独立輜重兵第四聯隊第四中隊

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戦線後方記録映画「南京」 1938

2014-12-26 21:01:59 | 大東亜聖戦

引用文

2012/10/16 に公開

1938年 東宝文化映画部作品 
日中戦争における南京攻略戦終了直後の南京城内外の様子を撮影した日本の記録映画。
この映画は、遠からず行われると予測された南京攻略戦に備え、『上海』と同時に準備の­進められた企画である。撮影班一向は、『上海』の撮影が終わるのを待ってその機材を引­き継ぎ、1937年(昭和12年)12月12日未明に南京へ向けて出立。南京陥落の翌­日14日に南京に到着し、そのまま年を越えて1月4日まで撮影を続けた。
フィルムは消失したものと長年考えられてきたが、1995年(平成7年)に中国の北京­で発見された。ただし10分ほどの欠落があると見られる。

【内容】
南京攻略戦における各戦闘箇所ごとの解説
中国兵捕虜にタバコを渡す日本兵
日本軍による南京入城式
日本軍による戦没者のための合同慰霊祭
南京にいた外国人により組織された国際委員会が設定した南京難民区という安全区域
日本軍や南京市民による城内の復興の始まり
南京の自宅に戻り始めた市民達
赤十字看護婦の活動
良民証という中国人のための身分証明の交付を行う日本軍
日本軍による正月の準備から新年までの様子
正月に爆竹で遊ぶ南京の子供達
南京自治委員会の発会式

◎南京陥落は1937年12月13日だが、当映画撮影班にとってその日は南京に入る前­日であり、敗残兵(便衣兵参照)の暴行の話を聞き、器材が掠奪されることを恐れていた­。
◎南京に入った翌14日は、南京城北部の掃蕩中であり、撮影班は掃蕩と思しき激しい銃­声を聞いている。
◎さらに翌15日から城内の撮影が開始され、訪れた挹江門(ゆうこうもん)の附近では­まだ掃蕩が行われていた。
◎16日には撮影班は紫金山麓、郊外遊園地である中山陵と附近の音楽堂を撮影している­が、その際には犬が悠々と歩いていたことが記録されている。
◎17日には日本軍による南京入城式が撮影された。天覧に供するため、そのフィルムは­直ちに空輸されている。
◎撮影班は映像に残されているように南京の避難民が非常に哀れであった状態を目の当た­りにし、その場における優しい日本兵の対応も見ている。また、水道設備の建設風景や中­国人捕虜に対する施療風景も撮影された。
◎当時の南京には日本の新聞記者やカメラマンが約120人も占領と同時に入城して取材­にあたっていたが、その中で当映画撮影班は軍特務部撮影班であったため新聞社ニュース­班の撮れないところでも自由な撮影が許されると製作事務の米沢は撮影日誌に記している­。
◎一方、撮影の白井茂は、見たもの全部を撮ったわけではなく、撮ったものにも切られた­ものがあると回顧録で述べており、南京に到着した12月14日から銃殺のため処刑地の­揚子江河畔に連行される長蛇の列を目撃したがカメラは廻せず、その目撃に憔悴し幾晩も­悪夢にうなされたとも述べている。
◎産経新聞は、鬼よりも怖いはずの「南京憲兵分隊」の前を平気で歩いている住民や、日­本軍の兵士が通っても素知らぬ顔で正月を祝って爆竹に興じる子供たち、そして特に「鑑­札を持っておれば日本軍の保護を受けることができる」という「急告」を見て、何千人も­の中国人が鑑札を求めて殺到している場面に注目し、もしも南京市内で6週間の間に20­万や30万もの中国人を日本軍が虐殺していたら、このような現象は有り得ないという映­画評論を載せている。
◎映画監督の水島総は、広い光景を撮った場面が多い映画であり、撮られて都合の悪いも­のがあればカメラマンは狭い絵のワンショットにするし、住民の恐怖感を持っていない顔­が映像で確認でき、住民が整然と並んでいることも日本軍に対する恐怖がないことを示し­ていると述べている。
◎軍事評論家の佐藤守は、この映画には南京大虐殺で30万人が殺されたという中国政府­の宣伝とは裏腹な、気抜けするぐらい穏やかで平和な南京市内の状況が写し出されている­と述べている。圧倒的な戦力不足の状況下で30万人もの大量虐殺をしたというのであれ­ば、このようなシーンは絶対に撮影できなかっただろうし、正月に爆竹を鳴らして遊ぶ中­国人の子供達の表情からも市内の治安が回復されたことが十分伺えるとも述べている。


神風特別攻撃隊

2014-12-06 19:02:41 | 英霊

 

引用元http://4travel.jp/travelogue/10657213

■神風特別攻撃隊に思う

特攻隊の編成に中心的役割を担った大西中将自らが特攻作戦を「統率の外道」と場ィつぶやいた”ように、これだけ大規模、継続しての特攻作戦は過去の戦争にはないだろう。世界史の上でも初めてのことであり、ゆえに特攻については様々な意見がある。

その特攻を語るとき、いつも議論になることがある。それは・・・。

(一)「特攻作戦の是非について」
(二)「特攻は命令だったのか?志願だったのか?」
(三)「“後から俺も行く”と送り出した上官が戦後に生き残ったことについて」

この三つについて私が思うことを述べる。平成24年62歳になる一小市民である私の思いであり誰にも同意を求めるものではない。

(一)「特攻作戦の是非について」

敷島隊が大戦果を上げた直後の11月、大西中将に面と向かって特攻を拒否した美濃部正少佐の言葉が、特攻作戦の本質を表していると思う。彼は戦後、特攻を次のように語っている。

