九里 【九里】を探して三千里

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私の系の九里(大和宇陀松山藩・丹波柏原藩)(2) 織田信雄の娘 と 佐々(津川・武田)加賀守一義 のこと

2021-02-22 | 九里【まとめ】

京極高次の家臣で、陰謀に陥れられ?津軽に配流となった「佐々氏」が誰だったのか。
佐々九郎兵衛…と思っていたのだが??

2016年の佐々木哲氏のメルマガでは『丸亀藩家老に佐々氏がいる。この佐々氏は織田信雄(信長次男)の女婿佐々義勝(九郎兵衛・加賀守)の子孫である。織田系図などでは実名を「一義」とするが、資料では「義勝」である。』

とある。其の後裔は、丸亀藩に行った佐々氏となる。

佐々加賀守一義  佐々加賀守義勝

其の【佐々一義】は、いくつかの記事を見ると【津川内記一義】とある。その名が大飯郡史にも記載がある。(慶長)
更に佐々加賀守義勝の名も同著にもある。(慶長)

こちらも同一人物ではなかろうか?
そう思って探すと、改姓し…とみられる記述もあった。
確かにwikipediaには津川義勝として、記事がある。


【津軽に流されたのは、佐々一義なのではないか?】

佐々流長(1600年生まれ)
父は佐々一義である。加賀守一義は織田信雄の娘を妻とし、嫡男が伊左衛門流長で、元和元年十五歳で利常に五百石で仕える。
大坂の陣で活躍し金子二枚を拝領した。利次に付いて富山に移り、万治二年三月に卒。 




https://tangonotimei.com/wakasa/takahama/miyazaki.html


佐々加賀守義勝=一義の父は武田元明で、母は京極龍子であり、
祖父は武田義統 祖母は足利義晴娘 である。
曽祖父には六角氏が登場する。




妻は織田信雄の娘である。


この佐々氏は若狭の武田氏であり、良峯姓の佐々氏ではない。
しかし、そこにも京極氏との関係・足利義晴との関係から九里が家臣の中にいたようである。

佐々義勝の津軽への配流の際、九里も共に津軽へ行っていると思う。(九里武兵衛、事件に巻き込まれ自害している。1612年)
以前は配流されたのは、松江藩の佐々九兵衛と九里次郎兵衛のことと思っていたが、松江藩に行く前の小浜藩でのことであったようだ。

京極高次の分限帳には岡田清左衛門・九里次郎兵衛の記載がある。これが寛永十四年であることがわかった。(1637年)
京極高次が歿し、1609年に家督を継いだ忠高が、小浜藩から松江藩に移ったのが1634年である。

1615年に信雄が大和宇陀松山藩に来た際に、岡田政直(九里政直)が藩内を案内しているからには、もうすでにその土地を知っていたことになる。
小浜藩や松江藩の九里武兵衛・九里次郎兵衛とは関係がないのだろうか?

岡田から九里政直となった人物は、松江から来た人物ではない!という事になる。

複雑なのは、同じようなパターンがある事である。
○○清左衛門と成るのは、家督を譲った後、隠居した際という事、という同じパターンが松江藩の岡田氏にも大和宇陀松山藩の岡田氏にも九里氏にもある。

さらに、上記の自害した武兵衛という名前、前野武兵衛‥‥と前野氏にも見える名である。

一体どのようにつながっているのか、疑問の上にまた疑問が重なってくる。難しい…

九里次郎兵衛と岡田清左衛門が京極高次の分限帳に共に出てくるので、ココは動かしがたい事実である。

京極高次が歿した辺りで岡田から九里になる八郎右衛門の系は、織田信雄に就いたのだろうか。
福島高晴がそこに何故絡んでくるのかが、見えてこない。

一つ、ヒントとなりそうなのが【村井貞勝の娘たち】である。
慈光院=佐々成政室
前田玄以室、
福島高晴室

この村井氏は近江国出身である。
信長が足利義昭と共に上洛した際も同行し、明院良政・佐久間信盛・木下秀吉・丹羽長秀らの諸将と共に京に残留し、諸政務に当たっている。
明院良政は、信長の右筆として、また奉行人として連署奉書を発給しているような人物。

佐久間信盛も、また前田種利の娘を妻とし、娘たちは 福島正頼室、佐々氏妻 となっている。

岡田善同の息善政の正室は佐久間勝之の娘であり、勝之の父が信盛である。


もともと佐久間氏は安房(あわ)佐久間(千葉県安房郡鋸南(きょなん)町上・中・下の佐久間)の出身であり、その後、尾張(おわり)(愛知県)に移る。
のちその家は山崎城(名古屋市南区)と五器所(ごきそ)城(同昭和区)との2家に分かれた。信盛は山崎城主。

http://chibasi.net/hara1.htm#tanetika1

上記のアドレスに「佐久間九郎左衛門は原越前入道の代官としてこの地にあったと推測される。」とある様に、何等かつながりがあったのだと思う。
もともとは安房(あわ)佐久間(千葉県安房郡鋸南(きょなん)町上・中・下の佐久間)の出身であった佐久間氏なのである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%BA%95%E8%B2%9E%E5%8B%9D

===*===

大和宇陀松山藩の岡田=九里政直 八郎右衛門は元は又八と呼ばれ、又九という弟もいたはずである。
弟は、大和郡山藩である。

ご先祖様に、もっとヒントを!!と願うこの頃である。
夢にヒント、出てきて欲しい~!

若桜神社がヒントかな??


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