九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

賀茂経久 船木庄 下司職

2023-09-27 | 九里バラバラ情報
中原経久を片岡経久と仮定し、孫の秀重の唐崎合戦を高島高信の時の争い…と仮定し、年代を一応定めたのが前回。上手く和歌山の九里系図につながる!

しかし、いまだ解決していない問題が2つ以上ある。

賀茂経久という人物も実在していて、船木庄の下司職を務めている。

時代は室町だが、九里四郎次郎員秀が同じ近江国の船木庄の代官をしている。(白川伯王家の忠富王記より)

賀茂経久は1309年(延慶四年)に58歳で歿しているとのことで、1251年生まれとなる。
この経久の祖父能久が源頼朝の時代となっている。

能久(1171年生)ー氏久ー経久
賀茂氏の資料によると、能久は姉である美濃局と後鳥羽上皇の息を賜わり育てたそうである。



賀茂経久(船木庄下司職)に関しては、日記が残っており、2021年に出版されている。


この賀茂経久のさらに下で働いていたのだろうか?
それとも、この時代にはまだ船木庄との縁はなく、後に発生したのかもしれない。

ともかく、何処かにヒントがあるかもしれない…と思う。

蓮忍入道、沙弥蓮忍等の記載がないため、九里太郎経久とは別人と思われる。

もう一人賀茂系図の中に経久がいる。
忠正の孫の経久は、年代的にもあっているような気もする。

賀茂の片岡社の「片岡」か?
この経久の祖父忠正は神宮寺の別当であったそうだ。


なんと、調べているうちに、この成助の裔に「片岡氏」と名乗る系があった事がわかった。(賀茂真淵につながっている系)







系図では賀茂成助の系となる。
片岡から岡部次郎三郎常久という名が出てくる。




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小堀正次の妻は磯野員秀の娘。小堀遠州(政一)の妻は藤堂高虎の養女 九里氏との関係

2023-04-12 | 小堀氏

この小堀氏と九里氏は鎌倉時代の兄弟から分かれている系と思っていたが、

小堀遠州の父方の祖父がwikipediaでは、【垣見正房】という。???

正次は1540年生―1304年歿

政一 1579年生―1647年歿

 

確かに、垣見氏と小堀氏の屋敷はすぐ近くにあると「テクノクラート 小堀遠州」の地図よりわかる。

 

1437年永享九年平四郎右衛門から土地を購入している小堀新殿がいることがわかっている。

1447年文安四年には小堀池下入道善光からその土地が手放され総持寺へ寄進することとなったため、総持寺文書に収められているそうだ。

この新殿と善光は、同一人物のようである。

 

さて、ここに小堀家の系図があるが、垣見氏については書かれていない。

https://www.google.co.jp/books/edition/%E5%B0%8F%E5%A0%80%E9%81%A0%E5%B7%9E_%E6%9C%AC%E9%98%BF%E5%BC%A5%E5%85%89%E6%82%A6/qYRcRCD33dUC?hl=ja&gbpv=1&dq=%E5%B0%8F%E5%A0%80%E3%80%80%E7%B3%BB%E5%9C%96&pg=PP167&printsec=frontcover

 

九里政道の娘浅井尹政(後に復姓の小堀氏カ?)の妻となっている。(柏原織田家臣系譜)

和歌山県の系図 鎌倉時代 (小堀氏と九里氏に分かれる箇所

 

 

全く時代は違うが、たまたま今見つけた情報(memo)この4月に公開になった情報もある。

 

旧ソ連邦抑留中死亡者の中にも九里がいた。九里小左衛門 滋賀県出身 ハバロフスク

https://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/syakai/soren/50onjun/h03/html/ku.html

コメント (2)
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朽木氏と九里氏 (memo)

2023-04-11 | 朽木氏
史学雑誌 第106巻
 
「九重」氏は、六角氏被官たる永田刑部少輔と併記されているので、伊庭氏の代官「九里」氏の誤記であろう。
 
(永田氏は)戦時や平時の湖上輸送の役を負担する事を義務付けられていたが、その恩賞として朽木谷材木支配を保証された」との趣旨である。


九里三郎左衛門の次男、四郎次郎昌秀(?員秀のこと?)は、 學頭代(花押)本間参河守・定頼・義賢・義治の被官、永田氏まず、定頼被官の備中守であった ことを想記すれば、永田刑部少輔は、湖西の外様衆朽木氏ばかりか伊庭・九里勢力との関係などによっても、 ...

