九里 【九里】を探して三千里

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太田乗明 と 康連の三人の息

2020-02-07 | 太田・大田氏




康連の息:太田康宗(康政)康有 康経  これで合っていたようだ。

太田を名乗っていること、また年代を見て、行倫の息である康常ではないと判断した。




これを読むと承久三年に活躍している康常。(1221年)

乗明と思われる「康経」は1222年に生まれたと考えられている。

1243年 若干21歳で世羅郡の太田荘地頭代となって派遣され、康経が非法行為(違乱)を行っていたようで、停止し謝るようにとお達しがあったようである。
父である康連にも申し云われる大事になっていたようである。

この後には「康経」、出てこないのである。
次に出てくる時には乗明になっていたのであろうか?

越中国太田保の記述   http://jlogos.com/ausp/word.html?id=7317741(JLogos)

長いので関係のある部分のみコピーする。

「太田保に属していたと思われる応永5年12月17日の越中守護畠山基国遵行状によれば,「東岩蔵寺領越中国□□(太田カ)保内富山郷 太田小次□入道跡事」とあり,富山郷が太田小次郎入道の旧領であったことがわかる(相州文書/県史中)この太田小次郎は文永から建治年間越中に所領や寺院を経営していた下総国(千葉県)住人太田乗明の子孫であろう(太田禅門許御書/県史中)「吾妻鏡」建長2年3月1日条に見える「越中大田次郎左衛門尉」もこの太田氏に関連する者であろうこのように,太田保には鎌倉御家人らの所領が形成されており,金沢文庫所蔵「御影供導師次第」紙背の某書状に「大田ノ保」とある(県史中)また,正中2年11月日の大江顕元安堵申状案によれば,「亡父覚一拝領之地越中国太田保内赤田村者,申付中務丞元長,布瀬村者,譲給四郎元忠」とあり,太田保内の赤田・布瀬両村が大江支族に相伝されていたことがわかる(金沢文庫古文書/県史中)」

この記述から、私の中でも「太田保」は乗明とその子孫が関係していること、とした。
つまり、乗明が亡くなるまで、更にその先も1408年までは確かに子孫にも相伝されていたことがわかる。

そういう目で見ると、本の中にも「太田保に地頭職を持つ太田一族」などの文も見えてくる。
「大田」なのか「太田」なのか、いまいちわからず、気分次第で書いているが、これってよくない事だろうと思う。

どうしたらよいのだろう。
越中国の太田保は? ・・・荘園名は「太田」だが、中の土地名には「大田」と点のないものも見える。
全く統一されていないようである。

備考も以下のようである。(越中国の太田保の備考)
『地名辞典』追加:正中2大江顕元安堵申状、庄内赤田村、布瀬村=永和3後愚昧記に太田庄・「白山宮荘厳講中記録」に「大田」がみえる・角川地名=金沢文庫所蔵「御影供導師次第」に「大田ノ保」=正中2大江顕元安堵申状に太田保内赤田村布瀬村あり・相州文書=富山郷は大田保とみられる・永正5,9,15幕府が大田保内徳政を許可

ああ、どうしよう…と悩む。

備後国 世羅郡の方…荘園名「太田庄」
【地名辞典】「荘園志料=和名抄大田郷を基本とし、桑原郷、鞆張郷を包括=永万2庄号立券・平凡地名=甲山町、世羅町、同西町=東条内大田、桑原両郷を開発、平重衡が院に
【備考】 ヘホ106=永万2立券文=東限矢田堺、南限篠堺、西限羽賀山、北限三谷西条堺=見作30.8丁、在家26宇=大田、中江良条、大江良条、他条、忠江良条、上原村、赤屋村、伊尾村、宇賀村、上原村、赤屋条、伊尾条、宇賀条」

さらに悩む。

乗明の名で「東京大学DB」で調べると「太田乗明」であった。
コトバンク・wikipediaには「大田乗明」とあった。

点のある、なし、は、このブログにおいては気にしないでいただきたい! という結論に達しました。

ともかく乗明、越中国太田保とかかわりのある人物であったことが重要と思われる。







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2 コメント

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Unknown (りひと)
2020-02-11 18:41:42
その結論大好きです。
きちんとした情報をきちんと伝えたいと心がけている方にはとても大事な問題だと思いますよ、尊敬です。

