九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

蓮淳とその娘 慶寿院鎮永尼 web情報 寄せ集め

2022-04-23 | 九里バラバラ情報

証如 ↓の部分に登場する 母方の祖父 蓮淳、その娘が産んだのが証如である。

大永5年(1525年)、父方の祖父である本願寺第9世宗主・実如の死去により、10歳で継承し、本願寺第10世宗主となる。実如の弟で証如の母方の祖父である蓮淳の後見を受ける。

蓮淳 ↓

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%93%AE%E6%B7%B3

 

蓮淳の娘であった『慶寿院鎮永尼

慶寿院

没年:元亀2.2.18(1571.3.13)
生年:明応2(1493)
本願寺中興の,蓮如の6男蓮淳の娘。蓮如の法を嗣いだ実如の子円如と結婚。大永1(1521)年,円如没により出家し融誓と称す。10歳で本願寺を継職した子の証如補佐,さらに12歳で継職した証如の長男,顕如の補佐を勤める。北国(加賀一揆)の和平,本願寺の門跡勅許について公家,武家との交渉に当たるなど,本願寺の護持と発展に尽力する。天文8(1539)年,朝廷より『栄華物語』を贈られる。翌年,青蓮院尊鎮親王より「慶寿院」の院号と「鎮永」の法名を受ける。(岡村喜史)

 

浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2213005100/2213005100100010/ht010170

小豪族九里(くのり)氏(近江八幡市岡山城) と記載あり。

 

 

そして、大ニュース!

九里員秀が展覧会に登場するようだ。画期的!!
お近くの皆様、是非是非~~!

https://azuchi-museum.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2022/03/R4haruten.pdf

 

 

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1525年より前の九里書き出しを再考してみました!

2021-03-27 | 九里【まとめ】

上記はある時に書き出したものだが、間違いもある。

間違いを訂正しつつ、今回気が付いたことを書き留めておこうと思う。

間違い*14行目 九里三郎左衛門高雄 永源寺殿ともいわれ…は疑問。

間違い*16行目 九里伊賀守(高雄か?伊賀守刑部少輔… は高雄ではなく、浄椿のこと。翰林故處集

間違い*23行目 九里員秀は源員定の子か孫…ではなく、子孫かもしれない。 約200年ほど間がある。

間違い*25行目 九里信隆は員秀の子…は微妙である。養子ならばありえそうであるが。保留

間違い*30行目 九里三重郎は玉松。は、…微妙である。水茎岡山城に残っていた方の子どもなのではないだろうか?

間違い*36行目 九里宗恩と宗忍は別人… 浄椿が宗忍 小袖を足利義晴に返還している だが、本には宗恩も使われているので、ほんとうは? 津田庄にいた人物は宗恩なので、兄弟かもしれない。

===*===

今まで忘れていた人物

 

水茎岡山城を始めた『九里対馬守』のことが、八日市市史よりの情報だったようだが他にはそのようには見えず、

水茎岡山城が崩れた後の事なのではないだろうか?

 

その後ならば、一番早いもので、後法成寺関白記・享禄元(1528)に「九里源兵衛」の活躍が見える!(その後は、鹿苑日録・天文日記にも登場。)

「『後法成寺関白記』享禄元(1528)年7月3日条に「九里源兵衛が堺に下向するので、近衛尚通が近衛家領のことを源兵衛に申し付ける」という記述がある。」とのことなので、

 

こちらの九里源兵衛のことではないかと思う。この人物も対馬守である。九里対馬守源兵衛 である。         

1525年以降は、この源兵衛から、九里の活躍が始まっているように見える。

九里但馬は、1564年の相良家文書に出ているので、年代的には源兵衛の息の世代であろうと思う。

 

 

 

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間違い訂正!  後法興院記より

2021-03-21 | 九里【まとめ】

さて、後法興院記の記載から様々な想像を展開したが、間違いがあったので訂正を入れて置きたい。

 

この、後ろから二行目に登場する「九里四郎次郎」(員秀の事と思われる)、

私のコメントでは「座布団」の関係のことか?と書いていたが、これは大きな誤りであったと思う。笑

 

「有蹴鞠、飛鳥井宰相、左小辨伊長、極臈資直、藤蔵人、興基僧都等来、九里四郎次郎進圓座、廿枚先日便宜時令所望了」

と、全部が関係あったようで、コメントに詳しく自閑様が書いてくださった!

