<「嶋尾先生の英語論文を読んで」その5>
そもそも中国の士大夫と儒教、とりわけ朱子学との関連は一般にどのように考えられているのであろうか。
宋学の主体は士大夫である。士大夫とは唐代、科挙制度の確立とともに起こり、宋代に確固たる勢力となった支配階級である。士大夫の特徴は、儒教経典の教養を保持する読書人である点に求められる(島田、1978年版、14頁)。元代、明代、清代と約700年間、科挙は朱子学的立場の解釈でなければ合格しなかった。朱子学以後の近世において、中国社会に影響を与えていたのは朱子学であったが、1905年、科挙が廃止され、1911年辛亥革命で清朝が倒れる。王朝体制と不可分の関係にあった経学の時代は終焉するとともに、朱子学も急速に力を失っていったと考えられる(加地、1990年、212頁~213頁)。
儒教は礼教性(表層)と宗教性(深層)とからなるとされる。キリスト教は儒教の宗教性、すなわち祖先崇拝や招魂儀礼を批判した。魯迅ら中国近代の知識人は儒教の礼教性を批判したが、宗教性への批判ではなかった。そのため現代においても、儒教の宗教性は生き残っている。すなわちそれは孝である。祖先崇拝・親への敬愛・子孫の存在という三者を1つにした生命論としての孝、死の恐怖・不安からの解脱に至る宗教的な孝である(加地、1990年、220頁~223頁)。
また井上徹氏の「中国における宗族の伝統」(末成道男ほか編『〈血縁〉の再構築-東アジアにおける父系出自と同姓結合』風響社、2000年所収)は中国の宗族を考える際に示唆する所が多い。
近代につながる宗族の起点は宋代に求められ、その宗族の特徴としては祠堂、族譜、共有地という物的装置を備えている点が挙げられる(井上、2000年、45頁、49頁)。そして中国の宗族の伝統の形成過程について概観している。それを要約すると以下のようになろう。
祖先嫡系の宗子が祖先祭祀を通じて同祖の親族を統合すべきであるという考えを宗法主義という。これは宋代の科挙官僚制度に対応して登場したものである。ただ、科挙制の官僚身分は世襲ではなく、原則として一代限りである。そして家産均分の慣行があったので、官僚の家産も細分化されてゆく。官僚身分が一代に限定され、家産均分による細分化が行われると、原理的には没落の危機に陥ってしまうことになる。
そこで科挙制的知識人(士大夫)は、宗法主義により集団を編成し、それを恒久的に維持するために共有財を設置し、族譜を編纂し、祠堂を建設し、族人の日常生活を保障し、教育を施し、子孫を官界に送り出し、世襲官僚の家系を確立しようとした。だから、科挙制の開始が宗法主義登場の最大の契機ということになる。そして宗族は官僚輩出の基体としての意義を担っていた(こうした宗族のモデルとしては、江南の蘇州府城に拠点を置く范氏義荘が有名である)。
また宗法主義は、庶民から官僚への上昇と子孫の下降(没落)という社会的流動性(社会移動)に対する対抗手段として編み出されたともいえる。それと同時に、持続的に官僚を送り出す宗族が成立すれば、国家への忠義も保証され、国家も安定するという論理で、宗族を正当化した。ここに宗法主義が知識人の間で理念として保持され続けた理由の一つがある(同上、49頁~50頁)。
明朝の宗法主義の焦点は、宗子(嫡子)が祭祀を通じて族人を統合する場としての祠堂であった。明朝の家廟制度は、洪武3年(1370)、朱子の『家礼』の祠堂制度に準拠して制定された。ただ、『家礼』とは異なり、大宗による始祖祭祀は捨象された。祠堂、族譜、共有地という一連の装置を備える宗族集団は、明代後期、16世紀以降形成された(同上、51頁~52頁)。
ところで宗族普及のプロセスにおける地域偏差を考えた場合、何が宗族を発達させた要因とするかについては、議論がある。例えば、東南中国の辺境を取り上げたフリードマンは、治安の不安定さによる防衛の必要性を重視した(同上、62頁。Freedman, 1958.)
