九里 【九里】を探して三千里

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千葉氏の中の【原氏】(5)の訂正、そして私的信発見(6)

2020-05-30 | 永田氏

前言撤回。
どこが、かと言うと、「藤原南家等他の系の「原氏」であろうと思われる結果となった。」ここである。

結果はまだ保留!である。
自分でもこんなにあっさりといいのかね?と疑問ではあった。(スミマセン)
そして新しい私的発見があったので‥‥



この永田三郎左衛門長綱に「原殿」と註があった。
そしてその弟に注目して欲しい。「市原」とある。名前は員綱か貞綱か意見が分かれているのだが…
この市原はどこから出てきたのか…の候補が挙がってきた。

「市原庄人と見られる人々の中に粟飯原氏が存在する。」という一文を見つけ、
飯給(いたぶ)と【飽】とが関係するのが「粟飯原」という名らしいのだ。

「千葉での立場は、千葉氏の祭祀を担ってきた一族の一つです。(粟飯原氏のこと)
もう一つの一族は原氏なのですが、先祖を辿っていくと粟飯原氏と同祖で、こちらも千葉一族とされています。」と下記のHPにある。素晴らしい!! その粟飯原氏は市原庄人とみることができる。

とすれば、永田長綱は千葉氏の「原氏」で、弟の永田貞綱は千葉氏の「市原の粟飯原氏」とも言えるかもしれないではないか!


http://fusanokuni.blog.fc2.com/blog-entry-22.html


様々な系図があるのだが、こちらを見ると同じ常房から一方が粟飯原氏となり、一方が原氏となっている。
http://www.hatamotokaneda.com/kazusakaneda-history/kk003/kk3b-enjoji-sadamasa.html

http://chibasi.net/aihara.htm

 良兼の子には、「粟飯原」を名乗ったとされる左衛門尉盛家や文次郎良定がいたとされ、粟飯原文次郎良定の子孫とされる粟飯原文次郎常時は大治元(1126)年9月、千葉介常重の命で北斗山金剛授寺(現在の千葉神社)の神主となり、代々神官の家柄として続いたとされる。鎌倉時代、千葉介常胤の六男・東六郎胤頼の子孫である東氏が美濃国へ移った際に、子孫の粟飯原文次郎常定が一行に従って妙見神を美濃郡上に勧進し、妙見社(明建社)を建立したという。

 郡上の明建神社の神主家は代々粟飯原氏が継いでおり、東氏の美濃西遷に粟飯原氏が随従していた可能性は大きいと思われるが、この粟飯原氏はあくまで千葉氏の同族である下総平氏の子孫であろう。『尊卑分脈』ほか平氏の系譜には良兼の子に盛家や良定といった人物は見られず、実在の人物とは思われない。

 一方、実在した良兼の長男・平公雅は、天慶3(940)年正月14日、坂東八か国に置かれた押領使の一人となり、東国のいずれかの国の「掾(上総掾?)」に任官。次男・平公連も同じく押領使・下総権少掾となり、将門戦死後の残党追討軍に加わっている。公雅の子孫の一流は尾張国長田郷の土豪となって「長田」を称し、長田忠致は源義朝の郎従だったが、平治の乱で敗れた義朝を殺害した人物として有名。

この長田氏と近江国の永田氏、さらに因幡国の長田氏、ひょっとすると皆つながっていそうなのである。

以下の因幡国の長田氏は、富木氏とも関係がありそうである。



以下のPDFにも長田忠致が書かれていた。
https://www.city.chiba.jp/sogoseisaku/sogoseisaku/chosei/documents/h29honbun-chibauji.pdf

『良兼は初め栗飯原文治郎と号し、下総介に任じて上総武射郡屋形村におる。良正の請に応じて栗山川を遡り香取郡神崎より常陸の水守の営に至り、貞盛、良正と会し相共に兵を引いて将門を攻む。密かに将門の石井営に入り、その不意を討じ勝利を得、勇名を揚ぐ。天慶二(939)年六月病死す。子・公雅は武蔵守となりしが、父の領地は良文これを領ずるを以て別に伊勢国郡郷を賜わり、長田忠致の祖となる。二子・盛家は栗飯原左衛門尉と称し、栗飯原家の祖となり。三子・良定は海上郡におり、裔孫・常時に至りて妙見社の神主と為る。』



===*===

…という事で、急につながり始めている。

また、先日書いた出羽守師清(藤原南家)は【伝説の将 軍藤原秀郷】 に 奥州佐藤氏の祖、と書かれていた。また、頭がこんがらがってきた。。。。

===*===

今、野口実氏の本を二冊読んでいます。
【吾妻鑑必携】と上記の本で、ヒントが詰まっています。

今まで判然としていなかった行尊周辺
系図ですっきりです。

吾妻鑑の方は、丸ごと役に立つ!と言う感じです。
片岡常春は一か所で残念でしたが、
各国の地図と武士の一覧があり、名字・出自・名字地・根拠地・現在地と表になっていて、すこぶる便利です。
これをじっくりと読んでから鎌倉時代の勉強を始めればよかった=と後悔するほど、為になる本です。
合戦一覧には今まで知らなかった小競り合い的なものも含まれていて、承久の乱以前の細かな争いがだんだんと増えていき、大きな合戦へと導いていったか…などと感じることができる点も良かったと思います。
好き!な本になりそうです。


memo
寿永2年(1183)・建久7年(1196)・建久8年(1197)・建久9年(1198)・仁治3年(1242)建長元年(1249)・建長7年(1255)・正元元年(1259)・弘長2年(1262)・文永元年(1264)が出てきていない

memo
小山氏の一族の系図に兼光の息に頼行と行則(行範・武行)がいて、また、その息が大田氏となっている「行高」(行尊・行隆)という。
この行高が頼行の養子として入っている。









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