九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

乾太郎兵衛 と その先祖

2020-03-29 | 乾氏

wikipediaより
乾 長次(いぬい ながつぐ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。岡山藩家老。
鳥取乾氏は宇多源氏の佐々木経方の六男・行範の支流とされる。長次は鳥取乾氏の祖・乾太郎兵衛の孫に当たる。

天文14年(1545年)、摂津国島下郡に生まれる。初め足利義輝に仕えていたが、早い頃に池田恒興に仕え、兵部大輔を名乗った。元亀元年(1570年)の姉川の戦い、天正8年(1580年)の花熊城の戦いなどで戦功を為し、100石が与えられた。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いにおいて敵陣へ突入しようとした池田輝政を諫め、結果として命を救ったことがきっかけとなり、以後、重用されるようになった。その後も天正18年(1590年)の小田原征伐などで戦功を為し、慶長5年(1600年)、池田輝政が姫路に移ると600石に加増された(後に900石)。

慶長15年(1610年)、幼い池田忠雄の後見人となり、1400石に加増、元和元年(1615年)に忠雄に従って岡山藩に移り家老職に補せられた。元和2年(1616年)5月9日没。

長次没後、子・直幾は鳥取藩転封により、家禄を加増され3500石を与えられた。子孫は代々鳥取藩の家老を勤めた。

===*===

九里采女正の系は京極丹後守の配下に入り、その後牢人となり、備前国で「岡山左衛門」となったと『淡海温故録』に記載があったが、この岡山藩の乾氏を頼って行った可能性もあるかもしれない。

鳥取藩史第一巻に乾氏の記載がある。


===*===

乾氏の祖と言われている「行範」から、どのような代を経て「乾氏」になっていったのだろうか。
佐々木行範の息に定平という人物がいて、その人が「深尾・西尾氏」の祖となっている。
また時信という息もいて「舟木氏」の祖となっている。

乾氏の祖と言われている行範なのに、息たちの註には「乾」の文字が見えてこない。
なぜ?? 私が見つられていないだけなのか??


全くの仮想だが、
もしも行範が本当に熊野別当であったならば、源義経の息の「乾氏」も関係してくるのではないだろうか?

勧修坊の娘       乾氏 『系図纂要』記載 …源義経の息…
『本朝武家評林大系図』にも義経の息の記載がある。(右ページ下)



源義経の父は源義朝・母は常盤御前であるのだが、(養父となったのは一条長成)
祖父の源為義は熊野と縁があり、鳥居禅尼は為義の娘で熊野に居り行範の妻となっている。つまり義朝の姉か妹である。

鳥居禅尼が義経の叔母ということになる。
幼き頃「熊野」を訪れたこともあるといわれている義経。
青年になって鳥居禅尼を訪れた際にも歓迎され、大切な為義の刀を義経に渡されている。

「平家物語」のこのようにあるそうである。↓
「源氏重代の剣、本は膝丸、蛛切、今は吼丸とて、為義の手より教真得て権現に進らせたりしを、申し請けて源氏に与へ、平家を討たせん」とて、権現に申し賜ひて都に上り、九郎義経に渡してけり。義経特に悦びて「薄緑」と改名す。その故は、熊野より春の山を分けて出でたり。夏山は緑も深く、春は薄かるらん。されば春の山を分け出でたれば、薄緑と名付けたり。」
https://meitou.info/index.php/%E8%96%84%E7%B7%91 名刀幻想辞典 さん より

===*===

(義経の息の)乾氏の母の父が居たと思われる「観修寺」は近江とも深く関係がある。

wikipediaより
『勧修寺縁起』等によれば、当寺は昌泰3年(900年)、醍醐天皇が、若くして死去した生母藤原胤子の追善のため、胤子の祖父にあたる宮道弥益(みやじいやます)の邸宅跡を寺に改め、氷室池も取り込んだもので、胤子の同母兄弟である右大臣藤原定方に命じて造立させたという。