で私も東京の大田区という区名やら道灌やらで大と太をどう考えるか?ずっと前から気になってます。だだ情報は多い方が良いのと制限すると境界にどちらかが取りこぼされると思うと確実にゴールに近づいてから厳密性を考える手法でも良いかと思ってますよ。多分この手法は嫌いな方は嫌いでしょうしね。ただ今流行りの言葉で言うと、アレ?言葉が出てこないんですけど知識ではなく逆境を覆せるかどうかの能力って最初の段階から既成概念や一般的な定説をはみ出した情報も汲み取れるか?にかかってくると思うんですよね。
今子供達の受験でも思うんですけど、知識をいっぱい知っているのは必要だけどそれはその知識を活かせる術を知らないって事はちょっと今後大変な時代になりそうですよね。

そんなことは置いておいて、
少し私が考えた例としてお伝えしておきますね。
大田区と島根県大田は大なんですよね。氏族で有名な太田氏とか個人的に出会う人や魅力を感じる人は太田さんが多いです、太の方ですね。
で文字に騙されないようにと思うタイプなので音で考えるとオオかオウかヲウやヲオか?少なくても昔は二文字妥当な文字があったはずです。出雲の風土記にも面白い字出てきますよね、神話の世界からの地名だったかな?そう思うと大も点付きの太もゴール手前だと思うんですよね。なので私はオトの数分の文字探しますね。出来たら今の現代には読めないパターンのオオが見つかるといいなあと思ってます。因みに犬も大の点付きですよね〜?そこもちょい怪しいし、岐阜絡みだと絡んできそうに思いますよ。

あと星で言うと北極星が特に気になるんですよね〜、太陽よりも。私も旅行でも夜って結構無駄な時間に思う事が多いので夜動いておいて昼間はその地を味わいたいんですよね。そう思うと太陽よりも北極星を利用したいのかな?なんて。

太陽も夕日と朝日特別もしたくないんで、太陽って纏めてそして夜なら北極星って流れにしたいなあと。

太田さんが大日如来とかに関わっているのか?太陽の関係の信仰もありそうならその先に星の信仰があるんではないかな?と。でそれを太陽にしたい方々もいるんではないかな?とも。

時期や背景にもより点も色々と変遷の中に意味合いもありそうに思いますね。

これは私の一般素人でこれまで考えてきた報告です。使えそうな所ないかもしれませんけど入れておきますね。古墳の絵のモチーフって太陽ってあるのかなぁ?その時代からの何か関係を勝手に深読みしてます。一番気になるのは太田さんは風の要素が気になるので絵にもならないからこそ難しいようにも思いますが、多分日本で古代からの関係者のようにも感じますね。
島根県大田を少し掘っておきますね。
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Unknown (りひと)
2020-02-13 13:36:54
久々に出雲風土記あたり調べてみましたよ。

太田か太田ってこの辺りとくっ付くと人間ウォッチからは納得できそうに思うんですよね。

意宇・意恵・意冨
天津彦根命・八束水臣津野・
凡河内一族 忌寸(いみき)って私の好きな7世紀渡来じゃないと思うんですよね?隠岐の島新潟方面にいなかったのかなぁ?と。
御上神社 藤太がムカデ退治した辺りです。
鏡の里もあったんですよ、そこでお米買ったんです。
意宇六社

出雲の熊野大社だけは行けてます、神魂神社が直後行きたかった場所です。出雲にはノギの大神って神さんもいるので野の神も追ってます。

調べている途中で覚+ (ミ)でかがみって読むのがあったんで鏡もそもそも一文字じゃなかったとも思います。
広峰あたりも絡んできたんですよね、富関係っぽく思っている場所。広も旧字体の方だと黄色っぽくんsりますし、黄色だと牛にもなりそうだし。

お水関係なので竜でもいいし、蛇でもいいし、牛でも犬でも猪でもいいような?もちろん鳥でもいい。獅子あたりでもいいかも。
九里さんこの辺りに絡んでくるように今は思ってます。

伊勢の猿田彦神社にも太田命はいたように思います。
猿田彦と似ているんですよね。追っている双子にしちゃいたいですよ。爆笑問題大昔の幼稚園ネタから好きなのも納得しちゃうんですよね。個性の違いなんですかね?太田のが職人さんかな?ひっくり返ってもお互いの護りにはなりそうな関係みたいに思いますよ。
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