過去」も「未来」も「現在」も、どこを探しても、どこにも「私」が存在しない!!

 

「自我」があると思っていた「私の正体」それは…………。「無我」だ!!!!

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 …と、その瞬間でした。

私は突如「ズバっ!!」と何者かにぶった切られ、ここではない、どこか別の世界へ「私の精神が」吹き飛ばされたのです。

 

「……………………………………っ!!!!」

 

これが「私」の「(法性法身の)阿弥陀様」(すなわち「他力」)との出遇いでした。(←この考察は、【9.他力のお味わいのズレの検証・考察】で別途記述致します。)

 

 ただこのときは、あまりの突然の出来事と人生で初めて経験した「異次元トリップもどき」の衝撃に、ただただ翻弄され「自分が他力に出遇っている」ことに全く気が付かず、ここから数週間にわたり「パニック状態」が続きます。

 

((続く))


獲信までの道のり(4/5)

2021-05-20 20:31:00 | 【獲信までの道のり】

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

◆7.他力との出遇いに気が付くまで(数週間)◆

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 この数週間、私は、本当にマジで!「頭がおかしい人間」でした。

何がおかしいか?って…。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

【「ズバっ!」と切られた瞬間で、「身体」がふわふわ浮き上がり。】

【「ズバっ!」と切られた瞬間で、「別の視点」が出来あがり。】

【「ズバっ!」と切られた瞬間で、「巷の価値」への興味喪失。】

【「ズバっ!」と切られた瞬間で、「現実世界」が「別世界」。】

【身体はあれど、心はいない。】

【「確かな眼差し」そっと寄り添い。】

【「紙幣の価値観」30円(原価)。】

【例えるならば、「いろは唄」。】

 

【色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ

有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず】

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

 当時の心境をこうやって書き出してみると、かなり「穏やかな境地」に見えますが、当の本人はただひたすらに「パニック状態」で、もう大変大変。とにかくこのおかしな現状を誰にも気付かれないように配慮するのですが、さすがに一緒に暮らしている家族には隠せません。家の中では、ただただ喚くばかり。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

私「お、お、お父さん!どうしよう、どうしよう。私、あたまおかしくなっちゃった!!」

主人「…は、はぁ?ナニ言ってんの?!」

私 「なんかね、突然、身体が浮いた感じで元に戻らないんだけど…。それに「ヘンな視点」がボコっ!と出来てね。なんか、私を見ているんだけど…。」

主人「えぇ!!?おい、突然どうした!?大丈夫か!??」

私 「なんかね、この世界はぜ~んぶ間違いだったわ!!」

私 「もうね、ぜ~んぶデタラメ!何もかもがデタラメ!!だからね。もう、この世の価値観って。この先どんなに追い求めても、まっっったく意味がない…。」

主人「………(絶句)………。」

 

「国境も、条約も、憲法も、法律も、道徳も、モラルも。政治も、経済も、教育も、社会秩序も。地位も、名誉も、お金も、学問も。ぜ~んぶ、誰かが作ったウソだった!!ぜ~んぶ私が作ったまぼろしだったよ!! お父さん…。だって…。」

 

【この世界は、壮大な「誰かの嘘」と「私の欺瞞」で出来ているから…。】

 

「「正義も不義も」「善いも悪いも」「楽しみも苦しみも」「綺麗も汚いも」「勝ちも負けも」「老いも若きも」「民主主義も君主主義も」「理想も現実も」「合法も違法も」。そして「(死後の)安心も不安も」。すべてはウソ、まぼろし。どちらを追い求めても意味がない…。だって、どっちも「私」が作り出した「夢幻の世界」だったから…。それに気がついた私は…。」

 

((身体は、ここにいるけれど、ココロは、既に、ここにはいない…。))

((う~ん、どこにいるのかなぁ?どこだろうねぇ?よくわからないけれど、ここにはいないよ。))

((だからね。私のあたまの中は、ず~っと「いろは唄」が流れている…。))

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

 今思えば、仕事に支障が出なかったのが不思議なくらいです。(笑)何をどうやり繰りして日常生活を送ってきたのかは、もう今となっては、ほとんど覚えていませんが、「フワフワした気持ちでホワっとやり過ごした?」のだと思います。そして上述の「意味不明なこと?」ばかり話していました。