『戦後よく特攻戦法を批判する人があります。それは戦いの勝ち負けを度外視した、戦後の迎合的統率理念にすぎません。

当時の軍籍に身を置いた者には、負けてよい戦法は論外と言わねばなりません。私は不可能を可能とすべき代案なきかぎり、特攻またやむをえず、と今でも考えています。戦いのきびしさは、ヒューマニズムで批判できるほど生易しいものではありません』

彼 が言うように大西中将が特攻作戦を決意したときは、通常攻撃では戦果をあげられず搭乗員の戦死だけが空しく増え続けていた。「俺一人でも敵空母に体当たり してやるから、ワイヤーで零戦に爆弾をしばりつけてくれ」と整備兵に懇願する者が出ていた状況下、圧倒的優位な敵に対して起死回生の効果をもたらす戦法は 特攻攻撃しかなかった。

だから私は特攻作戦を「是」とするだけではなく、感動し賛美し日本の誇りだと思っている。そして未来に危急存亡の時を迎えても、必ずやその精神は継承され続けていくことと信じる。

(二)「特攻は命令だったのか?志願だったのか?」

私は「特攻は命令」だと思っている。そしてその命令を下したのは、私の解釈では一人大西瀧治郎中将である。特攻隊員の多くはその作戦に納得し、自ら志願して飛立った者も多い。そして命令を下した大西中将は戦い終結に際し見事に責任をとった。

「命 令か志願か?」そこに答えを求める必要はない。特攻隊員も上官から発せられた言葉から「命令」「強制」と感じた者もいただろうし、「志願」と受け取った者 もいただろう。航空特攻の最年少は16歳、主体は二十歳に満たない、或いは25歳にならない少年青年たちが夢ある明日を断ち切り、家族を守り、国を守るた めに笑みを浮かべて敢然と飛び立っていった。

そんな少年、青年が少なくとも一人でもいたのは事実だろう。いや一人ではなく二人、二人で はなくもっともっといただろう。そのことに私は言葉に出来ない感動と畏敬を抱く。心身強健の選りすぐられた若者が明日も生きていたい、明後日も来年もまだ まだ生き続けたいというのは当然のことだ。

誰だって死ぬのは嫌だ。青春真っ只中の若者こそがその気持ちが一番強くて当然だろう。それで も彼等は笑みを浮かべて飛び立った。またそれをすぐに「洗脳」と言うつまらぬ性根の奴がいる。この「洗脳」ということについても「命令か?」「志願か?」 と同じ次元で語るに落ちる。

一つ言えるのは、当時特攻出撃の渦中でさえも、卑怯に生き延びようとした上官・高官が存在していたようだが、多くの若き特攻隊員はそんな全てを知りながらも自らの命を捧げて散っていった。

そんな彼等の一途な気持ちは「あいつが行くなら俺も行く、あいつの敵をとる」という気持ちだったろうというのが私の推測であり、もし私がその立場になれば素直にそれが一番だ。

特攻を非難する徒輩がいくら「特攻は犬死だ」と声高に叫ぼうが、特攻がたとえ命令強制であったとしても「あいつだけに行かしはしない・・・」 そのことのみで私も行く。それが神風特別攻撃隊の真実の姿だと私自身はそう思っている。

(三)「後から俺も必ず行く”と送り出した上官が戦後に生き残ったことについて」

特攻第一陣からしばらくは当然厳粛な雰囲気もあり、特別な作戦だったようだが、それが日々のこととなればやがて送り出す側は慣れてしまう。そんな送り出す側と、隊員として選ばれた者の間には当初と違った雰囲気が出てくるのは十分想像できる。

そして「後から必ず行く」と送り出した上官が戦後に生き残ったということがある。一途な若者を「日々の作戦」となった特攻として死地に送り出し、自らは彼等との約束を守ることなく終戦後の人生を全うした。 これに対して私は次のように思っている。

山本七平が戦犯体験から曰く
『普段はどんな大言壮語をしようと、安全地帯にいる間はどんな立派な人道的な言辞を弄していようと、いざとなれば、そんなもの全部「嘘の塊」にすぎず、自己顕示欲と虚栄心の所産にすぎないということは、もう見飽きるほど見てきた。』

上 記の言葉に尽きると思う。「最後には必ず自分も行く」と約束し真実その時点では死の覚悟が出来ていた上官も、いざとなれば自決は難しい。そんなことは戦場 や戦犯収容所では普通の人間に普通に起きることだ。約束を守れず生き延びた上官も普通の人間であり、犯罪者でも卑怯者でもなければ鬼畜生でもない。

なんら命の危険もない場所に生き続けている私が、そんな上官を非難する資格は元よりない。上官と同じ境遇になった時、出来得れば約束を裏切らない人間でありたいと願うだけだ。それすらまことに心もとない。

神風特別攻撃隊関係の本やネットのブログで得々とそういった上官の非をあげつらっているのが沢山ある。そんな戦後の日本人や元特攻隊員を残念に思う。 戦後に生き延びた上官も部下の霊を終生弔いながら生きている人たちがほとんどだろう。

そして特攻の生みの親、大西瀧治郎中将は「貴様らだけを死なせはしない。俺も必ず後から行く。」を実践し見事に決着をつけた。たとえ他に誰が生き残ろうが、それで良し。それが特攻精神の真髄であるはずだ。

大西瀧治郎中将の壮絶な死が、他の生きるを許し、他が生きることによって大西中将の死がより輝きをまし価値を高めた。共に見事なり。