【九里】を探して三千里

【くのり】と読む曽祖父の苗字を調べております。
各地の九里情報・伝承をご存知の方、是非教えて下さい!      

越中氏一族の中に九里氏がいるのではないか?

2016-10-01 | 越中氏 バラバラ情報

web情報より

有馬氏は、島原半島の有間邑に起った平姓の武家で、はじめ有間、のちに有馬と表記するようになりました。その存在は鎌倉中期には知られ、『東鑑』寛元四年(1246)三月十三日条の有間左衛門尉朝澄が見え、その所領について越中七郎左衛門次郎政員の訴を却下したと記されます。

深江文書には、その翌年の宝治元年(1247)に六月五日付けの高来郡東郷内深江浦地頭職の譲状には、先祖相伝の所領を深江入道蓮忍に譲り渡す者として左衛門尉平朝澄と記されますから、この当時、有間氏は平朝臣姓を名乗っていたことが分かります。

さらに、建長六年(1254)四月四日付け文書にも同じ地頭職を「ありま右衛門」を名乗る沙弥蓮仏(左衛門尉平朝澄)が嫡子の平もちすみ(持澄で、上記深江入道蓮忍と同人か)に譲り与えています。この有間左衛門尉平朝澄は、有間を初めて名乗ったとされる経澄の子の朝澄に比定されます。

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越中氏の訴を却下と書かれてはいるが、相論した結果、越中氏でありながら有馬朝澄が認めた「蓮忍」になったとは考えられないだろうか。

もしも平持澄がイコール蓮忍であるならば、九里氏の可能性は低いと思う。

私は、九里太郎左衛門経久=蓮忍入道を探している。・・・とはいえ、一時的に朝澄の婿養子となって、土着せずに、平朝澄の息の成長を待って、土着しなかった蓮忍の次の代の平持澄へとバトンを渡したのではないだろうか?

そしてここに出てくる越中七郎左衛門次郎政員・其の一世代前の越中長員というのは、佐々木越中氏の事ではないのだろうか?

そして、其の越中氏の一族の中に九里氏が入っているのではないか?
というのも、越中氏の人名の中に(吾妻鑑に)蒲生秀頼がいる。

web情報

蒲生秀頼 がもう ひでより

 初名・実業。八郎。横田頼業の4男。蒲生綱郷の跡を継ぐ。

 これまで蒲生家は宇都宮の南に位置し、その方面の支配、守備の役割を果たしていた。しかし、宇都宮頼綱の出家騒動に瀕し、南方への守りに不安を感じた宇都宮家は1248年に多功城を築き、多功宗朝を置いた。また、翌年には横田頼業が上三川城を築城、そちらに移って守備を固めた。

 これらと共に蒲生家は、南方への守りとして重要な役割を担っていた。
 「東鑑」に、越中八郎秀頼の名が見える。兄たちと同じく、父譲りの武勇を持った武将で、兄弟らと共に鎌倉に仕える。父の横田頼業は、晩年に隠居した時、秀頼の屋敷で隠棲している。

 横田家から養子に入った事から、横田家のブレーンとして活躍したものと思われる。


しかも横田氏は、宇都宮頼綱の次男である。ここにつながりを感ぜずにはいられない。

肥前国の蓮忍。
歴博DB
【荘園コード】 4304003
【国名】 但馬
【郡名】 出石
【荘園名】 菅庄
【フリガナ】 スゲ
【重複コード】
【参考市町村】 出石郡出石町
【市町村コード】 28561
【明治村字名】 細見・荒木・福見・暮坂・菅谷
【史料村郷名】 南方・北方・宗友名・貞行名・貞久名
【領家・本家】 石清水八幡宮領
【初見年和暦】 保元三年
【初見年西暦】 1158
【出典】 石清水文書・但馬川崎文書・但馬国大田文・石清水田中家文書・川崎文書・帝釈寺文書・県神社誌
【遺文番号】 ヘ2959・カ3965・カ15774
【記録類】 『三代実録』貞観10,閏10,21(菅神)
【関係文献】 無
【地名辞典】  角川地名=出石町荒木を中心に、菅川流域と菅谷の谷あい地域=保元3石清水八幡宮領、延喜式内社須義神社鎮座=弘安8、41町7反余=北方と南方に分割
【備考】  弘安8但馬国大田文に「菅庄41丁7反300分(八幡宮領)」とあり・北方地頭肥前左衛門太郎経久、南方地頭多々良岐孫太郎長基

この地頭肥前左衛門太郎経久がイコール九里太郎経久であり、九里蓮忍入道なのではないのか?

越中氏のことに関しては、これからの課題として調べたいと思う。




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