井上氏は、治安の悪さ、経済的条件の劣悪さ、資源の乏しさに起因して、防衛的、相互扶助的機能の必要性により、宗族が発展したのではないかと仮定している。宗族の広義化の現象、すなわち宗族は名門の家系を樹立する装置として出発し、その普及プロセスで防衛、相互扶助などの機能を備える集団へと変質していったと想定している(井上、2000年、63頁)
ところで、近代において、西欧資本主義は、王朝秩序を動揺・解体させていった。だから近代は漢族が宗族を求めた時代とも考えられる。つまり、西欧資本主義こそ、宗族の肥大化をもたらした源ともいえる。相互扶助と親睦を目的として同姓のものが結合するパターンもみられたが、これは宗族の広義化の伝統を引き継いだものであった。祠堂、族譜、共有地という物的装置を十全に設置しなくとも、同じ男系祖先を戴くことによってネットワークを作り上げていった。近代特有の現象として、共有地を経済基盤とした宗族が都市(城、鎮)を中心として分布したという(同上、62頁~63頁)。このように井上氏は、中国の宗族の伝統について展望を示している。
ちなみに朱子学と『家礼』について若干の解説を加えておこう。
朱子学の特徴は、生命論としての孝、家族論、政治論といった従来の儒教理論体系(宗教性と礼教性)に、宇宙論・形而上学といった哲学性を重ねたことにあるといわれる(加地、1990年、188頁)。
知識人、すなわち読書人であった科挙官僚は、「居敬」や「窮理」といった儒教の礼教性を深化させていった。ただ庶民は、祖先崇拝を核とする儒教の宗教性に関心があった。朱子は祖先崇拝という核心を切り捨てず、理気二元論という存在論から鬼神の説明を行なった。鬼神の鬼とは死人の魂を指し、恐ろしい存在であるが、祖先崇拝の原型である。儒教古典中の「鬼」は、祖先の祭祀と関わっており、知的科挙官僚にも納得できる説明が必要であった。その説明ができてこそ、儒教の核心である祖先崇拝が成り立つことになる。気(世界の物の質料)である祖先の魂は散じてゆくが、子孫が誠敬(まごころ)を尽くして祭ると、子孫の気と通じ感応して、この世にやってくると考えた(招魂)。朱子が41歳で母を亡くしたときに、『家礼』を撰したと伝えられる。この本は、母の葬礼を基礎に研究し、実践した副産物であり、家における冠昏(婚)喪(葬)祭のあり方を示したものである。そこでは儒教における礼教性と宗教性が示される。家には祠堂(みたまや)をたて、そこに祖先の神主(しんしゅ)[仏教でいう位牌]を置き、ここが家族の精神的拠りどころとなるという。そして冠・婚・祭は居宅で行なうが、報告や挨拶を行なう祠堂が重要な舞台となる。喪も居宅で行なうが、喪礼のある段階が終ると新しい神主を祠堂を置くこととなる(加地、1990年、204頁~210頁)。
祖先崇拝の思想において、中国では父子は一体のものとして捉えられた。この点、法制史家の滋賀秀三氏は父子一体論を提示した。すなわち、後継者は、実子であれ養子であれ、人そのもの(法律的には人格)を継ぐものである。人間は祖墳に葬られ、子孫によって永く祭り続けられことが重要であった。人間の死は万事の終わりではなく、子孫による死後の祭礼で人生が完結した。
この死後の祭祀は、生前の奉養、死亡時の葬喪とともに、「孝」(子の親に対するつとめ)の三様態をなした。つまり、養・葬・祭は子の三つの重要なつとめであった。とくに葬喪の義務は孝の頂点ともいえ、「孝衣(喪服)」「帯孝(喪に服する)」など孝の字は端的に喪を意味する場合が多いといわれる。
逆に『孟子』離婁篇(小林勝人訳注、岩波文庫(下)、1972年[1994年版]、55頁)には、
「孟子曰く、不孝に三あり。後(のち)なきを大なりとなす。舜の[父母に]告げずして娶るは、後なきが為なり。君子は以て猶告ぐるがごとしとなせり。」とある。この不孝に三ありに対して趙岐は礼としての不孝を三つ挙げて、説いている。
「親の意に阿(おもね)り従って、親を不義に陥れるのは、一の不孝である。家が貧しく親が老いても、禄仕(しかん)をしないのは、二の不孝である。娶らないで子供がなく先祖の祀(まつり)を絶つのは三の不孝である。この三者の中で、後(子孫)がないのが最大の不孝である」と。
朱子もこの趙岐の説によっていると小林勝人氏は注している(小林勝人訳注、岩波文庫(下)、1972年[1994年版]、55頁)。
このように、孟子、趙岐、朱子ともに、後(子孫)がなく、祖先崇拝が絶えることを最大の不孝とみなしているのである。祠堂を建設して、先祖を祭祀し、子孫を残して、家系を存続させ、家譜を編纂するに足るようにすることこそ、孝行であったということになる。
ちなみに先の引用箇所の英文訳を紹介しておく。
Mencius said, ‘There are three ways of being a bad son. The
most serious is to have no heir. Shun married without telling his
father for fear of not having an heir. To the gentleman, this was
as good as having told his father.’
D.C.Lau, Mencius, Penguin Books, 1970[2003], pp.86-87.
