歴史だより

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<「嶋尾先生の英語論文を読んで」その6>

2011-01-03 10:28:06 | 日記
<「嶋尾先生の英語論文を読んで」その6>

ベトナムの父系出自組織であるゾンホを理解する際に、日本の「家」との比較は有効である。日本の「家」について、社会学的アプローチにより理論化した学者として、川島武宜氏がいる。その日本の「家」は、父系の血統(男子をとおして連続する血縁)集団である。ただ、その血統は生理的血統のみでなく、擬制的血統すなわち養子制度によっても存在する。「家」の同一性は、姓(氏、家名)および祖先祭祀の同一性によって象徴される。「家」の構成員は、その同一性を保持して存続してゆくものであるという信念を持っている。
また「家」は次のような意識、すなわち信念体系・価値体系によって支えられている。
①血統連続に対する強い尊重――特に旧武士層においては、父系血統に対する強い尊重、女性の蔑視――、および祖先と子孫一体であるという信念
②多産の尊重、子を生まない妻の蔑視
③祖先の尊重
④伝統の尊重
⑤個人に対する「家」の優位
⑥家の外部においても個人をその属する家(特に「家格」)によって位置づけること(「毛なみ」の尊重)
こうした「家」の定義と関連して家父長制が問題となる。家父長制とは、家長が家族構成員に対して支配命令し、川島氏によれば、後者が前者に服従する社会関係である。
その家父長制の具体的内容として、
①家族構成員に対してその行動を決定し、それに服従させる家長の権力
②この権力を保障するための道具としての幼少時からのしつけ、および家族内の「身分」の差別と序列、家長による財産の独占と単独相続制、家長の「顔」(権威)を支える諸々の行動様式
を挙げている。一般的には、これらの諸要素は旧武士層・地主層ではその程度が強く、一般庶民にあっては弱いとする(川島、2000年、155頁~157頁)。
近代における儒教の受容という問題を考える際に、また川島氏は、明治時代と儒教について、次のように述べている点は示唆的である。すなわち、明治維新により、幕藩体制を支えてきたイデオロギーとしての儒教も存在根拠を一旦失う。しかし明治政府は1879年に至り、「文明開化政策」・欧化政策を捨て、武士的儒教的道徳を再編成することを決めた。この政策転換は、侍講元田永孚の『教学大旨』(1879年)に負うていた。そこには儒教が統一中央集権政府を支えるべきイデオロギーとして採用され、「孝」の道徳がその一部分とされた。その後、明治20年代に儒教的「孝」の思想一般が国民教育の基礎とされた(川島、2000年、91頁~93頁)。
日本の明治時代のイデオロギーとしての「孝」には子をつくること、つまり子孫を残すことを義務に含んでいる。
川島武宜氏は、この点について次のように述べている。「「家」の中での親子の間の道徳たる「孝」は、親につかえるだけでなく、親の先祖につかえる(祖先祭祀)義務を含み、したがって、祖先祭祀をうけつぐべき子をつくる義務をも当然にその内容として含んでいるのである。子をつくるということが儒教でいかに重要視されたかは舜の結婚についての有名な話からも了解される。」と述べ、『孟子』万章章(例えば、岩波文庫、1994年版、121頁~127頁)を引用している(川島、2000年、105頁~106頁)。結婚は、子を作り祖先の祭りを絶やさぬようにするという「孝」のための手段である。結婚は子たる者の義務とされる(川島、2000年、108頁)。
今回の嶋尾氏が検討した家譜編纂や祠堂建設という活動も儒教のこの「孝」イデオロギーの延長線上に位置づけられよう。つまり、「孝」イデオロギーには、子をつくり親につかえることを基本とするが、ひいては祖先祭祀により親の先祖につかえることまでも含んでいるのである。
ところで、中国やベトナムといった東アジアの儒教社会にキリスト教が入ってきた際に、どのような問題が発生したのであろうか。その際に、祖先崇拝を骨子とする儒教と、それを原則として認めないキリスト教との関係が問題となる。とりわけ、祖先崇拝の問題である。この問題についても、キリスト教の宗派によって対応が異なっていた。例えば、ポルトガルの保護を受けていたイエズス会の宣教師は適応性があった。だから中国の官僚の信者が天壇に至って天(天帝、上帝)を祭る行事に参加したり、孔子を祭ったり、また一般信者が家において祠堂で祖先を祭ったりすることを認めていた。
しかし一神教のキリスト教の立場から言えば、信者は唯一の神のみを仰ぎ信ずべきであり、祖先崇拝は異教徒のすることとして、認められなかった。例えば、スペインが支援したドミニコ会やフランシスコ会の宣教師は、イエズス会と違って、信者の祖先崇拝を禁じた。そしてイエズス会が中国で成功したのは、祖先崇拝を禁じなかったことになると見て、イエズス会を攻撃し、典礼問題(Rites Controversy)の問題が発生する。
この典礼問題の中心は、祖先崇拝や孔子・天帝(上帝)崇拝を宗教的儀礼と見るか否か、そしてカトリックの教義とこれの中国の儀礼との妥協をどの程度認めるのかということであった。この問題に関して、ローマ法王は、一神教を崇めるキリスト教の立場から、中国における儀礼(典礼)を否認することを決定した。これに対して、中国側も祖先崇拝を排斥するキリスト教に反対したのである(『桑原隲蔵全集』第3巻「支那の孝道」1968年、65頁以下)
「孝」に関する桑原隲蔵氏の古典的名著『中国の孝道』は、中国人にとって「孝」が重要な道徳的規範であったことを実証的に解明しているが、キリスト教との関係で次のように述べている点も見逃せない。すなわち、キリスト教側の祖先崇拝の儀式に対する態度に関しては、1704年のローマ教皇クレメント11世の教令(Décret)や、ベネディクト14世の勅書(Bull)によって一定した。ただ桑原氏はキリスト教徒の態度は必ずしも一定しなかった事例にも言及している。すなわち、1890年には、上海で耶蘇教宣教師総会が開かれたが、マルチン(Martin=丁韙良)は、中国人の祖先崇拝の儀式に寛容な態度をとり、中国の国情と調和を図るべきであるという見解をもっていた。このように祖先崇拝を排斥することは、布教上の暗礁になると公言する宣教師もいたことも紹介している。しかしこの意見は採用されずに、総会は祖先崇拝の核心は、偶像崇拝(Idolatry)にあるために排斥せざるをえないと決議した(桑原全集、1988年版、65頁~67頁、90頁~93頁備考23、学術文庫、1989年版、132頁~136頁)。