 まぁ、終日こんな感じだったので一番驚いたのは主人です。毎日、主人に「お~い!早くこっちの世界に戻ってこ~い!!」と言われましたが、私は「もう、どんなことがあっても戻れないから!!」の一点張り。そんな状態が2週間ほど続きました。

 人間というものは不思議なもので、どんなに「強烈な出来事」があっても、時間が経過すると段々とやわらいできます。そして精神的にも落ち着いてきたので、ショートしていた思考回路も徐々に復活してきました。

 

((はぁ、だんだんと地に足がついてきたけれど…。))

((「ヘンな別視点」も徐々に薄らいできて「私」と一体化したけれど…。))

((相変わらず、この「壮大な虚構世界」から一人飛び出して、こうしてポツンと立ち止まっているけれど…。))

((でも、なんだかここは穏やかで楽チンな世界だなぁ。きっとこの世界は、もともとこんな風に愛に満ち溢れていたんだよなぁ。ただ、私が今まで気付かなかっただけのことでさ…。))

 

「……………(えっ!)………………????」

 

((もともと「愛」に満ち溢れてて…?))

((私が今まで「気付かなかった」だけで…?))

((本当は「穏やかで楽チンな世界」って…?))

 

「こ、こ、これって。もしかして、もしかして…!???」

 

「もともと【愛】に満ち溢れている」のは …「名号【南無阿弥陀仏】のおはたらき」で

「私が今まで【気付かなかった】」のは … 「私が【自力心だった】だけ」で

「本当は【穏やかで楽チンな世界】」なのは … 「念仏者は【無碍の一道】なり」。

 

「……………(えっ!マジっ!??)………………。」

 

「えっ?えぇ!!…ちょっと待った!!!!わたし、もう、救われてるのぉ!???」

「じゃぁ、じゃぁ。いきなりボコっと出来た「別視点」って、「仏さまの智慧」!??」

「じゃぁ、じゃぁ。「身体はココにいるけれど、心はいない」って、「有漏の穢身はかわらねど心は浄土に遊ぶなり」!??」

「じゃぁ、じゃぁ。「後生の一大事」はどうなったの?「この世界も私も、どっちもウソまぼろしだから、私の死後の安心も不安も、すべてはウソ、まぼろし。」って、そういうことなの!??」

 

「えっ?えっ?どういうこと?どういうこと?」

「と、とにかく「私の信心」が一体どうなっているのか?調べなきゃ!!!!」

 

 そして、ここから「私の信心が親鸞聖人と同じ信心なのか?」を確かめる作業が始まります。

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

◆8.私の信心と真実信心の検証・考察(とりあえず1ヶ月間)◆

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 ここから私は、「アニメ世界の光親鸞聖人第一部」のように「これから 雨の日も風の日も 「れおん」の火の付くような求道聞法が始まったのであります」…というナレーションが入りそうな、YouTube動画聴聞とお聖教解説の拝読が始まりました。もうね!スゴイスゴイ!!何がスゴイ!って「特に真剣に聞こうと思わなくても、勝手に真剣に聞けてしまうところ」ですよ。だって、私って教学ができないじゃないですか!(←知らないよ!)なのに言っている意味がだいたい分かっちゃうんですよ!!

 …で、この聴聞姿勢もね~、信前信後で真逆になります。(笑)「えっ?じゃぁ今までの命がけの聴聞は何よ?」って思いますよねぇ?もう、今思うと笑っちゃうのですが、あれはカタチだけの「なんちゃって聴聞」でした。「真剣に聞こう!」と私が作り上げた「ええかっこしい念仏者もどき」かな?今のお聴聞は「ただの娯楽」です。もう完全な娯楽状態!!だから真剣に聞けるんです。(笑)

 

 ということで、話を戻します。

 

 自分が「あれっ?阿弥陀様に救われている!」と知った時、思わず「あははははっ…。」って乾いた笑いが出ちゃいました。そして主人を捕まえてポツリポツリと話していきます。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

私「お父さん、なんか…わたし、ウッカリ阿弥陀様に救われちゃったみたいなんだけど…。」

主人「…………えぇぇぇ!!???…って、今度はナニ言い出すんだよ?!!」

私「私も驚いて、さっき「歎異抄」を読んだんだけど、あれさ~、ワリとマジで、そのまんまの境地なんだよねぇ…。」

 