D.C.Lau氏は意訳して、「不孝」の部分を「a bad son」とする。最悪なのは、「to have no heir」つまり、相続人・後継者がいないことなのである。
このように、血すじが絶えることは、己れにとっても父祖に対しても、最大の不孝とみなされたのである。死したる鬼は子孫の捧げる祭祀によって幸福でありえた。祭ってくれる者がなくなれば、鬼は餒(う)えるとされ、「不祀之鬼」は最も悲しむべき不幸な運命と考えられた。滋賀氏は、父子は分形同気であるという思想が、中国人の相続観念の根底をなしていたとみる。つまり父と息子は個体としては分れていても、一つの生命の連続であった。人格の相続と祖先祭祀とは、生命の連続という同一の実体から生ずる二つの現象的効果である(滋賀、1981年版、112頁)。
許烺光氏は、中国における親族関係は男系血筋(father-son line)の継続に基本的価値がおかれ、これを中心に組織されているとみる。つまり、雲南地方の社会学的実態調査をもとに、father-son identificationという造語によって、父子の関係を把握した。それは「何であれ、一方のある所のもので他方もあり、一方の持つ所のものを他方も持つ( “whatever the one is, the other is; and whatever the one has, the other has.”)という関係を指した(滋賀、1981年版、131頁)。
滋賀氏は、この許氏のfather-son identificationは社会経済的側面を見たものであり、自らが父子一体と表現したものは、法律的側面を見たものという違いにすぎず、本質的には同一の実体を指したものであると解説している(滋賀、1981年版、132頁)。
このことを滋賀氏は英文の論文
Shūzō Shiga, “Family Property and the Law of Inheritance in Traditional China,”
in David C. Buxbaum ed., Chinese Family Law and Social Change : in Historical and Comparative Perspective, University of Washington Press, 1978. においても、次のように論述している。
Also, as long as the father is alive, the son might
just as well not exist, for it is only with the father’s death that he makes his
appearance as a being who steps without further ado into the father’s place.
I call this the rule of the single father-son unit (fushi ittai ; fu tzu i t’i). It
might be defined as a rule whereby during the father’s lifetime the son’s
personality is absorbed into the father’s, while after the latter’s death his
personality is extended into that of his son. Father and son are a continuum
of the same personality, not two beings in mutual rivalry. It is only when there
is more than one son that personality conflicts arise among them as brothers.
Further, in relation to their father, each of them merges with him into a single
unit. Consequently, in relation to one another they are equal. The principle
of father and son as a single unit contains within itself that of the equality of
brothers…
Professor Francis L. K. Hsu has created the term “father-son identification,”
explaining the relationship in terms of “whatever the one is the other is, and
whatever the one has the other has.” My own thought of a father-son unit
occurred to me independently of this, and my findings were published at
virtually the same time as his. By amazing coincidence, they point to an
identical reality. If from the juridical point of view there exists between father
and son what I call the father-son unit relationship regarding the possession
of property rights, then there would have to be between father and son a
relationship of the common enjoyment without discrimination of all advan-
tages, both social and economic, over all property, whether tangible or
intangible ; in other words what Professor Hsu calls a “father-son identifica-
tion.”
(Shūzō Shiga, “Family Property and the Law of Inheritance in Traditional China,”
pp.119-121.)
《試訳》
また父が生存する限り、息子は存在しないようなものである。というのは、あとは苦もなく父の地位に歩を進める存在として現れるのは父の死を伴った時でしかないからである。私はこれを「父子一体」の原則と呼んでいる。その原則の定義としては、父の生存中は息子の人格は父のそれに吸収される一方で、父の死後はその人格は息子の人格に延長される。父と息子は同一人格の連続体であり、両者は相互の対立関係にない。人格の対立が兄弟としての彼らの間に起こるのは一人以上の息子がいる時のみである。さらに父に関して、彼らの各人は一つの単位に吸収される。その結果として、相互にして彼らは平等である。一つの単位としての父と息子の原理は、兄弟の平等の原理自体の中に含まれる。
フランシス・L.K.許教授は、「父子同一化」という用語を造語した。この用語で、「何であれ、一方のある所のもので他方もあり、一方の持つ所のものを他方も持つ」という関係を説明した。父子の単位という私の考えは、これらは独立して私の心に浮かんだ。私の研究結果は、彼のそれと実際上同時に出版された。驚くべき偶然の一致で、両者は同一の現実を指す。もし法律上の観点から、父子の間に財産権の所有に関して父子単位関係を私が称したところのものが存在するならば、父子間には有形であろうと無形であろうとあらゆる財産に対して、社会的かつ経済的にあらゆる利益の区別なく共同で享受する関係であらねばならないであろう。言いかえれば、許教授が「父子同一化」と呼んだところのものである。
