九里 【九里】を探して三千里

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間宮氏が生まれる前にさかのぼる。(佐々木行範=鳥居重氏として考える) 近江国(2)

2017-08-25 | 間宮氏
思いついたことを書いておこうと思う。
まず、鳥居重氏=佐々木行範=熊野別当行範と仮定をして、続けてみようと思う。

その重氏は為義の娘婿であるが、平清盛に平姓をもらっているため、平姓である。
しかし、佐々木氏の中で生きていくためには、それでは少々都合が悪かったのではないだろうか。

彼は1173年に没するので、まだ頼朝の時代がやってくることを知らないし、保元の乱・平治の乱があって、大変な40歳代であったろうと思う。
江州中原氏とのつながりや、熊野神社・修験道を広めること、為義の力により佐々木氏とのつながりもでき、ある程度落ち着いたところで、其々を真野氏・船木氏・間宮氏・等を自分の息に任せて、自らは熊野へ帰り、最後は法眼となり、没するということになったのかもしれない。

姓氏家系大辞典の熊野氏の項でも名前が挙がっていた「永田氏」
永田氏が近江でも「水軍」のような働きをしていたのも、もとは熊野からやって来た者たちだったからではないだろうか?

真野氏は、クマノから派生し、「マノ」になったのかもしれない。
鳥居氏の後の本拠地?矢作庄にほど近いところに【白鳥神社熊野森】があり、そこは「クマノモリ」とも「マノバヤシ」(真野林)とも言われていたそうで、「クマノ」と「マノ」、漢字だと離れているが、発音は近いものがある!
参考にしたのが、こちらのブログ! とても詳しく載っております!
http://hattoris2.sakura.ne.jp/kawatarijou.htm#鎌倉古道 真

近江国船木は、鳥居氏からけんかをして別れた「渡里」(渡)氏が、後々、幕末に住んでいたこともあり、ひょっとすると一族だから?かな?という気がしないでもない。
九里は、舩木庄とかかわりがあるので、一番近い関係が舩木氏だろうか?

間宮氏は、「真宮」とも考えられ、真宮は「シングウ」とも読めるため、やはり熊野新宮という意味を隠し持っているのかもしれない。

岡崎市にある真宮神社(創建131年)は、「熊野神社は、真宮神社、市杵島社の三社と合祀されています。」とあり、関係は深そうである。

この「真宮神社」は
第28代天皇宣化天皇(西暦535年~539年)の皇女小石姫命が紀州から移られ、6人のご兄弟の産石を真宮の神としたことから、「六石」そして現在の「六名」という地名の始まりという。
当時は、熊野信仰が盛んで、この郷の一部が熊野神領となり、その縁故から伊弉那美命を勧請し、 熊野神社を祀ったという。

その皇女小石姫命を調べてみると、「6世紀,欽明(きんめい)天皇の妃。宣化天皇と橘(たちばなの)皇女の娘。欽明天皇の皇后石姫皇女の同母妹。石上(いそのかみの)皇子を生んだという伝承がある。「古事記」では小石比売命。」 そうで、

「石上」と聞けば「石上神宮」物部氏との関係が濃厚である。http://www.isonokami.jp/about/index.html
石上神宮・石上坐布都御魂神社 奈良県天理市布留町布留山
祭神 布都御魂神(経津主命)、布留御魂神(十種神宝)、布都斯御魂神(天羽斬剣)
社家 春日(布留・物部・三島・市川)氏、物部(石上・堤・中山・豊井)氏

藤原不比等は、この物部氏の力を恐れており、そのために潰しにかかったようである。【布留の力】を恐れたのである。

この矢作川の真宮辺りは「鎌倉街道」であり、渡氏(鳥居氏)たちも、頼朝時代を見据えて、(親子喧嘩して近江から出たらしいが)ここに移って来たのかもしれない。

熊野新宮の【熊野速玉大社】は、創建景行天皇五十八年(西暦128年)であり、ちょうどそのころ景行天皇は、近江の志賀(しが)という地に高穴穂宮(たかあなほ・のみや:今の滋賀県大津市穴太)と呼ばれた宮を築き、久しく留まる事にした。とある。それは、大津の唐崎のあたり、比叡山麓あたりである。「穴太」付近にあったらしい。















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