【九里一族】に出会う旅に出かけよう!

姉妹編【九里】を探して三千里 http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori

土岐・隠岐・加治・大友・中原・波多野・松田・宇都宮

2018-04-29 20:09:57 | 隠岐氏

土岐光定は隠岐守であり、土岐頼定は隠岐孫二郎と呼ばれる事。
隠岐氏が能州守護畠山氏の被官であった事。
その隠岐氏と同じ被官に加治氏がいたこと。
加治実秀が大友実秀であること。
大友経家娘は中原親能の妻となった事。(それ以前は頼朝の妾)=利根局
中原能直は大友を名乗っていた事。
利根局と実秀は兄弟姉妹である事。
大友経家は、波多野氏であること。
波多野=大友であり、中原氏と婚姻関係があり、大友は加治氏とつながっている。
波多野忠綱の母は、宇都宮宗綱の娘であること。
波多野有経が初代松田有経であること。

私の予想では、
この中に富城蓮忍がいること。

そして、九里とつながっているのではないかと思われる隠岐氏である。(六角家臣団より)
その隠岐氏が「興」とも漢字で書けることと「散位源行真申詞記」とつながるのだ。
やはり、源頼政や藤原秀行にも関係があったのだ。




https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/光定

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頼仁親王 (メモ)

2018-04-11 15:37:38 | 隠岐氏

昨日の記事に『順徳天皇の弟冷泉宮賴仁親王妃加治實秀の子女』と書いた。

冷泉宮賴仁親王
https://ja.wikipedia.org/wiki/頼仁親王

児島 高徳
https://ja.wikipedia.org/wiki/児島高徳
http://www.libnet.pref.okayama.jp/mmhp/kyodo/person/kojimatakanori/takanori.htm



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畠山氏と加地氏、そして隠岐氏

2018-04-10 12:15:16 | 隠岐氏
 
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/rokkaku.html
六角家臣団の九里の周辺
高祐奉行人
賢広奉行人
野寺忠広能寺忠弘奉行人
  忠行奉行人
隠岐忠広越前
九里秀方秀宅子秀重孫経重曾孫経久玄孫中原経任流又左衛門
次郎左衛門美作?仕六角久頼文安頃
  治任仕伊庭享徳頃
  次郎左衛門享徳頃
賢秀====1496?次郎?美作応仁頃
  高雄賢秀子三郎左衛門伊賀?刑部?寛正頃
  信隆====1511員秀子?刑部
玉松信隆子三十郎?
三郎左衛門長禄頃
貞信三郎文明頃
  員秀賢秀子?四郎次郎備前仕六角高頼「江州郡代」明応文亀頃
  信賢員秀子?信隆?備前永正頃
  浄椿信賢子?刑部伊賀
  宗忍====1525伊賀入道宗恩大永頃
  隆員
  賢久五郎太夫仕牧野忠成
頼純賢久子牧野忠成子?惣右衛門
政直岡田清左衛門八郎右衛門

種信宮内左衛門明応頃
左馬延徳頃
采女====1552
与右衛門采女子

吉忠次郎左衛門仕朝倉永正頃
  十郎左衛門仕朝倉
  十助前野宗直子佐々成政養子
  甚左衛門
久松新左衛門享徳頃
布施三河
公雄淡路
  公保藤九郎忠兵衛
  貞友新右衛門
  新蔵人
  源次郎
栗田元経文亀永正頃
  実勝左京永正頃
  定政左京大永頃
  民部長禄頃
片山隆清小三郎文明頃
四至内頼助文明頃

TOPにいる人たちに注目して見る。
高祐奉行人
賢広奉行人
野寺忠広能寺忠弘奉行人
  忠行奉行人
隠岐忠広越前

この人たちは、ここでは野寺・能寺・隠岐とあるが、能登畠山家の武将であったようだ。
http://nanao.sakura.ne.jp/souran/souran1.html


そして、同じページにいる「加治氏」が気になった。

この加治氏は佐々木流加地氏とは別系だろうか?
佐々木流加地氏のことを調べてみると。始まりは加治城主であり、加治という漢字である。
http://tokyox.matrix.jp/wordpress/佐々木盛綱、越後の加治城、佐々木加治春綱/

