九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

応仁の乱 近江国へ仮寓の文化人たち から 飛んで 乾太郎蔵人 へ 摂津 茨木

2021-01-09 | 九里バラバラ情報

琵琶湖の浮城より(成田邦正著)
【大戦乱勃発で当時の最高知識人である貴族・高僧・文人達は諸国へ難を避けたが、近江へ逃げて仮寓した人々は、応仁二年(1468年)
近衛房継・政家父子が甲賀郡の所領地信楽へ、姉小路基綱が甲賀郡柏木(甲南町)へ、飛鳥井雅康が大津へ、羽林家飛鳥井雅親は娘の嫁ぎ先、蒲生郡日野の佐久良城主小倉実澄館へ、高僧といわれた人々では横川景三―永源寺創建者ー・桃源瑞仙・景趣琴叙・囲公座元・景徐周麟等々で、湖東へは萬里集九・宗箴・季カ(王偏に夏みたいな字)・集証・文叙真要・盈進・温沖等がきた。

――"乱"済んだ後も今日の復興捗らず非参議平・時兼・西坊城顕長・烏丸光康等が来ている

飛鳥井大納言雅親と景徐周燐を保護した小倉(小椋)右京実澄は、片田舎の一国侍ながら宮廷奥深くまで名の聞こえた一流歌人で、妻が雅親の姫だった関係上で京の文化人と交流があったから、頼ってきた景徐周麟の面倒をよくみて、山一つ越えた神崎郡永源寺町奥の「識蘆庵」に置いた。】

===*===

ここまで読んで、ハタと思いついたことがある。
あの文書、と あの土地、



この「難」の旧字は、「難波」の意味であり、難波の乾太郎蔵人の私領の為」ではないか?!

ならば、居たではないか!! 時代が前後するので、土地を持っていたのは、下記の人物のご先祖に当たる人物かもしれないのだが。
種信の実父、または養父、または義父が「乾太郎蔵人」であったのではないかと思われる。
つまり、種信の母親が九里員秀の娘だろうか?(内裏長橋局房にいたと思われる)
ともかく九里氏の娘が乾氏と婚姻関係を持ったことで乾氏の私領が九里種信に渡り、それを売った…という事になるのではないだろうか?

…とすると、文書の明応八年(1499年)よりもかなり以前、員秀の娘が内裏にはいり、14○○年に乾太郎兵衛の妻となったのではないだろうか?

年代的にその周辺は公家との関係が出てくる。

明応九年に九里員秀が蹴鞠の秘伝を飛鳥井雅康頼もらい受けている。
九里四郎二郎員秀は明応十年までは「忠富王記」の中で見ることができる。



【忠富王記】
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100135539/viewer/49
忠富王記の中に「乾大夫」「九里四郎次郎員秀」の名が登場する。
詳しい時期は不明だが、室町幕府の御家人に【乾太郎兵衛】が存在していたこと。




九里淨椿(信隆か信賢の親・九里三重郎と岡山城に籠城・元九里刑部少輔・伊賀守入道)  近江八幡人物伝
近衛家より牡丹の家紋を拝領)とある。


時代はもっと後になり、水茎岡山城で壊滅的に叩かれた後だが、九里源兵衛は健在であり、鹿苑日録にも多々登場する。後に九里対馬守と成る人物と思われる

【後法成寺関白記】
享禄元(1528)年7月3日条に「九里源兵衛が堺に下向するので、近衛尚通が近衛家領のことを源兵衛に申し付ける」という記述がある。



===*===

難波の乾氏


この場所も難波に入るだろうか?




そしてこの場所「茨木」には、隠れキリシタンの村があった。
さらに、安威村の村長さんは明治から大正時代にかけてだが「乾縫之助」さんであった。


現在の梵鐘堂は明治28年(1895)大念寺十九世讃誉玄麟上人のときに安威村の村長であった乾 縫之助氏の発起のもと建立されたものです。

 大念寺の釣り鐘は大昔から安威の村の人々にお昼と夕方の時刻を知らせる鐘として使われていましたが昭和の太平洋戦争の金属類回収令により供出されました。戦後、再びお檀家さんの協力のもと新鋳(日立造船所製作)し現在の釣り鐘に至ります。年末の大晦日の除夜の鐘には近隣の方々が鐘をつきに沢山来られます。

https://dainenji.jimdofree.com/%E4%BB%8F%E5%83%8F-%E5%AE%9D%E7%89%A9-%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1/%E9%87%A3%E9%90%98%E5%A0%82-%E9%90%98%E6%A5%BC/


