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景徐周麟 と 浄椿 (2)

2020-07-31 | 九里バラバラ情報
 
景徐周麟のweb情報を集めてみた。
私が気になった箇所は太字にした。

コトバンクの景徐周麟
室町後期の臨済宗の僧。相国寺八十二世。五山文学僧。景徐は道号、周麟は諱、号に宜竹・半隠等。用堂中材の法を嗣ぐ。相国寺、鹿苑院に歴住し、晩年は相国寺の慈照院に閑居する。永正15年(1518)寂、79才。

1440-1518 室町-戦国時代の僧。
永享12年生まれ。大館持房(おおだち-もちふさ)の子。臨済(りんざい)宗。京都相国(しょうこく)寺の用堂中材,横川景三(おうせん-けいさん)らにまなび,用堂の法をつぐ。明応4年相国寺住持となり,5年同寺鹿苑(ろくおん)院主,僧録司。永正(えいしょう)15年3月2日死去。79歳。近江(おうみ)(滋賀県)出身。別号に宜竹,半隠。著作に「翰林葫蘆(かんりんころ)集」「宜竹残稿」など。

没年:永正15.3.2(1518.4.11)
生年:永享12(1440)
室町・戦国時代の臨済宗の僧。宜竹と号する。室町幕府に仕えた大館持房の子。相国寺の用堂中材の法を嗣ぎ,詩文を瑞渓周鳳,希世霊彦,横川景三,桃源瑞仙から学び学僧として知られた応仁の乱(1467)では近江(滋賀県)永源寺に逃れる。景徳寺,等持寺の住持となり,明応4(1495)年相国寺に住する。さらに鹿苑院主となり五山官寺を司る僧録となる。相国寺慈照院に葬られ,日記として『等持寺日件』『日渉記』があり『鹿苑日録』の一部として残されている。語録詩文集『翰林葫蘆集』がある。
(原田正俊)

1440‐1518(永享12‐永正15)
室町中期の五山禅僧。字は景徐,諱は周麟。別に半隠,宜竹と号す。大館持房の子。夢窓派の用堂中材に参じ,その法を継いだ。学芸を瑞渓周鳳(ずいけいしゆうほう),横川景三(おうせんけいさん)らから受け,景徳・等持・相国・南禅の諸寺に住した。その間,1497年(明応6)2月相国寺鹿苑院に入り,1500年4月23日まで僧録の業務をつかさどった。1518年3月2日寂。79歳。詩文集《翰林葫蘆集》,日記《等持寺日件》《日渉記》などがある。

室町後期五山文学を代表する臨済宗夢窓(りんざいしゅうむそう)派の僧。半隠(はんいん)、宜竹(ぎちく)、対松(たいしょう)とも号す。5歳にして相国寺(しょうこくじ)に入り、用堂中材(ようどうちゅうざい)に参じ、のちに嗣法した。景徳寺(けいとくじ)、等持寺(とうじじ)などを経て、1495年(明応4)3月23日相国寺に入寺し、翌1496年2月相国寺鹿苑院(ろくおんいん)に移って僧録を司(つかさど)った。永正(えいしょう)15年3月2日相国寺慈照院(じしょういん)の宜竹軒にて示寂。詩文集として『翰林葫蘆集(かんりんころしゅう)』17巻、日記として『等持寺日件』『日用三昧(にちようざんまい)』『日渉記(にっしょうき)』『日件(にっけん)』(『鹿苑日録(ろくおんにちろく)』所収)など。[伊藤秀憲]

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花園大学 研究室
http://iriz.hanazono.ac.jp/k_room/k_room03f_4a.html

夢窓派。景徐周麟(1440~1518)
別に宜竹・半隱・對松(すべて軒号)・江左(地名)と号す。近江の人。大館持房の子息。永享十二(1440)生。

瑞溪周鳳・月翁周鏡・横川景三・希世靈彦に師事し、外学を習った。景徳寺・等持寺・相國寺に住す。永正十五年(1518)三月二日示寂。詩文は主として瑞溪周鳳と横川景三より習得する。その語録詩文集を『翰林葫蘆集』という。日記を『等持寺日件』『日渉記』といい、『鹿苑日録』の一部を成している。

