聖書と翻訳 ア・レ・コレト

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(000)ルカによる福音書16章-6

2018年05月19日 | ルカによる福音書

αδικοσ アディコス いかさま


この記事は、ルカによる福音書16章10~12節『不正な管理人』の翻訳の仕方について記述します。新改訳訳文に対する批判も含まれているため、不快に感じる方もいらっしゃるかもしれません。その旨ご承知の上お読みください。



~ルカによる福音書16章10~12節~

新改訳
10)小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。
11)ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。
12)また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。


10~12節は、全文を検討することにします。



~10節の文法構造~

10節前半の構造を図で表します。

ο πιστός εν ελαχίστω 
ホー ピストス エン エラヒストーイ

και εν πολλώ πιστός εστιν
カイ エン ポロ―イ ピストス エスティン



『小さな信仰は、大きな信仰になる』というシンプルな文法構造です。10節後半もこの図と同じ解釈になります。



~小さい事に忠実な人は~

16章10節



πιστος (4103) pistos ピストス 形容詞
忠実な、信頼できる、信仰が(篤い)

ελαχιστος(1646) elakhistos エラヒストス 形容詞
最も小さい、(身分が)低い、つまらない

『ホー ピストス』が『信仰、信仰を持つ人』という名詞、主部になっています。『エン エラヒストーイ』は従属部で形容句です。『ホー ピストス エン エラヒストーイ』は『小さな信仰⇒幼い信仰』という意味になります。これは『名詞+形容句』といった至ってシンプルな文法、入門レベルの知識ですが、新改訳は入門レベルの解釈でつまづいています。大学では何を教えているのでしょう?これでは素人の仕事ですよ。

『ホー ピストス』は『冠詞+形容詞』の形ですが、コイネー・ギリシャ語では名詞化する場合が多々あり、『ホー ピストス』が名詞化している例が、黙示録3:14にあります。





~小さな事~

新改訳が解釈を間違えた理由を説明させていただきます。ルカ19章17節でよく似た表現が使われていて、新改訳では『・・・あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい』と訳されています。



γινομαι(εγένου)(1096) ginomai ギノマーイ(エゲノウ) 動詞
to happen、to become、 ~になる、~が生じる

新改訳の翻訳者は19章『小さな事』という訳し方を、そのまま16章に持ち込みます。



19章の解釈を16章に持ち込むことによって、16章の解釈が原文から大きく逸れることになります。

新改訳 ルカ16:10
小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。

私訳 ルカ16:10 原文放棄をしていないので訳文ではありません。
始めは取るに足らない信仰であっても、やがて敬虔な信仰者に育つ。そのように、始めはウブなイカサマ師でも、やがては一人前のイカサマ師になります。

19章の『小さな事』という解釈がそもそも間違いだったのですが、新改訳の翻訳者はそれに気付かないまま16章に当てはめたと思われます。19章での意味は『小さな従順』で、16章での意味は『小さな信仰』となります。『からし種のような小さな忠実さでいいからそれを保ちなさい』というお話しと重なるところがあります(マタイ13:31、マタイ17:20、マルコ4:31、ルカ13:19、ルカ17:6)。



~大きい事にも忠実であり~

16章10節



ギリシャ語では『小さな信仰は、大きな信仰になる』と表現されていますが、これを直訳しても日本人には意味が分かりません。これは『始めは小さな信仰であっても、やがて立派な信仰者に育つ。律法学者たちが良いお手本だ』という意味です。

ここ10節は『信仰の成長』について記述していますが、これは8節『神を敬う信仰者(光の子ら)』を受けたことばで、『神を敬う信仰者』を展開させた表現になっています。8節と10節はつながっています。

新改訳10~13節を読むとチグハグな文脈になっています。文脈に合わせた解釈が全くできていません。新改訳は『ぎこちない日本語が良い』と愚かなことを公言していますが、自分の作った訳文が文脈に合おうが合うまいが知ったことじゃありません、手抜きで翻訳しますというのが、新改訳聖書なのです。

πολύς(4183) polus ポルース 形容詞
(人、物が)多い、(期間、日数が)長い、(信仰、恐れが)増し加わる

『エスティン』の基本形は『エミー』になります。
ειμι(1510) eimí エミー 動詞
to be, to exist, to happen(~になる)



