独立輜重兵第四聯隊第四中隊

誰の影響も受けない独立したブログです。
戦史は公文書も参考に記載して行きます。
輜重兵の情報を求めています。

絵本 「9番目の戦車」

2014-06-25 23:04:00 | 大東亜聖戦

 

こんな絵本があるんですね
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ある太平洋上の島で闘っている日本とアメリカの戦車部隊。

日本軍は撤退することになるが、アメリカの戦車部隊が追撃してくる。

主人公の戦車は、他の戦車たちや、戦車の乗組員と別れを告げ、キャタピラが大破したので、そのまま島にとどまり、敵と戦って食い止める。

すぐ隣には、同じくキャタピラが大破したアメリカ軍の戦車も。

そして、何十年も時が経ち、主人公の戦車も、隣の戦車も、いつの間にか友達になり、さび付きながらも海を一緒に眺めている。

と、そんなある日、その戦車の乗組員だった若者が、随分と年寄りになり、その戦車に再び会いにこの島にやってきた。

その若者が無事に生きてくれていたことを、どれだけその戦車も喜んだか。

実際には、もちろん戦車が感情を持ったり、心の中で言葉を語ることは、少なくとも私たち人間には感じることができないことだけれど、もし戦車に心があれば、まさにこの絵本のようなことを思っていたのかもしれない。

時折、今でも南の島には、日本軍や米軍の戦車や戦闘機の残骸が、さび付きながらも残っているという。

この絵本のような会話をそれらの機体はかわしているのかもしれない。

心に響く、良い絵本だった。
引用元http://d.hatena.ne.jp/elkoravolo/20130526/1369574368


おとうさんへの千羽鶴  絵本

2014-06-22 16:50:21 | 大東亜聖戦

 

元警察官 ときたひろし の絵本 子供と反日には是非読んであげたい。
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ともえちゃんのお父さんは、翼の上から、最期の景色を眺めました。
美しい緑の山々、遠くまで続く青い空。
この向こうの空の下には、もう敵が迫ってきていました。
この後ろの空の下には、お父さんの家族が住んでいました。

「みんな、ありがとう。いってきます!」
涙をこらえて敬礼する強面の中隊長と、大きく手を振って見送る整備兵たち、
そしてなきそうな顔をしている女学校の生徒達にりりしく敬礼した後、
お父さんはにっこり笑い、操縦席から大きく手を振りました。

「ただいま」
お父さんが帰ったのは一週間ほど前のことでした。
「あ、あら、あなた!おかえりなさい!お父さん、お母さん!
源太郎さんが帰ってきましたよ!ともえ!」
お母さんは大あわてです。
「うん。三日だけ中隊長が休みをくれたんだ。たまにはゆっくりしてこい、ってね。」
おばあちゃんが玄関から出てきて言いました。
「あら、三日もいただいたのかい?じゃぁ何を作ろうかね」

その日の晩ご飯はおかずが増えてお膳の上がちょっとだけ賑やかになりました。
久しぶりに家族全員がそろっての夕食です。
お母さんが奥の部屋から、何かを持ってきました。
千羽鶴です。
おばあちゃんが言いました。
「白い紙をそろえるのが大変だったの。お父さんが方々から集めてきてくれたのよ」
「おまえ、そんなことはいいんだよ。かっこうわるいじゃないか。
源太郎、これを持っていけ」
「あのね、ともえもね、お願い事ね、いっぱい書いたんだよ」
「あなた、この鶴がきっと助けてくれるわ。持っていって」

家族の心のこもった千羽鶴に、お父さんは涙が出そうでした。
翌々日、お父さんは、家を出ました。
お父さんは玄関先で、泣きそうにして笑顔を作るおかあさんと、
泣いちゃったともえちゃんを抱き寄せると、ほっぺをぴたんこして、
「必ず帰るから、大丈夫だよ」と約束しました。
そして、おじいちゃんとおばあちゃんに、お礼を言うと、
見送りを断って、バス停へ向かいました。

お父さんはもう一度だけ、振り返りました。
死んでもみんなのことを忘れないよう、もう一度見たかったのです。

みんなが手を振っていました。
お父さんも千羽鶴を振りました。
今、お父さんは、その千羽鶴を後ろに乗せて、大空を飛んでいます。
もう、家族のことを考えてはいませんでした。

「千羽鶴たちよ、聞いてくれ。
もう日本には、武器も鉄も、燃料もないんだ。
積んでいく爆弾も、これが最後だ。
ちょっと重たいけれども、いちばんでかい戦艦のどてっぱらにたどりつくまで
力を貸してくれよ」


本当はお父さんだって、死にたくなんかなかったはずです。
生きてかえってもう一度、ともえちゃんをだっこしたかったはずなのです。

でも、
大切な家族を守るためならば、
家族が住む日本を守るためならば、
この命を爆弾にして、体当たりしたってかまわない。
死ぬまで戦おう。
死んでも戦おう。
死んで想いを天に届けよう。
そうすればきっと、神風が吹く。