『翰林葫蘆集』は、写本が、国立国会図書館(15冊)・内閣文庫(寛文写本13巻、13冊)(江戸初期写本6巻、6冊)・宮内庁書陵部(16巻、16冊)・京都大学図書館(17冊)(1冊)・東京大学図書館(5巻、5冊)・西尾市立図書館岩瀬文庫(天明元写1冊)・神宮文庫図書館(5冊)・無窮会神習文庫(6冊)・旧彰館(「翰林葫蘆集抄出」、3冊)(「翰林葫蘆集抜萃」、1冊)等に蔵される。

他に、東京大学史料編纂所には国立国会図書館蔵写1冊がある。なお、『宜竹殘稿』は『翰林葫蘆集』の一部で、『續群書類從』12輯上に所収。

『五山文學全集』は、上村觀光「翰林葫蘆集解題」によると、『翰林葫蘆集』十七巻本より、上堂と秉拂等の三巻を除いたものという。

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ここでは「柏木府」とあるのは「甲賀」のことだろうか?

【柏木御厨】
近江国甲賀郡にあった伊勢神宮領の御厨。現在の滋賀県甲賀市のうち旧水口(みなくち)町域。もと源義光の所領で,園城(おんじょう)寺金光(こんこう)院を建立してその住持に子の覚義をあて,柏木郷・山村郷を仏聖灯油料などとして寄進した。さらに1113年に両郷の本家職を関白藤原忠実に寄進して摂関家の牧とした。1165年に御厨(みくりや)として設けられ,1187年に伊勢外宮(げくう)領とされた。1331年の検注では見作(げんさく)田298町余で,柏木本郷・酒人(さこうど)郷・上山村郷・中山村郷・下山村郷の5ヵ郷があった(山中文書)。また別に宇治河原保があり,柏木御厨の保田と合わせて甲賀保と称された。荘官にはこれら諸郷の下司(げし)職,惣郷の検断職,祭主保の保司(ほし)職があり,本郷の地頭職は摂津氏がもったが,検断職・保司職は山中氏が相伝し,下司職や名主(みょうしゅ)職は山中氏と伴氏が分有したらしい。山中氏は室町幕府御家人として守護の支配から独立的な勢力を保ち,細川晴元政権下では摂津国内の郡代として活躍,甲賀郡内では伴氏・美濃部氏と柏木三方中を結び,甲賀郡中惣を支えた。

中世の伊勢神宮領の御厨(荘園)。現在の滋賀県甲賀郡水口町の西北部にあった。12世紀初期に源義光が柏木・山村両郷を摂関家の牧として寄進したのに始まると伝えるが,1165年(永万1)に伊勢外宮領として立荘された。以後荘域が確定するとともに開発が進み,1331年(元弘1)の検注では,本郷・酒人郷・上山村郷・中山村郷・下山村郷の5ヵ郷で見作田299町歩余となった。その間に伊勢神宮は祭主保も設けたので,現地の荘官としては惣郷の検断職,各郷の下司職,祭主保の保司職があった。


【山中氏】より

橘諸兄(もろえ)の後裔といい,義清の代に山中氏を名のる。1216年(建保4)俊直が俊信に山中村地頭職と柏木御厨の上山村友行名を譲っているが,平安・鎌倉期の動向には不明な点が多い。ただし67年(文永4)俊信跡の大番役を有俊が務めているところからみて,御家人であったことは確かなようである。…

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橘諸兄の後裔である事・戦国時代の山中氏と九里氏の仲の良さ。
親戚だったのかもしれない。員弁とも近い場所でもある。

山中文書にも九里の名が出てくる。

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景徐周麟は能の「音阿弥」ともつながりがある。









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