(明応五年)八月廿二日付朽木後藤高恒書状(史料纂集『朽木状案( ※『今堀日吉神社文書集成』一五五、以下『今堀』と略)。( 8 )網野前掲註( A )論文。( 8 )『蒲生』巻二、九○五頁。( 8 )文値二(一五〇二)年九月二日付高島郡南市庭商人中宛九里員秀に ...
 
・・・・・
 
永田氏を仲介役として、永田氏は湖東に、九里氏は湖西に乗り出している。
特に、最後の一文の意味は、高嶋郡南市庭商人に宛てた九里員秀の書状という意味。
関与していた証拠である。
 
 
 
 
 
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和田惟政と磯野秀時 秀時と顕如・教如 

2023-03-31 | 九里バラバラ情報

磯野定秀の三男 秀時

その定秀の曾孫に惟政がいるのだが、秀時の孫の年代にしては、おかしくないか???

1571年 和田惟政は戦死している。1530年あたりに生まれたようだ。

一方の磯野秀昌(員昌)は1523年生まれで、惟政と7歳しか違わない。

養子なので、秀時の正確な生年はわからないが、変だと思う。

他にも右馬頭秀時が存在していたのかもしれないし、そうなると和田氏でないかもしれない。

此処は掘らずに進む。

 

****

 

私が気にかかったのは、顕如とその周辺である。

顕如の師であった証如、さらに遡り証如の祖父に【蓮淳】がいる。

 

蓮淳は九里と琵琶湖で遭遇していたようである。

 

高島門徒の掌握を目指していた蓮淳、と書かれている。(講座 蓮如 第5巻)

 

於 1 -湖上-遇,九里作守兵船-尤,之。合山門,而直参,山科,供奉而従,大津,乗,御船?甲 3 武士五顕為。御迎 1 遣,大船大津一其子明宗叙山槽那院無動寺行調,于洛中之乱;聖人御真影実如上人,円如公堅田御下向。明 1 永正四年六月二十三日。香西又六令,賊。(真宗 史料集成 蓮如とその教団 ↓ 以下も同様)

 

而直"参山科,供奉»而從大津¡乗 ň 御船、甲冑武士五六十人奉三警固也、於三湖上,遇:九里美作守兵船"尤之、須臾"言止,而二十五日曉天堅田 ... 云云、時蓮淳公仰云、堅田小邑;両新在家御下向則日還御、 11 11 淳公建三立`赤野井御寺時、慶信赫鷳謂蓮淳 1 日.

 

湖上-遇,九里〈作守兵船-尤,之。合山門,而直参, ... 故蓮淳公為,御寺;同年五月二十日蓮如田御下向有,御指^ ?依,之明顕告,訟実如上人?而無御憤 I 謂,蓮淳公 I 曰赤野井,堅田可,有,御兼带, 550 故蓮淳公堅于,時大津近松蓮淳公建,立赤野井御寺,時。(故蓮淳とあるので1551年以降の記述)

 

本願寺法難史には以下のようにある。細川政元が殺された時(1507年)なので、足利義澄の時と思われる。

義澄が歿したのが1511年である。さらに前の実如の時代に堅田の実如の乗った船にイチャモンを付けたかもしれない九里美作…だったが、一発触発の危機を、何とかお互いに無事にやり過ごしたようである。

 

 

 西湖と大津・東湖の連絡に船を使い、その船を九里も持っていたようだ。

湖上の警備・取り締まり?も兼ねていたのかもしれない。

この時代(1507年)だと、九里美作守賢秀か息九里員秀の時代であろうと思われる。

九里四郎次郎員秀は今堀日吉神社に文書を13通残しているが、いずれも1501,1502年の物である。

九里備前守は九里信隆(1511年六角の策略に落ち生害)と思われるため、九里員秀が美作守を父が歿した後に受け継いでいたかもしれない。

私が見た文書では九里員秀が登場していたのは1507年までであった。この後には文書は見えなかった。

 

蓮淳は1464年生~1550年歿

 

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菖蒲佐々木金田氏の娘(古河家 官女 金田氏)

2022-12-05 | 佐々木氏

2022年11月20日の記事からだが、すごく引っかかる部分、↓

斎藤実盛の11代の後裔である斎藤実家の妻が、菖蒲城主佐々木金田氏の娘(古河家官女金田氏)である。金田氏は佐々木義清の後裔である。

義清の後裔が菖蒲の佐々木金田氏であった点。

 

つまり、代々古河公方の家に仕える官女を出していた「金田氏」となる。

古河公方 ↓

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E6%B2%B3%E5%85%AC%E6%96%B9

 

金田氏は足利家とつながりがあった!

