聖書と翻訳 ア・レ・コレト

聖書の誤訳について書きます。 ヘブライ語 ヘブル語 ギリシャ語 コイネー・ギリシャ語 翻訳 通訳 誤訳

(000)ルカによる福音書16章-1

2018年05月14日 | ルカによる福音書


この記事は、ルカによる福音書16章『不正な管理人』の翻訳の仕方について記述します。新改訳訳文に対する批判も含まれているため、不快に感じる方もいらっしゃるかもしれません。その旨ご承知の上お読みください。


『不正な管理人』は難解なたとえ話だと言われてきました。ところがこの箇所も『輪郭を捉える』方法を使うと、簡単に紐とくことができます。イザヤ書8章の翻訳記事で繰り返し申し上げたことですが、原文解釈をする時大切なことは、原文の輪郭を把握することです。



~ルカによる福音書16章1~14節 新改訳~

不正な管理人

1)イエスは、弟子たちにも、こういう話をされた。「ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された。
2)主人は、彼を呼んで言った。『おまえについてこんなことを聞いたが、何ということをしてくれたのだ。もう管理を任せておくことはできないから、会計の報告を出しなさい。』
3)管理人は心の中で言った。『主人にこの管理の仕事を取り上げられるが、さてどうしよう。土を掘るには力がないし、こじきをするのは恥ずかしいし。
4)ああ、わかった。こうしよう。こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう。』
5)そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、まず最初の者に、『私の主人に、いくら借りがありますか。』と言うと、
6)その人は、『油百バテ。』と言った。すると彼は、『さあ、あなたの証文だ。すぐにすわって五十と書きなさい。』と言った。
7)それから、別の人に、『さて、あなたは、いくら借りがありますか。』と言うと、『小麦百コル。』と言った。彼は、『さあ、あなたの証文だ。八十と書きなさい。』と言った。
8)この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。
9)そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。
10)小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。
11)ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。
12)また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。
13)しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」
14)さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。






新改訳の訳文を読んでも何がいいたいのか、私にはさっぱり理解できません。『不正な管理人』は、イエスさまが難解なたとえ話しを語ったのだと言われてきましたが、そうではありません。私はコイネー・ギリシャ語を習ったことはありませんが、この箇所を原文で読むと、きちんと理解できるストーリーになっていることが分かりました。『不正な管理人』が難解なのは、翻訳者(翻訳団体)の原文解釈をする能力が極めて低く、誤訳されていることが原因です。

翻訳や通訳というのは異なる民族の仲立ちをし、両者が理解しあえる関係をつくることです。『私はコイネー・ギリシャ語の専門家であって、日本語の専門家ではないから、おかしな訳文でも仕方ないのだ』と言えるでしょうか?もし、そのようにお考えの翻訳者がおられたら、ご自分のギリシャ語研究に専念なさっていただき、翻訳に関わるべきではないと思います。厳しい言いかたに聞こえるかも知れませんが、当たり前のことを申し上げてるだけです。

聖書翻訳に携わる方が『ヘブライ語は難しい』『コイネー・ギリシャ語は難しい』と口にされますが、プロとして仕事を引き受けた方がこのようなことを公の場で言われるのは考え物です。一般の学習者が『ヘブライ語は難しい』『コイネー・ギリシャ語は難しい』と嘆くのは一向に構いません。しかし、プロとして仕事を引き受けた方が『コイネー・ギリシャ語は難しい』ということばを言われると、言い訳がましく聞こえてしまいます。翻訳団体は、翻訳スキルのない翻訳者にお金を払い仕事をさせているということになりますがどうなのでしょうね。



~輪郭を描くポイント~

イザヤ書8章では、単語の解釈の間違い(普通の文字、書け、女預言者、近づいた、インマヌエル・・・)、文法解釈の間違い(忌避の規則、コンテクスト・・・)など難易度がやや高い箇所もありました。このことは『聖書と翻訳2~10』『ヘブライ語 masows ことばの解釈』『ヘブライ語 qarab nebiah ことばの解釈』で書かせていただいたので興味のある方はお読みください。