お父さんはそう信じていました。
上空を警戒していた敵の戦闘機が襲いかかります。
お父さんは戦闘機の機首を下げ、敵の攻撃を素早くかわしましたが、
今度は爆弾が重すぎて、上昇できません。
このままでは海に落ちてしまいます。
その時、向こうの正面に、とても大きい敵の航空母艦が見えました。
斜めになった操縦席の後ろで、千羽鶴が、ガサリ、と揺れました。
「落ちてたまるか!鶴ども、いまこそ俺に力を貸してくれ。
目標は・・・あの空母だ!」

お父さんは操縦かんを必死で引きました。
戦闘機の翼が、みしっみしっときしみながら、やっと水平を保ちました。
と、その時、プロペラの音もかき消すほどの、ものすごい音がしたのです。
顔に吹き付ける風に、お父さんは、はっとしました。
エンジンから吹き出す炎の向こうに、敵の空母が見えたのです。
「見たか、俺はまだ生きている!まだ飛んでいるぞ!」

でも戦闘機は少しずつ高度を下げ、翼はもう海面すれすれです。
千羽の鶴たちは、回転の落ちたプロペラの分まで、
操縦席いっぱいに舞い上がり、飛び回っています。
遠のく意識と白くなる視界の中で、
お父さんは血だらけの操縦かんを握りしめ、つぶやいていました。

「俺は生きている!まだ、生きているぞ!
死んでたまるか!あの艦にたどり着くまで・・・」

「飛べ!飛べ!・・・飛べ!・・・!飛べ・・・」

「飛べ!」


引用元http://sakuranippon.blog130.fc2.com/blog-entry-188.html
http://plaza.rakuten.co.jp/tokitaya/


イギリスの戦没者追悼

2014-06-17 15:04:27 | 軍事

 

グレートブリテン及び北部アイルランド連合王国

1.セノタフ(TheCenotaph

(1)場所ロンドンホワイトホール街

(2)設置時期1920年11月11日

国王ジョージ五世により除幕された。

(3)設置者・管理者国(管理担当官庁:文化・メディア・スポーツ省)

(4)性質 記念碑

(5)形状

・重量120トン、全高35フィート

・側面と頂上に月桂樹の輪の装飾を配し。国旗等を側面に掲げている。

・(碑文)

・西面:「THEGLORIOUSDEAD」(栄光ある死者)

・北面・南面:「19141918」(ローマ数字)

・東面・西面:「19391945」(ローマ数字)

東面・西面の数字は、1946年11月10日に国王ジョージ六

世により除幕された。

(6)宗教性なし

(7)追悼対象

・第一次世界大戦、第二次世界大戦、パレスチナ紛争、フォークランド紛争、湾岸戦争、北アイルランド紛争等第一次世界大戦以降の英連邦諸国の戦没者

・この「戦没者」には、警察官・消防士・戦時に重要な役割を担い戦争起で死亡した

(救急ボランティア・バスの運転手等)も含まれるが、一般戦災死没者の市民は対象には含まれない。

・戦争以外で死没した者は対象ではない。

・第一次世界大戦以降の戦没者が対象であるため、今後、追悼対象が増えることはあり得る。

(8)参考事項「セノタフ」とは、ギリシャ語で「empttomb」(空の墓)の意味。

(9)追悼行事戦没者記念日式典


弔銃発射 第6潜水艇 佐久間勉艇長

2014-06-03 19:08:36 | 大東亜聖戦

 

 

自衛隊
第6潜水艇殉難慰霊式(鯛の宮神社)

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-858.html以下引用

明治時代に起こった潜水艇の事故のお話です。

深い海の底で、艇長と乗組員は、持ち場を離れずに、従容として死を迎えた。

酸素がなくなり、有毒ガスが充満し、死を待つのみとなった極限状況の中で、その事故がこれからの日本の潜水艇造船技術の開発に役立つよう、克明に経緯のメモに残した艦長がいました。

そしてその艦長は、それぞれの部署で責任を全うする乗組員ひとりひとりのご家族への特別の配慮を願い出る。

死に直面した中で、冷静沈着にやるべきことをする。

そういう強い精神力を持った人が、この日本にいました。


明治四十三(1910)年四月十五日のことです。

第六潜水艇【せんすいてい】と呼ばれる小型潜水艇が、ガソリン潜航実験の訓練などを行うため山口県の岩国を出航して、広島湾へ向かいます。

ガソリン潜航というのは、ガソリンエンジンの通風筒の先だけを海面上に突き出して、ガソリン機関によって水上走航に近い速度を得ようとするものです。
原理的には、シュノーケルで潜水するものに近い。