(滋賀秀三「伝統中国における家族財産と相続法」1978年、119頁~121頁)
前述したように、父子は分形同気である。すなわち「父子は至親なり、形を分けて気を同じうす」といわれる。父と子は現象的には二つの個体であるけれど(分形)、父子のうちに生きる生命そのものは同一である(同気)。子は父の生命の延長であると観念された。父子間を生命の連続と認めることは、中国人の人生観の基本であった。中国の倫理体系の核心をなす至高の徳目とされた「孝」の概念も、この認識から生じたと考えられている(滋賀、1981年版、35頁)。
父子一体の意味は、承継の関係そのものである。息子は父の承継人である。父の人格は息子に延長する。この関係は息子の人格は父に吸収されるという関係を伴っている。家族をめぐる権利関係において、父が生存する限り、息子の存在は父の蔭に隠れて無に等しい。反面、父が死亡すれば、息子は父に代わる存在として現れる。このように、息子の人格は父に吸収され、父の人格は息子に延長するということは、両者の間に人格の対立が存在せず、両者は同一人格であることを意味する。この関係を滋賀氏は法律的意味における父子一体の原則と名づける。
そして兄弟同居の家において、家産は兄弟全員によって相互に等しい持分において、総手的に共有されていた。このような兄弟相互の関係を父子一体の原則に対応する意味で、兄弟平等の原則と滋賀氏は名づける。中国の秦漢以後の社会体制においては、嫡長一系を特に尊重すべき実質的な条件は一般に存在しないとみる。確かに儒教の経書の嫡中には、長子孫による宗廟主祭権の単独相続の観念が顕著に現れ、主祭権者は同族を統轄する権威を有すべきことが同族組織の基本とされるが、こうした古典に記された原理は一種観念的な影響力を持ち続けたが、長子、長孫に対して財産上若干の特別分を与える慣習となって残存したにすぎないとする。この点、日本の家族制度における本家のように長子・長孫が同族を統轄する特別な責務を負い、権威を保持していたのとは対照的である。中国の場合、すべての息子は十全な資格をそなえた承継人として父を祭り、家産の分割を兄弟間で平等に請求することができた。このように、中国家族法は父子一体の原則を経とし、兄弟平等の原則を緯として成り立っていると滋賀氏はみるのである(滋賀、1981年版、77頁、129頁、252頁~253頁、267頁~268頁)。
また滋賀氏は、中国の宗族について、「一つの泉から幾条もの水が分れ流れるように、また一つの幹から千枝万葉が生い茂るように、宗族とは一個の祖先の生命の延長拡大にほかならない。族人のうちに祖先を認めることから同族の結合が生ずる。」
その典拠として、『講解聖諭広訓』第2条に「(前略)却総是一個人、就如水有分派的一般、你看一股泉、流将下去、分作幾条」を引用している(滋賀、1981年版、37頁、49頁注61)。この表現は、嶋尾氏がゾンホを喩えた諺に類似するが、ベトナムの方の諺の起源とともに、その出典は何か問われよう。
滋賀氏は儒教の核心をなす至高の徳目とされた「孝」について次のように解説しているので、引用しておこう。
The sons’ position, as described above, was on the other hand inextricably
bound up with a duty to recognize their father as the source of their own
existence, to surrender to their father all of the fruits of their own activities,
and to submerge their own existences entirely into their father’s. This is the
concept of filial piety (hsiao), which constitutes the core of China’s morality.
It takes the form during the father’s lifetime of a prohibition against the sons
saving the fruits of their labor as private possessions, as well as of a duty to
serve and obey the father within a life pattern of “common living, common
budget,” while after his death it assumes the phase of a duty to sacrifice to his
spirit. Because of the sacrifices, the relationship of a lifetime continues
unbroken, and the food and clothing required by the deceased are furnished
him symbolically, but beyond that the person in question is never allowed to
forget the fact that he is himself present as a continuation of his father.
People are aware that their fathers are alive in their own persons. Thus is
born, first of all, the duty to be circumspect with regard to one’s own person
and also with regard to life in general. There also results the duty to produce
and rear descendants, to find marriage partners for them, and to save things to
bequeathe to them. In one’s descendants one sees one’s own ancestors, and
to those descendants one commits one’s ancestors’ lives as well as one’s own.
At the same time, one sees those ancestors first in the brothers who got those
ancestors’ chi, then in the clan (t’ung tsu) as a whole. From this is born a
sense of clan solidarity.
In sum, then, a man lives in those who sacrifice to him, and his property is
also inherited by those who sacrifice to him. The joint and simultaneous
succession to sacrifices and property is indissoluble. This is the basic guideline
of China’s inheritance law.
(Shūzō Shiga, “Family Property and the Law of Inheritance in Traditional China,”
in David C. Buxbaum ed., Chinese Family Law and Social Change in Historical and Comparative Perspective, University of Washington Press, 1978, pp.124-125.)