◆◆◆◆◆【(その1)他力の世界の境地】◆◆◆◆◆

第一条の【しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきがゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑに】とかさ。

第七条の【信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。 罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆゑなり】…ってさ。

 

 普通に読めば、めっちゃキョーレツじゃん。なんかさ、とにかく阿弥陀仏を信じれば、人智を超えた神か悪魔のパワーを手に入れて「われは、この世の何者にも支配されない力を手に入れた!!われを妨げるものは何もない!!われに従え、われをたたえよ!!フハハハハハ!!」みたいな「ロールプレイングゲームのラスボス」みたいな境地に読めるじゃん。でもさ、これな~んてことはなくて、ただ単に「善も悪も天神・地祇も魔界・外道も、それらが通用する【夢まぼろしの世界】に自分はもう居ないから、力及ばず、まったく接点がないんだけどね~!(笑)」っていう単純な話だと思うよ。それを、こんな美文でビックリするような言い回しをするから、みんなを驚かせて魅了させちゃうんだよね。多分そんな感じ…かな…?

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

主人「……でも、オマエ死ぬのがコワいだろ~!だから、それ違う信心じゃないのか?」

私「うん、それなんだけどさ…。」

 

◆◆◆◆◆【(その2)後生の一大事】◆◆◆◆◆

第九章の【また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、 いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくお ぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩 の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養の浄土はこひしからず候 ふこと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ。なごりをしく おもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの 土へはまゐるべきなり。】…ってあるじゃん。

 

 結局のところ、この世界がいくら「私」に騙されて見せられている【夢まぼろしの世界】でも、(今、私の心が居る)こっちの世界がいくら穏やかで楽チンな【真実の世界】でも、やっぱり死ぬのはイヤだわ…。それは、どこまで行っても変わらないよ。信心決定しても、別に何か特別なパワーを手に入れたワケじゃないからさ。私、暗闇苦手だしお化け屋敷も苦手だし。死ぬときは大嫌いな真っ暗闇に突入するんだと思う。たとえ【もう既に行先が分かっていても】ね。だから、稲城和上の1983年のお話の「後生助かる心も後生助からない心もすべて置いて弥陀におまかせ」って、結局、私が気が付いた世界がこんな状況だから、「最後は肉体が滅んで、私が完全に真実と一体になる(おさとりを開く)」から「私のはからいは、ここに置いていけ!」って、きっとそういうことなんだと思う…。多分…。そんな感じ…かな…?

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主人「……で、でも、オマエ罪悪感がないから、それ二種深信じゃねーだろ!だから違う信心じゃないのか?」

私「うん、私、やっぱり、今もそこまで罪悪感を抱いていないんだけどさ…。」

 

◆◆◆◆◆【(その3)機の深信】◆◆◆◆◆

 親鸞会にいた時ってさ、「アニメ世界の光親鸞聖人第一部」のクライマックスの「獲信の場面」を何回も見せられたから、あれが「獲信のイメージ映像」として頭にこびり付いてるじゃん。それに「降誕会や報恩講の弁論大会」でも、そんな感じのことをちょくちょく言ってたじゃん。だからあそこにいた人は、ほぼ全員が「あれこそが阿弥陀仏に救われる正しい獲信への道のりだ」っつー体験イメージが出来上がっていて、で、実際にその通りに進もうとお聴聞をしてると思うんよ。親鸞会作成の「アニメ世界の光親鸞聖人第一部の「獲信の場面」のセリフ」でも…。(←今はカットされているらしいです。(笑))

 

法然上人「そなたの胸の内を話してみなされ」

親鸞聖人「阿弥陀仏の一声で晴れて満足できると仰せですが、聞いても聞いてもその一声が聞けません」

親鸞聖人「仏法を聞いているときも、思ってはならないことが思われ、考えてはならぬことが浮かびます 雲のごとく疑いがわき上がってまいります」

法然上人「親鸞よ、形の上で捨てたつもりじゃだめじゃ 無始より迷わせ続けた自力我慢の親玉はそんな生ぬるい聞き方では聞かないぞ!」

親鸞聖人「10年前も、上人さまにお会いした時も今も、心は煩悩と疑いで一杯、少しの変化もありません」

法然上人「親鸞よ!そのまま恐ろしい罪を抱えて地獄へ真っ逆さまだ まだ分からんのか!」(←ココかなりキレ気味!)

