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太田氏を考える(3)富山「太田荘」~赤丸米のふるさとから 越中のささやき…~さんのHPより

2018-06-02 | 太田・大田氏
赤丸米のふるさとから 越中のささやき さんのHPに重要な記事が!
https://blog.goo.ne.jp/magohati35/s/%E5%AE%AE%E9%81%93

■京都の「祇園社」(※明治から八坂神社)に魚津から立山、富山市に至る広大な「太田庄」を寄進した古代豪族「宮道氏」⇒室町時代には幕府政所代として越中の統治に関わっている。(※「蜷川氏」から「太田氏」や「吉岡氏」が出ていると云う。射水郡太田庄にも「吉岡村」が在った。)

「越中蜷川氏」は源頼朝に従って戦功在り、この時期には「太田」と名乗っていたが、越中新川郡、砺波郡に領地を賜ったとされ、その地は「太田保」(※ほぼ旧富山市地域)と呼ばれ、「太田保蜷川郷」に蜷川城を築いて勢力を持ち、足利尊氏に付いても戦功が在り、室町幕府では政所伊勢氏や足利家とも縁組して、累代、「政所代」を勤めた。「越中蜷川氏」は「物部氏」の末裔で「宮道氏」の子孫であり、初期には「太田」と名乗り、後には一部が「吉岡」と名乗った様だ。「太田保」には「吉岡村」が在り、「越中吉岡庄」(※後の五位庄)には地頭として源頼朝の家臣の吉岡庄地頭「成佐」が配置(※「吾妻鏡」)されていた事から、当初、吉岡庄に配置されていた「成佐」はこの頼朝配下の「蜷川氏」で在り、「吉岡庄」を治めて「吉岡成佐」と名乗っていた可能性が高い。

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【初代問注所執事 三善康信】 三島義教 著作 を読んで、勧修寺流と関係があると思っていただけに、上記は嬉しい情報であった。

Magohachi様ありがとうございました。

この周辺、後でじっくりと調べてみたいです。

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