 

それを基に、書かせていただくと、

この蹴鞠のメンバーは

飛鳥井雅俊 1498 参議(宰相の事)
勧修寺尚顕 1501 左少弁 確定
甘露寺伊長 1501 右少弁 確定
富小路資直 文明16年(1484年)六位蔵人兼左近衛将監に任官。蹴鞠・医学にも通じたとwikiにあるのでほぼ確定

となる。

 

こんなすごいメンバーに誘われた九里四郎次郎、どうやら近衛政家に何か便宜をはかり、その時に何か欲しいものはないか(仮)と聞かれ、蹴鞠がしたいと答えたようである。

彼は、無事に蹴鞠は出来たのだろうか。

飛鳥井雅康に頂いた「蹴鞠五部抄」を読んでいたはず。

是も興味(憧れ)があって、何かの折に所望した物だったのかもしれない。

 

極臈資直の「極臈」は、↓

六位の蔵人(くろうど)で、最も年功を積んだ人。一﨟。ごくろう。(コトバンクより)

 

また、もう一つは和漢会、私の想像では漢方に関する記述がいくつか見られたため「和漢方の会」だったのだが、

 

実は下記のようである。

月次和漢会とは、漢詩と和歌の会だと思います。」

漢方ではなく漢詩と和歌。

そういえば、医師の名が見えないかも。(笑)

===*===

近衛政家と丹波親康のことが書かれていた小論があったので、ココに載せておこうと思う。

 

http://jsmh.umin.jp/journal/45-2/168-169.pdf

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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九里源兵衛は、九里と深尾氏の娘との息ではないだろうか? 

2021-03-13 | 九里【まとめ】

 

九里源兵衛が

近衛氏の家司的な存在であったと仮定する。と、その後の足利氏にも関係してくる。

近衛尚通の娘が足利義晴に嫁いだためである。

 

いつから櫻本坊の九里但馬になったのだろうか?

九里対馬(源兵衛のこと)の間違いなのではないだろうか?

それとも、息かもしれない。

 

他にも員秀の息であった(小十郎だったか?)が成長して、其の裔の系もあったであろうと思う。

忠富王記に、小十郎だったと思うが、員秀の代わりとして登場している。

 

近衛氏の息に大浦氏となった人物がおり、津軽とも繋がってくる。

九里源兵衛のは、津軽へ上方からやってきた乾氏と言われている「乾安儔」と共に赴いていたのかもしれない。それが九里武兵衛かもしれない。近衛の息であった大浦氏の家臣として働いていたのではないだろうか?

(前野氏の武兵衛が九里に養子に入っていた可能性もあるとは思うが、違っていたかもしれない。)

 

乾 安儔(いぬい やすとも)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将津軽氏の家臣。

 

忠富王記に登場していた「乾大夫」の裔かもしれないし、もしかして、妻が九里であった、母が九里であった、など何かしら九里と関係があった人物かもしれないと思う。

 

===*===

 

wikipedia 近衛尚通

近衛尚通の猶子:大浦政信 - 大浦氏(のち津軽氏)は政信を尚通と大浦光信の長女・阿久の間にできた子とし、以来本姓が源氏(清和源氏)から藤原氏に変わったとしている。江戸時代に至って当時の近衛家当主近衛信尋により認可され、津軽藩主津軽家は本姓を藤原氏とし、近衛家の親族を称した。

 

===*===

 

また、九里三郎の系は近江にいて、黒橋で闘い歿するがその息が九里三郎左衛門として生きていたではないだろうか?

しかし、織田信長にスパイ容疑を掛けられ、舎弟の永田景弘に領地も、働いている人達も、皆宛がわれることになる。

置賜へ行った薬種業の「九里三兵衛」は、この三郎左衛門と繋がっているのだろうか?

 

===*===

 

もう一人、上杉憲政の家臣であった目賀田氏(妻は上杉憲政の嫡子龍若丸の乳母)と共に居た九里采女正。

北条氏康に註されている。1552年

 

===*===

 

さらに、他に朝倉氏の家臣に九里吉忠がいる。

この人は、九里次郎左衛門尉吉忠次郎なのだ。(源兵衛の息か?)