 

足利高基や弟義明が活躍していた時代とその父政氏の時代と九里員秀前後の時代とかぶってくる。

つまり、金田秀宗前後の時代もかぶると思う。

そしてとうとう、以前から気になっていた金田氏の歴史とつながってくるのではないだろうか?

http://www.hatamotokaneda.com/kazusakaneda-history/kk007/kk7b-koyumikubo.html

 

更に図書館レファレンスの以下の部分の足利茂氏

康正2年(1456)に菖蒲城を築いたとされる古河公方足利茂氏の家臣金田式部則綱および鎌倉府から古河公方(5代)までの佐々木氏や菖蒲佐々木氏の動静については郷土資料に詳しい。

☆この茂氏は『足利持氏』のことだろうか?

もしも、持氏だとするならば、下記の足利成氏の父であるので、繋がってくる!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E6%88%90%E6%B0%8F

 

菖蒲城のwikipediaに

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%96%E8%92%B2%E5%9F%8E

「初代の金田則綱は古河公方足利成氏の家臣となり、氏綱、顕綱、定綱、頼綱と続き、6代秀綱の時に忍城成田氏長に属し、豊臣秀吉の関東侵攻により廃城。その後子孫は帰農し大塚姓を称した。金田氏の墓所は曹洞宗久林山永昌寺にある。 」

 

https://4travel.jp/travelogue/11303807

 

この部分を読むと、菖蒲佐々木氏から金田氏となり、大塚姓となったようであり、上総の金田氏とは別系統とも見えるが、上総金田氏も千葉氏から出ており、また菖蒲佐々木氏=後の金田氏も佐々木義清の裔であり、其の佐々木氏もまた永田胤信など千葉氏とのつながりも感じさせる部分がある。

 

*****

 

鎌倉公方となった足利氏は、基氏が初代で、氏満ー満兼ー持氏ー成氏…となっていく。

この成氏が初代の古河公方である。

古河公方は、成氏ー政氏ー高基ー晴氏ー義氏 である。

 

wikipediaによると、鎌倉公方・古河公方と室町幕府の将軍とは対峙した関係であったようである。

遡ってみようと思う。

 

室町幕府の将軍は

足利尊氏ー義詮ー義満ー義持ー義量ー義教ー…

 

六角氏頼の息に満高がおり、その佐々木満高と足利家に関係があった。

https://satetsu.seesaa.net/article/200505article_3.html

佐々木哲学校のブログ記事より 大事な部分をご紹介したいと思う。

六角満高(一三六五-一四一六)氏頼の子

母藤原氏。

実は足利義満の同母弟(『足利治乱記』、沙々貴神社本佐々木系図、六角佐々木氏系図略、徳源院本佐々木系図)。幼名亀寿。本名満綱(『迎陽記』)。大夫判官。備中守。備中入道。左京大夫(『花営三代記』応永三十一年十二月二十七日条、沙々貴神社本佐々木系図)。右京大夫(『足利治乱記』、徳源院本佐々木系図)。正妻は足利基氏娘(『足利治乱記』)。法号は大慈院宝山崇寿。


 貞治四年(一三六五)四月将軍義詮の妾紀良子が、京都六角邸で男子を出産した。「男子卒」と噂されたが(『師守記』貞治四年四月十日条・十一日条)、六角氏頼の実子として育てられたようだ。嫡母は氏頼の室藤原氏である(迎陽記)。
 

