これらの系図はそれぞれ立派なものである。
まず、私が注目しているのは「若狭国」に関係する【本郷有泰】とその父【美作守三郎朝親】=【美作朝親】である。
この【朝親】の名が記載されている系図が「清和源氏流」の系図である。
源頼政~仲綱~広綱~朝親 である。系図はココで切れている。
美作朝親は幕府の御家人であり、美作蔵人、美作左近大夫などと呼ばれていた。
承久の乱後に若狭国【大飯郡本郷】の地頭となり下向。子孫は在京。
wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E4%BD%9C%E6%9C%9D%E8%A6%AA
武家家伝 本郷氏 (こちらは村上源氏の系図)
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/wak_hongo.html
有泰より後の名前は文書上にかなり残っており、この系図に載っているメンバーとなる。
近江国佐々木荘の領主が源有仁であり、母親が「村上源氏」源師忠の女(娘)である。
この系図の中の【広綱】が武家家伝の系図の【広忠】のことらしい。というのは、美作守や、息子の名前が季忠 曾孫の本名【親綱】とあり、【親】の字が使われている事等が広綱と広忠が同一人物を指すのではないか…と思われる理由である。
【有仁】と【朝親】とは遠いと思っていたのだが、この広綱が【朝親】につながっているとすれば、それほど遠くはない。
年代を見てみると、清和源氏系図の方は、仲綱が1126年生まれで、+50~55年として1176年~1181年あたりに生まれたこととなり、朝親はちょうど実朝時代の人なので活躍期が重なっているので、年代は合致している。
(兄仲綱と弟広綱であることがわかり、兄に養子に入っていたことがわかったので朝親は仲綱1126年生+35~45年位か。
つまり朝親が生まれたのは1156-1176年と幅を持たせておこうと思う。)
村上源氏系図の方は、師忠が1054年生まれで、25×6=1179年 その前後なので、朝親はやはり同時代となる。
【朝親】の息子 源有泰の文書をご紹介すると、
譲与
若狭国 大井本郷地頭職事
右職所 譲与干 子息虎王丸
如件
嘉禎四年七月二十五日 三位 源有泰
と読みやすく、力強い筆で書かれている。
まず、私が注目しているのは「若狭国」に関係する【本郷有泰】とその父【美作守三郎朝親】=【美作朝親】である。
この【朝親】の名が記載されている系図が「清和源氏流」の系図である。
源頼政~仲綱~広綱~朝親 である。系図はココで切れている。
美作朝親は幕府の御家人であり、美作蔵人、美作左近大夫などと呼ばれていた。
承久の乱後に若狭国【大飯郡本郷】の地頭となり下向。子孫は在京。
wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E4%BD%9C%E6%9C%9D%E8%A6%AA
武家家伝 本郷氏 (こちらは村上源氏の系図)
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/wak_hongo.html
有泰より後の名前は文書上にかなり残っており、この系図に載っているメンバーとなる。
近江国佐々木荘の領主が源有仁であり、母親が「村上源氏」源師忠の女(娘)である。
この系図の中の【広綱】が武家家伝の系図の【広忠】のことらしい。というのは、美作守や、息子の名前が季忠 曾孫の本名【親綱】とあり、【親】の字が使われている事等が広綱と広忠が同一人物を指すのではないか…と思われる理由である。
【有仁】と【朝親】とは遠いと思っていたのだが、この広綱が【朝親】につながっているとすれば、それほど遠くはない。
年代を見てみると、清和源氏系図の方は、仲綱が1126年生まれで、
(兄仲綱と弟広綱であることがわかり、兄に養子に入っていたことがわかったので朝親は仲綱1126年生+35~45年位か。
つまり朝親が生まれたのは1156-1176年と幅を持たせておこうと思う。)
村上源氏系図の方は、師忠が1054年生まれで、25×6=1179年 その前後なので、朝親はやはり同時代となる。
【朝親】の息子 源有泰の文書をご紹介すると、
譲与
若狭国 大井本郷地頭職事
右職所 譲与干 子息虎王丸
如件
嘉禎四年七月二十五日 三位 源有泰
と読みやすく、力強い筆で書かれている。