中学生の時、学校の図書室で手塚治さんの「ブッダ」を読んだ。
過酷な修行を行うゾロアスター教の聖職者たちに対して、ブッダが「わざわざ苦しいことをするのではなく、人生の苦難に耐えていくことこそが本当の修行ではないか」みたいな考えを持つところがすごく印象深くて(昔の記憶なので、そんな場面がなかったらどうしようかとちょっと心配だけど、そこはまぁスルーすることにする)、中学生の私は「もっともだ」と思って、それ以来ずっとその考えに賛成で、わざわざ苦しいことをするのとか意味がわからないと思ってきたんだけど、あれからだいたい四半世紀過ぎた今日、ちょっと考えを改めようかと思った。
体力的にも精神的にも余裕があれば、人に親切にしたり気を使ったりできる。
余裕のありなしを決めるのはなんだろうと思うと、もちろん環境の違いはあるけど、シンプルに基礎体力基礎精神力(?)の違いも大きいのではないかと思って。
ずっと「調子がいいときに良い人でいれるのは当たり前で、ツライときにどうするかが人の本質だからそういう時こそ気を付けよう」と思ってきたけど、そんな精神論だけに頼るよりも「限界にツライ」に至るまでの自分の容量を増やすことを考えたほうが良いのではないかと気が付いた。
例えば体力が10しかない場合、12の活動をしたらキャパオーバーで「限界にツライ」だけど、15あればまだいけるし、30くらいあれば結構余裕だよね。
そう考えると、体力とか精神力とか意図的に負荷をかけて鍛えておくのはすごく意味のあることなのでは‥という考えになった。
生きている限り負荷ゼロにはそうそうならないから、あえて負荷をかけなくても自然にキャパシティが広がることもあるだろうけど、生きてる過程で起こるイベントは本番だから、自分で負荷量の調整ができないんだよね。
ただただツライことに耐えるのはあまり意味がないかもしれないけど、それを意識して意図的に行うのは人間性の醸成的にきっと意味があるんだ‥と、今日の朝、出勤中になんか思い至った。
脳味噌の中で何がどうなって、急にそう思い始めたかは不明。
あと今日のちょっとほっこりした出来事。
夕方「沼津のイベントに藤井聡太七冠が来て、小中学生からの質問に答えた」という県内ニュースを見た。
そこで「犬派か猫派か」と質問された藤井七冠が「猫派」と答えたことを受けて、犬派の中学生に「藤井七冠は猫派だそうですが?」とリポーターさんが質問していた。
中学生は2~3秒くらい考えて「猫もいいですよね」と答えていた。
普通のようでいて、全方位に優しいいい答えだなと思った。
猫派を否定せず、でも「猫も」ということで自分が犬派であることも肯定してる。
しかもちゃんと考えてこの答えが出てくるのは、賢くて優しいなと思った。
こういう人が増えれば世の中平和だよね。
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