~『エミー』の解釈~

新改訳 10節
小さい事に忠実な人、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人、大きい事にも不忠実です

ギリシャ語では『エミー』という動詞が使われていて、新改訳は『AはBと同じだ。CはDと同じだ』という訳文にしていますが、間違っています。ここは『AはやがてBになる』『CはやがてDになる』という意味です。



10節のエミーは『~になる』という意味で使われていて、英訳聖書でも『can be』『will be』と訳されています。

例)Common English Bible
Anyone who can be trusted in little matters can also be trusted in important matters. But anyone who is dishonest in little matters will be dishonest in important matters.

同様の解釈をする英訳聖書はたくさんあります。
Easy-to-Read Version
GOD'S WORD Translation
Good News Translation
International Children’s Bible
Living Bible
New Century Version
New International Version
New International Reader's Version
Names of God Bible



~小さい事に不忠実な人は~

16章10節



αδικοσ(94) adikos アディコス 形容詞
不当な、よこしまな、罪深い

9節まで、会計士のイカサマ行為が書かれていますが『アディコス』はそれを受けた『イカサマ』という意味です。文脈を見れば分かることです。



~大きい事にも不忠実です~

16章10節



ギリシャ語では『小さなイカサマは、大きなイカサマになる』と表現されていますが、これを直訳しても日本人には意味が分かりません。これは『始めはウブなイカサマ伝道師でも、やがて一人前のイカサマ伝道師になる』ということです。

8節『世俗に生きる人(この世の子ら)』を受けたことばで、『世俗に生きる人は・・・一人前のイカサマ伝道師になる』という意味になっています。8節と10節はつながっています。

新改訳は『大きい事にも不忠実です』と訳し、全然違う意味になっていますが、新改訳のどこが原文に忠実なのでしょうね。



~ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら~

16章11節



9、11、13節に出てくる『富』ということばは、ギリシャ語の『マモナース』で、『偶像神マモン』という意味です。

πιστος (4103) pistos ピストス 形容詞
忠実な、信頼できる、信仰が篤い

ουκ(3756) ou、ouk ウー、ウーク 否定詞
no、not

γινομαι(εγένεσθε)(1096) ginomai ギノマーイ 動詞
to happen、to become、 ~になる、~が生じる



~だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう~

16章11節



αλετηινοσ(228) alethinos アレーテノース 形容詞
本当の、忠実な、誤りがない、真理の、本物の

πιστευο(4100) pisteuo ピスチュオー 動詞
本物だと認める、信用する、納得する

το αληθινόν 冠詞+形容詞
ト アレーシノン 名詞化
本物⇒本物のイカサマ師


新改訳は『富を任せる』と訳出しました。原語を見ていただけると分かりますが、『富』『任せる』というギリシャ語は使われていません。新改訳はここで超意訳をやっています。もし直訳で訳すのであれば、原文には『富』ということばがないのですから、勝手に付け足してはいけないはずです。また『ピスチュオー』は『人を信用する、人を認める』という意味ですから、『(富を)任せる(与える)』と訳すのは、デタラメではありませんか?どうしてここで直訳理念から逸れた訳し方をするのでしょう?

『ピスチュオー』はよく使われる動詞ですが、十字架の場面でも使われています。『(富を)任せる(与える)』という意味があるかどうか、ご覧いただきましょう。

マタイ27:42 新改訳
「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから(ピスチュオー)。

新改訳はここでも間違いを犯しています。一般の日本人がこの訳文を読んだ場合『十字架から降りることができたら、神として信じてやろう』という理解をします。しかし、原文では『十字架から降りることができたら、王様として認めてやる』という意味になっています。新改訳は訳語の選択を誤っているのです。英訳でも『we will believe in Him イエスを王様として認めてやってもいいぞ』と訳していますよ。

New American Standard Bible
“He saved others; He cannot save Himself. He is the King of Israel; let Him now come down from the cross, and we will believe in Him.

