愛の種

 
 猫がいる限り アセンションが止まらない
  

私は変人

2024-03-11 02:56:00 | 日記
感情の話し
 自分、幼稚園の頃から、小学生のころまでは、聖者だったので、私の魂的ピークは、とっくに終わってる。どんどん老けてしまう母親をみては、生きることの虚しさを感じだものだ。生きながらえるとは、毒を貯めることに他ならず、故に、大人になることの、なんと虚しくも浅ましいことかと、人間、を、悲しんだものだ。それに比べて、周りの動物たちの、初めから死ぬまでの純粋さを、なんと、尊いものかと、愛せずにはいられなかった。人間はうらぎるが、動物は裏切らないから、人よりも動物を信用した方がよいだろうな、と、頭をめぐらせながら、牛の世話ややぎの世話をしたものだ。大人になったら、山にこもって、誰にも会わずに心の修行をしようかな。毎晩眠る前に頭を枕に当てながら、その日1日の反省をしなければいけないのだ、と、敢えて自分に課していたのは、小学生の、低学年のころからだった。国会の議員たちの騒ぐテレビ中継なぞ、眺めては、話し合いの場で、感情的になるような大人には、なりたくないものだ。人間とは、なんと愚かないきものだろう、と、大人を蔑んだ。
 だが、小学生の高学年の時に学んだ、宮沢賢治のアメニモマケズ、は、衝撃的だったから、思わず頑張って暗記した。

自分を感情に入れずによくみききしわかり、そして忘れず

これだよ。これ。そう思った。

中学も高校も。卒業式で私は泣かなかった。自分の感情を出すのが恥であった

ただ、一回だけ、人目を憚ることなく、泣いたことは、高校のとき、友人が就職試験に落ちた時だった。仲良しの数人が落ちてしまい自分と、もう一人だけ受かった時、担任が、私には、良かったな、そう言ってくれたが、だが、泣き崩れて、授業中も、ずっと一人泣き続けた。就職試験に落ちた奴らに私が励まされて更に泣いた。それっきり大人になるまで、人前で泣くなんてなかった。

いま、感情の勉強中だ。隠と陽、男と女、正義と悪、両方知る必要あるらしい

塩らしい妻であった私も、学ばねばならぬから、夫に感情を出してみたりした。少しだけどね。全然まだまだだけどね。いやいや、我慢の方が多いけどね。いま人間やってる。山の中の聖者はエゴイズム。人間社会の中にいてこそ、聖者の価値もあろう。でも私に求めるのは人間らしい人間だ。人間やってきました💝と、誰かにいつか報告したいんだ。

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