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新・私に続きを記させて(くろまっくのブログ)

ハイキングに里山再生、れんちゃん姉妹とお父さんの日々。

共同幻想としての〈原発安全神話〉

2011年08月10日 | 反原発・脱原発・エネルギー
 <水爆の父であるサハロフ・アカデミー会員はこうたずねる。「ごぞんじですか? 核爆発のあとはオゾンのとてもいいにおいがするんですよ」。このことばに、私や、私の世代はロマンを感じるのです。すみません、いやな顔をなさっていますね。あなたには、これは全世界の悪夢の前で歓喜しているように思えるのでしょう。人間の非凡な才能の前ではなく……。しかし、いまでこそ核エネルギー産業はけちがつき、汚名を着せられましたが、私の世代はちがう。1945年に原子爆弾が爆発したとき、私は17歳でした。私はSFが好きで、ほかの惑星に行くことを夢み、私たちを宇宙に打ち上げてくれるのは核エネルギーだと思ったのです。>

 『チェルノブイリの祈り』より、ワレンチン・アレクセエビッチ・ボリセビッチの証言。ベラルーシ科学アカデミー核エネルギー研究所の元実験室長である。

 そう、世代もちがえば時代もちがうのだ。日経新聞8月5日吉本隆明さんのインタビュー「科学に後戻りはない 原発 完璧な安全装置を」を読みながら同じことを考えた。

 『〈反核〉異論』を読んでいたら、このタイトルそのものは、唐突でも意外でもない。

 今や脱原発派のテーマソングの観もある、RCサクセション「サマータイムブルース」に対しても、吉本さんはカンカンで、ボロカスに批判していたものである。〈ハレンチな反原発歌詞を作って歌うことで、反原発連中のハレンチさ加減がどの程度のものか、無意識に暴露している〉点にのみ、一定の評価を与えただけだった。

 リアルタイムで読んで、そんなに悪い曲かなあと思ったものだ。吉本さんもそこは認めているように、決して真面目に歌っていないところがよかった。「ひとりでいかんかい、ひとりで!」と演奏のバックでアジっていて、「なんぼのもんじゃい」とタンカを切ったら、突然演奏が終了して、「あれ?」とポツンとひとり取り残されてしまった。あのエンディングが効いている。

 君が代をロックで歌ったからといって右翼でないように、反原発ソングを歌ったからといって反原発派ではない。そんなことでアーティストの評価が決まるなんてナンセンスだ。私にとってのRCとは「トランジスタ・ラジオ」や「スロー・バラード」である。

 忌野清志郎がロックミュージシャンであるように、吉本隆明は私にとってまず詩人である。最初の出会いも朔太郎論なら、初めて手にしたのも『吉本隆明詩集』だった。『記号の森の伝説歌』は、私が最も愛する詩集だ。その後、基本三部作や批評にも触れるようになり、「大衆の原像」「自立」「非知」などの重要性を学んだ。それだけでも十分すぎる。

 吉本さんはいま、原発擁護派のように叩かれたり、一部では支持されたりしている。しかし吉本さんは、ジェネレーション・ギャップを感じることはあるけれど、決して原発推進派ではない。この点は誤解しないでほしいと願う。吉本さんのスタンスはあくまで技術者のものであり、脱原発は政治テーマでなく、科学技術の進展でしか解決できないというだけである。日経新聞のインタビュアーも、吉本さんの著書をきちんと読んでいないのではないか。

 まずは話題になっているインタビューから、原発関連の部分を引用してみよう。
 
 <原発をやめる、という選択は考えられない。原子力の問題は、原理的には人間の皮膚や硬い物質を透過するまでに科学が発達を遂げてしまった、という点にある。燃料としては桁違いにコストが安いが、そのかわり、使い方を間違えると大変な危険を伴う。しかし、発達してしまった科学を後戻りさせるという選択はありえない。それは、人類をやめろ、というのと同じです。
 だから危険な場所まで科学を発達させたことを人類の知恵が生み出した原罪と考えて、科学者と現場スタッフの知恵を集め、お金をかけて完璧な防御装置をつくる以外に方法はない。今回のように危険性を知らせない、とか安全面で不注意があるというのは論外です。>

 科学を後戻りさせることはできない。この発言には異論にはない。しかし原発をやめることが、科学を後戻りさせることになるのだろうか。ここむしろ逆だと思う。

 もともと原発は次世代エネルギーへの過渡的な技術として位置づけられていたはずだ。コストが安く見えるのも国民負担の税金だし、廃棄物の再処理などを先送りにしてコストに計上してこなかっただけである。高速増殖炉の実用化は、楽観シナリオでも、50年はかかる。しかしその頃には日本の人口は現在の3/4だ。

 3・11以降、自分なりに脱原発やエネルギーの問題について考えてきたが、心の師である吉本さんとの内なる対話だったような気がする。

 〈完璧な防御装置〉は、将来は実現するかもしれない。そのことまでは否定しようとは思わない。しかし実際にはどうだろうか。

 かつて吉本さんは、反原発運動を批判して、「半衰期がどんな長かろうと短かろうと、放射性物質の宇宙廃棄(還元)は、原理的にはまったく自在なのだ(『〈反核〉異論』)とおっしゃっていた。

 しかしスペースシャトルは、135回のうち2回の事故を起こしている。1986年のチャレンジャーは爆発、コロンビアも2003年に空中分解事故を起こして消滅した。1.5%は決して小さな数字ではない。今はスペースシャトル計画も終了して宇宙計画そのものが縮小方向だ。