この難波の乾氏がなぜ近江八幡の本郷に土地を持っていたのか。
佐々木氏の乾氏であったからであろうと思う。







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三銀蔵様からのヒントで考えられる事

2021-01-06 | 九里バラバラ情報



九里員秀の息高雄は小倉実澄に預けられていたとある。





一方、小倉左近将監実澄は「多賀豊後守高忠」の養子となっていたか、あるいは反対に多賀氏から小倉氏に養子に入ってきていたか。

仮定だが、
九里高雄(後の浄椿)は、多賀高忠の養子に入った小倉実澄に預けられ、やがて景徐周燐と出会い、僧となった…という事も考えられる。

この多賀高忠の父は、京極高数である。 高数は、京極高詮の息である。

佐々木導誉ー高秀ー高詮ー高忠 となる。

京極高秀は「幕府 室町幕府 評定衆、侍所所司」と幕府と密な関係である。
高詮は「室町幕府侍所頭人」、高忠は「室町幕府侍所頭」である。

そのような中において、小倉氏に預けられた九里高雄は、その後、足利義澄が頼ってきた際にはとても断れなかったであろうと推測する。

どちらかというと京極氏側であることが腑に落ちた。
さらに、水茎岡山城陥落後に、京極を頼って行ったわけも、ココで合点がいった!

鎌倉時代のまだ佐々木氏が一つの頃から存在していた九里氏。
近江八幡という場所柄六角氏に付いていたが、京極氏の配下にも九里氏がいたとも思われるし(久徳氏がそうではないのか?)
この小倉氏に預かっていただいた時に京極寄りとなったのだと思う。

六角氏の配下にいながらも伊庭氏と九里氏は、少々独立心が強い家臣であったのではないかと思うのだ。





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明応二年 西洞院殿(平時顕) 九里伊賀守

2020-04-09 | 九里バラバラ情報

紀氏という視点から、もう一度「九里を見直す」。

以前気になっていた「八坂」「九里」も今ならわかるかもしれない。

北野社家日記







明応二年 1493年 のことである。
この西洞院時顕の下で働いていたのだろうか?
それとも瞬発的に同行しただけなのだろうか?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%B4%9E%E9%99%A2%E5%AE%B6



西洞院家には飛鳥井家から養子に入ってもらっており、朽木氏は飛鳥井家から室を迎え入れている。
西洞院家が平氏が祖である点も、注目。
「高棟王流・桓武平氏の流れをくむ公家。高棟王から17世の孫にあたる南北朝時代の正三位参議・西洞院行時(1324年 – 1369年)を祖とする堂上家。家格は半家。」とある。

九里の祖ダイレクトの系は「平氏」の家司だったような気がしているので、これもありそうである。

===*===

九里伊賀守が飛鳥井家の下で働いていた?

明応九年に九里員秀が蹴鞠の秘伝を飛鳥井雅康頼もらい受けている。

飛鳥井宋世=雅康 
室町後期の歌人・公卿。飛鳥井雅世の次男。雅親の弟。名は雅康。号を二楽軒・二楽院。法名を宋世。家伝の歌学、蹴鞠を伝え、書道二楽流の祖となる。権大納言正二位に至る。『新撰菟玖波集』に歌を収め、また著書に『歌道鈔』『富士歴覧記』等がある。永正6年(1509)歿、74才

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九里氏の始りから明治までの流れ(7)明応と義澄周辺 memo

2020-04-09 | 九里【只今の状況・まとめ】

明応の政変  1493年
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%BF%9C%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%A4%89

白川忠富王が【申次】であったことがわかった。(九里員秀が舟木庄代官であった頃に関係)

足利義遐(義澄)
清晃(僧侶時代の名前)→ 義遐(よしとお)→ 義高 → 義澄 と変わっている。

細川政元と修験道 末柄 豊 著
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/suegara/shisenin.htm
この中に「長井豊後守」が出ていて、斎藤道三の父である可能性が…書かれている。


応仁・文明の乱以後の室町幕府と陰陽道 末柄 豊 著
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo/06/kiyo0006-suegara.pdf


