九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

土岐氏 = 隠岐氏 = 舟木氏

2020-03-19 | 隠岐氏

土岐氏 = 隠岐氏 = 舟木氏

婚姻関係があると思っている「乾氏」
佐目という場所で、顔見知りであった可能性もある「多賀氏」「久徳氏」
「昔ノ舊(旧・ふる)キ好身(よしみ)ヲ尋…」とweb情報にあった。
淡海温故録
http://3-gin.net/d-mituhide-kouza1.html


近江八幡にいた九里員秀が「舟木庄代官」であったこと。
九里種信の土地の売渡状に元者は…と書かれているのが「起」かも知れない事。

土岐氏と同じく「夢窓疎石」と関りがある事。
明智光秀は加藤清正とも近い関係という。



===*===

忘れそうなのでmemo
進士氏の血が入っていたので、明智光秀は食膳の用意をさせられていたのでは…?
進士流
https://bimikyushin.com/chapter_3/03_ref/shinji.html

===*===
三銀蔵さんのページは、とても面白い!
三銀蔵さんのページに「久徳氏」がやはり九里六左衛門のことでは…
私の知っている九里六左衛門も、有馬氏のもとで天草の戦いに出ている

https://note.com/3_gin/m/md067be1f4215/hashtag/813836

『淡海温故録』に
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昔ノ旧キ好身ヲ尋当国ノ先/方共ヲ頼ミケレトモ外ハ一人モ同心セス、多賀新左衛門、久徳六左衛門、阿閉淡路/守、小川土佐守、後藤喜三郎、池田伊予守六人ハ運尽テ同心シ、山崎ノ/一戦ニ没落シ皆零落ニ及ケル
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この中の「久徳六左衛門」、全国の久徳さんのルーツの村の歴史が書いてある本です。

『久徳史・久徳こぼればなし』抜粋
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胡官神社の社家には久徳左京があり、後に明智光秀の仮に加わった郷士の中には多賀新左衛門と共に久徳六郎左衛門尉という人が居る。六郎左衛門尉については、落城の時、「息一人あり、観音寺の証人あり故ありて助かり、尾形(佐々木家)より憐愍ありて(れんびん・なさけをかけられ)養育され成人す。久徳六郎左衛門是也。信長公に仕へて立身す。然るところ明智光秀に犬上衆旧き好しみある故、頼まれて山崎一戦に加はり、没落して日影浪人となり西国にゆく。有馬家中に属す。」と書にある。後に正保年中(1644~1647年)有馬玄蕃頭内、久徳井兵衛よりの書状が霊仙寺にあったらしい。この久徳井兵衛こそ六郎左衛門尉の子孫になるのではなかろうか。


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土岐太郎三郎光賢 = 隠岐太郎三郎国方 『渋川系図』伝本補遺、附土岐頼貞一族考証 (上) 佐々木紀一著

2020-03-19 | 隠岐氏

『渋川系図』伝本補遺、附土岐頼貞一族考証 (上) 佐々木紀一 著

この論文の中にはっきりと「隠岐太郎国時」の息に「隠岐太郎三郎国方」がいることが書かれていた。



国方=光賢=光包 

「足利尊氏・直義下」に 光賢




下をクリックすると以下のような部分の系図が出てくる。

船木 (土岐、隠岐)
頼重 (孫三郎、右近將監)
出典:寛政重脩諸家譜・文化9年

船木
頼春 (孫三郎、左近藏人、左近將監)

土岐 (船木)
光賢 (太郎三郎、元快)

https://abrj.web.fc2.com/0006/funakiyorishige-yoriharu-tokimitsuken.html

土岐氏であり、隠岐氏であり、船木氏である。

===*===





舟木頼尚 : 舟木頼重(頼直/頼真)の曾孫、頼春(頼玄/頼員)の孫、頼夏の子、政尚の父、政頼の祖父、光俊の曾祖父。戦国時代の南光坊天海(秀光/随風)は、その後裔である。(日本通信百科事典)


近江国で九里が関わっていた「舟木庄」は1352年(文和元年)までは土岐(舟木)頼夏が引き籠っていた場所であった!

その翌年に頼夏と頼尚はともに美濃国の土岐庄に移り住んだ。
頼尚は清原の養子婿であった。が、解官し、本姓に戻した。舟木と称した。
母は高階氏。(高階は「たかがい」とも読めるそうで「鷹飼」に関係があると思う!)
頼尚の嫡男は正尚。
1363年(貞治二年)勢州一志郡堀内、属多芸御所幕下

多芸御所 ↓
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%9A%E8%8A%B8%E5%BE%A1%E6%89%80-180096

近江国に土岐氏も住んでいたことの証!
源行真申詞記で書いていたことが、だんだんと解明されてくるかもしれない。

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E6%BA%90%E8%A1%8C%E7%9C%9F%E7%94%B3%E8%A9%9E









すぐ上の文書の後ろから6行目に「興定三郎」とある。
論文・著書などでは「興定氏」となっていたのだが「隠岐 定三郎」という可能性もあるのではないだろうか?
で、友員の郎党として活躍している人物であったようである。

友員のことは、藤原頼長までも震え上がらせているという事は、頼長の知人であった可能性もあるのだ。(友員は崇徳院に仕え、成勝寺領伊庭庄の下司を勤めていた人物なのである。)

土岐氏や(…興氏が隠岐氏ならば)清原氏が郎党として配下にいるという「友員」。
京の源頼政の家近くで殺されていることからも、土岐氏にちかい人物であったと思われるのだ。

以上は、伊庭庄であった1142年(康治元年二月二十二日)の事件である。

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/6c4c1ad1e14d91c109ce10e68b7bcb07




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