独立輜重兵第四聯隊第四中隊

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父が参加した浙贛作戦

2015-02-23 09:16:55 | 英霊

攻撃される横浜 初めての空爆で衝撃的であった 民間施設への無差別非道な爆撃である、今からでも国際司法裁判所に訴訟すべきである、先人は大陸にいながらも本土爆撃を阻止しようと奮闘したそれが浙贛作戦である硫黄島でも本土爆撃を少しでも遅らせようと奮闘、誰の為か日本国民 公の為に己の欲を排した尊い行動に敬礼>

爆撃後ロシア方面 上海近郊に不時着

浙贛作戦は米国爆撃機が日本本土を爆撃後上海近郊に不時着した。陸軍は本土爆撃を防ぐため140万の戦力で上海近郊の飛行場を徹底的に殲滅破壊した。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AB%E7%A9%BA%E8%A5%B2

【ワシントン時事】オバマ米大統領は23日、太平洋戦争開戦直後に日本本土を初めて空襲した「ドーリットル爆撃隊」の隊員に、議会最高位の勲章「議会金メダル」を授与する法案に署名した。法律は、隊員らの「傑出した勇気と武勇、技量および米国への献身」をたたえた。
 ドーリットル隊による本土空襲は、1941年12月の真珠湾攻撃以来、日本軍に押されていた米軍が、日本に心理的動揺を与えるため立案。ドーリットル中佐率いる16機の陸軍爆撃機B25が42年4月、太平洋上の空母から発進し、東京などを空襲した。
:引用終了

http://d.hatena.ne.jp/MARC73/touch/searchdiary?word=*%5B%DE%B6%26%2336123%3B%BA%EE%C0%EF%5D

ドーリットル空襲

アメリカ ドーリットル将軍率いる航空母艦から発進したB-25爆撃機が東京を空襲したのは昭和17年、私が小学校三年生の時。よく覚えています。

 予想もしていなかった空襲で、日本全国 衝撃が走ったと思いますね。特に、たった一人学童が銃撃に合い死んだ事で、その 誰それ君 の仇を討つべきだ、との全国的合唱が起りました。 でも、よく考えると緒戦の勝利で、日本全国多少いい気になっていたのでしょうね。まさか、あそこで 敵の爆撃機が襲来して来るとは全く予測もしていなかったと思いますよ。それが証拠には飛んで来たB25に対して手を振って迎えた小学生もいたのですよ。事 実、それ来、B29による本格的な空襲がやって来る迄は、第二のドーリットルは ついぞ現れませんでしたから...。

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ホーネットからのドーリットル隊の発艦

年月日:1942年4月18日
場所:東京
指揮官 ジミー・ドーリットル中佐
戦力 B-25、16機
損害 死者50人、家屋262戸 戦死1名、行方不明2名、捕虜8名

ドーリットル空襲(-くうしゅう、Doolittle Raid)、またはドゥリットル空襲とは、太平洋戦争中の1942年4月18日に、アメリカ軍が航空母艦に搭載した陸軍の爆撃機によって行った日本本土に対する空襲である。名称は空襲の指揮官の名前に由来する。

[編集] 経緯

真珠湾攻撃以降一方的な敗退を続け、さらに開戦後の1942年2月24日には、日本海軍の伊17乙型大型潜水艦によるアメリカ本土のカリフォルニア 州サンタバーバラのエルウッド石油製油所への砲撃を受け、大きな衝撃を受けたアメリカ軍は、士気を高める方策として帝都・東京を爆撃する計画をたてた。

アメリカ陸軍は長距離爆撃機を保有していたものの、その行動半径内に日本をおさめる基地は無く、ソ連の領土は日ソ中立条約のため、爆撃のための基地 使用は行えなかった。また、アメリカ海軍の空母艦載機は航続距離が短く、爆撃のためには空母を日本近海に接近させる必要があり、これは太平洋上で唯一動け る空母機動部隊が危険に晒されることを意味した。そんな中、アメリカ海軍の潜水艦乗組員が「航続距離の長い陸軍の爆撃機を空母から発艦させてはどうだろう か」とルーズベルト大統領に進言。B-25爆撃機を急遽、空母の短い飛行甲板から発進出来るように軽量化を図った。

陸軍爆撃機の空母からの発艦は実戦では初であり、この作戦はトップシークレットとされた。また、空母に着艦するのではなく、日本列島を横断して当 時、日本軍と戦争中であった中華民国東部に中華民国国軍の誘導信号の下で着陸する予定となった。B-25を搭載する空母はホーネットとされ、エンタープラ イズが護衛につくこととなった。