という事は、十左衛門(十郎左衛門)と同じ朝倉氏の許にいたのか、はたまた十左衛門は六角の家臣として赴いたのか、はたまた足利義昭や近衛氏のもとにいた九里なのか…

 

少し詳しく年代を追ってみよう。

 

===*===

 

1534年足利義晴が正室慶寿院(近衛尚通の娘)を迎えている。

朝倉義景は義晴の息の世代の人物で(1533‐1573年)、正室が細川晴元の娘 継室が近衛稙家(近衛尚通の息)の娘であり、

足利義輝の妻もまた近衛稙家の娘である。おなじく近衛 稙家の息に前久がいる。

前久と義輝は同い年の従兄同士だそうだ。

 

其の義輝の弟に義昭がいるが、間に足利 周暠(あしかが しゅうこう、周高・周嵩)がいる。

鹿苑院の院主にまでなった人物で、鹿苑日録に九里源兵衛が登場していたが、もしかすると足利関係からかもしれないヵ?

 

===*===

 

もしも、もしも、の連続だが、そうしないと進んで行かないもどかしさがある。

 

源兵衛の息か、養子か、またはただの親戚か、が、津軽に赴き、1611年の事件と成ると源兵衛が生まれてから約100年ほどの開きがあると思われる。

九里対馬守源兵衛 ー 九里但馬他たくさん ー 養子 武兵衛 ー 九里十助(後の武兵衛) というのが、今のところの頭の中である。

 

 

 

 

 

 

 

   

 

 

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蹴鞠の飛鳥井雅康(宋世)と 九里四郎次郎員秀・九里伊賀守高雄(浄椿・宗恩) 追加

2021-03-11 | 九里【まとめ】

飛鳥井雅康(宋世)からいただいた蹴鞠の秘伝 

 

日本の古典籍: その面白さその尊さ 著者: 反町茂雄 より

 

九里員秀なのだが、「貞秀」となっている本もある。「員」と「貞」は紛らわしく、似て見えるそうである。

 

【中世における和歌と蹴鞠】 山本啓介 著 論文

上記の論文にも九里の名が蹴鞠と共に出ていた!

 

こちらの方は、私もコピーを入手した。したのだが、読めない!!

 

新しく見つけた九里情報があると嬉しい。

 

前の記事の近衛と九里もそうだが、情報が増えているような気がする!!

 

近代歌舞伎年表:大阪篇

 

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今までの九里をククリ直し。 1400年代~

2021-03-06 | 九里【まとめ】

佐々木哲学校の記事に以下のようにある。

永禄十年(一五六七)足利義昭の朝倉義景邸御成では、山内六郎左衛門尉・九里十郎左衛門尉が門警固役を勤め、六角氏綱の次男義政(仁木殿)が亭主義景ととも大門外で義昭を迎えて、相伴にあずかっている(『朝倉義景亭御成記』).

​http://blog.sasakitoru.com/200504/article_17.html

 

===*===

この九里勝蔵は、九里一族のことを良く知っていたようである。

源兵衛前後に現れてくる人を わかる範囲でククリ直してみたいと思う。

===*===

アバウトなのだが、

1510年 源兵衛 生まれる

1530年~ 源兵衛 息の世代

1550年~ 源兵衛 孫の世代

 

上記の【九里十郎左衛門】は 源兵衛の息の世代にいた可能性がある。

【九里勝蔵】は、九里治兵衛とともに、1585年 天正13年 九里勝蔵は加賀藩前田の家臣として、佐々氏方と闘っている。其の後なのか? 九里勝蔵討死とある。金沢城城郭史料等にその名が出てくる。

この二人は、源兵衛の息の世代とも孫の世代ともいえる。

【九里采女正】は、1552年に息と共に歿しているので、源兵衛の同じ世代と考えられる。

===*===

勝蔵の記録にあった人々とその周辺をここに残しておこうと思う。

源兵衛の生まれる前の人が多いが…

九里三郎左衛門高雄は 浄椿のことと云われている。(刑部伊賀守)

九里美作守賢秀(高雄の父?)(近江名跡案内記・蒲生郡) または、員秀が高雄の父という説もある。

九里四郎次郎員秀 忠富王記 14991501年 舟木庄代官

         飛鳥井雅康【秘伝 蹴鞠五部抄】1450年に登場  

九里備前守・信賢・信隆 備前守→六角氏重臣永正三年 1507年 坂田郡志

九里次郎左衛門尉吉忠 永正十一年 1515年  福井県西福寺書状

九里宮内左衛門尉種信1499年)(乾氏とのつながり)

 

明応あたりの闘いでかなりの人数が戦争で歿している。

生き残っていたのが、

 賢秀 員秀 高雄 信隆 信賢 (隆員)

        種信(乾大夫関係か?)