明徳四年(一三九三)八月四日付斯波義将書状(尊経閣文庫)で、宛所は「佐々木備中守」となっている。このときまでに備中守に補任していたのだろう。備中守は頼綱以来六角氏の世襲官途であり、以後満高は「佐々木備中守」「佐々木備中入道」と呼ばれた。『花営三代記』応永三十一年十二月二十七日条には「佐々木左京大夫入道跡」とあるように、満高は左京大夫にも任官していた。沙々貴神社所蔵佐々木系図などで左京大夫とすることと一致するとともに、『足利治乱記』で鎌倉足利基氏の娘婿とする六角右京大夫が満高のことである。しかし「備中守」が佐々木六角氏の世襲官途だったためだろう、「佐々木備中守」「佐々木備中入道」と呼ばれ続けた。

満高は、嫡子満綱の正妻に足利義満の娘を迎え(『系図纂要』足利系図)、義満政権期はまさに満高の絶頂期であった。ところが義満の没後、将軍義持は父義満の政治を否定、義満の「鹿苑院太上天皇」の尊号を朝廷に返上し、勘合貿易も中止した。そして義持と満高も対立する。

 

と、室町幕府将軍と六角佐々木氏とは密な関係であったようである。

そして、室町幕府将軍職は 義満のあと義持ー義量(よしかず)ー義教ー…と続き、義澄に至る。

 

佐々木氏と室町幕府将軍職とのつながりがこんなにも深いとは…驚きである。

その氏頼に仕えていた九里氏がやがて分かれて、一つは和歌山の九里氏となってつながれていく。

もう一つの流れは、近江国に居住していたのだと思う。

また、更に金田氏に従っていた九里もいたとすると現在の久喜あたりに九里がいた可能性が出てきて、

久伊豆神社(越谷)にあった「九里」の名前も、その傍証にもなるかもしれない。

 

金田氏が佐々木氏の出とすると、なおさらにその可能性が大きいと思うが…

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九里貞秀、九里員秀、金田秀宗、金田実綱  船木庄と金田庄 (1)

2022-12-03 | 九里バラバラ情報

 

 

 

 

九里氏が船木庄代官であった明応九年・十年に「九里貞秀」と「九里員秀」の名前がある。

代官は一人であるという事ならば、上記の二名は同一人物となると思うが、親子であった可能性もあるかもしれない。ともに「四郎次郎」と称している。

飛鳥井氏からいただいた蹴鞠の文書も、貞秀と呼んでいる人、員秀と呼んでいる人がいて、紛らわしい字体であることは確かだ。

忠富王記の中に員秀の娘が大内に宮仕せること明応七年とある。大内とは、大内裏 (だいだいり)の略である。

 

明応七年、1498年、大地震が九月にあった年である。

 

金田庄内にある金剛寺の納豆を京都の相国寺に献上していることが書かれているが、この金田庄と船木庄が良好な関係があってこそと思われる。

 

金田秀宗と同じく「秀」のついた九里員秀・九里秀雄。

因みに 浄椿は九里秀雄、その父は九里高雄という。

 

この九里四郎次郎員秀は、忠富王を通してだと思うが、天皇と関わりを持てる地位にいたことになる。

娘が大内裏に宮仕できる家柄であったことが、其の証のようにも思える。

父、九里四郎次郎員秀はとても喜んでいる様子なので初めてのことであった可能性もあるが、そのラインまで登っていたのだと思う。

 

金田氏に関しての情報は少ないのだが、以下が見つかった。

また、父が金田河内守実綱、とあったが、兄として金田河内守実継が記載されている文献もあった。(浅井日記 末)

 

金田      佐々木義賢兵       金田河内守 

 

上記の「佐々木義賢」は、六角高頼の孫、六角定頼の息である。その六角義賢の家臣に金田氏がいた。

この金田氏は、菖蒲佐々木氏と関係はないのだろうか?と、そこが気になっている。

 

