花の詩山の詩

花の詩(うた)山の詩(うた)へようこそ
このブログは「花と山とを友として」の続編です

つくば市手子生(てごまる)の手子生城跡

2020年01月10日 22時35分29秒 | アウトドアー
かって小田城の支城として立てられたという「手子生城(てごまるじょう)」の城跡を訪ねてみた
城跡は、つくば市の手子生(てごまる)に残っている。

そもそも「でごまる」という地名の由来が面白い。
「つくば新聞」のつくば市の神社(http://www.tsukubapress.com/jinja.html)
には、手子神社の由来が記載されていて、

鹿島神社(手子生)かしまじんじゃ
 手子神社。創建不詳。旧村社。1603(慶長8)年、時の手子生城主・菅谷範政が祭神不詳だったため、武甕槌神を祀ったとされる。 地元では、手の子明神として親しまれている。御神体は木彫りの手首。

その昔、手子生村に住んでいた若い夫婦は、夫の留守中、その妻が村の若い衆のいたずらに遭わないように、 夫婦の隣に住む爺さんが、毎晩妻の身体に手を当てて守ってやったら、いつしか妻は妊娠。 生まれた男の子は、稀に見る秀才で、成人して立派な功績を残したことから、後世その徳を慕って一社を建立して末代までの守り神とした。 「手を当てて子が生まれた」ということから手子神社といわれているという。
 つくば市手子生985。鹿島神社・手子生の地図

と書かれているので、女性の身体に手を当てていたら、子供が生まれたので
「手子生(てごまる)」になったらしい。
なんともムフフな由来で、思わず想像をたくましくするが、それはさておいて

城跡に行ってみると、畑の中の平地に、城址碑と大地震で倒れたモニュメントの
台座だけが残っていた。


左が倒れたモニュメントの台座、右が城址碑で手子生城址と刻まれている。
以前はモニュメントに歴史や由来が書かれていたらしいが、今は何も残っていない


城址碑の裏面に、由来の様なものが刻まれているようだが、老眼では
読めなかったのが残念だ


城址碑の北側は、平地の草原でその右側に水堀の跡のようなものが
北に延びている


水が少したまって掘跡と判る

手持ちの「茨城の城郭」という本に、この手子生城址の記事が
出て無かったので、ネットで検索すると 「手子生城址」という記事が
有ったので、それを紹介する。
「 手子生城 }





最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。