貞信・種信(宮内左衛門尉)貞秀

 

信隆(備前守)・信賢(備前守)

 

===*===

 

源兵衛の息か、婿か養子か 員秀の孫(息小次郎の息)か?

九里隆員(六角氏重臣) 永禄元年 1558年 八日市市史

 

===*===

 

九里賢秀―九里備前守員秀―九里伊賀守高雄ー九里備前守信隆ー九里信賢  源兵衛信賢? 玉松?

                             九里隆員  源兵衛隆員? 玉松?

                             九里源兵衛 玉松?

                             九里三重郎 九里三郎左衛門

                                 九里采女正 次郎? 

(員定・員秀・伊賀守隆員 皆商業に関係していた。徳珍保)

 

九里治任は島郷 治兵衛と関係?

香庄源左衛門尉貞信 六角定頼の近臣 (香庄佐渡守頼輔・香庄源左衛門賢輔(佐々木六角氏の臣)の婿養子?)

 

===*===

まだよくわからない。

進展していないような気がして、哀しくなる…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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私の系の九里(大和宇陀松山藩・丹波柏原藩)(5)九里源兵衛 ー 九里武兵衛(前野武兵衛)ー 九里十助(武兵衛) ー

2021-02-24 | 九里【まとめ】

鹿苑日録の記事を読むと、源兵衛と共に『永原氏』が登場する場面がいくつか見つかった。
永原氏は祖は藤原秀郷流の系と近江の佐々木経方から始まり愛智源四郎大夫家行につながっていく系もある。

深尾秀長の祖母は永原越前守重行の娘であった。(系図の見方では秀長の母とも読み取れるのだが…)



九里源兵衛は、永原家に匿われていたのかもしれない。(養子として六角高頼の弟重が入っているので匿われたのではなく、預けられたとも考えられるのだが。)
系図をよく見ると、永原氏には他の越前守も何名かいたため重行とは限らないことに気が付いた。が、乾氏との接点で言えば、可能性が大きいのが永原越前守重行である。

この永原系図の下の方に山内・永原・乾氏のつながりを示す系図がある。これが非常に重要と思う。

http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-nagahara.html


永原(山内)刑部大輔一照 (  -1620)
諱は一照(かつあき)。字は刑部大輔。本姓は永原氏。山内刑部と称す。本山山内氏の初代なり。
天正12年(1584)山内一豊に召抱えられる。
土佐御国入の時、藩主山内侯より本山に領地を賜い、「山内」の称号を許されて、山内刑部と称す。土佐藩家老なり。
元和六年(1620)6月30日卒去。墓は土佐國長岡郡本山にあり。
嫡男一長、二男正行

この次男が乾氏と成るのである。
乾(永原)金右衛門正行(  -1649)
諱は正行(まさゆき)。金右衛門、平九郎と称す。本姓は永原氏。
永原(山内)刑部一照の二男に生まれ、乾(板垣)加兵衛正信の養子となる。山内但馬一長の実弟。
慶長年中、養父加兵衛正信の跡目高千石の内から、三百石三人扶持九歩を下し置かれ養子相続する。
同19年(1614)江戸城御普請の御用を仰せ付けられる。
慶安2年(1649)12月18日病死する。

明治元勲板垣退助伯爵の血縁の先祖なり。

===*===

この乾氏と同じ家紋のわが系 九里八郎右衛門家である。

しかし、我が系は 土佐国とは関係が無いようであるし、江戸時代以降の柏原藩の系図にも乾氏との婚姻関係もない。

この乾氏がキリシタンと仮定し、我が系も始まりはキリシタンであったとし、その当時流行っていた紋であった‥‥とか、何かあるのかもしれないが、珍しい家紋でもあり、同じ紋というのは非常に気になる処である。