 「科学の発達に素材工学が追いついていない」という池澤夏樹さんの指摘に賛成である。これはロケット工学・宇宙工学も同じだろう。リスク工学もしかりである。

 吉本さんの原発問題についての持説は、冒頭のRCサクセション批判も含む1988年2月の「情況への発言」が、いちばんまとまっている。(『情況への発言 全集成〈3〉』所収。ただし以下の引用は『情況へ』より)

 ここで吉本さんは、原発問題を、次の4つの層に分けて論じている。

 (1)「安全性の層」
 (2)「地域・経済・利害的な層」
 (3)「科学技術的な層」
 (4)「文明史的な層」

 吉本さんは(2)の「地域・経済・利害的な層」に関しては、「反原発」あるいは「地域管理原発」が成り立つ根拠を認めている。<安全だとおもっている住民が気持ちよくとどまれるようにすること。危険だとおもっている住民に気持ちよく退去するに充分な補償金をたたかいとること>だけが大切だと述べている。

 (1)の「安全性の層」は、<ソ連原発事故のようなものは確率論的にはあと半世紀は起こらない。半世紀も人命にかかわる事故が起こらない装置などほかにないし、航空機や乗車事故よりも危険がおおいともおもわない>と、反原発運動を否定した。

 (3)の「科学技術的な層」では、原子力発電所が存在することに、現状では吉本さんは賛成する。<電力エネルギーの30%供給までチェルノブイリ規模のような人命事故を起こさないできた技術の現状を、否定し廃棄すべき根拠がない。安全装置をもっと多量に、充分にという技術的課題に限度はないということを認めるとしてもだ。>
 
 「電力エネルギーの30%を供給」というのは、原発はベースロードとしてしか使えないからで、今までの電力会社の経営政策がもたらした結果にすぎない。関電管内では猛暑の2010年夏でも、火力発電所の稼働率は4割ほどに抑えられていた。コストが安いというのも、国民の税金負担や再処理費用をまともに計算していないからだ。
 ただ、吉本さんが原発促進派ではないというのは、この(3)における以下の発言である。

 <おれがこの原発問題にそれほど本気になれないのは、科学技術の進展が、一挙にこの問題を解決してしまうことが、ありうるとおもうからだ。それが超電導常温物質の発見であってもいいし、太陽発電所の宇宙空間設置であってもいい。またその他であってもいい。このどれひとつでもない〈危険〉がないでもない原子力発電(所)の問題を無化してしまう。そういうことは充分に短い期間内にありうることだ。チェルノブイリ級の原発事故は、確率論的にもうあと半世紀はありえない。反原発連中はほっとけば自然消滅するが、おなじように原子力発電(所)自体も、科学技術の歴史の途上で自然消滅して他のより有効で安全性のより多い技術に取って代わられるにきまってる。>
   (「情況への発言」1988年2月)

 (4)の文明史的な層では、<原発の科学術安全性の課題を解決するのもまた科学技術だということだ。それ以外の解決は文明史にたいする反動にしかすぎない>と、その思想性を批判した。

 もし意見を伝える機会があったなら……それは望むべくもないが……、吉本さん、その科学技術史的・文明史的な段階が来たのではないですか、原子力の時代は終わりましたと伝えるだろうと思う。

 むしろ、原発問題とは、共同幻想の現在的問題にほかならないのではないだろうか。理解しがたい高度な科学技術の結晶である原発に向けられるまなざしは、マレビトに向ける村人のものであり、〈国が、東京電力がやっているのだから信じるしかない〉というある種の「信心」であり、「敗北の構造」ではないのだろうか。

 専門家によって、現代社会の高度な科学技術は支えられている。しかし、専門家も全知全能の神ではない。原発安全神話は、現代の共同幻想の問題なのだ。いま、「科学」の名を借りたこの無根拠な「信心」を解体するチャンスなのである。と、吉本ファンは考えたのだった。

  「ぼくたちがしはらったものを
   ずっと以前のぶんまでとりかえすために
   すでにいらなくなったものにそれを思いしらせるために」
          (吉本隆明『ちいさな群への挨拶』)

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2 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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Unknown (くろまっく)
2011-08-11 16:23:04
秋田の株式会社イヤタカ社長・北嶋正さんが、このインタビューに言及
http://www.iyataka.co.jp/cgi-bin/bossblog/blog.cgi/permalink/20110808135015

 <ここで重要なのは、自分も加担側にも居り、受益側にも居るのだという視点です。吉本氏の言葉を借りれば「原罪」であり、わたし的には「ひとが見つけつくりだしてしまったこと」に対する引き受けです。その部分をないがしろにしては、単に気のいい人たちが無責任に反対しているだけになってしまいます。自分たちこそが正しいのだと主張を振りかざすのは、ファシズムにも似た危険な考えに通ずるのだとわたしには思えるのです。>
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Unknown (くろまっく)
2011-08-11 18:53:54
関沼さんの批判に耳を傾けることは、反原発闘争がほんとうに力を持つために、必要なことだと思う。「経済」か「安全」かという不毛な無限ループから脱却するためにも。

『「フクシマ」論』が話題の若手論客・開沼博氏ロングインタビュー
原発依存症に陥った福島を生んだのは「中央への服従心」だった!?
http://www.cyzo.com/2011/08/post_8120.html

<開沼 まず第一に、成長のために地方を踏み台にしてきたことを認識しなければなりません。本書の中で「2つの原子力ムラモデル」を提示しました。つまり一方には、電力会社や政府を中心とした「原発を置きたい側」=中央のムラ、もう一つは、「原発を置かれたい側」=地方の側の原子力ムラがある。政府叩き・東電叩きをしてカタルシスを得ることに終始するのは無意味。この、私たちが無意識のうちに踏み台にしてきた「2つの原子力ムラ」を変えて行く必要があることを認識しなければなりません。>

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