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この記事は、ルカによる福音書16章5~7節『不正な管理人』の翻訳の仕方について記述します。新改訳訳文に対する批判も含まれているため、不快に感じる方もいらっしゃるかもしれません。その旨ご承知の上お読みください。
~ルカによる福音書16章5~7節~
ルカによる福音書16章5~7節 新改訳
5)そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、まず最初の者に、『私の主人に、いくら借りがありますか。』と言うと、
6)その人は、『油百バテ。』と言った。すると彼は、『さあ、あなたの証文だ。すぐにすわって五十と書きなさい。』と言った。
7)それから、別の人に、『さて、あなたは、いくら借りがありますか。』と言うと、『小麦百コル。』と言った。彼は、『さあ、あなたの証文だ。八十と書きなさい。』と言った。
5~7節で検討すべき箇所が5つあります。
・彼、あなた、その人
・(ひとりひとり)呼んで
・言う、言った
・小麦百コル、油百バテ
・証文
~彼、あなた、その人~
『私、あなた、彼、彼女』といった人称代名詞を多用しないというのは日本語の大きな特徴ですが、小学2年生でも理解していることが分かります。英語の文では、人称代名詞『 I, you, he, she 』が多用されます。しかし、日本語で人称代名詞を使うのは、そこに特別な意味がある時だけです。翻訳者はこうした言語構造の違いを理解し、誤解なく両者が通じ合える訳文を作らなければなりません。因みにギリシャ語の場合、動詞の語尾を変化させることで人称の区別をするので、英語のように『 I, you, he, she 』と独立した単語として現れない場合が多々あります。
例えば、ギリシャ語で『私は言う λέγω レゴー』と言うことばは『彼は言う λέγει レゲイ』と、語尾を変えることで、人称の区別をします。ギリシャ語の『λέγει レゲイ』を日本語に翻訳する場合『イエスさまが言った』や『ペテロが言った』と文脈に合わせて訳語を変えなければなりません。具体例を挙げてみます。
ギリシャ語ではどれも『レゲイ』ですが、日本語では基本的に人称代名詞を使わないので『主人は言った、管理人は言った、ヨハネは言った』と訳出しなければならないはずです。
なぜ新改訳は『私、あなた、彼、彼女』を多用し、わざわざおかしな日本語にするのでしょう?それは『主人は言った、管理人は言った』といちいち訳語を変えるのは面倒なので、基本的に『彼は言った』でいいじゃないか。聖書がおかしな日本語になったって関係ないよと、委員会の中で身勝手な取り決めをしているからです。
委員会は、こうした手抜き作業を正当化するため『直訳が良い、トランスペアレント訳が良い。ぎこちない日本語のほうが良い』と、事あるごとに詭弁(きべん)を弄(ろう)している、そうとしか思えません。
小学生のお子さんをお持ちの方であればお分かりだと思いますが、子どもが作文の中で『私、あなた、彼、彼女』という代名詞を繰り返し使うでしょうか?そのようなことはないはずです。日本語では人称代名詞を多用しないということは、小学校低学年でも理解しています。聖書の中で人称代名詞が多用されているということは、聖書のことばが、小学生以下の日本語で書かれているということです。
~(ひとりひとり)呼んで~
『(ひとりひとり)呼んで』と訳されたことばは、コイネー・ギリシャ語の『プロスカレオマイ』という動詞です。
προσκαλεομαι(4341) proskaleomai プロスカレオマイ
(上位の者が下位の者を)呼ぶ。呼び寄せる。
(上位の者がグループの中から)幾人かを選ぶ。召し寄せる。
5節の文脈で理解すると『プロスカレオマイ』というのは、管理人が帳簿を開き、債務者リストの中から目ぼしい人物を選んで呼び寄せたということです。詳しくは『ルカによる福音書16章-3 ~(主人は、彼を)呼んで~』の記事で記述しています。興味のある方はご参照ください。
~言う、言った~
5~7節の間で『言う』ということばが6回使われていますが、小学生でもこんなおかしな書き方はしません。
5)そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、まず最初の者に、『私の主人に、いくら借りがありますか。』と言うと、