それに比べ『不正な管理人』では、単語や文法解釈をするうえで難しいところはないようです。にも関わらず意味不明な訳文になっているのは、直訳で訳文を作るからです。最近は『直訳』ということばが使いにくくなったのか『トランスペアレント』と言い換える先生もいるようです。

余談ですが、ヘブライ語の言語構造と英語の言語構造を比較した場合、忌避の規則、コンテクスト、ことばの運用で似通ってるところがあり、学者向けの聖書翻訳であれば、トランスペアレント訳も可能かもしれないな?といった感じはします。その一方、ヘブライ語の言語構造と日本語の言語構造を比較した場合、忌避の規則、コンテクスト、ことばの運用で違いが大きいため、トランスペアレント訳は不可能です。

ヘブライ語テクスト→英語訳の関係と、ヘブライ語テクスト→日本語訳の関係とは同じではないので『英訳でトランスペアレント訳が可能なんだから、日本語訳でも可能なんだ』という理屈は成り立たないのです。新改訳の先生はVan Leeuwen(ヴァン・ルーエン)博士のレポートを引用し『直訳やトランスペアレント訳が良い』と言っていますが、こうした言語構造の違いを理解されていないようで、言語というものを理解していないということが分かります。


原文解釈をする場合、単語の解釈と文法解釈で終わってる翻訳者が多いのですが、それではダメです。単語と文法の解釈では、原文解釈は50%しかできません。コイネー・ギリシャ語のテキストが読めなくても、きちんと輪郭を設定することができれば、不正な管理人は80%解釈できます。今回輪郭を描くのに、次の3点を検討します。

・背景を理解する
  執筆者ルカとは何者か
  下僕に転落したテオピロ?
  ルカ福音書の独自性とアイロニー表現
  ルカが見たイエス像
  15章から理解する

・登場人物と比喩の把握
・ストーリーの把握



~背景を理解する~

執筆者ルカとは何者か

パウロが書いた手紙の中に『ルカ』に関する記述が現れます。このルカとルカ福音書を書いたルカは、同一人物だと言われています。

コロサイ4:14 
愛する医者ルカ、それにデマスが、あなたがたによろしくと言っています。

第二テモテ4:11 
ルカだけは私とともにおります。マルコを伴って、いっしょに来てください・・・

ピレモン24節 
私の同労者たちであるマルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくと言っています。

パウロの伝道旅行には、医者ルカが同行していました。デマス、マルコ、アリスタルコがどのような仕事についていたのか記述されていませんが、ルカだけ医者という職業が書かれています。なぜルカだけ『医者ルカ』と書かれたのでしょう?

パウロは目の病気にかかっていたと言われています。そのため自分の手で文字を書くことが困難で、パウロが話したことばをほかの者が筆記していたようです。『ご覧のとおり、私は今こんなに大きな字で、自分のこの手であなたがたに書いています(ガラテヤ6:11)』。目の悪い人が、自分の手で文字を書くとどうしても『大きな字』になります。

・・・私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした・・・あなたがたは軽蔑したり、きらったりしないで・・・私を迎えてくれました・・・あなたがたは、もしできれば自分の目をえぐり出して私に与えたいとさえ思ったではありませんか(ガラテヤ4:13~15)』。ガラテヤでの伝道は、パウロの目の病気が悪化した時期であったことをうかがわせます。

・・・ステパノの血が流されたとき・・・彼を殺した者たちの着物の番をしていた・・・(使徒22:20)』。パウロが石を手に取ることをしなかったのは、目が悪く、ステパノ目がけ石を投げることができなかったためで、それで上着番をすることになったのではないかとも言われています。