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土岐氏 = 隠岐氏 = 舟木氏

2020-03-19 | 隠岐氏

土岐氏 = 隠岐氏 = 舟木氏

婚姻関係があると思っている「乾氏」
佐目という場所で、顔見知りであった可能性もある「多賀氏」「久徳氏」
「昔ノ舊(旧・ふる)キ好身(よしみ)ヲ尋…」とweb情報にあった。
淡海温故録
http://3-gin.net/d-mituhide-kouza1.html


近江八幡にいた九里員秀が「舟木庄代官」であったこと。
九里種信の土地の売渡状に元者は…と書かれているのが「起」かも知れない事。

土岐氏と同じく「夢窓疎石」と関りがある事。
明智光秀は加藤清正とも近い関係という。



===*===

忘れそうなのでmemo
進士氏の血が入っていたので、明智光秀は食膳の用意をさせられていたのでは…?
進士流
https://bimikyushin.com/chapter_3/03_ref/shinji.html

===*===
三銀蔵さんのページは、とても面白い!
三銀蔵さんのページに「久徳氏」がやはり九里六左衛門のことでは…
私の知っている九里六左衛門も、有馬氏のもとで天草の戦いに出ている

https://note.com/3_gin/m/md067be1f4215/hashtag/813836

『淡海温故録』に
--------------------------------------------
昔ノ旧キ好身ヲ尋当国ノ先/方共ヲ頼ミケレトモ外ハ一人モ同心セス、多賀新左衛門、久徳六左衛門、阿閉淡路/守、小川土佐守、後藤喜三郎、池田伊予守六人ハ運尽テ同心シ、山崎ノ/一戦ニ没落シ皆零落ニ及ケル
----------------------------------------------
この中の「久徳六左衛門」、全国の久徳さんのルーツの村の歴史が書いてある本です。

『久徳史・久徳こぼればなし』抜粋
----------------------------------------------
胡官神社の社家には久徳左京があり、後に明智光秀の仮に加わった郷士の中には多賀新左衛門と共に久徳六郎左衛門尉という人が居る。六郎左衛門尉については、落城の時、「息一人あり、観音寺の証人あり故ありて助かり、尾形(佐々木家)より憐愍ありて(れんびん・なさけをかけられ)養育され成人す。久徳六郎左衛門是也。信長公に仕へて立身す。然るところ明智光秀に犬上衆旧き好しみある故、頼まれて山崎一戦に加はり、没落して日影浪人となり西国にゆく。有馬家中に属す。」と書にある。後に正保年中(1644~1647年)有馬玄蕃頭内、久徳井兵衛よりの書状が霊仙寺にあったらしい。この久徳井兵衛こそ六郎左衛門尉の子孫になるのではなかろうか。


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近江水茎岡山城 吉田勝 著 日本古城友の会

2020-03-15 | 九里バラバラ情報

「近江水茎岡山城」 吉田勝 著 日本古城友の会
昭和56年に発行されたこの小冊子に九里種信が土地を売った理由となるかな?と思えることが出ていた。

「明應五年(1493年)父員秀が江南守護職六角高頼の守護代伊庭貞隆と共に京極勢と坂田郡摺針峠で戦って討死した為、十八歳となっていた高雄は九里城へ帰って家督を襲いだが、同八年(1499年)伊庭氏の要請により九里城を離れて島郷の牧村に居館を設けて移った。」

但し、どの資料を基に書いたのかが不明である.

上記に紹介した文章は、昭和53年に書かれた「琵琶湖の浮城ー水茎岡山城攻防史」成澤邦正著の「年表」を基にしたのではないか…とも思う。

この二冊の本は、九里氏の明應期から九里三重郎が没するまでの全体像を見渡すために貴重な本である。
しかし、員秀は明應五年には討死していないのではないだろうか?

九里員秀 明應十年 六月に記載あり。↓
【忠富王記】
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100135539/viewer/49

九里員秀は忠富王記の明応七年・十年の記載に出てくる
コマ19の九里四郎次郎
コマ36に明応10年が始まり、コマ49に九里員秀(六月)
その後七月からは舟木小次郎(小二郎)や、小二郎男が登場してくる。
今後は、員秀の名は見えなかった。見落としはあるかもしれない。。









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九里宮内左衛門尉種信

2020-03-11 | 九里バラバラ情報

「九里種信」に関することは以下の二つと大徳寺古文書である。







「九里種信」という宮内左衛門尉がいたという事は、員秀につながり、その娘が大内に宮仕えしていたこととつながってくる。

さらに、誰かとのつながりを示す部分がある様なので、そこが重要だと思っているのだが、どうにも読めない。。。
誰かの婿となり…とある様な違うような???である。松太? 
しかも屋敷を売る???とか???