6)その人は、『油百バテ。』と言った。すると彼は、『さあ、あなたの証文だ。すぐにすわって五十と書きなさい。』と言った。
7)それから、別の人に、『さて、あなたは、いくら借りがありますか。』と言うと、『小麦百コル。』と言った。彼は、『さあ、あなたの証文だ。八十と書きなさい。』と言った。
『言う』が何度も繰り返されているので、幼稚な日本語になっています。ギリシャ語も幼稚な表現になっているということなのでしょうか?そうではありません。『言う』と訳されたのはコイネー・ギリシャ語の『レゴー』『エポー』二つのことばが使われていて、それぞれ次のような意味があります。
λεγο(3004) lego レゴー
言う、語る、説明する、述べる、教える、告げる、呼ぶ、名付ける、申しつける、命じる
επο(2036) epo エポー
答える、返事をする、命じる、呼ぶ、話す、告げる
『レゴー』『エポー』それぞれ幅広い意味があり、日本語に訳出する場合、文脈に合わせて適切な訳語を選択するという作業をしなければならないのですが、新改訳では両方とも『言う』という訳語に限定していることが分かります。そのため『言った』を繰り返す幼児文になったのです。新改訳がトランスペアレント訳が理念だというのであれば、少なくとも、レゴーとエポーは違う訳語になるはずですよね。新改訳は、理念に反することをやっているのです。
新改訳がこうした愚かな訳文を作るのは、前述した通り『文脈によってどの訳語を選択するかを考えるのは面倒なので、機械的に訳語を決めてしまおう。そのため聖書の訳文がぎこちない訳になったって仕方ないじゃないか』そのような取り決めがなされているからです。
これは『彼、彼女』『言う』に限ったことではなく、聖書全体がこうした訳しかたになっています。これが専門家がやる仕事でしょうか?通訳業務の一翼を担ってきた者として申し上げますが、このような手抜き作業は、聖書を読む人への裏切り、そして執筆者への侮辱にほかなりません。
日本人であれば、少なくとも次のように言い換えるはずです。
5)そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、まず最初の者に、『私の主人に、いくら借りがありますか。』と尋ねると、
6)その人は、『油百バテ。』と答えた。すると彼は、『さあ、あなたの証文だ。すぐにすわって五十と書きなさい。』と命じた。
7)それから、別の人に、『さて、あなたは、いくら借りがありますか。』と尋ねると、『小麦百コル。』と答えた。彼は、『さあ、あなたの証文だ。八十と書きなさい。』と命じた。
『・・・言った。・・・言った。・・・言った』と、おかしな日本語聖書を一般の日本人が読んだとしたら『聖書って味気ない文章の本だな。ルカっておかしな文を書くんだな』という誤解を与えることになります。これでは素人の仕事です。何故こんなことになったのでしょう?
『この様な翻訳じゃまずいんじゃないですか?翻訳理念など根本的なところに問題がありますよ』といった周囲の助言に、委員会は耳を傾けてこなかったのではありませんか?委員会の中で、お粗末な翻訳をしていることを黙認し翻訳者としてお金をもらっていた人もいたはずです。
また、長い間この翻訳委員会をお膳立てし、担ぎあげてきた周りの人にも問題があります。実際の訳文を具体的に検討することなく『直訳こそが原典に忠実な翻訳方法です』『新改訳は原典に忠実な翻訳です』との発言が繰り返されてきました。翻訳者が拠りどころとするのは言語学と心理学の理論ですが、直訳を正当化する方が、何の理論を根拠に直訳を正しいとするのか、根拠となる理論の提示を見たことがありません。また、新改訳訳文の間違いを指摘することに対し、それがあたかも神への冒涜であるかの様な目つきで見る、そうした雰囲気を周りの人が作ってきたように感じます。
教会の祈り、奉仕者、献金が集中すると、いつの間にか組織そのものが神格化されるということがあります。やがて組織の頂点に立つ人物のことばが絶対視され、周囲の人が盲目的に服従する、そういうことが起こるのです。イエスさまは律法学者の過ちを厳しく批判されましたが、サンヘドリンにも組織の神格化と退廃がありました。十字軍の遠征、贖罪符の販売、教会のカルト化・・・これらは共通して組織の神格化、代表者の絶対化、盲目的服従が起こっています。教会やクリスチャンは、こうした過去の過ちから教訓を得ているでしょうか?