加治城主となった盛綱の嫡男、加治信実
佐々木盛綱の嫡男。佐々木加治信実とも記される。鎌倉幕府御家人。越後国加地荘地頭、備前国守護。
父盛綱は平氏追討に功をたて越後国加地荘(現在の新潟県新発田市)を賜り土着し、加地氏の祖となった。


加地城、加治城 (佐々木加地氏本城)
加治城は鎌倉時代初頭、越後守護職兼加治荘地頭 職、佐々木三郎盛綱により築城され以来室町時代 初めに至るまで、越後守護代、伊予(愛媛)備前 (岡山)守護職佐々木加治氏の本城として隆盛を 誇りましたが、足利将軍家の一族、関東上杉氏の 越後入封以来、衰微の一途をたどりました
戦国時代上杉謙信の姉が加治春綱の室となり  再び隆昌の途についた矢先、上杉謙信公の急死に 遭遇、天正八年暮一族五十公野氏の奇襲に より落城
その後再建、天正十五年(一五八七)九月七日 (旧暦)上杉景勝の攻撃を受け遂に落城
慶長二年(一五九七)上杉景勝の命により 加治氏は断絶
加治城は廃城となりました

1 諸国名を冠する加治氏、備前加治氏初め十九流
2 領地を姓とする分流新発田氏竹俣氏等五十氏を超える
3 大友稲荷社 加治城主三代加治實秀建立
4 藤戸神社 岡山県倉敷市藤戸町の地名より
5 順徳天皇の弟冷泉宮賴仁親王妃加治實秀の子女

とある。

この3番と5番の「加治実秀」とは、以下のHPによると「大友実秀」のようでもあり、興味深い。
http://www.niitabi.com/sibata/inari.html

「大友氏」とつながるということは、「中原氏」とも繋がる。

そして、この加治と大友とのつながりだが、佐々木哲学校のコメントに以下のようにあった。
『越後加地庄には大友(新発田市大友)という地名があり、その大友を名乗ったと考えられます。現在も実秀が建立したという大友稲荷があります。

しかし私も大友実秀の大友が、波多野氏由来で相模大友郷から名乗ったものと考えたこともあり、結論は保留中です。武士が移住した先に本国や旧領の地名を持ち込むことはよくあるからです。

大友という地名が大友二郎実秀が住む以前からあったのか、以後に付けられたのか慎重に見極める必要はあるかもしれませんね。

もし実秀が居住したことで大友という地名ができたのであれば、大友は波多野由来ということになりますね。佐々木兄弟のうち盛綱は東下した当初、波多野義常の許に身を寄せましたから、佐々木・波多野・大友という関係が見えてきます。』


そして、web情報から




大友経家に注目すると、中原親能が出てくる。
ここで、中原・大友・佐々木加地・波多野・松田・宇都宮氏が並ぶことになる。

そして、以前蓮忍と書状をやり取りしていたのが「源実秀」であった。




https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2/s/加治

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九里太郎経久 蓮忍入道 ・ 佐々木加地氏 と関わる。 そして佐々氏が登場する。

2017-10-21 17:11:07 | 九里氏と佐々木氏

この二段目に源実秀という名が出てくる。(東京大学史料編纂所DB)

web上にも見つけた。http://chibasi.net/ichizoku5.htm
この下の方に文永2年の項に、源実秀と富城入道の名前が出てくる。(平胤員…という名もある。)

文永2(1265)年6月15日『胤員・実秀連署状』という文書である。


【書名】
中山法華経寺文書(紙背文書)
【著者名】

【原蔵者】
法華経寺(千葉県市川市中山2-10-1)

原寸大写真(「双紙要文」紙背文書,「天台肝要文」紙背文書,「破禅宗」紙背文書,「秘書」紙背文書)
参考:中尾堯編『中山法華経寺史料』第三刷(請求記号:1015-305-(a))

86(「破禅宗」紙背文書第6号)

【形態】
1枚
【注記】
平胤員・源実秀連署書状(年未詳六月十五日)[首欠]