親鸞聖人「長年の学問修行も何の役にも立ちません 今はもう聞く心もございません ただ煩悩と疑い一杯で阿弥陀仏の御声が聞けません」

法然上人「うぬぼれるな!そなたの心は阿弥陀仏の御声が聞ける殊勝な心か」

親鸞聖人「親鸞の心はただ暗い……それだけでございます 暗さも分からぬ真っ暗がりでございます お助けください!上人さまー!」(←ヤバっ、書き写しててだんだんバカバカしくなってきたよ。コレどこの秘事法門だよ!(汗))

法然上人「親鸞よ!そなたにはまことを聞く耳はないのだ それがそなたのまことの姿なのじゃ 一切の自力の心を捨てよ!すべてのはからいよ捨てよ!捨てようとする心も捨てよ!」

((ここでどど~んと一面に字幕が登場!))

【いずれの行も及び難き親鸞 地獄は一定すみかぞかし】

((…で、阿弥陀仏とご対面!))

【弥陀五劫思惟の願は ひとえに親鸞一人がためなり】

((…で、泣いて喜びお念仏!))…ってな感じでさ…。

 

 これ完全に「機の深信」で「煩悩(罪悪)」を相手にしているじゃん。なんか「聴聞」が「禅修行」みたいになっていて「心が乱れて真剣に聞けません!」っていう「煩悩(罪悪)」に悩んで「悪しかできない地獄行きの自分だ」と知らされて「阿弥陀仏に救われる」っていう感じ。でもさ、これおかしんだよね。「機法二種一具の深信」の「機」と「法」ってのは必ず「対」になるモノじゃないの?もし「煩悩(罪悪)」が「機」だとしたら、「法」は「「阿弥陀仏の本願」によって「煩悩(罪悪)」がどうなった!」にならないと「対」にならないじゃん。でも実際に「煩悩(罪悪)」は何の変化もないし、なくなってないじゃん!死ぬまでなくならないし!その時点でおかしくね?それにさ、「機の深信」って原文を見てみると、

 

【観経疏「散善義」】「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず」

【往生礼讃「前序」】「自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し」…ってこれ見るとさ。

 

 【観経疏「散善義」】に「罪悪生死の凡夫」ってあるけれど、【往生礼讃「前序」】の両方を見比べると、結論は「迷いの世界から出られない自分」ってことになるんじゃないの?で、「罪悪生死の凡夫」は、「迷いの世界から出られない自分」の「補足説明」って感じにみえるけど。違うかな?

 それにさ、高森会長はよくご法話で「二種深信」は「絶対に助からない自分」と「絶対に助かる自分」が同時に知らされる「絶対矛盾」って言ってたじゃん。まぁ、たしかに「絶対に助からない者が絶対に助かる」から「絶対矛盾」なんだけど。でもさ、実際に私は「迷いの世界から出られない自分だ!」って知らされて、その後にズバッと「迷いの世界から出させて頂いている」から。これって「機」と「法」がちゃんと「対」になっていて、私の感覚的には「まったく矛盾がない」んだよねぇ。なんか面白いよねぇ…って。そんな感じ…かな…?

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主人「……で、でも、オマエちょっと前から「この世のどこに地獄があるの?地獄が見つからない!!」って散々喚いていただろ!だからそれ違う信心じゃないのか?」

私「……たしかに言ってたね。(笑) 。だからワリと真面目に考えてみたんだけど、たぶん…。」

 

◆◆◆◆◆【(その4)地獄と極楽】◆◆◆◆◆

 私さ、子供の頃、近くのお寺によく遊びに行っててさ、そこに「子供用の絵本と昔話」がいっぱいあったんよ。それで勝手にお堂に上がり込んで、居座って読んでいても全然怒られなくて。で、お寺だったから「地獄」とか「極楽」とかそんな感じの本が多くてさ。それをいつも読んでいたから、その頃読んだ本の「地獄」と「極楽」のイメージが付いちゃって。「善いことをしたら極楽」で「悪いことをしたら地獄」っていうのを、「視覚的」に「物理的」に捉えていたんよ。だから死んだら、私の魂が「どこか遠くにある「地獄」か「極楽」かのどちらかに連れていかれる!」っていう「おとぎ話風」に捉えていてさ。

