独立輜重兵第四聯隊第四中隊

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在米韓国人の間で排斥運動が行われている本

2013-10-06 16:44:49 | 大東亜聖戦

「竹林はるか遠く-日本人少女ヨーコの戦争体験記」

一晩で読んでしまいました。
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この本は1986年にアメリカで出版された物の日本語版です。

アメリカでは戦争の悲惨さを伝える良書として高く評価され、学校の教材にもなりました。

ところが、在米韓国人の間で排斥運動が行われ、学校教材から外される様になりました。
しかし、その後に再採用する動きがあり、韓国人による排斥運動は今のところは上手くはいっていない様ですが、尚も続行中の模様。

何故その様な運動が有ったのかと云うと…

本書に描かれる韓国人、朝鮮人の姿が、日本を絶対悪と貶めたい、被害者であり続けたい韓国人にとっては都合が悪い為の様なのです。

本書は、終戦後の朝鮮半島から引き揚げる日本人の体験談です。
日本人少女ヨーコとは、著者のヨーコ・カワシマ・ワトキンズ(Yoko Kawashima Watkins)さんの事。http://nanos.jp/soodala/

ユ-チュウ-ブより
●引揚途上の人達を襲った虐殺・暴行・強奪者達の群れの襲撃は、嵐¬という言葉では表現しきれない<荒れ狂う暴風雨状態>だった所か¬らそう名付けられました。
歴史上、大陸の戦乱動乱時には常に有った、敗退者に対する群衆や¬軍人等による強姦・強奪・暴行・虐殺等の<人間テンペスト>。日¬本人にはその様な事を遣る慣習が無かったので、仕返しというわけ¬ではないのです。
●朝鮮半島は終戦後が地獄だった
朝鮮の残留日本人は3万5千人が虐殺された。
日本女性への強姦は数え切れないほど。
韓国が日本に謝罪せよ!と喚くが、
謝罪すべきは民間人を大虐殺した朝鮮人の方だ。




川嶋一家5人は朝鮮半島東北部の町・羅南(らなん)で、戦時下ではあるが、それなりに平和に暮らしていた。1945年(昭和20年)のある日(4月以 降)、擁子(ようこ)と好(こう)は慰問に訪れた軍病院で、負傷兵松村(まつむら)伍長と知り合う。数週間後、松村(まつむら)伍長は川嶋家をお礼に訪 れ、その後もたびたび訪れ、川嶋一家と親密となる。この頃、朝鮮半島北部にもB-29が爆撃に時々現れ、また、日本敗北の気配を読み取って、半島内に反日 朝鮮人共産主義同盟、朝鮮共産党軍が組織されつつあった。
1945年(昭和20年)7月29日深夜、松村(まつむら)伍長がソ連軍が侵攻してくることを一家に伝え、すぐに町を脱出することを勧める。父と淑世(ひ でよ)は不在だったが、ソ連軍は既に近くに迫っており、2人に連絡する時間はもはやなく、書置きを残して、母と擁子(ようこ)と好(こう)の三人は最低限 の荷物と財産を持って、松村(まつむら)伍長の勧めどおり赤十字列車に乗って羅南(らなん)を脱出した。列車はその後京城(けいじょう)まで70キロの地 点で爆撃に遭い、機関車が破壊されたので、三人は列車を降り、徒歩にて京城(けいじょう)を目指す。しかし半島内は既に、ソ連軍と呼応した共産軍の兵士に よって、北から南へ逃走中の日本人は片っ端から殺害され、日本人の遺体は金歯を引き抜かれ身ぐるみ剥がされ、日本人の土地家屋財産などが奪われ、日本人の 若い女を見つけると草むらや路地裏に引きずってでも強姦されていたが、彼らを怒らせたら他の日本人が集まる避難所を攻撃されるとされ、周囲にいた日本人難 民は反撃できないで、悲鳴を聞いても黙って耐えるという地獄絵図と化していた。
擁子(ようこ)達三人は、釜山(ふざん)まで列車で移動し、衣食住は極貧であったが、赤十字病院やアメリカ軍の残した残飯を漁ったり、髪を切り男装したり と知恵を絞り、何とか無事に生き残り、秋に連絡船で福岡に帰国する。 しかし、帰国後も彼女たちを待ち受けたのは、夢に見た美しい祖国ではなかった。 唯一、空襲を受けずに済んだ京都へ出向くが、期待していた父方と母方の両方の祖父母が、青森で空襲で死亡したことが分かり、京都駅で母が病死する。 孤児となった擁子(ようこ)と姉は、必死で残飯をあさり、駅で野宿して生き延びる。 母の願いで、学校にだけは通いつづけるが、そこでは貧しい擁子(ようこ)に心無い言葉を浴びせる裕福な子供達が待ち受けていた。
しかし、親切な増田(ますだ)夫妻と、再会した松村(まつむら)伍長の支えで、姉妹で働きながら何とか生活基盤を整えて行った。父と兄が生きていることだ けを信じて、毎週末、福岡から移転した舞鶴港で、朝鮮からの避難民の中から兄を探した。松村(まつむら)伍長の計らいで、ラジオで探し人として、父と兄の 名前が呼ばれた。 そんなある春の日、朝鮮風の格好をした男性が、彼女達の家をたずねて来た…。
中華人・朝鮮人・ソ連人による日本人に対する襲撃は、その激烈さ¬から
<人間テンペスト>と呼ばれました。
ユ-チュウ-ブより
●引揚途上の人達を襲った虐殺・暴行・強奪者達の群れの襲撃は、嵐¬という言葉では表現しきれない<荒れ狂う暴風雨状態>だった所か¬らそう名付けられました。
歴史上、大陸の戦乱動乱時には常に有った、敗退者に対する群衆や¬軍人等による強姦・強奪・暴行・虐殺等の<人間テンペスト>。日¬本人にはその様な事を遣る慣習が無かったので、仕返しというわけ¬ではないのです。
●朝鮮半島は終戦後が地獄だった
朝鮮の残留日本人は3万5千人が虐殺された。
日本女性への強姦は数え切れないほど。
韓国が日本に謝罪せよ!と喚くが、
謝罪すべきは民間人を大虐殺した朝鮮人の方だ。