[編集] 空襲の経過

1942年4月1日、16機のB-25を搭載した空母ホーネットおよび護衛の巡洋艦3隻、駆逐艦3隻はサンフランシスコを出撃した。途中、エンター プライズと巡洋艦2隻、駆逐艦4隻と合流し、日本へ向かった。攻撃予定日前日の4月17日、発艦予定海域手前で日本軍特設監視艇、第二十三日東丸に発見さ れた。第二十三日東丸は軽巡ナッシュビルの砲撃で撃沈され、乗員14人全員は艇と運命を共にした。日本軍に発見されたことで、爆撃隊は予定よりはやく空母 ホーネットを発艦した。なお、ナッシュビルはもう1隻監視艇(長渡丸)を撃沈している。

ジミー・ドーリットル中佐率いるB-25爆撃機16機は東京市、川崎市、横須賀市、名古屋市、四日市市、神戸市を爆撃した。

日本側には50人の死者、家屋262戸の被害が出た。また、索敵から帰還した海軍攻撃機を敵機と誤認した陸軍戦闘機の機銃攻撃を受け、海軍軍人1名 が死亡。意図的か誤認か定かではないが、国際法上禁止されている非戦闘員に対する攻撃に至った機もあり、掃除を終え、帰ろうとした小学生1名が機銃掃射を 受け、死亡した。この学童には「悲運銃撃善士」という戒名が与えられた。また、日本軍の航空機と勘違いし、手を振った学童に対しても機銃掃射したが死者は 出なかった。しかしこのうち一機(ホーネットを4番目に発艦した機長エベレット・w・ホームストロム少尉のB-25は正規の防空戦闘機隊ではないキ61試 作機(三式戦闘機飛燕)の追撃をうけ、翼内燃料タンク漏れと旋回銃故障に陥った。

爆撃機は日本列島を横断し、中国東部に着陸した(一機はウラジオストクに着陸、乗員は抑留された)。乗員は戦死が1名、行方不明が2名、捕虜となっ たのが8名で、残りはアメリカへ帰還した。大本営はこの被害を隠蔽し、「敵機9機を撃墜。損害軽微」などと発表した。しかし当日は晴天であり、墜落した航 空機など市民からは一機も確認されなかったため、大本営の発表に対し『皇軍は空気(9機と空気をかけた駄洒落)を撃墜したのだ』と揶揄するものもいた。一 方、日本軍に逮捕された捕虜の一部は処刑され、これに対してアメリカは、『野蛮人の蛮行』として大々的にプロパガンダに利用した。引用元http://www.asahi-net.or.jp/~uu3s-situ/00/Tokyo.Kuusyuu.html

ドゥーリットル中佐は,日本上空に初めて爆撃機を飛ばし,日本時間の午後12:30(1230)に爆弾4発を投下した。その後,中国まで飛行したが,中国 大陸の海岸線が見えてきたのは夕方になってからである。燃料が残り少なくなり,濃霧のために飛行場を見つけることもできなくなった。中佐は,搭乗員に機外 に脱出することを命じた。機体は墜落し,山に激突した。しかし,現地の中国人がChuchowに連れて行ってくれた。そこから,米国に帰還できた。

 

中国に向かった爆撃機は大半が浙江省飛行場をさがしだして着陸した。なかには日本軍につかまったパイロットもいた。

 日本軍は、こんな離れ業を二度と起こさせないように、浙江省内の飛行場をつぶす作戦をおこなった。それが浙贛作戦である。浙は浙江省、贛は江西省の別称だ。作戦地域が両省にまたがったからこういう名前がつけられた。

 飛行場を完全に破壊しないと安心できないと考えたのか、支那派遣軍はこの作戦のために一四万五〇〇〇人以上を投入した。破壊すべき飛行場まで到達するのが一苦労であり、飛行場についたらどうやって破壊するかで一苦労だった。五月十四日から始まって九月三十日までかかったというから大変な破壊活動である。おもな飛行場は衢州や玉山(ともに浙贛線沿線)、麗水(浙贛線から離れており温州から北西約八〇キロ)であり、飛行場破壊にともなって浙江省内の主要鉄道も破壊した。

 飛行場の破壊といえば、滑走路に爆弾を落として使えなくすればいいのではないかと思うが、それではすぐ修復される。そのたびに爆撃する余裕はないから、修復がほとんど不可能なように破壊したのである。

 その方法は、「飛行場を中心とする半径一・五キロ周辺地域の飛行場施 設、利敵民家、樹木、橋梁はほとんど破壊」するとか、「廣信、廣豊付近から金華地区に至る間の主要交通網は、第一線兵団および軍工兵隊(衢州~金華)によ り徹底的に破壊するとともに、(沿線の)民船約八〇〇隻を押収し、敵側の水陸輸送能力を撃滅」(防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 昭和一七、八年の支那 派遣軍』朝雲新聞社)するというような破壊方法だった。鉄道の破壊によって押収したレールは約六万六〇〇〇本という。まことに徹底した破壊ぶりである。


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