引き続き「平安時代の国司の赴任」森 公章著を読みつつ、memoしていこうと思う。
受領国司と国衙のあり方
8世紀の国司は守・介・掾・目(さかん)の四等官による連帯責任を基本
因幡国は山陰道所属
諸国の格付け(試)
甲 近江・播磨・美作・備前・備中・伊予
乙 美濃・越前・丹波・備後・周防
丙 大和・伊勢・尾張・但馬・紀伊・阿波
丁 山城・摂津・参河・遠江・相模・信濃・若狭・加賀・能登・越後・丹後・因幡
伊福部にも「久経」なる人物がいて、介として国衙で働いていたとともに、(宇倍神社の?)神主兼惣官として系図に載っている。
http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-ihokibe02.html
「この久経は、宇倍神社の社司であったことが知られ、在庁官人の上首社であり、かつ宗教的な権威を有する存在であった。」と本にあった。
宇倍神社は一宮であったようである。
其の宇倍神社の近くに坂本社があったようで、宇倍宮から徒歩で参詣している。
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この「久経」の周辺を見ていこう。
「号中安田大夫」とある。
中安田・・・地名だろうか?
次の「久俊」は「安田大夫」
「安田」と「中」は関係があるのか、または那珂氏(中原氏?)の安田大夫なのか。。。
久俊の弟「高庭介 経俊」とある。
「高庭介」と言えば、長田氏の話の際に出てきたではないか!!
ココとつながってくる。
つまり、長田氏も婿?か何かで伊福部氏の中に入っていた可能性があるのではないだろうか?
そこと「冨城中太蓮忍入道=九里太郎経久」が因幡国の在庁官人であったことと、つながるように思う。
この系図は、大収穫!であったと思う。
ただ、経方が「どこの経方さん」なのか、宙に浮いている状態なので、そこを知りたく思う。
memo
大江
伊福部
安田
城
板額