私はこの「上から目線」という言い回しが嫌いです。いいえ、私が「上から目線」を頻繁に感じて、そう思っているのではありません。「上から目線」という文言を使って言い返してくる人に対してです。
いつのころからこの「上から目線」という言い回しが広がったのかを思い返すと、いわゆる格差社会が広く認知された頃じゃないでしょうか。中流国日本の中でも貧富の差や社会的な地位がはっきりして勝ち組、負け組(負け犬)などと線引きをし始めた頃です。
そもそも大昔から線引きなどしなくても日本は「そういう社会」なのです。それを教育現場では「平等社会」を前提にして子供を教育しているから、社会に放り出された途端いろいろにカテゴライズされていることにさらされて愕然としているのではないでしょうか。そんな人たちが、いろいろな条件でカテゴライズ「されて」そういう風に接せられたとき、不快感を表す言い回しとして「上から目線」というのだと思います。
「上から目線」と言った瞬間、もう「自分で」格付けが済んでしまいます。要は自ら負けを認めてしまったのです。そしてせいぜい相手には「上から目線でもの言って」としか言い返せなくなったのです。
社会がそうであれば、私は常に上に立つように努力します。日ごろの努力もしないもの達と渡り合うつもりはありません。
私はあなたの鏡です。
いつのころからこの「上から目線」という言い回しが広がったのかを思い返すと、いわゆる格差社会が広く認知された頃じゃないでしょうか。中流国日本の中でも貧富の差や社会的な地位がはっきりして勝ち組、負け組(負け犬)などと線引きをし始めた頃です。
そもそも大昔から線引きなどしなくても日本は「そういう社会」なのです。それを教育現場では「平等社会」を前提にして子供を教育しているから、社会に放り出された途端いろいろにカテゴライズされていることにさらされて愕然としているのではないでしょうか。そんな人たちが、いろいろな条件でカテゴライズ「されて」そういう風に接せられたとき、不快感を表す言い回しとして「上から目線」というのだと思います。
「上から目線」と言った瞬間、もう「自分で」格付けが済んでしまいます。要は自ら負けを認めてしまったのです。そしてせいぜい相手には「上から目線でもの言って」としか言い返せなくなったのです。
社会がそうであれば、私は常に上に立つように努力します。日ごろの努力もしないもの達と渡り合うつもりはありません。
私はあなたの鏡です。