下記の埼玉の苗字の中にも記載がある「金田」

長井氏の名は、保元物語に「長井斎藤別当実盛、同三郎実員」、又「弟の三郎実員」。平家物語卷七に「斎藤実盛、もとは越前国の者にて候ひしが、近年御領に付けられて、武蔵国長井に居住仕り候ひき」。源平盛衰記卷二十八に「平家の侍、武蔵国住人・長井の斎藤別当眞盛」。典籍古文書に「建治元年五月、武蔵国・長井斎藤五郎左衛門尉跡五貫を京都六条八幡宮の造営に負担す」。太平記卷十九に「ここに国司(北畠顕家)の兵に、長井斎藤別当実永といふ者あり。利根川を渡さんと、長井斎藤別当・舎弟豊後次郎兄弟二人これを見て、『人の渡したる所を渡っては、何の高名かあるべき』と、ともに腹を立てて、これより三町ばかり上なる瀬をただ二騎渡しけるが、岩波高くして逆巻く波に巻き入れられて、馬人ともに見えず、水の底に沈んで失せにけり。その身はいたづらに溺れて、屍は急流の底に漂ふといへども、その名は永くとどまって、武を九泉の先に輝かす。『さてこそ鬚髪を染めて討死せし実盛が末とは覚えたれ』と、万人感ぜしことばの下に、先祖の名をぞ揚げたりける」と見ゆ。

鎌倉大草紙に「応永二十三年上杉禅秀乱。上杉憲基に従う兵には長尾出雲守・大石源左衛門・羽継修理太夫・舎弟彦四郎・安保豊後守・帷助五郎・長井藤内左衛門、其外木部・寺尾・白倉・加治・金子・金田を始として、宗徒の兵七百余騎打立けり」と見え、長井氏家譜には「長井藤内左衛門実則」とある。但し、武蔵名勝図会に「上杉禅秀乱のとき、管領憲基に従い参りける長井藤内左衛門尉というは長井掃部助入道法禅の子息なるべし。この長井の家は大江広元の子孫なり」と見ゆ。

別府文書に「享徳十六年十一月十五日、足利成氏は、玉井・長井・別府等の不参を難じ、長井庄以下の所領を没収し、結城七郎氏広に与う」と見ゆ。

 

 

図書館のレファレンスにヒントがあるようである。

https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000041434

康正2年(1456)に菖蒲城を築いたとされる古河公方足利茂氏の家臣金田式部則綱および鎌倉府から古河公方(5代)までの佐々木氏や菖蒲佐々木氏の動静については郷土資料に詳しい。

しかし〈近江の六角佐々木氏〉から〈菖蒲の佐々木氏〉に繋がる系図については、多くの史料で疑問視しており、正確な系図は見つからなかった。

 

金田式部則綱

金田河内守実綱

金田河内守実継

金田監物秀宗

・・・この秀宗だけ名前が違っているので、九里の出?かもしれないと思ったりする。

縁あって養子に入ったなど、何かありそうな気がしている。

 

さて、上記に貼った荘園時代の中に「九里氏領」があった。

場所は真野がいた場所に近いと思う。

さらに、私領を持っていたメンバーを見ると室町時代に活躍していたと思われる面々が揃っていて面白い。

佐々木氏はもとより、宇津呂殿、九里氏・桐原氏・小森氏・池田氏・津田氏・京極氏・浅小井氏・平井氏・馬淵氏・河野氏・鏡氏・花山院家・唐橋家・蒲生氏・田井氏・儀峨氏 である。

田井氏という苗字は初めて聞いたので、これから調べてみようと思う。

さらに、宇津呂氏だけは「殿」扱いになっていることも気になった。

 

 

 

 

 

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保内商人のこと。

2022-05-08 | 九里バラバラ情報

保内商人のまとめ役?調整役?だった【源員定】は、九里ではないだろうか?と言われている人物。(蒲生郡史)

其の裔に【九里四郎次郎員秀】がいたと思う。(員が通字・同じ役目)

 

 

コトバンクより

保内商人とは

中世に近江(おうみ)国蒲生(がもう)郡得珍保(とくちんのほ)(滋賀県東近江市)に住み、農間副業として、伊勢(いせ)、美濃(みの)、若狭(わかさ)、京都などを結ぶ遠隔地間の仲継商業に従事した商人。得珍保内商人のこと。近世の近江商人の源流をなすもので、鈴鹿(すずか)山越えの伊勢通商を独占した四本(しほん)商人(石塔(いしどう)、小幡(おばた)、沓懸(くつかけ)、保内)の一つである。塩、呉服、紙などの流通路を抑えて、問屋的な営業独占権を行使し、近隣の小幡郷、横関(よこぜき)、五箇(ごか)商人などと争論を起こしている。得珍保は六郷、下八郷からなり、後者が商人団の中枢をなした。その一郷にあった今堀日吉(いまぼりひよし)神社文書には、保内商人の中世商業のありさまがよく示されている。商人団の構成は徒足(かち)の商人と、馬で運ぶ駄荷(だに)の商人の2階層からなるが、1世帯には馬1匹分の参加しか認めないという平等規制をもっていた。