蓮忍・常忍は日蓮の強力なサポーターであったので、その関係であるらしいことがうかがわれる。

~~~*~~~

散々探して、これは佐々木実秀=加地実秀であろう~と見当をつけた。
(大胡実秀という人物もいる。こちらも藤原秀郷流の系図の中に出てくるので、関係があるかもしれない。…但しこの方は、法然を信じているようだ。)

今までなぜ佐々氏と養子縁組が二回もあったのか不思議だったのだが、ココで繋がっていたようなのだ。

佐々氏綱(さっさ うじつな)は、佐々木盛綱の子加地信実の八男。鎌倉時代前期の人物。


九里太郎経久蓮忍は加地信実、そして息の実秀、その弟である佐々氏綱 つながっていたのだ。

そして加地氏は、越後国と縁が深い。そして加地盛綱氏には9人もの子供がいたそうである。
さて、そうなると「富来氏」と近いところに?? 娘の婿とか??

また、加地盛綱の父は佐々木源秀義であるが、母親はなんと源為義女(娘)であり、そうなると鳥居禅尼とは姉妹となる。(為義は婚姻関係が複雑のため、盛綱の母と鳥居禅尼とが同じ母親から生まれたとは限らないが父親は同じである。)
他の情報もある。盛綱の母は、宇都宮座主宗圓女という説もある。(近江蒲生郡志)

どちらにせよ、今まで調べてきたことと繋がりがあるようだ。

~~~*~~~

九里氏に本郷氏になったという形跡(証拠)はないようだが(系図が見当たらないだけかもしれないが)、近江国佐佐木荘に居ること(源有仁所領)、因幡国の富城郷の所領を持っていたこと(本郷信冨の弟矢部定政)、が合致している。
ただし、富城郷は九里1250年以前の所領・矢部氏1340年での所領である。(100年近くの開きがある。)

その中途で本郷氏(矢部氏)と九里氏とに婚姻関係があったなら、所領を譲渡された可能性もあるが。そのあたりをこれから調べなくてはならないと思う。
佐佐木荘もしかりである。

本郷氏は文書に残っている荘園はいくつかあるが、その中に佐佐木荘も富木(城)郷も出てこない。
とすると、父祖伝来の領地である可能性もあると思う。

佐々木盛綱のいただいた領地は、伊予/讃岐の守護、備前藤戸庄/上野磯部郷/越後加地庄の地頭職を得た…とweb上にはあった。
また、加治川右岸大友に加地実秀が居館を構え大友二郎と称しその子・実綱も大友に本拠を置いたという。
近くの東泉寺は建長年間(1249~1256)に加地実秀が真言宗の寺として開基したという。(日蓮‥は?…?)


本郷氏の所領・もしくは地頭職についていた場所は
1357
延文2正平12
4.26
越後守護宇都宮公綱,吉河荘大津・うりゅうを本郷弥五郎に渡す[(5)4001]

5.3
本郷詮泰,三島郡吉河荘中条北方を安堵される[(5)4004]

他に若狭国大飯郡・美濃国雛倉?庄・若狭見方保・上記の吉河荘中条北方(越後国と文書ではなっているが・・)の地頭職をいただいている。

宇都宮公綱からは吉河と大津と瓜生は別々なのではないだろうか?
ココも調べよう!

宇都宮公綱
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E5%85%AC%E7%B6%B1

ウ~ン、これは、やはり宇都宮宗圓が佐々木盛綱と関係があり、しかも本郷氏とつながっているに違いない!(所領を渡す…本郷氏にとられたのかもしれない?)相伝や譲るではなく、渡す…ここが気にかかる。

コトバンクより
1302-1356 鎌倉-南北朝時代の武将。
乾元(けんげん)元年生まれ。宇都宮貞綱の子。下野(しもつけ)(栃木県)宇都宮城主。元弘(げんこう)の乱には幕府側として楠木正成とたたかう。のち後醍醐(ごだいご)天皇方にしたがい,建武(けんむ)政権では雑訴決断所一番の奉行となる。同政権が崩壊後も南朝方について各地を転戦した。延文元=正平(しょうへい)11年10月20日死去。55歳。初名は高綱。