オーバーだと思われるかもしれませんが、聖書の翻訳委員会にも同じような匂いを感じるのです。翻訳をやる人もただの人間なのですから、翻訳委員会も人間の集まりに過ぎません。人間がやることですから、翻訳に間違いがあって当然のことです。
ところが、翻訳委員会に神聖不可侵さを与え、その翻訳理念『直訳』を絶対視し、周囲の人がこれに盲目的に追従している、そのように感じるのです。新改訳も一翻訳に過ぎないのですが、新改訳に神のことばと同格の地位を与え、訳文の誤りを指摘することがタブー視されている。そのような臭いがプンプンしています。
教会やクリスチャンが犯してきた『組織の神格化』という過ちが克服されない限り、『宗教って怖い面があるよね』『キリスト教って残酷なことをしてきたよね』という世間の見かたは、いつまでたっても変わらないでしょう。
困ったことですが、一度できあがった『裸の王様』は、簡単に王座を明け渡しません。周りの人も『王様は何て素敵な翻訳をされるのでしょう!直訳こそ忠実な翻訳方法だわ!』と、自分でも見えていない衣装をほめそやします。もし『王様!裸ですよ』と指摘をしようものなら、袋叩きの目に合います。偉くなった王様は、下々のことばなど全く耳を貸さなくなる、そういうものです。
~カノジョのたんじょう日~
新改訳の翻訳委員会の先生は、次の規定をご存知でしょうか?
日本翻訳協会『翻訳者の倫理綱領』
(5) 手に負えないものを引受けない責任
プロフェッショナル・トランスレーターは、自身の力量にあまる翻訳サービスを引受けてはならない。
委員会は『私、あなた、彼』『・・・言った。・・・言った』という『もっとがんばりましょう』レベルの日本語、これを改めることから着手しなければなりません。ギリシャ語の知識とか翻訳スキルとかそういった高度な知識が議論できるレベルに至ってないのです。新改訳訳文のレベルから判断すると、とてもじゃありませんがプロの翻訳者を名乗ってはいけません。このような組織が聖書翻訳を引き受けること自体、倫理規定にもとるのです。
~油百バテ、小麦百コル~
各日本語訳聖書の表記をまとめてみました。
新改訳は『百パテ、百コル』と表記しましたが、日本にはパテ、コルという度量衡はありません。ユダヤの度量衡表記を読んでパッと理解できるのは、牧師や神学者の中でも1%もいないと思います。文語訳、口語訳は『樽、石』と日本人に分かる単位に置き換え訳出しています。プロの翻訳者として当然の仕事です。先輩方が良いお手本を示しているにも関わらず、新改訳は『パテ、コル』と直訳し意味の分からない訳文にしてしまいました。これでは新改悪聖書です。
『イザヤ書8章-2』の記事で、新改訳は『マヘル・シャラル・ハシ・バズ』とヘブライ語読みのまま表記し、日本語の解説を入れることも怠っていることを指摘させていただきました。それと同じ過ちをここで繰り返しているのです。一般の読者には理解できない、翻訳者がヘブライ語の知識をひけらかすような訳文は、翻訳者の自己陶酔を見せつけられるようで不愉快です。
~板前になったやく君~
小学生だったやく君も社会人となり、憧れだった板前さんになりました。かつての恩師は、独立したやく君の晴れ姿を一目見ようとお店に行きました。そこでアナゴを注文したのですが・・・(;O;)
『先生、僕は小さい頃から新改訳を読んできたんですが、ある時、直訳こそ真理だって悟ったんです。寿司っていうのはネタが命なんですが、生きたまんま、一切手を加えないネタをお客さんに提供すること、これが原材料に忠実な仕事だって気が付いたんです。よその店じゃ、アナゴを下処理し、焼いてタレまで塗ったくるじゃないですか。あんな細かい作業、手間のかかる仕事ってのは、言うなれば意訳なんです。意訳はやってはいけない邪道なんですよ。だからうちは、タコ、サンマ、ホタテ、カニ、ウニ・・・一切下処理なし、生きたまんま提供してるんです』