 でも、そうじゃなかった。私は「出離の縁がまったくない!」って知らされた後、ズバっと切られて「あれっ?」って思ったんだ。「えっ?何この状況?これって全員助かるじゃん?どういうこと?」ってね。だからお父さんにも「地獄ってどこにあるの?」って、ずっとうわ言を言ってたんだ。でも、だんだん分かってきて…、たぶんこういう事だと思う…。

 「地獄」も「極楽」も、どこか遠い所にあるんじゃなくて、おそらく「ココ↓」にある!!私は、この状況に気づいて、周りを見渡して「全員が助かる!」って思った。だって私たちは最初から、この「愛に満ち溢れた世界(阿弥陀仏のお慈悲)の中にいた」んだから。私は、ただそれに気が付いただけ。そして、気が付いて飛び出した世界は「阿弥陀仏の「法」の世界」だった。ただそれだけのこと。だから私は、既に「心を弘誓の仏地に樹て」て、こうして今見える状況を話しているだけだから。それで「全員が助かる!」ってハッキリと断言したんだ。だからさ、私たちが「後生助かるか助からないか?」は「この状況に気づくか気づかないか?」ただそれだけのこと。それに気が付けば、真実真如(阿弥陀仏の本願)にうちまかせて「お浄土行き」。でも、それに気が付かなければ(自力心なら)、自分で自分の造り出した業に苦しんで「地獄行き」、ただそれだけのこと。もう分かっちゃえば、めちゃくちゃカンタンなことだったよ!…って、まぁそんな感じかな…。

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主人「……で、でも、オマエ、一念の体験からだいぶ時間が経ってるだろ!信心歓喜がないじゃねーか!だからそれ違う信心じゃないのか?」

私「……はぁ。(ため息)……。私も、それ思ったんだ…。ど、どうしよう。今頃、信心歓喜が来たんだけど…。私、アホだから、パニくっててぜんぜん気が付かんかった~。(涙)もう一度、自力心に戻ってやり直したいんだけど…。ダメかなぁ…?」

主人「はぁ?贅沢言ってんじゃねーよ!!(怒)」

 

◆◆◆◆◆【(その5)獲信にすぐ気が付かないとダメなのか?】◆◆◆◆◆

 ってかさ、逆に「【他力】にすぐ気が付く!」って、そっちの方がおかしくね?そりゃぁ「機」が違うし感じ方は人それぞれだから、すぐに気が付いて「南無阿弥陀仏のお念仏」っていう人もいるでしょうよ。でもさ~、「自力」と「他力」って「視線の向き」が真逆を向くからね!!突然、視界が逆回転して、別世界にダイブだよ!そんなの分かるかっつーの!急転直下で何が起きたかと思うじゃん。それに私の場合は、突然「ヘンな別視点」もボコっ!と出来たしね。もうマジで「精神分裂症」かと思ったよ…。ってか、アンタは完全にそっちを疑ってたよね?「あぁ、ウチの嫁、ついにあたまおかしくなったよ…。」ってね。(笑)

 だから、あくまで個人的な感想なんだけど、「阿弥陀仏の本願を深く信じてお念仏が湧き出しました。」とか「疑いなくお念仏しています。」っていう体験談は、ちょっと???ってな感じで懐疑的に見ちゃうんだよねぇ…。「それホントかなぁ?」って。それと「聞というは仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」をそのまま額面通りに受け取って「弥陀の本願を信じて疑いがないが信心だ」っていう人とか。ってか、本当に他力の人なら「信」とか「疑」っていう字は「阿弥陀仏の本願」に対して「使う気もない!」というか「使いたくもない!」って心境になると思うんだけどなぁ…。違うかなぁ???どうなんだろうねぇ???