そもそも中国の士大夫と儒教、とりわけ朱子学との関連は一般にどのように考えられているのであろうか。
宋学の主体は士大夫である。士大夫とは唐代、科挙制度の確立とともに起こり、宋代に確固たる勢力となった支配階級である。士大夫の特徴は、儒教経典の教養を保持する読書人である点に求められる(島田、1978年版、14頁)。元代、明代、清代と約700年間、科挙は朱子学的立場の解釈でなければ合格しなかった。朱子学以後の近世において、中国社会に影響を与えていたのは朱子学であったが、1905年、科挙が廃止され、1911年辛亥革命で清朝が倒れる。王朝体制と不可分の関係にあった経学の時代は終焉するとともに、朱子学も急速に力を失っていったと考えられる(加地、1990年、212頁~213頁)。
儒教は礼教性(表層)と宗教性(深層)とからなるとされる。キリスト教は儒教の宗教性、すなわち祖先崇拝や招魂儀礼を批判した。魯迅ら中国近代の知識人は儒教の礼教性を批判したが、宗教性への批判ではなかった。そのため現代においても、儒教の宗教性は生き残っている。すなわちそれは孝である。祖先崇拝・親への敬愛・子孫の存在という三者を1つにした生命論としての孝、死の恐怖・不安からの解脱に至る宗教的な孝である(加地、1990年、220頁~223頁)。
また井上徹氏の「中国における宗族の伝統」(末成道男ほか編『〈血縁〉の再構築-東アジアにおける父系出自と同姓結合』風響社、2000年所収)は中国の宗族を考える際に示唆する所が多い。
近代につながる宗族の起点は宋代に求められ、その宗族の特徴としては祠堂、族譜、共有地という物的装置を備えている点が挙げられる(井上、2000年、45頁、49頁)。そして中国の宗族の伝統の形成過程について概観している。それを要約すると以下のようになろう。
祖先嫡系の宗子が祖先祭祀を通じて同祖の親族を統合すべきであるという考えを宗法主義という。これは宋代の科挙官僚制度に対応して登場したものである。ただ、科挙制の官僚身分は世襲ではなく、原則として一代限りである。そして家産均分の慣行があったので、官僚の家産も細分化されてゆく。官僚身分が一代に限定され、家産均分による細分化が行われると、原理的には没落の危機に陥ってしまうことになる。
そこで科挙制的知識人(士大夫)は、宗法主義により集団を編成し、それを恒久的に維持するために共有財を設置し、族譜を編纂し、祠堂を建設し、族人の日常生活を保障し、教育を施し、子孫を官界に送り出し、世襲官僚の家系を確立しようとした。だから、科挙制の開始が宗法主義登場の最大の契機ということになる。そして宗族は官僚輩出の基体としての意義を担っていた(こうした宗族のモデルとしては、江南の蘇州府城に拠点を置く范氏義荘が有名である)。
また宗法主義は、庶民から官僚への上昇と子孫の下降(没落)という社会的流動性(社会移動)に対する対抗手段として編み出されたともいえる。それと同時に、持続的に官僚を送り出す宗族が成立すれば、国家への忠義も保証され、国家も安定するという論理で、宗族を正当化した。ここに宗法主義が知識人の間で理念として保持され続けた理由の一つがある(同上、49頁~50頁)。
明朝の宗法主義の焦点は、宗子(嫡子)が祭祀を通じて族人を統合する場としての祠堂であった。明朝の家廟制度は、洪武3年(1370)、朱子の『家礼』の祠堂制度に準拠して制定された。ただ、『家礼』とは異なり、大宗による始祖祭祀は捨象された。祠堂、族譜、共有地という一連の装置を備える宗族集団は、明代後期、16世紀以降形成された(同上、51頁~52頁)。
ところで宗族普及のプロセスにおける地域偏差を考えた場合、何が宗族を発達させた要因とするかについては、議論がある。例えば、東南中国の辺境を取り上げたフリードマンは、治安の不安定さによる防衛の必要性を重視した(同上、62頁。Freedman, 1958.)
