90代後半の祖父がいよいよターミナル期。
大きな疾患もなく老衰で。
超省エネモードでほぼほぼ寝ている。
とりあえずいい夢を見ているといいなと思っている。
そして親戚から孫が不登校という話を聞いたり(私は不登校の先輩)、お昼に一緒になった同僚と遺伝子検査の話をしたりして、なんとなく今日は「幸せってなんだろなー?」と考えがち。
脳内整理できていない状態なんだけど、書き出すと楽なので、ここで失礼。
不登校について、先輩として「別に学校に行かなくてもなるようになるから大丈夫」と言ってあげたい気持ちはある。
でもそれを言う前に、私がそれを言って説得力があるのかを考えた。
私はなんだかんだ自分の食い扶持を稼いで、贅沢はできないけど、なるべく好きなものを見つけるようにして暮らしていて、自分のことをわりと幸せだ(少なくとも不幸ではない)と思っているけど、未婚で子供もいないし、輝かしいキャリアがあるわけでもなくて、人から見て「大丈夫」な状態なのかは自信がない。
今さら人から見て「大丈夫」な私を目指す気はさらさらないんだけど、自分が不登校で群れから外れたときに思った「大丈夫」かどうかはわりと「みんなと同じような生活ができるかどうか」だった気がする。
うーん‥
そして今日、お昼休憩が一緒になった同僚が「スマホに遺伝子検査の広告がめっちゃ出てきて、お高いけどいつか受けてしまうかもしれない」と言った。
私は遺伝子検査にあんまりぴんとくるものがなくて「何がわかるんですか?」と聞いたら、「数学が得意とか運動が苦手とか」と返ってきて、思わず「それってすでにわかってないですか?」とつっこんでしまった。
そこからデザイナーベイビーの話にもなって、「遺伝性の疾患がなくてピアノがめっちゃ上手いコをつくれる時代がもう来る?実は来ている国もあるかも??」みたいな会話になった。
倫理的な問題アリアリだけど、そこは置いておくとして、仮に音楽の才能に恵まれたとしても、継続して練習を重ねることができる環境と性格がないと「ピアノが上手いコ」はできあがらないし、疾患がなかったらそれに関する悩みは減るかもしれないけど、だからといって幸せとは限らないし、健康は大事だけど病気だったら不幸とも限らないような気がして思考と感情がぐるぐる‥
それでさっきの不登校にまた繋がるんだけど、「数学が得意」も「運動が苦手」も人間の特性は相対的なものでしかないから、ある程度群れでもまれないと自分のこともわからないと思うんだよね。
この世に自分ひとりだと自分が背が高いのかどうかすらわからない。
勉強もしないよりはしておいたほうがいい。
学校に行かなくてもできるけど、「群れにもまれつつ、必要な知識を身に着ける」が経験できる1番適したところがやっぱり学校だと思う。
でも学校に行けないことで鬱々として過ごした経験があるから、そんな理屈は渦中にはまったく響かないのを身にしみてわかってる。
まぁ10代のときに「人生終わった」くらいの感じで過ごしたおかげで、ご飯食べれて自分のベッドがあって蛇口をひねればお湯がでるだけでラッキーな気がしているから、経験は無駄ではない、多分。
ここで祖父の話に戻るんだけど、おじいちゃんは全然インテリじゃなくて、自分の価値観を変えられないタイプで(つまり昭和ヒトケタの価値観で90ウン年を過ごし切ろうとしている)、スマートかと言われると正直全然そんなことない気がするけど、私の勝手な判断だけど、わりと人生やりきって幸せなんじゃないかと思うんだよね。
戦争中に満州に行っていたんだけど、よく聞かされる思い出話は辛かったことじゃなくて、その時代なりの青春話だった。
大変な目にあったことは匂わせたくらいで、ちゃんと話してくれたことはない。
「戦争の悲惨さを次世代に伝えなくては」という社会的な使命感とか多分考えてなさそうで、「辛いことは耐え忍んで口にださないのが良い」という価値観を貫いた。
黙々と働いたけど、なにかを学ぶことにとりたてて興味を持っていた気はしない。
そう考えると、知識が増えたり社会的なことを考えたりするのが、果たして幸せに繋がるのか、「勉強したほうがいい」というのもなんか大人の説得力のない一般論のような気がしてしまって‥
結局「幸せは自分のこころが決める」だよね。
相田みつをさんは偉大。
でもそれも私が「人間の人生の究極の目標は幸福の追求」だと思っているからでてくる考えで、動物の種の保存の本能として自分が死ぬことで次の生命を残すような生物もいるわけだから、実は生き物として根本の考えがそもそもズレてるのかもと思うときもある。
うーん‥
でもやっぱり勉強はしておいたほうができることが増えるから、社会の中で居場所は見つけやすくなるかな。
やっぱり人間はどこまでも社会的な生き物だし‥
今日はもう寝よう。
寝ずに考えることが私の健康に良くないことは確か。