(パウロ)は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった(使徒9:9)』。このように新約聖書で、パウロの目に関する記述があちこちで見られます。

パウロのアシスタントとして、目の治療ができ、かつ執筆力に長けた人物がいたとしたら、伝道旅行の随行者としてうってつけの人物ではないでしょうか?『医者ルカ』と、敢えてルカの職業を明らかにしたところに、目を治療してくれるルカに感謝を表したのだと思います。

イエス・キリストの生涯(福音書)を書いた執筆者が4人いた(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)のに対し、使徒行伝を書いたのはルカひとりです。なぜでしょう。イエスさまの周りには12弟子がいたので、複数の人が福音書を書くことができました。しかし、使徒行伝のほとんどはパウロの伝道旅行に関する内容で、旅先におけるパウロの言動を知る人物は一人か二人しかいなかったはずです。使徒行伝を執筆した『ルカ』と、パウロに同行した『医者ルカ』は同一人物である可能性が高いといえます。

そうであれば、パウロ書簡の幾つかはルカが代筆していたことも考えられます。新約聖書27巻のうち、ルカの手で書かれた書簡は2つ(ルカ福音書、使徒行伝)だけではなく、もっと多かったのかもしれません。ルカには執筆の賜物があったということがうかがえます。


下僕に転落したテオピロ?

ルカ福音書と使徒行伝は『テオピロ』という人物に捧げられたものだというのが従来の解釈です。『テオピロ』に関する記述が、ルカ福音書と使徒行伝の2か所に現れます。『テオピロ』とは何者なのでしょう。

ルカ1章 新改訳
2、3)私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿

使徒1章 新改訳
1)テオピロよ。私は前の書で、イエスが行ない始め、教え始められたすべてのことについて・・・

読んで違和感を感じないでしょうか?福音書では『尊敬するテオピロ殿』とうやうやしく訳出し、使徒1章では『テオピロよ』と呼び捨てです。これでは、身分の高かったテオピロが、いつの間にか下僕に転落したという表現になります。もしくは、執筆者ルカは社会常識がない尊大な人物だという訳出になっています。

ルカは『尊敬するテオピロ殿』とテオピロを持ち上げていますが、その一方『あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います』と生意気な口の利き方をしているという訳文です。新改訳は、ルカは生意気で嫌味っぽい人だという印象を読者に与えていますが、このような解釈には根拠がなく、翻訳者(翻訳団体)の翻訳技術が低いため、執筆者ルカの人格を傷つける訳文におとしめているのです。

日本文化の中で育った人間として申し上げますが、初めの書簡(福音書)で『尊敬する○○殿』とうやうやしく書いた相手に対し、二番目の書簡(使徒行伝)で『○○よ』と呼び捨てをする、こういう無礼な感覚を理解できません。これはギリシャ語の知識があるかないかといった問題ではありません。翻訳者が日本人としての社会常識を身に付けているかどうかといったレベルの問題だと思います。自分の愛読する聖書が、乱雑に翻訳されてることを見ると本当にがっかりします。

テオピロ(Θεόφιλος Theophilos)は、ギリシャ語の名詞で『神に愛された人』『神のしもべ』という意味があり、人名として解釈できることばです。『尊敬する・・・殿』と訳されたのはギリシャ語の『κράτιστε kratiste クラティステ』ということばで、これは『気高い、親愛なる、閣下』という意味があります。ちなみに口語訳では『テオピロ閣下』と訳出しています。原文を見ると確かに福音書では『kratiste 気高い、親愛なる』が記載されているのに対し、使徒行伝では『kratiste』が書かれていません。なぜなのでしょう?