井上氏は、治安の悪さ、経済的条件の劣悪さ、資源の乏しさに起因して、防衛的、相互扶助的機能の必要性により、宗族が発展したのではないかと仮定している。宗族の広義化の現象、すなわち宗族は名門の家系を樹立する装置として出発し、その普及プロセスで防衛、相互扶助などの機能を備える集団へと変質していったと想定している(井上、2000年、63頁)
ところで、近代において、西欧資本主義は、王朝秩序を動揺・解体させていった。だから近代は漢族が宗族を求めた時代とも考えられる。つまり、西欧資本主義こそ、宗族の肥大化をもたらした源ともいえる。相互扶助と親睦を目的として同姓のものが結合するパターンもみられたが、これは宗族の広義化の伝統を引き継いだものであった。祠堂、族譜、共有地という物的装置を十全に設置しなくとも、同じ男系祖先を戴くことによってネットワークを作り上げていった。近代特有の現象として、共有地を経済基盤とした宗族が都市(城、鎮)を中心として分布したという(同上、62頁~63頁)。このように井上氏は、中国の宗族の伝統について展望を示している。
ちなみに朱子学と『家礼』について若干の解説を加えておこう。
朱子学の特徴は、生命論としての孝、家族論、政治論といった従来の儒教理論体系(宗教性と礼教性)に、宇宙論・形而上学といった哲学性を重ねたことにあるといわれる(加地、1990年、188頁)。
知識人、すなわち読書人であった科挙官僚は、「居敬」や「窮理」といった儒教の礼教性を深化させていった。ただ庶民は、祖先崇拝を核とする儒教の宗教性に関心があった。朱子は祖先崇拝という核心を切り捨てず、理気二元論という存在論から鬼神の説明を行なった。鬼神の鬼とは死人の魂を指し、恐ろしい存在であるが、祖先崇拝の原型である。儒教古典中の「鬼」は、祖先の祭祀と関わっており、知的科挙官僚にも納得できる説明が必要であった。その説明ができてこそ、儒教の核心である祖先崇拝が成り立つことになる。気(世界の物の質料)である祖先の魂は散じてゆくが、子孫が誠敬(まごころ)を尽くして祭ると、子孫の気と通じ感応して、この世にやってくると考えた(招魂)。朱子が41歳で母を亡くしたときに、『家礼』を撰したと伝えられる。この本は、母の葬礼を基礎に研究し、実践した副産物であり、家における冠昏(婚)喪(葬)祭のあり方を示したものである。そこでは儒教における礼教性と宗教性が示される。家には祠堂(みたまや)をたて、そこに祖先の神主(しんしゅ)[仏教でいう位牌]を置き、ここが家族の精神的拠りどころとなるという。そして冠・婚・祭は居宅で行なうが、報告や挨拶を行なう祠堂が重要な舞台となる。喪も居宅で行なうが、喪礼のある段階が終ると新しい神主を祠堂を置くこととなる(加地、1990年、204頁~210頁)。
祖先崇拝の思想において、中国では父子は一体のものとして捉えられた。この点、法制史家の滋賀秀三氏は父子一体論を提示した。すなわち、後継者は、実子であれ養子であれ、人そのもの(法律的には人格)を継ぐものである。人間は祖墳に葬られ、子孫によって永く祭り続けられことが重要であった。人間の死は万事の終わりではなく、子孫による死後の祭礼で人生が完結した。
この死後の祭祀は、生前の奉養、死亡時の葬喪とともに、「孝」(子の親に対するつとめ)の三様態をなした。つまり、養・葬・祭は子の三つの重要なつとめであった。とくに葬喪の義務は孝の頂点ともいえ、「孝衣(喪服)」「帯孝(喪に服する)」など孝の字は端的に喪を意味する場合が多いといわれる。
逆に『孟子』離婁篇(小林勝人訳注、岩波文庫(下)、1972年[1994年版]、55頁)には、
「孟子曰く、不孝に三あり。後(のち)なきを大なりとなす。舜の[父母に]告げずして娶るは、後なきが為なり。君子は以て猶告ぐるがごとしとなせり。」とある。この不孝に三ありに対して趙岐は礼としての不孝を三つ挙げて、説いている。
「親の意に阿(おもね)り従って、親を不義に陥れるのは、一の不孝である。家が貧しく親が老いても、禄仕(しかん)をしないのは、二の不孝である。娶らないで子供がなく先祖の祀(まつり)を絶つのは三の不孝である。この三者の中で、後(子孫)がないのが最大の不孝である」と。
朱子もこの趙岐の説によっていると小林勝人氏は注している(小林勝人訳注、岩波文庫(下)、1972年[1994年版]、55頁)。
このように、孟子、趙岐、朱子ともに、後(子孫)がなく、祖先崇拝が絶えることを最大の不孝とみなしているのである。祠堂を建設して、先祖を祭祀し、子孫を残して、家系を存続させ、家譜を編纂するに足るようにすることこそ、孝行であったということになる。
ちなみに先の引用箇所の英文訳を紹介しておく。
Mencius said, ‘There are three ways of being a bad son. The
most serious is to have no heir. Shun married without telling his
father for fear of not having an heir. To the gentleman, this was
as good as having told his father.’
D.C.Lau, Mencius, Penguin Books, 1970[2003], pp.86-87.
