独立輜重兵第四聯隊第四中隊

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靖国神社での小野田寛郎少尉の発言 感謝

2014-01-19 18:50:10 | 大東亜聖戦

『ルバング島 戦後30年の戦いと靖国神社への思い』小野田寛郎著より一部抜粋

「心ならずも戦死された」は、英霊に対する侮辱

靖国の英霊に対して「心ならずも戦死された(本当は戦争に行きたくなかったのに戦争でしんでしまった)」と言う人がいます。しかし、これほど英霊を侮辱した言葉はありません。

皆さんの中には特攻隊の遺書をご覧になった方がいらっしゃるでしょうか。特攻隊の遺書には、「心ならずも(本当は行きたくなかったのに)」なんて書いてありません。私も当時、特攻隊の方々とほとんど同年齢でありました。私がもし当時戦死していて、「心ならずも死んだ」と言われたら、侮辱されていると思って怒ります。


当 時の私たちは、死ということに拘泥しない、深く考えない、死んだら神様だと、そういう考えをしていました。何故かと言いますと、戦争には若い者が先頭に立 たなければ国の将来がないということをはっきり考えていたからです。お国のために命をかけて働いているので、兵隊は普通の人の半額で映画館に入ることがで きました。それで、「映画半額、命も半額、死んだら神様だ」などと笑いながら話していました。これが当時の私たちの戦死に対する考え方だったのです。

当時は徴兵令で、満20歳になると身体に異常のない男子はみんな兵役につかなければなりませんでした。だから「心ならずも」と言うのかもしれませんが、それは当時の私たちの気持ちを表した言葉ではありません。好きで兵隊になったわけではなくとも、多くの人間は国のために死ぬ覚悟を持っていました。戦争に負けた後、戦後の教育で洗脳され、本当の日本人の気持ちを理解できなくなった人が、そういうことを言うのだと思います。

●「死んだら会おう」と約束した場所は靖国神社以外にはない

私は、そのお金を全部靖国神社に奉納しました。すると、一部の人から「小野田は軍国主義復活に加担した」と散々に批判されました。この時は、戦争で亡くなった人を祀る靖囲神社のことを、まるで軍国主義の象徴のように言う人がいたのです。

なぜ、靖国神社にお金をお納めして悪く言われなければならない のか。そのとき、私はもう日本に住みたくないと思いました。それで、次の自分の生活の場をブラジルに求めたわけです。

と にかく、私たちが「死んだら神さまになつて会おう」と約束した場所が靖国神社であり、戦後その靖国神社を国家が守らないことに対して、納得できない人は多 いと思います。国は私たちが死んだら靖国神社に祀ると約束しておいて、戦争に負けてしまったら、靖国など知らないというのは余りにも身勝手です。国による 直接の運営が難しければ、せめて政府を代表して内閣総理大臣に八月十五日の終戦の日に堂々とお参りしてほしいものです。

最近は、靖国神社とは全く別の追悼施設をつくる、という詰まで持ち上がっていますが、これは、死んだ人間に対する裏切りであります。靖国神社とは別の追悼施設がつくられるのであれば、私は死んでも死に切れません。


『ルバング島 戦後30年の戦いと靖国神社への思い』小野田寛郎著(2007/06)

引用元http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/


訃報 小野田寛郎少尉 死去

2014-01-17 21:33:33 | 大東亜聖戦

2011年8月15日 靖国神社において下記演説ののち握手をさせて頂いた、
この時が始めての出会いで最後であった。合掌

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太平洋戦争の終戦を知らずにフィリピン・ルバング島で30年間過ごした元陸軍少尉の小野田寛郎(おのだ・ひろお)さんが死去したことが16日、分かった。91歳。和歌山県出身。

 死因などは不明だが、小野田さんが設立した「小野田自然塾」(東京都中央区)関係者はスポニチ本紙の取材に「亡くなったという連絡を受けている」と明かした。近く、近親者のみで密葬を営むとみられる。

 小野田さんは1942年に和歌山歩兵第61連隊に入隊。44年にルバング島に派遣され、情報員の任務を与えられた。

 しかし、終戦を知らずジャングルに潜伏。51年に帰国した元日本兵の証言からその存在が判明したが、作戦解除命令がないことを理由に部下とともに山中にとどまっていた。74年3月、捜しにきた元上官らの任務解除命令を受け、山を下りて救出され帰国した。

 帰国後の翌75年、ブラジルに移住。原野を開拓して牧場をつくった。

 84年、ルバング島での経験を生かし、たくましい青少年育成のために「小野田自然塾」を開設。キャンプ生活を通して自然の大切さや、目的を持ってたくましく生きることなど人間の本質を教えていた。

 近年は都内で暮らし、国内各地で精力的に講演を実施。ルバング島での体験を振り返り、「生き続けようという目標を持っていたことで、日本に帰ることができた」などと話していた。

 ◆小野田 寛郎(おのだ・ひろお)1922年(大11)3月19日、男5人、女2人の7人きょうだいの四男として和歌山県亀川村(現海南市)で生まれ る。日本帰還後に移住したブラジルでは牧場で1800頭の肉牛を飼育していた。著書に「戦った 生きた ルバン島30年」(74年)。05年、藍綬褒章を 受章。

http://www.sponichi.co.jp/society/news/2014/01/17/kiji/K2...


神風特別攻撃隊(さくら)

2014-01-04 08:22:47 | 国旗

 

 
どんな思いで散っていったのだろう…。まさに日本の英霊。
 
いまの日本が恥ずかしいな
 
靖国神社に行きましょう
 
よく 詩を聞いてください 一体この詩に 結婚する友を思う言葉がどこにあるのか・・・  この詞は 苦楽を共にした仲間が 苦しみから解放される 解き放たれる事を偲んだ 詞でしょ。 こんな簡単な読解力も持てないのか・・・
 
どすこーい!
 
これは、そんな歌じゃないです。直太朗さんが友人の結婚式の為に作った曲だと以前おっしゃっていました。人のとらえ方に否定も肯定もできませんが・・・
 
これミラー? 原作はもっとコメント多かったきが・・・
 
平和になる事を信じて亡くなっていってるんだよね。 胸を張って平和になってますと言えるのだろうか。 死に恐怖した特攻隊員の方が、我が家の上をグルグル旋回していた記録もあります。 その恐怖がありながらも、未来を輝く未来を信じて敬礼して旅立って逝ったんだよね。
 
愛する祖国のため、家族のため、散って行った方々を絶対に忘れてはいけないと思いました。
 
俺らの爺さんたちは最強でした。
 
小林よしのりの『靖国論』を読んで欲しいですね 売上は25万部 靖国本では日本で一番売れた本だと思う 誰が靖国を問題化し、外国に輸出したか全部わかるから

 
国のため自分の命を捧げた英霊の方々は日本の誇りです。世界の歴史上なかなかいないと思います。