胤子の父(醍醐の外祖父)藤原高藤の諡号(しごう)をとって勧修寺と号した。開山は東大寺出身の法相宗の僧である承俊律師。代々法親王が入寺する宮門跡寺院として栄えたが、文明2年(1470年)に応仁の乱の兵火で焼失して衰退し、江戸時代に入って徳川氏と皇室の援助により復興された。


京都市山科区にある門跡寺院。真言宗山階派大本山。山号を亀甲山と称する。開基(創立者)は醍醐天皇、開山(初代住職)は承俊、本尊は千手観音である。寺紋(宗紋)は裏八重菊。皇室と藤原氏にゆかりの深い寺院である。「山階門跡」とも称する。


山階・山科・・・長浜近くの「山科荘」とも関係があるかもしれない。

この藤原高藤は湖北と関係があるのだ。
雨森氏のwikipediaより

「藤原高藤の末裔、藤原高良の三男良高を祖とする。磯野氏、赤尾氏、井口氏とあわせて湖北の四家として知られ、室町時代初頭には足利義満の命で後小松天皇の武者所となる。京極氏が守護職として赴任すると、これに仕えるようになる。その後、室町時代後期から戦国時代には近江浅井氏に従う。浅井家にあって、雨森清貞は海北綱親、赤尾清綱とあわせて海赤雨の三将と呼ばれた。浅井氏滅亡後は各地に離散している。良高の末裔には、「雨森芳州家」、「出雲雨森氏」、「土佐雨森氏」、「雨森良意家」などがある。」

井口氏は江州中原氏の景経の系であり、経任の系が九里である。

中原景経は伊香郡の富永荘の召次案主をしていたのである。
景経は経任の兄にあたる人物であり、銅鐘に名前が掘られて、池に鎮められていた。
弟である経任のことはさっぱり見つからない。系図の註には「橘次」と書かれているのみである。

高藤の妻であった「胤子」は宮道氏の出で『今昔物語集』(後述)によると、鷹狩の雨宿りとして宮道弥益の屋敷を訪れた藤原高藤に嫁いだ。高藤との間に生まれた胤子が宇多天皇女御となり、その子が後に醍醐天皇になると、列子は天皇の外祖母として従三位に叙せられた。『宇治郡名勝誌』によると、907年11月30日(延喜7年10月17日)に亡くなったとされ、勧修寺栗栖野に葬られたという。同年12月9日(旧暦10月26日)に正一位が追贈された。また、のちに父の弥益や夫の高藤らとともに宮道神社に祀られるようになった。 (wikipedia)

…という、これまた近江国と縁の深い「宇多天皇」が関係しているのである。

同じ宮道氏に蜷川氏がいる。「赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ‼!」さんより
https://blog.goo.ne.jp/magohati35/s/%E5%AE%AE%E9%81%93%E6%B0%8F

===*===

義経がこのお寺になにか縁があったのか? ふと訪れたのか?
もう歿する前年のことのようなのだ。

聖弘という僧が関係しているようである。勧修坊とはこの人物のことか?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BC%98

聖弘(しょうこう、生没年未詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の興福寺の僧。塔頭の勧修坊を住坊とした。 聖弘得業、周防得業(すおうのとくごう)聖弘とも称される。

『吾妻鏡』によれば、文治2年(1186年)2月、源頼朝と対立し、都を落ちのびた源義経を匿った事により、翌文治3年(1187年)3月8日、鎌倉に召し出されて頼朝の尋問を受ける。

聖弘は義経と師檀の関係であり、平家追討の際には義経の依頼によって祈祷を行っていた。
その縁により都落ちの際に南都に逃れてきた義経を一時匿い、頼朝と和解するように諫めて下法師らを付けて伊賀国へ送り出し、その後は音信不通となったという。

謀反人の義経を匿い、祈祷を行った事を詰問する頼朝に対し、聖弘は師弟のよしみで頼ってきたので迎え入れたものであり、祈祷は義経を諫めて逆心をなだめるもので、何ら罪になるものではないと答えた。