D.C.Lau氏は意訳して、「不孝」の部分を「a bad son」とする。最悪なのは、「to have no heir」つまり、相続人・後継者がいないことなのである。
このように、血すじが絶えることは、己れにとっても父祖に対しても、最大の不孝とみなされたのである。死したる鬼は子孫の捧げる祭祀によって幸福でありえた。祭ってくれる者がなくなれば、鬼は餒(う)えるとされ、「不祀之鬼」は最も悲しむべき不幸な運命と考えられた。滋賀氏は、父子は分形同気であるという思想が、中国人の相続観念の根底をなしていたとみる。つまり父と息子は個体としては分れていても、一つの生命の連続であった。人格の相続と祖先祭祀とは、生命の連続という同一の実体から生ずる二つの現象的効果である(滋賀、1981年版、112頁)。
許烺光氏は、中国における親族関係は男系血筋(father-son line)の継続に基本的価値がおかれ、これを中心に組織されているとみる。つまり、雲南地方の社会学的実態調査をもとに、father-son identificationという造語によって、父子の関係を把握した。それは「何であれ、一方のある所のもので他方もあり、一方の持つ所のものを他方も持つ( “whatever the one is, the other is; and whatever the one has, the other has.”)という関係を指した(滋賀、1981年版、131頁)。
滋賀氏は、この許氏のfather-son identificationは社会経済的側面を見たものであり、自らが父子一体と表現したものは、法律的側面を見たものという違いにすぎず、本質的には同一の実体を指したものであると解説している(滋賀、1981年版、132頁)。
このことを滋賀氏は英文の論文
Shūzō Shiga, “Family Property and the Law of Inheritance in Traditional China,”
in David C. Buxbaum ed., Chinese Family Law and Social Change : in Historical and Comparative Perspective, University of Washington Press, 1978. においても、次のように論述している。
Also, as long as the father is alive, the son might
just as well not exist, for it is only with the father’s death that he makes his
appearance as a being who steps without further ado into the father’s place.
I call this the rule of the single father-son unit (fushi ittai ; fu tzu i t’i). It
might be defined as a rule whereby during the father’s lifetime the son’s
personality is absorbed into the father’s, while after the latter’s death his
personality is extended into that of his son. Father and son are a continuum
of the same personality, not two beings in mutual rivalry. It is only when there
is more than one son that personality conflicts arise among them as brothers.
Further, in relation to their father, each of them merges with him into a single
unit. Consequently, in relation to one another they are equal. The principle
of father and son as a single unit contains within itself that of the equality of
brothers…
Professor Francis L. K. Hsu has created the term “father-son identification,”
explaining the relationship in terms of “whatever the one is the other is, and
whatever the one has the other has.” My own thought of a father-son unit
occurred to me independently of this, and my findings were published at
virtually the same time as his. By amazing coincidence, they point to an
identical reality. If from the juridical point of view there exists between father
and son what I call the father-son unit relationship regarding the possession
of property rights, then there would have to be between father and son a
relationship of the common enjoyment without discrimination of all advan-
tages, both social and economic, over all property, whether tangible or
intangible ; in other words what Professor Hsu calls a “father-son identifica-
tion.”
(Shūzō Shiga, “Family Property and the Law of Inheritance in Traditional China,”
pp.119-121.)
《試訳》
また父が生存する限り、息子は存在しないようなものである。というのは、あとは苦もなく父の地位に歩を進める存在として現れるのは父の死を伴った時でしかないからである。私はこれを「父子一体」の原則と呼んでいる。その原則の定義としては、父の生存中は息子の人格は父のそれに吸収される一方で、父の死後はその人格は息子の人格に延長される。父と息子は同一人格の連続体であり、両者は相互の対立関係にない。人格の対立が兄弟としての彼らの間に起こるのは一人以上の息子がいる時のみである。さらに父に関して、彼らの各人は一つの単位に吸収される。その結果として、相互にして彼らは平等である。一つの単位としての父と息子の原理は、兄弟の平等の原理自体の中に含まれる。
フランシス・L.K.許教授は、「父子同一化」という用語を造語した。この用語で、「何であれ、一方のある所のもので他方もあり、一方の持つ所のものを他方も持つ」という関係を説明した。父子の単位という私の考えは、これらは独立して私の心に浮かんだ。私の研究結果は、彼のそれと実際上同時に出版された。驚くべき偶然の一致で、両者は同一の現実を指す。もし法律上の観点から、父子の間に財産権の所有に関して父子単位関係を私が称したところのものが存在するならば、父子間には有形であろうと無形であろうとあらゆる財産に対して、社会的かつ経済的にあらゆる利益の区別なく共同で享受する関係であらねばならないであろう。言いかえれば、許教授が「父子同一化」と呼んだところのものである。