私にとっては謎だらけで、でもきっと大事な部分と思う。 

===*===
東京大学史料編纂所 DB
 https://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/
横断検索に入り「九里種信」と入れ、検索すると一件出てきます。
そこから、先に進めて右に小さな+が出てくるので、それを押しますと大徳寺古文書になり、そのコマ「9」が種信です。




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九里氏の始りから明治までの流れ(6)明応八年 1499年

2020-03-10 | 九里【只今の状況・まとめ】

明応八年に『 九里宮内左衛門尉種信』が大徳寺文書に見える。




そしてその次の年である明応九年、『九里四郎次郎員秀』が近江蒲生郡志に出てくる。


この九里員秀が飛鳥井雅康より「蹴鞠秘伝五部抄」をいただいている。

忠富王記に中にも「舟木庄代官」や「頭」と書かれている九里員秀。
後柏原天皇践祚の際に御禮として献上したようである。
ここで重要なのは、この時の将軍が「足利義澄」であり、永正5年(1508年)には、近江国に逃げてきて水茎岡山城に匿われることとなる事である。

後柏原天皇の践祚の際の状況がwikipediaにあったのでここにコピーする。
【11代将軍・足利義澄が参議中将昇任のために朝廷に献金して天皇の即位の礼の費用にあてることを検討したが、管領・細川政元が「即位礼を挙げたところで実質が伴っていなければ王と認められない。儀式を挙げなくても私は王と認める。末代の今、大がかりな即位礼など無駄なことだ」と反対し、群臣も同意したため献金は沙汰止みとなる(『大乗院寺社雑事記』(尋尊大僧正記)文亀2年6月16日条)など、主要な献金元である室町幕府や守護大名も逼迫していたために資金はなかなか集まらなかった。】

この時の管領が細川政元であったことも、今後の九里の上司的存在となっていくので、注目したい。

さらに1499年には、九里員秀の娘は大内に宮仕していたこと。

この九里宮内左衛門尉種信は近江蒲生郡の土地をどうしたのだろうか?
何方か読める方がいらしたら、ご教示くださいませんか?
松太蔵人…と見えるので「松田蔵人数秀」のことだろうか??



宮内左衛門尉なので、この種信の系はずっと院に仕えていたのかもしれない。
その縁で、員秀も舟木庄の代官となりえたのかもしれない。


舟木庄は忠富王記のほか、歴博DBによると、
「 加茂別電神社文書・長命寺文書・醍醐三宝院文書・醍醐寺方管領諸門跡等目録・後奈良院宸記・日吉社并叡山行幸記・大島奥津島神社文書・南禅寺文書・菅浦文書 」に記載があり

「法勝寺領・禁裏御料所・皇室領・醍醐寺領・三宝院領・賀茂別雷社領・賀茂社領・南禅寺領・三鈷寺領 」の領であったことがあることが書かれている。

「種信」って、貞信もいることから「信」が通字なのかもしれない。
貞信・種信(宮内左衛門尉)・信隆(備前守)・信賢(備前守)…が一族だろうか?











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多賀氏と野本氏

2019-07-11 | 雑記

多賀氏と野本氏の記事

千葉一族か。名字地は下総国神崎庄多賀郷(成田市高岡?)。おそらく神崎千葉氏の一族であろうと思われる。

 鎌倉時代末期には、多賀郷地頭職であった野本氏の代官となっていたようである。
建武4(1337)年、野本朝行(能登四郎)は足利尊氏に味方し、後醍醐天皇方の「千葉下総守(千葉介貞胤)一族等」が神崎庄多賀郷に攻め入ったとき、「千葉余三清胤、朝行代官等」が足利方として連日合戦して功績を挙げた。ここに見える「千葉余三清胤」もおそらく神崎千葉氏の一族であろうと思われるが、系譜などが伝わらないため、不明である。

 また、多賀郷代官である「多賀七郎行胤、小栗左衛門次郎重高、多賀七郎三郎」らは尊氏党である「千葉大隈守(千田胤貞のこと)」の留守を守るため、千田庄多古の大嶋城に入っていたようである(『熊谷家文書』「野本朝行子息鶴寿丸軍忠状」)。

能登氏ならば、近江国にいた!!しかも、関係がある!!

