琵琶湖の浮城より(成田邦正著)
【大戦乱勃発で当時の最高知識人である貴族・高僧・文人達は諸国へ難を避けたが、近江へ逃げて仮寓した人々は、応仁二年(1468年)
近衛房継・政家父子が甲賀郡の所領地信楽へ、姉小路基綱が甲賀郡柏木(甲南町)へ、飛鳥井雅康が大津へ、羽林家飛鳥井雅親は娘の嫁ぎ先、蒲生郡日野の佐久良城主小倉実澄館へ、高僧といわれた人々では横川景三―永源寺創建者ー・桃源瑞仙・景趣琴叙・囲公座元・景徐周麟等々で、湖東へは萬里集九・宗箴・季カ(王偏に夏みたいな字)・集証・文叙真要・盈進・温沖等がきた。
――"乱"済んだ後も今日の復興捗らず非参議平・時兼・西坊城顕長・烏丸光康等が来ている
飛鳥井大納言雅親と景徐周燐を保護した小倉(小椋)右京実澄は、片田舎の一国侍ながら宮廷奥深くまで名の聞こえた一流歌人で、妻が雅親の姫だった関係上で京の文化人と交流があったから、頼ってきた景徐周麟の面倒をよくみて、山一つ越えた神崎郡永源寺町奥の「識蘆庵」に置いた。】
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ここまで読んで、ハタと思いついたことがある。
あの文書、と あの土地、
この「難」の旧字は、「難波」の意味であり、難波の乾太郎蔵人の私領の為」ではないか?!
ならば、居たではないか!! 時代が前後するので、土地を持っていたのは、下記の人物のご先祖に当たる人物かもしれないのだが。
種信の実父、または養父、または義父が「乾太郎蔵人」であったのではないかと思われる。
つまり、種信の母親が九里員秀の娘だろうか?(内裏長橋局房にいたと思われる)
ともかく九里氏の娘が乾氏と婚姻関係を持ったことで乾氏の私領が九里種信に渡り、それを売った…という事になるのではないだろうか?
…とすると、文書の明応八年(1499年)よりもかなり以前、員秀の娘が内裏にはいり、14○○年に乾太郎兵衛の妻となったのではないだろうか?
年代的にその周辺は公家との関係が出てくる。
明応九年に九里員秀が蹴鞠の秘伝を飛鳥井雅康頼もらい受けている。
九里四郎二郎員秀は明応十年までは「忠富王記」の中で見ることができる。
【忠富王記】
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100135539/viewer/49
忠富王記の中に「乾大夫」「九里四郎次郎員秀」の名が登場する。
詳しい時期は不明だが、室町幕府の御家人に【乾太郎兵衛】が存在していたこと。
九里淨椿(信隆か信賢の親・九里三重郎と岡山城に籠城・元九里刑部少輔・伊賀守入道) 近江八幡人物伝
(近衛家より牡丹の家紋を拝領)とある。
時代はもっと後になり、水茎岡山城で壊滅的に叩かれた後だが、九里源兵衛は健在であり、鹿苑日録にも多々登場する。後に九里対馬守と成る人物と思われる
【後法成寺関白記】
享禄元(1528)年7月3日条に「九里源兵衛が堺に下向するので、近衛尚通が近衛家領のことを源兵衛に申し付ける」という記述がある。
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難波の乾氏
この場所も難波に入るだろうか?
そしてこの場所「茨木」には、隠れキリシタンの村があった。
さらに、安威村の村長さんは明治から大正時代にかけてだが「乾縫之助」さんであった。
現在の梵鐘堂は明治28年(1895)大念寺十九世讃誉玄麟上人のときに安威村の村長であった乾 縫之助氏の発起のもと建立されたものです。
大念寺の釣り鐘は大昔から安威の村の人々にお昼と夕方の時刻を知らせる鐘として使われていましたが昭和の太平洋戦争の金属類回収令により供出されました。戦後、再びお檀家さんの協力のもと新鋳(日立造船所製作)し現在の釣り鐘に至ります。年末の大晦日の除夜の鐘には近隣の方々が鐘をつきに沢山来られます。
https://dainenji.jimdofree.com/%E4%BB%8F%E5%83%8F-%E5%AE%9D%E7%89%A9-%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1/%E9%87%A3%E9%90%98%E5%A0%82-%E9%90%98%E6%A5%BC/
この難波の乾氏がなぜ近江八幡の本郷に土地を持っていたのか。
佐々木氏の乾氏であったからであろうと思う。