宇都宮公綱
うつのみやきんつな
(1302―1356)
南北朝時代の下野(しもつけ)(栃木県)の武将。初名高綱。正眼庵と号す。元弘(げんこう)の変(1331)に北条高時の命を受けて西上し、「戦場で命を捨てることなどまるで塵(ちり)か芥(あくた)のようにしか思っていない」と恐れられた股肱(ここう)の臣「紀(き)・清両党(せいりょうとう)」(『太平記』)を率いて大坂・四天王寺で楠木正成(くすのきまさしげ)と戦った。のち後醍醐(ごだいご)天皇に投じ、建武(けんむ)政権成立後、兵部少輔(ひょうぶのしょう)に任じ、雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)一番の奉行(ぶぎょう)を務めた。足利尊氏(あしかがたかうじ)が鎌倉で反すると、新田義貞(よしさだ)に従って東下し、箱根竹ノ下で足利軍と戦って敗れ、いったん降伏するが、ふたたび朝廷方に帰順し各地を転戦した。吉野の行在所(あんざいしょ)にも参じ、その功により正四位下左少将に叙任された。のち出家、益子(ましこ)町大羽(おおば)に隠栖(いんせい)した。法名理蓮。1356年10月20日没。[新川武紀]

【下野国】より

…鎌倉期の寺院では,仏国国師の再興になる黒羽町の臨済宗雲巌寺や足利義兼の持仏堂から発展した足利の鑁阿寺(ばんなじ),二宮町高田の専修寺などが著名である。
[南北朝時代]
 1331年(元弘1)後醍醐天皇が倒幕の兵を挙げると小山,足利,宇都宮,那須などの諸氏は幕府方として戦い,とりわけ宇都宮公綱は紀・清両党を率いてめざましい活躍をした。最初幕府方として挙兵した足利尊氏は33年後醍醐天皇に応じて京都の六波羅探題を攻め,幕府倒滅に活躍した。…

きせいりょうとう【紀・清両党】
下野国一宮二荒山(ふたらやま)神社(俗に宇都宮大明神)に奉仕した紀氏,清原氏の子孫。とくに鎌倉~南北朝期,同神社座主宇都宮氏に従属して活躍した武士団の一つ。《紀氏系図》《堀田芳賀系図》によれば紀氏は大納言紀麻呂より6代後の清主が下野大掾(しもつけだいじよう)(一説に下野守)として初めて下野に住したのに始まり,同時に社職のことをつかさどったという。清原氏は系図上では天武天皇の皇子舎人(とねり)親王の後裔ということになっているが詳細は不明。

藤原道隆の弟の粟田口関白道兼、その曾孫に宇都宮大明神の座主となった宗圓がいる。
この流は下野宇都宮。

この宇都宮公綱
豊前宇都宮氏・城井氏の一族

web上よりいただいた情報であるが…
概要
一族は豊後国内に門葉を広め、およそ次のような氏がある。
2代宇都宮信房の兄弟からは、中原氏(中原宗隆)、野仲氏(野仲重房)、山田氏、高野氏(山田政房)、深水氏(深水興房)、西郷氏(西郷業政)、廣澤氏(廣澤直房)、那須氏(那須有家)、江良氏(江良業俊)、江里口氏
3代宇都宮景房の兄弟からは、笠間氏(笠間有房)、如法寺氏(如法寺信政)、仲八屋氏(仲八屋家信)、麻生氏、白川氏(麻生国弘)、加来氏(加来正房)、鹿島氏(鹿島康房)、山田氏(山田景長)
4代宇都宮道房の兄弟からは、深江氏(深江盛吉)、増淵氏、横川氏(横川為平)、友枝氏、荒巻氏(友枝信範)、荒尾氏(荒尾範景)、赤熊氏(赤熊範資)
5代宇都宮頼房の兄弟からは、七井氏(七井盛房)、上条氏(上条道氏)
7代宇都宮冬綱(城井冬綱)の兄弟からは、佐田氏(佐田公景)

人物
城井則房(筑後宇都宮氏の蒲池久憲の子)
野仲鎮兼(城井鎮房の乱に参加し討死)
佐田隆居(城井宇都宮氏庶流)
佐田鎮綱(隆居の子、豊薩合戦で唯一大友方であった豊前の有力国人)

以前の記事にも「宇都宮朝綱の息に【城井信房】がいる。宇都宮信房、またの名が中原信房である。」と書いてあった。http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/abc08cef8a5df9ed303a06f4ed53094c

この話はまだまだ続く。。。
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