ここには多神教的なアジアの神(かみ)と、キリスト教の唯一神としての神(ゴッド)との神観念の問題とともに、祖先崇拝や祖霊信仰をどのように取り入れて布教活動を行なうのかという問題がある。中国や日本の儒教や仏教は、これら祖先崇拝と祖霊信仰を取り入れることによって信者を拡大していった(加地、1990年、215頁~217頁)。
ところで、西洋史における祖先崇拝の問題はどうなっていたのかについても付記しておく。祖先崇拝は東北アジア人固有のものではなく、ヨーロッパにおいてもキリスト教が布教に成功するまでは、祖先崇拝が行なわれていた。フュステル・ド・クーランジュの名著『古代都市』(田辺貞之助訳、白水社、1944年初版、1961年)には、古代ギリシア・ローマでは、死者には他界(地下)があり、祖先崇拝の「家族宗教」が生きていたことを述べている。しかしキリスト教がこの祖先崇拝の「家族宗教」をヨーロッパから駆逐してしまったという(加地、1990年、148頁~150頁)。

またルース・ベネディクトも、名著『菊と刀』において、この孝行について考察している。すなわち孝行は日本や中国と共有している崇高な道徳律であった。ただその孝行の性格は、中国と日本とでは宗族ないし家族構造に適合しているために、その内容は相違が見られた点を指摘していた。
中国の宗族は財産と土地と寺院とを所有し、有望な子弟の奨学基金をもっている。そしてほぼ10年毎に系譜を発行し、宗族の恩典にあずかる者の名前を明らかにした。人は自分の属する宗族に対して忠誠を捧げなければならず、祖先伝来の家憲に従って、秩序が維持された。こような半自律的な宗族の共同社会が国家から任命された長官をトップとする官僚機構によって統治されたのは、時代的にみて時たまのことであったとみる。
一方、日本では事情が異なっていた。姓は中国の宗族制度の根本であったが、日本では19世紀の半頃まで、苗字を名のるのを許されたのは貴族や武士(サムライ)の家柄に限定され、系図をつけたのは上層階級だけであった。そしてその系図は、現在生きている人間から逆に時代を遡って記録するものであり、昔から順に時代を下って始祖から別れて出た同時代の人びとを洩れなく網羅するものではなかった。
そして忠誠を捧げるべき相手も異なっていた。中国の場合、親類縁者の一大集団である宗族であったが、日本の場合は封建領主であった。封建領主はその土地に存在する主権者であったから、中国の地方官のように一時的にその任地に赴く外来者とは雲泥の差があった。
苗字や系図をもたない日本の「庶民」でも、遠い先祖や氏族の神がみを神社や聖所で崇拝した。しかし神社には村民が全部集まった。それは祭神の領域内に住んで、神社の祭神の「子供」[氏子]であるからであって、先祖が共通であるという理由からではない(つまり血縁原理からではなく、地縁原理からである)。日本の祖先崇拝は神社ではなく、家族の居間に設けられた仏壇で行なわれ、そこに安置してある位牌に対して礼拝がなされる。墓地においてさえ、曽祖父母の墓標になると、文字の書き替えも行なわれず、3代前の先祖でさえ、誰の墓かということは忘れらていく。
「したがって、日本の「孝行」は、限られた、直接顔を合わせる家族間の問題である。それはせいぜい自分の父親と父親の父親、それに父や祖父の兄弟とその直系卑属ぐらいを包含するに留まる集団の中で、世代や性別や年齢に応じて自分にふさわしい位置を占めることを意味する」と、ベネディクトは日本の「孝行」を理解した(ベネディクト、1995年版、60頁~63頁)。