六角家臣団の九里の周辺
高祐奉行人
賢広奉行人
野寺忠広能寺忠弘奉行人
  忠行奉行人
隠岐忠広越前
九里秀方秀宅子秀重孫経重曾孫経久玄孫中原経任流又左衛門
次郎左衛門美作?仕六角久頼文安頃
  治任仕伊庭享徳頃
  次郎左衛門享徳頃
賢秀====1496?次郎?美作応仁頃
  高雄賢秀子三郎左衛門伊賀?刑部?寛正頃
  信隆====1511員秀子?刑部
玉松信隆子三十郎?
三郎左衛門長禄頃
貞信三郎文明頃
  員秀賢秀子?四郎次郎備前仕六角高頼「江州郡代」明応文亀頃
  信賢員秀子?信隆?備前永正頃
  浄椿信賢子?刑部伊賀
  宗忍====1525伊賀入道宗恩大永頃
  隆員
  賢久五郎太夫仕牧野忠成
頼純賢久子牧野忠成子?惣右衛門
政直岡田清左衛門八郎右衛門

種信宮内左衛門明応頃
左馬延徳頃
采女====1552
与右衛門采女子

吉忠次郎左衛門仕朝倉永正頃
  十郎左衛門仕朝倉
  十助前野宗直子佐々成政養子
  甚左衛門
久松新左衛門享徳頃
布施三河
公雄淡路
  公保藤九郎忠兵衛
  貞友新右衛門
  新蔵人
  源次郎
栗田元経文亀永正頃
  実勝左京永正頃
  定政左京大永頃
  民部長禄頃
片山隆清小三郎文明頃
四至内頼助文明頃

TOPにいる人たちに注目して見る。
高祐奉行人
賢広奉行人
野寺忠広能寺忠弘奉行人
  忠行奉行人
隠岐忠広越前

この野寺は、能登右馬允の「能馬」とも読めるそうで、能登右馬允忠行という文書があり、しかも六角佐々木氏家中で中心的な位置にいた者となっていたそうなのである。(戦国大名佐々木六角氏の基本研究 村井祐樹 著 思文閣出版)
ここにつながってくるのではないだろうか?
10ページ以上、関係がありそうなので後述したいと思う。


この「六角家家臣団」のページはもう見ることができないかもしれないが、この方は何故ここが九里氏に近いとわかったのであろか?
不思議であるし、素晴らしい感性の持ち主と思う。




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全くの想像だが、本佐々木氏の中にその後「土岐氏」となる者たちがいたのではないか。

2019-05-15 | 土岐氏


宝賀寿男の「古代氏族系譜集成」の系図を念頭に置きつつ書いていく。

本佐々木氏と呼ばれているのは「佐々木行定」「行実」「家行」「行範」あたりだろうか。
このなかから、木村氏・井上氏・愛智氏らが生まれた。

細かに見て行くと、
「佐々木行定」の母は下野守紀盛家女で、長男は「佐々木木村太郎定道」は佐々木宮神主、次男「道正」は陸奥判官為義の郎党となり、「道澄」は殺害され、女子は「愛智家次」に嫁いでいる。

「佐々木行実」の母は行定と同じ、行実は豊浦冠者・「佐々木井上三郎大夫」宇治入道忠実舎人であった。その息「井盛実」は「浅小井武蔵守」であり、佐々木宮神主でもあった。
浅子井氏は後に井・一井・櫟・山田氏などになって広がる。(もしかすると平井・奥島・堀氏などもつながっているのかもしれないと思う。)

二男宗真、三男「行正」は伊庭出羽守、五男「行方」井上五郎但馬守、六男「実綱」井上六郎筑後守となる。(実綱の系に「頼応」がいて、後に井伊氏につながるのではないかと私は思う。)