しかも、他の九里家では使っていない点も気になる。

===*===

永原氏と乾氏の関係に注目してみると

【乾甲斐守秀之】はこの永原系図に出てくる乾氏の関係者ではないだろうか?
本当は秀行で、「行」の字が通字となっているようにも思える。

とすれば、九里員秀の娘の聟であった人物なのではないだろうか? 乾甲斐守。






永原氏のことに関しての学びとしては佐々木哲学校の記事が詳しかった。
http://blog.sasakitoru.com/201302/article_6.html



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私の系の九里(大和宇陀松山藩・丹波柏原藩)(4)前野忠勝と山内盛豊の妹

2021-02-24 | 九里【まとめ】

昨日気になって、訂正を入れたが、
前回の記事には、間違いがあった。

武兵衛は吉康の舎弟(6歳年下)であり、十助は吉康の息である。同一人物ではない。


ただ、十助も武兵衛の息として九里に養子に入っていたならば、武兵衛を名乗っていたかもしれない。


私が注目しているのは、九里嗣子となってくれた【十助】とその養父のことである。
九里嗣子という事は、その養父と成る九里がいた事になる。それが吉康の舎弟の武兵衛ではないか?
舎弟は、血のつながりがないとは限らないとは思うが、ふつうは弟というだろうと思う。
舎弟というからには妹の夫であったり、母親が違っていたり、養子であったり、と何等か理由があるように思う。

つまり、吉康の息の十助が、吉康の弟で且つ九里を称していた武兵衛の嗣子となったのではないだろうか?
そこから、前野氏と繋がっていたのではないだろうか?ということである。

===*===

前野忠勝は又五郎を称し、吉康も又五郎を称す。
吉康の息宗能も又五郎である。

吉康の母は佐々平左衛門の娘であるので、後に佐々氏の一門となった。
吉康の本当の父であった前野小兵衛尉勝長は、もしかすると早くに歿し、それで忠勝が父親役となったのかもしれない。(要チェック)

(武兵衛は代々武兵衛であったかもしれない。1611年に自害した武兵衛は十助かその裔なのかもしれないし、十助の他にも息がいた可能性も充分にある。)

という事は、其の吉康の舎弟であった武兵衛も九里の嗣子になっていた可能性もある。この周辺の系図には残されていないので、不明である。
どこから来た九里だったのだろう。

===*===

前野忠勝の妻は山内盛豊の妹という。
もしかすると、そこが九里が前野氏と繋がっていく「接点」であったのではないだろうか?と思う。
(鎌倉時代には繋がっていた可能性もあると思うのだが、、、、)

それ以前にも前野時氏の妻となったのが、山内実豊の娘(山内実通の妹)であった。

「伊庭の乱の際に浅小井城の城主であった深尾秀長は、九里の幼子を連れ出し逐電している。其の後は行方知れずである。」

頼るとすれば美濃国山県郡の太郎丸村の深尾氏か、祖母の永原氏か、曽祖父の乾氏関係か、
山内氏と前野氏のつながりから前野氏か…

同じ近江国内よりも、他国にまぎれた方が見つかりにくいのか、はたまた他国の方が目立ってしまうのか…現代の私にはよくわからないが、何処かに潜伏したのだと思う。幼い時には女性の手が必要だったのだろうと思う。深尾秀長の妻がどこの出身の人物かまでは調べていないので、そのあたりかもしれない。

深尾秀長の祖父永原越前守重行の父(つまり秀長の曽祖父)は、乾駒之丞雅勝という人物であり「乾氏」なのだ。
この一代のみで、すぐに復姓し、永原氏になっているのだが。もしかすると永原重行の母親は乾氏だった可能性もある。

深尾・永原・乾の氏が繋がっている。


深尾氏・永原氏・山内氏・乾氏がすべて関係する系図である。


http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-fukao-tosa.html


http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-nagahara.html

http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-yamanouchi.html

http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-yos-maeno1.html



この「永原越前守」の娘は深尾加賀守元範の妻となり元秀を産む。
(永原越前守重行の父が、乾駒之丞雅勝とある。)