『やく君、君の熱意には感心するけど、君はお客さんのことを考えているだろうか。お寿司を食べに来る客というのは、君の講釈にお金を払うんじゃなく、プロが握るおいしいお寿司に対しお金を払うんじゃないかな。生きたタコを丸ごとカウンターに出されたって客は食べられないだろう。このアナゴだって生きたまんま出されても食べられないよ。お客がおいしく食べられるよう包丁を入れ、調理をする、それがプロの仕事だろ。生で出せるネタ、火を通さないとダメなネタ、酢で絞めた方が良いネタなど、素材に合わせた処理法や調理法があるんだよね。お客さんのことに気を配れない、独りよがりなお店じゃまずいんじゃないかな。そんな商売だったら素人にもできるよ』
『先生、新改訳の理念というのは、ひとりぼっちで聖書を読むことは聖書的じゃあない。牧師や注解者のところに行ってみんなと一緒に学ぶものだっていうことなんです。だから生きたアナゴが食べられなければ、持ち帰って捌(さば)ける職人を見つけ捌いてもらえばいいんですよ。途中腐って食えなくなるかも知れませんが、それはうちの責任じゃないですから。誰かに捌いてもらうことで、人と人との交わりだってできます、大切なのは交わりなんです。あくまでうちは直訳で出す。あとのことは一切知りません。うちボッタクリじゃありませんよ。直訳がポリシーというだけです』 翻訳としての『新改訳聖書』の立場参照
ヘブライ語の『マヘル・シャラル・ハシ・バズ』『パテ、コル』を直訳で訳文に載せるというのは、生きてるアナゴをそのままお客に出すようなものです。
~証文~
証文と訳されたのは、ギリシャ語の『グラマー』という名詞で、幅広い意味があります。
γραμμα(1121) gramma グラマー
文字、手紙、記録、報告書、メモ書き、会計帳簿、伝票、本
各日本語訳聖書の表記をまとめてみました。
『証書、証文』ということばが使われたのは、古い時代背景に合うことばが良いだろうという考えがあったからでしょう。そういう訳出もあると思います。しかし、聖書が現代語に翻訳され出版されるというのは一般の人に読まれるという訳ですから『受領書、受取書』あたりの訳語が読者にとって読みやすく親切だと思います。
6,7節で、管理人はオリーブ油と小麦の負債を減額します。ある神学者は『管理人は不当に利息を上乗せしていた分を減額したのである。従って管理人が顧客の負債を減らしたことは不正に当たらない』と合理的な解釈をしています。しかし、これは何とも身勝手な解釈で、これを裏付ける記述はどこにも書かれていません。管理人はイカサマをおこない、あるじはそのことを褒めたと原文に書かれているのですから、そのまま受け入れたら良いのです。神学者であれば、人間の知恵を加えて聖書解釈をねじ曲げることが許されるのでしょうか?神学者が人間的知識を駆使し原文解釈をすることは、訳文を歪める危険があるという認識を持っていただきたいものです。
オリーブ油は高貴さの象徴で、ある人は神に対し大きな罪を負っているということを意味し、小麦はパンの原材料ですから世俗社会を象徴し、ある人は社会生活の中で大きな罪を抱えているという意味を表しています。不正な管理人がアイロニー表現で書かれていることが分かれば、人間の知恵で聖書解釈をねじ曲げなくともきちんと理解できます。ウラの意味は『ルカによる福音書16章-8』にまとめて書かせていただきました。
~16章5~7節 解釈文~
以上を踏まえ解釈文を作ります。原文放棄をしていないのでまだ訳文ではありません。
5)会計士は、取引先の中からあるじに負債がある顧客を選び、一人ずつ呼び出した。初めの顧客に『お宅はうちにいくらの負債があったかな』と尋ねると
6)『オリーブ油100樽です』との返事です。会計士は『では、椅子に腰かけこの受領書に50樽で記入してくれ。手早くやってくれよ』と命じます。
7)次の顧客に『お宅はうちにいくらの負債があったかな』と尋ねると『小麦10トンです』との返事。『では、この受領書に8トンで記入してくれ』と会計士は命じました。