脇田晴子

 

保内商人【ほないしょうにん】

中世,近江国蒲生郡得珍保(とくちんほ)(滋賀県東近江市)のうち,西部4ヵ郷(保内野々郷(ほないののごう))に発生した商人団。本来は農民であるが,延暦寺衆徒や守護六角氏の保護のもと,団結して市場専売権や街道通行権などの特権を獲得し,伊勢国若狭国尾張国など遠隔地商業に従事行商に際しては周辺地域の農民らを足子(あしこ)として動員,商品運搬・下請などを行わせた。取扱商品は塩・呉服・紙・海草・馬などで,それぞれに座を結成。中心は今堀(いまぼり)郷で,鎮守十禅師(じゅうぜんじ)社(今堀日吉神社)の庵室が保内商業の事務室的役割を担ったが,織田信長楽市(らくいち)設立で商業活動は衰退していった。《今堀日吉神社文書》は周辺商人との確執を排除し,自らも規制しながら成長していった保内商人の実体や,惣村内実を知る基本史料。
鎌倉・室町時代における近江国(滋賀県)蒲生郡得珍保の農村的商人。南部の地域にあたり、保内座として団結し、商業活動を行なった。領主である比叡山延暦寺の保護のもとに、御服座・紙座・塩座・伯楽座などの座を結成し、近江を中心として若狭(福井県)・伊勢(三重県)・美濃(岐阜県)・尾張(愛知県)から京都にかけて、隊商的行商をして活躍した。〔今堀日吉神社文書‐大永八年(1528)七月八日・佐々木定頼書状案〕
近江国蒲生上郡得珍保(とくちんのほ)の下四郷の商人をさし,野々郷(ののごう)商人,野々川商人ともいわれる。得珍保は比叡山の僧得珍が開発したという伝承をもつ荘園で,滋賀県八日市市の南部に位置する。室町時代以降,保内商人は延暦寺東塔東谷仏頂尾の衆徒と,守護佐々木六角氏の保護をえて,織田信長の安土城下の形成まで特権的な座商業を展開した。保内商人を輩出した下四郷は畑作地帯で,上四郷に比較して水利の便が悪く,水田化がはなはだしく遅れたが,他方得珍保は東海道と東山道に挟まれ,伊勢山越ルートである千草街道八風(はつぷう)街道に接続しているため,農業の不利を商業で補った。

【近江商人】より

 

…鎌倉時代後半に姿を現し,室町時代初期から商業圏を確立してゆく延暦寺領近江国蒲生郡得珍保(とくちんのほ)の商人(保内(ほない)商人ともいう)は,荘園のなかでは農業生産に恵まれない農民が近江・伊勢の国境の鈴鹿山脈の八風(はつぷう)街道千草街道の両街道での山越商業に従事したものである。保内商人は延暦寺や守護六角氏から排他的独占権(座権)を認定された。独占権の対象になる商品としては麻苧(あさのお),紙,陶磁器,塩,曲物(わげもの),油草,若布(わかめ),鳥,海苔(のり),荒布(あらめ),魚,伊勢布があげられる。…

 

員定・・・員秀 → 隆員となるのだと思う。

隆員は【員】が後ろに来ているので、養子だったかもしれない。

隆員も同じ今堀日吉文書等に顔を出している。

 

員秀の働きが地図になっていた!

http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2021/03/post-33f4a6.html

私の知らなかった裏話も書いてあり、お勧め! 蒲生氏は応援してくれていた!と思うと嬉しいです~~!

 

隆員を調べていて員秀の「番場合戦」明応五年(1496年)を見つけたので貼っておこうと思う。

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九里員秀、届く!!!