其の深尾元秀の息の秀長が水茎岡山城の九里の幼子を助け出し、逐電した人物とみる。

其の秀長の弟元忠の系が、浅小井深尾氏の跡を継ぐ。
その後もともと鎌倉時代より富木常忍の私領であった中山法華寺若宮(奥の院 常忍自宅)が、江戸時代に入り、深尾元忠の系の元次に所領として宛がわれている。なぜならば、そこが九里氏の所領であったためと思う。

武家家伝 深尾氏
「元秀の嫡子秀長は、当時佐々木四天王の一人と称された、神崎郡伊庭城主の伊庭下総守資長が反乱を起したとき、これに味方し、結局、浅小井城を捨てて蓄電、行方知れずとなってしまった。秀長の弟元忠は兄の謀叛のあと、浅小井城を召し上げられ、禄を失い、侘びしく暮らしすことになった。その後、一族の取りなしを得て、わずかに禄を与えられて深尾家を再興することができた。
 その後、佐々木六角氏に仕えたが、昔日の面影はすでになかった。そして、六角氏が織田信長の前に敗れ去ると。主家を失った深尾氏は、郷士となって浅小井村に住したという。 」田中政三氏「近江源氏」から

https://books.google.co.jp/books?id=CLplAAAAIAAJ&q=%E4%BC%8A%E5%BA%AD%E4%B8%8B%E7%B7%8F%E5%AE%88%E8%B3%87%E9%95%B7&dq=%E4%BC%8A%E5%BA%AD%E4%B8%8B%E7%B7%8F%E5%AE%88%E8%B3%87%E9%95%B7&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwi75-m2yIHvAhVAyIsBHatdB6kQ6AEwAHoECAAQAg


http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hukao_om.html

http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-fukao-tosa.html


この浅小井深尾氏と九里氏(佐々木行実・行範の系)
そして九里氏と原氏・前野氏・佐々氏(良峯姓)

その前野氏と山内氏の縁
山内氏と永原氏、そして 永原氏と乾氏 永原氏と深尾氏

山内氏・永原氏・深尾氏・乾氏とのつながりと前野氏とが繋がり、九里とつながってくる。


この関係を見ると、前野武兵衛は、深尾氏に助け出された九里氏の嗣子となったのではないだろうか。それか、その助け出された本人か?

そしてさらにそこに九里氏の嗣子として前野十助が入ることで、より山内氏・乾氏・永原氏ともにつながりが強化されたように思う。

年代をアバウトに検証してみると、周辺の系図を比べつつ想像すると…
1470年あたりに深尾秀長が生まれたように思う。
1501年に浅小井城を築城とある。その後、伊庭氏の乱があり、一族という事もあり加担することとなったため、六角氏に狙われ逐電に至ったと思う。これがその逐電の時だろうか? 1538年に生まれているはずの吉康の舎弟『武兵衛』である。

1525年には伊庭の乱も、九里の足利義澄を匿って、その後続いていた乱も終結している。という事は、この時に逃げた幼子ではない。
もしも可能性があるとすればその息であろうと思われる。(養子かもしれない。)

===*===

1520年が九里信隆の息「玉松」が人質として六角氏に渡ったと言われている時なのである。

とすれば、玉松がもしも源兵衛と同一人物ならば、

1520年の時に十歳以上でなければ、以下のような申し次をできないのではないだろうか?
1528年に18歳くらい、とすればまぁ納得できる年代ではある。

この人物は、○○兵衛とそれまでの九里にはない言い方なので、それが武兵衛につながった可能性はある様に思う。
なんと言っても現実に生きていた九里なので、名前の通り、この人物が源となって、それ以降の九里氏が繋がってきたともいえる。

伊庭氏の乱は二度あり、一度目は1502年の年末から1504年 二度目が1514年から1525年と見ることができる。

九里源兵衛は『後法成寺関白記』享禄元(1528)年や、天文法華の乱1536年に登場する。
「『後法成寺関白記』享禄元(1528)年7月3日条に「九里源兵衛が堺に下向するので、近衛尚通が近衛家領のことを源兵衛に申し付ける」という記述がある。という事は、
九里源兵衛は「天文日記」天文6年(1537年)が残っているそうである。(平井氏と行動を共にしていることが多いカ)
九里三郎の記載も「菅浦文書」天文9年(1541年)に残っているそうである。
近江蒲生郡志: 巻2, 第 2 巻 908頁

この源兵衛「近江六角定頼の使者九里源兵衛」とさかんに書かれている。
この人物は近衛氏ともつながりがあり、院との関係もありそうなことから九里員秀の裔かもしれない。

鹿苑日録の記載では、天文十二年迄は「九里源兵衛」天文十三年(1544年)からは「九里対馬守」となっている。1510年生まれとすれば、34歳。
(この頃、前野武兵衛は6歳である。)

水茎岡山城の九里氏のために人質として六角氏に渡された『玉松』が殺されずに生き残って源兵衛となっていたのならば、嬉しい!!
深尾氏が助け出した幼子であるならば、それもまた嬉しい!!!