また日本人の孝行の解釈と祖先崇拝の特徴について、ベネディクトは次のような意味のことを述べている。「子を持って知る親の恩」という諺があるが、ここでの親の恩とは父母からしてもらう、日ごとの愛護と骨折りのことを指し、日本人は孝行を現実主義的に解釈している。そして日本人は祖先崇拝の対象を、今なお記憶に残る最近の先祖だけに限っており、このことが日本人をして幼年時代に現実に何かにつけこれらの人びとの世話になったことを、一層痛切に感じさせるという日本人はなまなまと記憶されている者以外の祖先に対する孝行を重視しない。日本人はもっぱら今ここにあるものに集中する。日本人の孝行観の実際の重要性は、孝の義務を現に生きている人びとの間に限っている点にある。そして日本人の孝行が及ぶ対象範囲も中国よりも狭く、限定されることを指摘している。すなわち日本では伯父伯母や甥姪といった比較的近い親類に対する義務ですら孝行と同列に扱わない。一方、中国では、このような親類より遠い親類も、共同の資源から分け前を受ける。そして中国の場合、孝行は何世紀もの間の歴代の祖先や、その祖先の後裔である宗族を包括する。ここに日本と中国との家族関係についての大きな相違があるという(ベネディクト、1995年版、118頁、143頁、159頁)。
以上がベネディクトの孝行に対する見解である。ベネディクトの著作の限界と評価については、巻末に付された川島武宜氏の「評価と批判」が参考になる。行動とその背後にある基本的な考え方の両方を分析し、罪の文化と恥の文化、義務と人情の対比といった二分法的思考を分析の武器として、どこまで日本人の価値観の体系を探り当てられるのかという問いも含めて、再検討の余地が多分にあることも確かである。
また著者がまだ1度も日本に来たことがなく、その書の目的は元来、日本を征服し、占領統治するという戦争目的のために書かれたものであった。事実の誤解や疑問となる議論が見られるのも確かである。
このような限界があるにしても、ベネディクトは文化人類学者として、日本人の行動や日本の個々の事象から体系的関係と総合的な型(パターン)を探ろうとした。そしてこの著作により、「生活の営み方に関する日本人の仮定を検討」し、「日本をして日本人の国たらしめているところのもの」(本文、1995年版、19頁)を探求した点は評価されるべきであろう。日本の社会構造は異質的要素によって構成されたhierarchyとして捉え、日本人の行動や考え方の多くがこの封建的なhierarchyという構造的モメントによって規定される点を明示した。
川島氏の言葉を借りるならば、本書では「日本人の行動および考え方の構造的な把握」がなされている(同上、374頁)。日本人の精神生活と文化についての全体像を描き出し、その諸特徴を導き出した。本書が古典的名著とされる所以もここにあろう。

ところで、ベトナムのこの「孝行」に関する研究は殆んど知られていない。嶋尾氏は冒頭で紹介した論稿「ベトナムの家礼と民間文化」において、若干触れている。刑部尚書兼東閣大学士胡士揚(1622―1681)が17世紀後半に著した『胡尚書家礼』の序文には、父母が生きているうちは、喪礼を見るべきではないと考えられているが、実際に死に臨んで家礼を慌てて読んでも間に合わず、不孝者として笑われるだけで、父母の恩に報いるために礼書を読む必要があると説いたという(嶋尾、2010年、105頁)。
ベトナムにおいて「孝行」が具体的にどのようなものとして観念され、祖先崇拝、家譜編纂や祠堂建設とどのように関わっていたのかを検討する必要があろう。これは先に見てきた文化論との関わりにおいても重要な論点となろう。

嶋尾氏は、冒頭で紹介した近著に所収された論稿「ベトナムの家礼と民間文化」において、科挙官僚を輩出した県とキリスト教の関係について触れている。すなわち、17世紀後半に『胡尚書家礼』を著した刑部尚書兼東閣大学士胡士揚(1622―1681)が生まれ育った乂安鎮瓊瑠県瓊堆社の文化的環境として、瓊堆社は阮朝期の郷試合格者は55人に上り、南定省の行善社に次ぎ、全国で第2位であること指摘する。それとともに、アラン・フォレスト氏と牧野元紀氏の研究に依拠して、乂安は古くからキリスト教の拠点であり、瓊瑠県にはキリスト教の学校も建設され、儒教一色の土地ではなかった点に触れている(嶋尾、2010年、106頁~108頁)。先の2人の研究は、次のものである。
Alain Forest, Les Missionnaires Français au Tonkin et au Siam XVIIe – XVIIIe siècles Livres II Histoires du Tonkin. Paris : L’Harmattan, 1998.
牧野元紀『18世紀以前のパリ外国宣教会とベトナム北部宣教:修道会系宣教団体および現地政権との関係を中心に』富士ゼロックス小林節太郎紀念基金小林フェローシップ2007年研究助成論文、2009年(筆者いずれも未見)





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