(滋賀秀三「伝統中国における家族財産と相続法」1978年、119頁~121頁)
前述したように、父子は分形同気である。すなわち「父子は至親なり、形を分けて気を同じうす」といわれる。父と子は現象的には二つの個体であるけれど(分形)、父子のうちに生きる生命そのものは同一である(同気)。子は父の生命の延長であると観念された。父子間を生命の連続と認めることは、中国人の人生観の基本であった。中国の倫理体系の核心をなす至高の徳目とされた「孝」の概念も、この認識から生じたと考えられている(滋賀、1981年版、35頁)。
父子一体の意味は、承継の関係そのものである。息子は父の承継人である。父の人格は息子に延長する。この関係は息子の人格は父に吸収されるという関係を伴っている。家族をめぐる権利関係において、父が生存する限り、息子の存在は父の蔭に隠れて無に等しい。反面、父が死亡すれば、息子は父に代わる存在として現れる。このように、息子の人格は父に吸収され、父の人格は息子に延長するということは、両者の間に人格の対立が存在せず、両者は同一人格であることを意味する。この関係を滋賀氏は法律的意味における父子一体の原則と名づける。
そして兄弟同居の家において、家産は兄弟全員によって相互に等しい持分において、総手的に共有されていた。このような兄弟相互の関係を父子一体の原則に対応する意味で、兄弟平等の原則と滋賀氏は名づける。中国の秦漢以後の社会体制においては、嫡長一系を特に尊重すべき実質的な条件は一般に存在しないとみる。確かに儒教の経書の嫡中には、長子孫による宗廟主祭権の単独相続の観念が顕著に現れ、主祭権者は同族を統轄する権威を有すべきことが同族組織の基本とされるが、こうした古典に記された原理は一種観念的な影響力を持ち続けたが、長子、長孫に対して財産上若干の特別分を与える慣習となって残存したにすぎないとする。この点、日本の家族制度における本家のように長子・長孫が同族を統轄する特別な責務を負い、権威を保持していたのとは対照的である。中国の場合、すべての息子は十全な資格をそなえた承継人として父を祭り、家産の分割を兄弟間で平等に請求することができた。このように、中国家族法は父子一体の原則を経とし、兄弟平等の原則を緯として成り立っていると滋賀氏はみるのである(滋賀、1981年版、77頁、129頁、252頁~253頁、267頁~268頁)。
また滋賀氏は、中国の宗族について、「一つの泉から幾条もの水が分れ流れるように、また一つの幹から千枝万葉が生い茂るように、宗族とは一個の祖先の生命の延長拡大にほかならない。族人のうちに祖先を認めることから同族の結合が生ずる。」
その典拠として、『講解聖諭広訓』第2条に「(前略)却総是一個人、就如水有分派的一般、你看一股泉、流将下去、分作幾条」を引用している(滋賀、1981年版、37頁、49頁注61)。この表現は、嶋尾氏がゾンホを喩えた諺に類似するが、ベトナムの方の諺の起源とともに、その出典は何か問われよう。
滋賀氏は儒教の核心をなす至高の徳目とされた「孝」について次のように解説しているので、引用しておこう。
The sons’ position, as described above, was on the other hand inextricably
bound up with a duty to recognize their father as the source of their own
existence, to surrender to their father all of the fruits of their own activities,
and to submerge their own existences entirely into their father’s. This is the
concept of filial piety (hsiao), which constitutes the core of China’s morality.
It takes the form during the father’s lifetime of a prohibition against the sons
saving the fruits of their labor as private possessions, as well as of a duty to
serve and obey the father within a life pattern of “common living, common
budget,” while after his death it assumes the phase of a duty to sacrifice to his
spirit. Because of the sacrifices, the relationship of a lifetime continues
unbroken, and the food and clothing required by the deceased are furnished
him symbolically, but beyond that the person in question is never allowed to
forget the fact that he is himself present as a continuation of his father.
People are aware that their fathers are alive in their own persons. Thus is
born, first of all, the duty to be circumspect with regard to one’s own person
and also with regard to life in general. There also results the duty to produce
and rear descendants, to find marriage partners for them, and to save things to
bequeathe to them. In one’s descendants one sees one’s own ancestors, and
to those descendants one commits one’s ancestors’ lives as well as one’s own.
At the same time, one sees those ancestors first in the brothers who got those
ancestors’ chi, then in the clan (t’ung tsu) as a whole. From this is born a
sense of clan solidarity.
In sum, then, a man lives in those who sacrifice to him, and his property is
also inherited by those who sacrifice to him. The joint and simultaneous
succession to sacrifices and property is indissoluble. This is the basic guideline
of China’s inheritance law.
(Shūzō Shiga, “Family Property and the Law of Inheritance in Traditional China,”
in David C. Buxbaum ed., Chinese Family Law and Social Change in Historical and Comparative Perspective, University of Washington Press, 1978, pp.124-125.)
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