この問題を解決し訳文に反映させるのは翻訳者の仕事です。ところが、新改訳の翻訳者はこの問題解決を放棄しているのです。一般の日本人が読んだら『ルカっておかしな書き方するんだな。常識がない人だな』と受け取ってしまいます。このようなおかしな訳文を出版することは、執筆者ルカを侮辱することです。通訳や翻訳で絶対やってはいけない誤訳というのは、発言者(著者)の人格を棄損する通訳(翻訳)をすることです。このような翻訳者は翻訳に関わってはいけないと思いますし、組織で翻訳されているのであれば、チェック機能を働かせない組織のリーダーにも責任があります。国語の専門家がいるのであれば、その専門家がきちんと仕事をしていないということになります。翻訳委員会は、立派な肩書を持つ先生を集めたのかも知れませんが、それにしては訳文の品質が低く、申し訳ありませんが見掛け倒しの委員会という印象を受けます。

使徒1章の『テオピロ』は、日本語訳では次のように訳されています。

文語訳 テオピロよ
口語訳 テオピロよ
新改訳 テオピロよ
新共同訳 テオフィロさま
現代訳 テオピロ閣下
リビング 神を愛する親愛な友へ

日本人が手紙を書く場合、相手を『○○よ』と呼び捨てにするということは、普通はありません。家族、友人であってもそうです。文語訳、口語訳、新改訳は直訳をしたようですが、このことからも直訳は原文の意図を歪めるということが、お分かりになると思います。新改訳は『直訳やトランスペアレント訳が正しい翻訳法だ』と言っていますが、これは言語学的根拠のないことで、言語には恣意性があるという前提で翻訳にあたらなければならないのです。

コイネー・ギリシャ語の名詞には、男性、女性、中性の区別がありますが、この性の区別をどうやって日本語に直訳するのでしょうね?名詞一つとっても言語というものは直訳できないもので、異なる構造を持つ二つの言語間で、直訳をすればいいんだという考えはナンセンスなのです。

また新改訳は翻訳理念の中で『多少ぎこちない訳文のほうがいいのだ』と言っていますが、プロの仕事というものをご存じないようです。プロの通訳や翻訳の仕事と言うのは『的確な原文解釈をする』というのは当たり前のことですが、その上で『いかに聞きやすい(読みやすい)日本語に訳出するか』『いかに誤解を生じない表現にするか』を日々追及しています。これはプロの翻訳者として当たり前のことです。新改訳の先生がおっしゃる『多少ぎこちない訳文のほうがいいのだ』というご発言は、素人翻訳者の開き直りとしか聞こえません。

話しを戻しますが、ある解説書では、テオピロは個人名ではなく『神に愛された兄弟姉妹たち』という意味で、ルカ福音書の『クラティステ テオピロ』は『神に愛された兄弟姉妹たち』をうやうやしく言った表現である。使徒行伝の『テオピロ』は『神に愛された兄弟姉妹たち』という意味で、ルカは教会の兄姉のために書簡を書いたという解釈をしていました。こうした解釈も可能だということです。これ以上書くと一つの記事で納まりきらなくなるので深入りしないでおきますが『テオピロ』の解釈には以下のものがあります。

・個人名:一般のローマ市民
・個人名:アレクサンドリア出身のユダヤ人
・個人名:ローマ帝国の高官
・個人名:パウロの法律顧問
・個人名:サドカイ派の高位の祭司  Theophilus ben Ananus 
・クリスチャン、教会への敬称表現:『神に愛された兄弟姉妹たち』

『クラティステ』は、ギリシャ語で手紙を書く時の敬称語ですから、『拝啓』と訳出をすればしっくりとした日本語になります。

ルカ1章 私訳
拝啓。・・・・テオピロ様・・・

使徒1章 私訳
テオピロ様・・・

日本人の感覚として、手紙を受け取る相手に対し『テオピロよ』と呼び捨てをするというのは、不適切です。一方『閣下』と訳出するものもありますが、テオピロなる人物がどのような身分の人か分かっていないのですから、『閣下』という訳語は、早計に過ぎます。