「佐々木家行」は愛智四郎大夫・中屋冠者とよばれ、次男?「家仲」は愛智源二大夫、「家次」は平井下野権守であり、後に佐々木宮神主となっている。「家景」は長江筑後権守、「家重」は愛智筑前権守となり、後に長江権守・平流(へる)四郎・河袋小七郎、となる。(この平流氏・長江氏は江州中原氏の系図にも出てくると思う。もしかすると河袋氏もいたかもしれない。)「憲家」は山崎六郎である。この系は楢崎氏にもつながる。

最後の「行範」五郎大夫、息は「行尚」は古川源太となり、「定時」は真野源三(新村・丸田の祖)、「定平」佐々木源四郎は深尾氏・西尾氏となって行く。「時信」は佐々木舟木六郎となり、間宮氏の祖である。

以前真野城の記事で「城主は真野氏で、湖東の豪族近江源氏佐々木経方の六男行範が(乾六郎行範)、乾氏の始祖となり蒲生郡北ノ庄に本拠おいた。その子孫乾氏の分流が真野郷を領して真野氏を称したという。」と関係してくると思う。

この乾氏、五郎か六郎の行範。
以前熊野別当であると思っていたのだが、違っていたのかもしれない。

真野氏に関しても解釈がいろいろとあるのか、以下のようなことも書かれていた。
「一 真野  同七代の嫡領経方の次男行定が元祖である。
 後に舟木、間宮と号し、いずれも真野の庶流である。
 一 木村  同七代の嫡領経方の三男定道が元祖である。
 一 伊庭  同七代の嫡領経方の四男行実が元祖である。
 一 愛智  同七代の嫡領経方の五男家行が元祖である。
 一 乾   同七代の嫡領経方の六男行範が元祖である。」

この説では、真野氏と乾氏は行定の二男の系と六男の系とで分かれている。

もしかするとどちらも土岐氏と関係があるのだろうか?
というより、それ以前に、この乾氏は土岐氏の乾氏と同じなのだろうか?

疑問が次々と湧いてくる。


他に不詳の「友正」「友員」の兄弟がおり、「源行真申詞記」の中に出てくる。
ここは九里に関係するかもしれないと思って調べていたが、この系も土岐氏や乾氏にも関係しているかもしれないと思う。

不詳であるという事は、それだけ考えられる余地があるという事と思う。

さて、どのようにすれば、この疑問を繙いていくことができるのか。

私は「九里氏」を通して周囲を見てきたので、今回も九里周辺との類似や気が付いたことを書いていこうと思う。


①近江国と美濃国は隣り合っている。
②土岐氏・乾氏と九里氏は、ともに東寺に関係があり、
 東寺百合文書の中に名前が残っている。
③ともに舟木庄の「舟木」と関係がある。
④三栗=美作は、後の本郷氏かもしれない。「みまさか」ではなく「みつくり」であったか?
⑤ともに宮内関係の仕事を持っている。
⑥ともに足利氏のもとでの仕事(途中から⑤と重なるか)を持っている。
⑦ともに周囲に「井口氏」の名が存在する。
⑧深栖光重 波多野御曹司も、波多野のつながりでは九里、光重のつながりでは土岐に関係する。
⑨ともに頼政周辺とつながりがある。(上記の光重もそうだが)
⑩饗庭氏の「饗庭庄」が北伊勢員弁(いなべ)にもあり、深尾氏が関係している。
⑪六角佐々木氏の家臣の中にも乾氏がいる。
⑫足利義澄に追随してきた家臣「乾太郎兵衛」がいて、その義澄をかくまったのが九里氏である。
⑬水茎岡山城での戦いの後、後片付けをしたのが乾氏という伝承?がある。
⑭忠富王記の中に「乾大夫」「九里四郎次郎員秀」の名が登場する。
⑮戦国時代に朝倉氏の門番に九里十左衛門がおり、土岐氏も朝倉氏とつながりがある。
⑯隠岐氏は、興氏として「源行真申詞記」にいる。さらに、新六郎とは?乾氏・九里氏に近い人物ではなかったか?
⑰中原氏一族の「原氏」(江戸時代の岡田元繁の母)は土岐原氏か?それとも千葉系の原氏か?
他にも出てくるかもしれないが、だいたいこんな感じである。

鎌倉時代の初期に、土岐氏と本佐々木氏とは混じっていたのではないでしょうか?(同族)
何方かご存知の方はいらっしゃらないでしょうか?



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