三郎は、三十郎の事かもしれない。(三重郎)この人物は、もしかすると信長に註されたかもしれない、三郎左衛門ではないだろうか?
1570年に所領も何もかもすべて取り上げられている。命がどうだったかは、書かれていなかった。調法の容疑であったようである。

====*===

深尾氏に助けられた幼子が、その後源兵衛として活躍し、其の弟ヵ?と思われる三郎・息ヵ?と思われる武兵衛がいたからこそ、現代にまで九里という苗字が続いているのだ、と思うと感慨深いものがある。

複雑なことを書いている為、非常にわかりにくかったと思うが、後のヒントになるようにここに書き留めた次第である。


浅小井城の説明板の写真は以下のアドレスよりお借りしました。ありがとうございます!!
http://shiroiku.html.xdomain.jp/shiga/shigaasakoi.htm































鹿苑日録より


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私の系の九里(大和宇陀松山藩・丹波柏原藩)(1)

2021-02-19 | 九里【まとめ】

その昔にはキリシタンであったとの想定の許、考えていく。

近江八幡にいた九里員秀の娘は大内裏の長橋局房にいて(忠富王記)、やはり院には乾大夫がいたのだ。
これは同じ文書内で見ることができている。

九里員秀の娘がその後、乾太郎左衛門に嫁いだと仮定。
(長命寺縁起に九里のいた水茎岡山城の城主乾甲斐守との記載があるそうである。…九里が歿した後である。)

其の乾太郎左衛門の裔が後に茨木の乾大夫にも繋がっていると考える。

http://takayama-ukon.sakura.ne.jp/pdf/booklet/itou.pdf

この茨木の周辺に継体天皇陵もある。(太田茶臼山古墳)(関係はないかもしれないが)

岡山藩から鳥取藩に移った池田藩主(光仲)はキリシタンであった。その家臣であった乾氏もキリシタンであった。

茨木の乾氏と同族の乾氏
ならば、これが傍証と成るかもしれない。



===*===

わが九里の系図は政直から始まっている。

岡田政直は九里政直となった。

岡田某氏は京にいた「岡田氏」とも関係のある人物であった、と仮定する。
京・伏見には原胤信がおり、宣教師の求めもあり伝道所を創建に協力していた。

「慶長5(1600)、胤信は大坂に於いて、イエズス会神父ペドロ・モレホンより洗礼を受け、ヨハネの洗礼名を授かった。どういった経緯で神父と出会ったかは定かではない。
慶長6(1601)年の伏見城再建時…」と千葉氏の中の「原胤信」によるとそう書かれている。

https://chibasi.net/hara15.htm

この原胤信と弟とその裔は「岡田氏」を称することと成る。

【原吉王丸 岡田元泰と称す】 と文書に出てくる。そう、確か胤信は吉丸と書かれていた。吉王丸も胤信かもしれない。
家康の前では、すでに岡田を名乗っていたのかもしれないし、逐電したのちの事なのかもしれない。

ともかく、原氏から岡田氏と称するようになっている。







===*===

前野長康の娘が藤堂高虎の配慮で京の岡田氏に預けられた。

===*===

京都に住していた「岡田氏」が鍵を握っている。
前野氏・藤堂氏が良く知っていた人物、且つ、もしかすると「原胤信」ともかかわりがありそうな人物。

岡田重能(重善)は尾張国星崎城にいた。尾張と云えば前野氏本拠であり、当然知っていたと思われる。
佐々氏も当然知っていたと思う。

前野氏・佐々氏とのつながりがあるという事は、長い目で見ると「良峯姓」として繋がっているのが「原氏」である。

1595年に前野長康の娘を預けたのなら、岡田重能(重善)は1583年に歿しているため無理である。
重善の弟が僧であった。「良沢」という。
京都の寺にいたならば、この人物がそうかもしれない。