ルカ福音書の独自性とアイロニー表現

ルカ1章1~3節を見ると『多くの人がすでに福音書を書いていますが、すべてのことを詳しく洗い直し、順序立てて書きました』とルカが述べています。イエスさまの公生涯がほかの人によって既に書かれていたにも関わらず、敢えて福音書執筆を決意したというくだりに、ルカが自分の記事の中に他の福音書にはない独自性を与えているということがうかがえます。

ルカ福音書の『放蕩息子』『不正な管理人』は、ほかの福音書にはないお話しです。マタイ、マルコ、ヨハネは『放蕩息子』『不正な管理人』の話しを知らなかったのでしょうか?そうではないはずです。この話しは、律法学者たちがイエスさまと卑しい身分の人たちを愚弄したことを受け、イエスさまが反論するという場面を表したものです。イエスさまのそばには侮辱を受けた取税人たちもいます。その場の空気は張りつめていたことでしょう。ドラマチックな場面というのは、記憶として鮮明に残るものです。その場に弟子たちもいたのですから、弟子たちがこの話しを知らなかったとか、忘れたというのは考えにくいことです。

マタイは『不正な管理人』の1節だけを切り取って書き残しています。『だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません(マタイ6:24、ルカ16:13)』。マタイは『不正な管理人』のお話しを知っていたようです。

ルカ以外の福音書執筆者もこの話の存在を知っていたにも関わらず、あえて記述しなかった理由があったのです。それは、このお話が非常に強烈なアイロニー表現(皮肉を込めた痛烈な表現)であるため、記録として残すことをためらったからでしょう。

執筆者の心には『強烈なアイロニー表現を読んだ読者は、イエスさまは陰険な人物だと誤解するのではないか』との不安があったはずです。また『不正な管理人』を執筆する者には、読者に誤解を与えないよう書きあげる表現力が要求されます。ルカにとっても『不正な管理人』の執筆はリスクが伴うことでしたが、裏を返せば、そこまでして書いた『不正な管理人』の話しに、ルカが持つイエス像や福音観を見ることができるのです。

『不正な管理人』をギリシャ語で読んでみると、無駄のないことば使いにルカの文章力を感じ、同じことばを繰り返す変則技、豊富な語彙に、ルカの自信に満ちた筆跡を感じます。ルカは綿密な分析力があり、優れた文章構成力と表現力を持った人物だということが分かります。新改訳は『テオピロよ』とおかしな訳文で出版しましたが、ルカの執筆力はそのような低いレベルではないのです。翻訳委員会の質の低さがそのまま、訳文の質の低さとなって表れている。そのように思えてなりません。

※アイロニー
アイロニーというのは、相手をやり込めるための強烈な皮肉を交えた表現です。例えば、待ち合わせに遅刻をしたことに対し『君は時間に几帳面な人だねえ』と言われたらかなりこたえるのではないでしょうか?『遅刻するなよ』より『君は時間に几帳面な人だねえ』のほうがはるかに精神的ダメージが大きいですよね。言われた側は、ことばを額面通り理解するのでなく、その裏に隠された真意を詮索しなければなりません。

ユダヤ人と付き合ったことがある方であれば分かると思うのですが、ユダヤ人の会話には、時にビックリするほどの激しいやり取りがあります。それはことばの格闘技『ことばのK-1』です。激しいことばの応報の中に、皮肉たっぷりのアイロニー表現も使われます。アイロニーは変則技のようなもので、不意を突き相手の思考を撹乱する攻撃法です。アイロニーを言われた人はその真意を悟った瞬間、マットに崩れ落ちるのです。



『Irony and Meaning in the bible(聖書の中のアイロニー表現)』と検索をかければ、ものすごい数の英語の記事が出てきます。聖書の原文解釈をする上でユダヤ文化を理解することは欠かせません。日本人を含めた非ユダヤ人にとって、アイロニー表現は理解しづらい面があるようですが、聖書翻訳者にとってアイロニー表現を理解することはとても重要なことです。




最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。