『believe in him』の『him』は『the King of Israel』を指しています。英訳では『王様として認めてやってもいいんだぜ』という意味です。新改訳を調べれば調べるほどデタラメな訳がボロボロと出てくるので、嫌気がさします。『ピスチュオー』は『本物の王様として認める』という意味で使われているのですから、『ピスチュオー』に『(富を)任せる(与える)』という意味はないということが分かるでしょう。ルカ16:11とマタイ27:42では『ピスチュオー』が『本物だとみなす、認める』という意味で使われています。これを見て、新改訳が原文に忠実な翻訳だといえますか?



~また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら~

16章12節



αλλοτριος(245) allotrios アロットリオス 形容詞
他人の(もの)、自分以外の、外国の、見知らぬ

γινομαι(εγένεσθε)(1096) ginomai ギノマーイ(エゲネステ) 動詞
to happen、to become、 ~になる、~が生じる

ここでの『アロットリオス』は『外国のもの』という意味で、11節の偶像マモンを受けた表現です。文脈を見れば分かることです。

ルカ16章9~13節は、同じようなフレーズを繰り返し、表現を展開させています(反復表現)。これと似たような表現が、イザヤ書8章4~6節にも見られました(ヘブライ語 masows ことばの解釈参照)。ルカ16章の反復表現は、ヘブライ語の影響を感じさせます。



~だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう~

16章12節



11、12節は否定詞『ウ-ク not』、疑問詞『ティス who』が使われており、反語表現になっています。コイネー・ギリシャ語では、違和感なく理解できる文体なのでしょうが、これを直訳されても意味が分かりません。12節を例に説明させていただきます。

解釈文(1)反語表現を残した解釈
自分はユダヤ人だから外国の宗教であるマモンなんかまともに信仰できない、そういう人がいたらどうなるだろう。あなたにイカサマを伝授する人がどこかにいるのですか?どこにもいません。

ギリシャ語テキストでは、ハイコンテクスト(ことばが省略された表現)になっているため、日本人に理解できる訳文を作ろうとすると、消された多くのことばを再生しないと訳文が成立しません。そのため冗長な文になってしまいます。日本語として相応しい表現に変えるため、解釈文(1)に原文放棄という処理をおこない解釈文(2)を作ります。

解釈文(2)
偶像マモンは外国の宗教ですが、イカサマを伝授して欲しいのであれば、これを熱心に信仰することです。

通訳や翻訳において、原文の文体(表現形式)を、目的言語に持ち込むことはできないというのが基本です。このことを理解していない翻訳者が多いと思います。言語には恣意性があるのですから、基本的にギリシャ語の文法や修辞技法を、訳文に持ち込もうなどと考えてはいけないのです。

日本語に翻訳された聖書を読む人の99%は、聖書には一体何が書かれているのか、聖書に書かれている意味を知りたくて読むはずです。ギリシャ語の文法を知りたくて読むのではありません。ギリシャ語の文法通りに訳すことにこだわった直訳というのは、必然的に意味不明な訳文になります。新改訳ルカ16章が典型的な例です。翻訳という仕事は、日本人が読んで理解できる訳文を作って初めて、翻訳の目的を達成することができます。新改訳は『ぎこちない日本語が良い』と愚かなことを言っていますが、ぎこちなさを通り越し意味不明な訳文におとしめているではありませんか。

デタラメに翻訳された聖書を元にして、牧師が正しく説教を作ることができるでしょうか?神学者が正しく聖書解釈ができるでしょうか?デタラメな聖書を読んで信徒が神さまのみ心を正しく理解できるでしょうか?もし信仰の拠りどころが聖書であるとするなら、翻訳が正しくおこなわれているかどうかということは重要なことだと思うのです。単なる批判であれば誰にでもできますが、日本では聖書の訳文が建設的に批判されたということがほとんどなかったと思います。より正しい日本語訳のため、更に建設的な批判がおこなわれることを望みます。



~16章10~12節 解釈文~

以上を踏まえ解釈文を作ります。原文放棄をしていないのでまだ訳文ではありません。

10)始めは取るに足らない信仰であっても、やがて敬虔な信仰者に育つ。そのように、始めはウブなイカサマ師でも、やがて一人前のイカサマ師になります。
11)本物のイカサマ師として認めて欲しければ、いかさまマモンの忠実な家来になることです。
12)マモンは他国の宗教ですが、イカサマを伝授して欲しいのであれば、これを熱心に信仰するほかありません。






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