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主人「…なんかさー。色々分かったけど、こんなヤツが急に「妙好人」みたいなこと言いだすとさー。「オレの中の妙好人像」がダダ下がりでさ…。どうしてくれんのよ?」

私「…うっさいなぁ。(笑)でも、話は変わるけど、こうして【真実信心】について考察してみると、アニメ世界の光親鸞聖人第一部の「獲信の場面」の法然上人のセリフって、実はめちゃくちゃおかしいんだよねぇ…。」

 

◆◆◆◆【(おまけ)アニメ世界の光親鸞聖人第一部「獲信の場面」へのツッコミ】◆◆◆◆

 この場面の「法然上人」は「他力本願を説く真実信心の人」っていう設定だよね。「後生助かりたくて、苦しくてすがってくる親鸞聖人に、救われる法を説く」そんな場面だよね。私さ~、他力の世界に出てみて思ったんだよね。「絶対にこうはならない!」って!!だってさ…。

 

法然上人「親鸞よ!そのまま恐ろしい罪を抱えて地獄へ真っ逆さまだ まだ分からんのか!」

とか…。

法然上人「うぬぼれるな!そなたの心は阿弥陀仏の御声が聞ける殊勝な心か」

とか…。

法然上人「親鸞よ!そなたにはまことを聞く耳はないのだ それがそなたのまことの姿なのじゃ」

とか…。

 

 この場面の「法然上人」って、要約すると「そなた(十方衆生)は絶対に助からない!」ってバッサリ切り捨ててるじゃん。でもさ、本当は「(阿弥陀仏の本願によって)十方衆生はもれなく全員が助かる!」んだよね。私は他力の世界に出て、ハッキリと「全員が助かる!」って思ったよ。そこで考えたんだ。十方衆生は「絶対に助からないのか?」それとも「絶対に助かるのか?」なぜ、この大事な「獲信の場面」の「最大の見せ場」で、「絶対に助かる!」ではなく「絶対に助からない!」を選んで連発したのか?

 それは「二種深信」でさ、「機」の側から見たら、私たちは迷っていて出離できないから「絶対に助からない」んだよ。でも、「法」の側から見たら、全員が仏さま候補で、この状況に気が付きさえすれば「絶対に助かる」んだよ。だから他力の世界に出た人は、もう既に「法」の側に立って「法」の側の視点でこの世の中を見ているから、十方衆生に阿弥陀仏のみ心をお伝えするのに「そなたは絶対に助からない!」って、そんなことはとても言えないんだ。もう「全員が助かる!」って分かっちゃっているからね。それに、この場面の親鸞聖人は「後生助かりたくて助かりたくて、必死にすがってきている」んだよ。そんな人に、面と向かって「そなたは絶対に助からない!」って、そんな「瀕死の人にトドメを刺す」ようなことってやると思う?私はできないけどね。そもそも「他力」になると「仏智満入」で仏さまの智慧を授かるからさ、こういう「人を崖から突き落とす行為」って、まずできないんだよ。だからこのシナリオを考えた人は、実はまだ「機」の側にいる人なんだよね。

 ってことでさ、このアニメを作った人は「二種深信」を、字ヅラだけ眺めて想像しているだけにすぎないんだよ。これこそが「自力心が想像する他力信心の限界点」なんだ。「機」と「法」をごちゃ混ぜに考えていて、こういう肝心な場面で「機」(自力心)が前面に出ちゃったってワケ。残念だけどそんな感じかな…。

 あ、でも、後生の一大事をまったく気にしないで遊んでいる「闡提の人」には「アンタは絶対に助からない!(から仏法を聞きなさい!)」ってコワ~い顔して言うけどね。(笑)

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 …ということで、まだまだ色々あるのですが、長くなるので次の機会に致します。まぁこんな感じの信心検証が毎夜続きました。(ってか今でも継続中です♡)しかもそれだけでは飽き足らず、仕事中も、最低1つはテーマを決めて「真実信心」についてあれこれ考察しています。(笑)(←おい、真面目に仕事しろー!)それにしても、他力信心の境地(信後のお味わい)ってのは、語っても語っても語りつくせないものですねぇ。四六時中、私の「信心歓喜」に付き合わされるウチの主人は、きっと「たまったもんじゃないだろうなぁ。」と思います。(笑)でも主人なので気兼ねなく話し続けます。(笑)ウザくてゴメンナサイね~。でも話し続けますよ~!「阿弥陀様に救われた」ここから先は死ぬまで「南無阿弥陀仏」が身体の中を無限増殖しますので死ぬまで話し続けます。(主人に向かって)覚悟しておいてくださいね。(笑)

 

((続く))