独立輜重兵第四聯隊第四中隊

誰の影響も受けない独立したブログです。
戦史は公文書も参考に記載して行きます。
輜重兵の情報を求めています。

国際法違反の機雷掃海作業

2014-04-27 22:59:47 | 大東亜聖戦

おかげ様で僕の父は無事帰れました 魂より感謝。

可能であれば金比羅さんにお参りし慰霊と追悼したい。

 

 

大東亜戦争中、日本の周辺海域には約66、000個の機雷が敷設

された。その内訳は、日本海軍の係維機雷が約55、000個、米軍の感応機雷が約11、000個である。

戦後になって、これらの機雷の掃海に従事し、主要な航路・

港湾泊地を啓開、戦後の復興に大きく貢 献したのが
機雷掃海(航路啓開)部隊である。

殉職者 79名。

瀬戸内海・朝鮮戦争の活動を含めて日本の死者も多数出たが
一切公表もされず、殉職者の葬儀が
公然と行われ ることは無かった。
靖國神社にも祀られていない。

国際法では戦後の機雷処理は当事国(敷設した国)の責任で行うべきところ、連合国は敗戦国である日本に
掃海 させており明らかな国際法違反であることから、
機雷掃海作業について厳しい報道管制しいたためである。

http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/0815-soukai.htm

 


浙贛作戦 本土をB25から守る

2014-04-17 16:14:48 | 大東亜聖戦

 

作戦の動機 昭和17年4月18日、米B25爆撃機16機が東京を爆撃した。
これらの爆撃機は空母から飛び立ったが着艦が困難のため、
中国方面の飛行場に着陸したことがわかった。そこで、
大本営は華中方面の、麗水、贛州、玉山の飛行場の攻略するに決した。 
この作戦を浙贛作戦と名づけた。昭和17年5月13日
http://homepage1.nifty.com/zpe60314/sensosi10.htm

ドーリットル空襲
、1942年(昭和17年)4月18日に、アメリカ軍が、航空母艦に搭載した陸軍の爆撃機によって行った日本本土に対する初めての空襲である。なお作戦遂行において中華民国軍の支援を受けた。名称は空襲の指揮官であったジミー・ドーリットル中佐に由来する。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%AA%...
B25
http://ja.wikipedia.org/wiki/B-25_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%...


武漢作戦

2014-04-17 16:13:48 | 軍事

 

武漢作戦の背景
本作戦は広東攻略とともに支那の諸要衝を占領し、蒋介石の死命を制し、これを屈伏させようというもので、参加兵力は第11軍、第2軍 計9個師団約30万 人を超えるものであった。対する支那側の防衛兵力約60万に比較すると十分な兵力とは言えなかったが、支那事変中最大規模の作戦であった。 昭和13年初 頭、戦面不拡大、軍備拡充を方針として陸軍予算を38億2000万円としたが、これを遥かに超え、新たに40万人の増員、24万人の新設部隊、軍需32億 5000万を必要とするといった国力を傾けての大作戦で、これに伴い国家総動員法、同関連法は同年4月1日公布、5月5日から施行され、また5月下旬近衛 内閣を改造し、政府として事変解決に新たなる意欲を見せていた。
大本営は昭和13年6月18日 漢口攻略準備を命令、中支那派遣軍は揚子江及び准河の正面で逐次西方に地歩を占め、作戦を準備した。大本営は、徐州作戦の 目的が明確ではなかったことに鑑み、この作戦は要地武漢の占領であること、及び主作戦を海軍と協同し補給面でも容易な揚子江に沿う正面と明示した。作戦発 起を和平工作との関連及び収穫期を控えた9月上旬と規定した。攻略作戦準備として、海軍の協力で第11軍の一支隊を揚子江を遡らせ、7月下旬から8月上旬 にかけて九江及びその北岸の黄海を占領地歩の拡大に努め、また第2軍主力も盧州付近に終結した。
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ソ連と満州との国境紛争である張鼓峰事件を解決した大本営は8月22日、中支那派遣軍に漢口付近の要地の攻略、占領、この間なるべく多くの敵の撃破、及び漢口占領後、占領地域を努めて緊縮することを命令した。
作戦は海軍の協力を得て揚子江両岸を進む第11軍(司令官 岡村寧治中将)と、これに策応する第2軍(司令官 東久邇宮稔彦王中将)によって8月下旬から開始された。
第2軍の前進は大別山系北方を迂回する第3、第10師団と、大別山系を横断する第13、第16師団の2路をとり、支那軍の抵抗、徹底的な道路破壊、多数の河川、険峻な山地での困難な補給、疾病の流行、炎暑、多雨といった困難を克服、ほぼ2ヶ月をかけ漢口北方に進出した。
一方第11軍では揚子江北岸を第6師団が数線陣地の支那軍を逐次撃破して広済を占領、その後黄海-広済の間で優勢な支那軍の攻撃を阻止撃退し、かつ有力な一部を田家鎮に派遣、これを攻略した。
揚子江南岸では第101、第106師団が南方への地歩拡大に努めていたが、支那軍の抵抗で1ヶ月以上戦況は進展しなかった。おくれて九江付近に集結した第 9、第27師団は、九江-瑞昌を経て武漢に向って進攻を始め、9月15日要衝馬頭鎮を陥として西進、10月25日漢口南方で粤漢線を遮断、北岸を前進した 第6師団も10月17日から追撃にうつり、10月25日漢口東端に達した。支那軍は同日市内から撤退し漢口は陥落した。大本営は漢口占領翌日、進出限界線 を示し、これに基づき第9師団が11月11日岳州を占領して武漢作戦を終わった。
武漢作戦での戦果と損害
  戦 死 戦 傷 計 遺棄死体 俘 虜
第2軍 2300 7300 9600 52000 2300
第11軍 4506 17380 21886 143500 9600
総 計 9500 26000 35500 195500 11900
他に病院収容患者は第2軍のみで25000名、病死900(コレラによる病死300)にのぼった。

http://holywar1941.web.fc2.com/kindai-sina3.html

南寧作戦

2014-04-17 16:12:55 | 大東亜聖戦

 

大本営は北部仏領インドシナから重慶を通ずる広西ルートを直接遮断し、さらにビルマルートに対する海軍航空隊の爆撃基地を推進することが議論となった。  陸軍側は武漢作戦後、対ソ戦備優先とノモンハン事件勃発(昭和14年5月)で実行を渋ったが、ノモンハン事件後の統帥部首脳の更迭もあって、昭和14年 10月14日 本作戦の実行を命令した。
満州から転用された第5師団と台湾混成旅団が、11月15日から16日にかけ欽州湾に上陸、24日第5師団は南寧を占領した。さらに1個聯隊を南寧の東北 東35Kmに、1個聯隊を南寧の北20Km、別の1個聯隊が仏印国境の龍州に派遣し、大量の援蒋物資を押収させた。 12月上旬、蒋介石直系軍約10万が 前進してくるとの情報があったが第5師団長・今村均中将はこれを軽視した。部隊を分散させたままの態勢のところに12月17日から約25個師からなる支那 軍の大軍の攻撃を受け、包囲され24000名の日本軍は苦境に陥った。翌昭和15年1月13日、第18師団、近衛師団の1個旅団約3万の増援が欽州に上 陸、25日までに難南寧付近に集結、28日から賓陽付近の支那軍に対する反撃作戦(賓陽会戦)が行われ、これを退却させた。
http://holywar1941.web.fc2.com/kindai-sina4.html