2022-05-06 | 九里バラバラ情報

4月23日に注文し、ゴールデンウィークを挟んでしまったため、先ほど届いた。

 

さてさて、ちょうど九里員秀を話題にしていた所なのでタイムリーである。

 

 

 

ほかの方の論文では、九里の先祖の先例となる判断があり、それに従ったとあったような記憶がある。が、それは得珍保のことだったかもしれない。(要調べ)

 

***

 

カタログのには松田対馬守数秀ではなく【対馬守英致】と思われる文書も入っていた。

 

対馬守数秀の東寺百合文書は1497年(明応6年)が最後のようで、その後は対馬守英致になっている。

 

下記の論文には系図が載っており、それによると数秀の息が英致である。

さらにわかった事は、長秀と数秀は本当は兄弟であった。が、数秀が養子に出たということである。

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/677/677PDF/tanaka.pdf

室町幕府奉行人丹後松田氏の研究 南北朝期を中心に 著 田中誠

 

  

 

どう見ても違う。左が松田対馬守数秀 右が松田対馬守英致の筆

もう一つ 下は 九里員秀

 

素人判断だが、数秀と員秀は別人と思う。

 

 

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三村庄と紀太孫左衛門 この人物が九里種信と関係か?

2022-05-06 | 九里バラバラ情報

三村庄を調べている際に、出てきた人物がいる。

【紀太孫左衛門】

https://kyotofukoh.jp/report505.html

https://www.city.yawata.kyoto.jp/cmsfiles/contents/0000004/4633/20180121sympo.pdf

近江八幡の八幡は、石清水八幡の八幡でもあり、宇美八幡宮にも繋がる。

宇美宮

紀太蔵人、「嶋郷内 三村庄」に関する東寺百合文書にその名が出てくる。

 

この紀太氏とともに河井氏が登場するが、1384年あたりから東寺百合文書に出てくるそうである。

河井の居館跡は近江八幡本郷にあったそうで、九里と同じ場所である。嶋郷代官とある。

 

 

 

1451年からは、九里の名も出てくる。

 

こちらは、紀太であろうと思われるのだが【木田】と記載がある。

そこで、木田で検索をかけると、新たに出てきた。

 

更に深堀すると、今度は松田氏が出てきた。

松田氏は以前から松田数秀と九里員秀(かずひで)が気になっていた。

同じ対馬守でもある。

九里源兵衛は対馬守を称している。員秀は備前守?美作守?

九里美作守賢秀が美作守であった。

 

中原久経の同母兄(異父兄)が源朝長である。朝長が十三歳まで松田にいたとすると、久経も松田で育ったこととなるのではないだろうか?(とすると久経の母は東国にいた中原氏に嫁いだのか?それとも朝長は松田において行かれて養母が育てたのだろうか?)

源朝長が松田殿

平致頼の裔にも丹後松田氏 (長田氏と同じ祖

朝長が13年住んでいたという松田の館は、頼朝が修繕させて訪れることもあったそうだ。

1143年~1156年 その後は1160年迄、義朝の許で武士として、父を支えようと共に京にいたのかもしれない。

朝長の二歳年上の兄となる【義平】の母親は三浦義明の娘であり、兄弟姉妹が

杉本義宗三浦義澄大多和義久
佐原義連多々良義春長井義季
杜重行源義朝側室、畠山重能正室
金田頼次室、長江義景正室、大河戸広行

となる。

さらに三浦義明自身の兄弟姉妹は

三浦義明津久井義行蘆名為清
岡崎義実大友経家中村宗平

そして義明の母親は秩父重綱の娘であるという。

 

義平の妻は新田一族の者で、娘が一人おり、武田信光の室になったという。

武田信光とは、鎌倉殿の十三人で殺された一条忠頼の弟となる。

 

松田氏、特に丹後の松田氏、気になる存在である。

 

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九里四郎次郎員秀 文亀元年・二年の文書有。

2022-04-23 | 九里バラバラ情報

文亀二年に、保内商人は、高島南市で高島南市商人に荷物を押収されたが、守護六角氏に訴え、守護の意をうけた九里員秀によって同年保内商人の権益が保証されて、荷物変換の命が下っている 。(web情報)

文亀二年(1502年)といえば、近衛政家の日記(後法興院記)にも記載があった。(九里四郎次郎とある)

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/d60533bc79defd65e0293777ce692193

 

だが、文亀二年(1502)十月、第一次伊庭の乱勃発の年でもある。

 

この辺りから、九里は戦いに巻き込まれ、やがて叩かれて、衰退するのである。

せっかく好調であったはずなのだが、、、、

 

 

 

 

 

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