そして、さらなる可能性としては息の岡田重孝と善同、娘であった山口重勝の妻である。

しかし、その息の岡田重孝も、織田信雄に誅される。(1584年)
その弟善同は1558年生まれであるから、37歳あたりの時に前野長康が誅されている。

その善同の息善政の正室は佐久間勝之の娘である。
佐久間勝之(父は佐久間盛次。尾張国生まれ。はじめ佐々成政さっさ・なりまさの養子となり、佐々を称した。)
そこで、九里十助と出会っているはずである。十助は成政に仕えていた。




遡るが、其の勝之の正室が佐々成政の娘である。

ここで、原氏とつながってくるのではないだろうか。

原氏と佐久間氏は時折セットで出てくる。
「佐久間氏」を調べると何かがわかるかもしれない。

原胤信が大叔父であるという原胤昭の家系にも佐久間氏の名が見えている。

佐久間氏と岡田氏が、今後調べていく課題となりそうである。

米沢の九里三郎右衛門、と岡田氏の接点である。
http://www.yutenji.or.jp/history/nenpyo/page-33145/page-33721/

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京極佐々木氏と土岐氏の関係(3)舟木氏・乾氏 そして 多治見氏・山縣氏

2021-01-13 | 土岐氏

舟木氏・乾氏(土岐氏と近江佐々木氏の中間)
この中間に九里氏が位置していたのだろうか?

http://rekishkakeizu.seesaa.net/article/373267188.html

頼重三代の後胤舟木兵庫大輔(助)頼夏・志・朝家に篤しと雖も、父祖頼重落城後・本領内江州舟木庄に引籠して、敵色立てず。

確かに近江の舟木庄に土岐氏がいた!ことになる。

今まで冨城(富木)氏と土岐氏を中心に調べていたのだが、「舟木氏」の領であった「舟木庄」。
その舟木庄で1400年後半に代官を務めていた九里員秀

そして、近江八幡本郷に私領を持っていた「乾氏」土地を縁あって「九里種信」もらい受け長田氏に売る文書がある。



この「乾氏」は崩し字では「起」にも見えるのだが、「隠岐氏」とも通じる。
どちらにせよ、佐々木氏であり土岐氏なのだ。さらに佐々木義清の長男であった政義も「隠岐政義」であり、ココも土岐氏と佐々木氏の中間的な感じを受ける。

さらに、ぐっと平安時代までさかのぼるのだが、散位源行真申詞記に「興」という人物も出てくる。
源頼政のまだ27歳ごろの事件である。この頃、土岐氏はもうすでに近江国に所領を構えていたのかもしれない。

佐々木氏の系図の中の乾氏も舟木氏も平安時代後期のことである。源頼重(舟木頼重)に至までにはまだ、間がある。

===*===

佐々木氏との関係で、他に気になっているのは、土岐頼忠である。

土岐頼忠を見ると妻が京極佐々木氏であり、頼忠の弟に明智頼兼がいるのである。


土岐頼重の息に頼夏の腹違いの弟頼尚がいて、母親は高階氏という。鷹飼村の名と関係するかもしれない。(鷹飼村も近江八幡なのである。)

特に、本郷を中心とした八幡宮周辺(含む舟木庄)は鎌倉時代あたり、土岐氏の領地になっていたことがあったのではないだろうか?


こう考えると、多賀や京極とも関係があって、共に「佐目」に密やかに住んでいた時代もあり、更に旧きよしみのために「本能寺の変」の後も明智と共に闘い、やがては京極高知・高次の家臣となって‥‥とストーリーができる。

===*=== 

土岐頼員(よりはる…頼春でもある)その弟光賢が、頼貞の養子となっている。頼貞の息となった舟木系の光賢が、乾道謙と、兄弟と成っている。
光賢は「多芸荘の吉田(豊村)の地頭職」を頼貞頼貰っている。



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B2%90%E9%A0%BC%E5%93%A1

明日は、もっと落ち着いて考えていこうと思う。
今日はいろいろな情報がどっと入ってきたので、書き留めておくことに、バタバタしていた感がある。


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