水中潜航の場合は、通風筒のバルブを閉じ、蓄電池による電動機により推進します。

当時、日本は九隻の潜水艇を保有していました。
そのうちの七隻は欧米製。
第六潜水艇は、国産の初の潜水艦でした。
まだまだ性能も操作性も貧弱で、技術開発の途上の潜水艦です。


第六潜水艇は、午前十時ごろから訓練を開始しました。

ところが十時四十五分ごろ、何らかの理由で通風筒の長さ以上に艇体が潜航してしまいます。

このため、艦内に海水が浸水。
乗組員はすぐに、浸水を防ぐための閉鎖機構を操作します。
ところが、肝心の閉鎖機構が、故障を起こしてしまいます。


乗組員は、必死になって手動で閉鎖しようと努力します。
しかし、第六潜水艇は、十七メートルの海底に着底してしまう。


付近にいた監視船は、長時間たっても浮上しないことに気づき、ただちに広島県の呉港に在泊の艦船に「遭難」の報告をします。

救援の艦船が駆けつける。

必死の捜索の後、ようやく船を見つけたけれど、そのときは、艇長の佐久間勉大尉以下、乗組員十四人の死亡が確認されていました。


実はこの事故より先に、イタリア海軍で似たような事故がありました。

このときイタリア潜水艇では、乗組員が脱出用のハッチ(昇降口扉)に折り重なり、他人より先に脱出しようとして乱闘をしたまま死んでいました。

ふつう、危機に直面するほど、周章狼狽【しゅうしょうろうばい】して、本性が現れる。
それは、やむをえないことといえます。
誰だって死にたくない。


当時はまだ潜水艇の造船技術が低く、世界各地でこうした悼【いた】ましい事故が起こっていました。
そして、直近のイタリア海軍の事故の模様は、全世界に知られていた。


「佐久間艇長以下の乗組員も醜態をさらしてしまっているのではないか」

帝国海軍関係者一同は、固唾【かたず】を呑んで潜水艇のハッチを開け、艦内の調査を行ないます。

そして乗組員が発見される。

乗員十四名のうち十二名は、艇長は司令塔に、機関中尉は電動機の側に、機関兵曹【へいそう】はガソリン機関の前に、舵手【だしゅ】は舵席に、空気手は圧搾管【あっさくかん】の前にと、それぞれ全員、持ち場に就いたままの姿で亡くなっていました。


「よくやった。世界に醜態をさらさずにすんだ」

ところが、二名がいません。


「どこだっ!」


二人は、本来の部署にはいませんでした。
二人がいたところは、ガソリンパイプの破損場所でした。

彼ら二人は、最後の最後まで、懸命に破損の修理に尽力したのです。
そして、その姿のままで亡くなっていた。


引き上げられた六号艇を検分した一同は、死に至るまで職務に忠実であった様を見て、帝国海軍軍人として正にふさわしい死に方をしたと号泣しました。


この事件は世界中に、日本人の責任感と勇敢さを示したものとして、伝えられました。

イギリスの新聞グローブ紙は、

「この事件で分かることは、日本人は体力上勇敢であるばかりか、道徳上、精神上も、また勇敢であるということを証明している。
今も昔もこのようなことは前例がない」

と賛辞の声を惜しみませんでした。


各国の駐在武官も、詳細な報告を本国に伝え、わが国の海軍省をおとずれ弔意を表明しました。
それは通常の外交儀礼を超えたものでした。


明治天皇からは、遺族に見舞金が届けられました。これは特別の計らいです。

当時の朝日新聞によって、全国から寄せられたた義援金は、現在の貨幣価値なら億単位となる五万六千円にも達しました。

反戦平和の歌人といわれた与謝野晶子も、次のように追悼の歌を詠んでいます。


 海底の
 水の明かりに したためし
 永き別れの
 ますら男の文


またこのお話は、「やるべきことを最後まで成し遂げる」「職務を全うする」ということで、戦前の小学校の修身の教科書に取り上げられます。
残念なことに、いまの日本の教科書にはまったく取り上げられていませんが。
 

この事故で亡くなられた佐久間艇長は、空気が乏しくなり、薄れゆく意識の中で、死の直前まで手帳に書き続けたメモを残していました。

一頁に三行から五行、全文三十九頁に及ぶものです。
苦しい息の中で、文字は正確、文章は簡潔明瞭でした。

このメモの写しは、当時、アメリカ合衆国議会議事堂の、ワシントンの独立宣言書が陳列されている大広間に、英訳を添えて丁重に陳列されたりもしました。


謹んで陛下に申します。わが部下の遺族をして、窮する者のないよう、お取りはからいください。
私の念頭にあるのは、これあるのみです。

浮上せず第潜水艇http://www.geocities.jp/kenzo6627wakasa/sakuma100.htm