また、そもそも今の関東の安全は義経の武功によるものであり、讒言によりその奉公を忘れ、恩賞の地を取り上げれば逆心を抱くのは当然であり、予州(義経)を召し返して兄弟で水魚の交わりをする事が国を治める方法というものである。これは義経を弁護するものではなく、天下静謐を求めてのことであると答えた。

この聖弘の態度に感心した頼朝は、勝長寿院の供僧職を与え、関東繁栄の祈祷を行うよう命じている。

『玉葉』によれば、文治5年(1189年)12月には在京している。『義経記』には勝長寿院縁起物語として「勧修坊(かんしゅうぼう)物語」が描かれ、勧修坊(聖弘)が勝長寿院の別当、あるいは開基として語られている。

===*===

義経の子孫の乾氏は南都衆徒となり、領地の管理に秀でた人が出ていた。(名前失念。。。スミマセン)
「東大寺学侶の家、乾家」という記載もある。(東京大学史料編纂所)

===*===
これは、レファレンスにお願いした際の回答!

https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000261925

乾氏の痕跡のある処は、近江国で4地点あることがわかった。

①蒲生郡の乾村については、『滋賀県の地名』p.523の「庄村」の項に、「古くは佐久良川北側は別村で、稲村(乾村とも)称していた」という記述があります。これは現在の日野町杣にあたります。

②坂田郡の乾村については、『近江輿地志略 全』p.968に「六荘村大字平戌亥」とあります。この旧六荘村の乾村については、『ふるさと長浜』p.147に「大戌亥」という名称で掲載されており、「昔は、乾の字を用いていたが、井伊氏の領地となった後、同じ彦根井伊氏領の旧神照村の乾(明治七年に辰己と合併して山階となった)との混同をさけるため、大戌亥に改めたといわれている」との説明が添えられています。

③『滋賀県の地名』p.933によると、この場所は現在の長浜市大戌亥町にあたります。なお旧神照村の乾については、『ふるさと長浜』p.153に「乾は辰己の西北(乾)の方向」にあったとの説明がされています。こちらは『滋賀県の地名』p.945によると現在の長浜市山階町にあたります。

④同p.990、東浅井郡の「早崎」の項にも乾村についての記述があり、『東浅井郡志』第4巻p.4に掲載されている、享徳5年の「阿部宗長譲状」にも「早崎イヌヰ村」という記述があります。こちらは現在の長浜市早崎町にあたります。


②と③が??
六荘村の乾村→大戌亥
神照村の乾→山階町

近くに二つ、ちょっと海沿いに一つ、
蒲生郡に一つ

①は正確な位置がわからず、桜川周辺


②が赤丸 現在の市立長浜病院付近と思う。
③が青丸 現在のイオンの周辺ではないかと思う。 



④が緑の矢印周辺かと思う。



===*===

【一番大事なこと】

小堀町のすぐお隣!!

小堀氏は和歌山系図では兄の系。
九里氏は弟の系となる。
やはり九里氏は「乾氏」??

山階と乾という取り合わせも…何かしら…


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鯖街道~~~出てた~~~♪

2020-03-29 | 雑記



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AF%96%E8%A1%97%E9%81%93

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朽木五郎出羽守義綱

2020-03-29 | 朽木氏

以前書いた久多庄の歴博DBよりの部分
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/35aa34a63240a02a909fbe22260e005c

「 永仁7朽木文書=久多庄地頭代貞能と朽木庄地頭出羽義綱代祐聖が堺相論和与=正安1幕府和与裁許・文安6醍醐寺文書=三宝院領門跡領・大見庄と堺相論あり」
の出羽義綱代祐聖とは?一人の名前ではなかった。

出羽五郎義綱という人物と地頭代の祐聖 という事になる。
出羽五郎義綱?…朽木の?
朽木の祖は?…高島隠岐守高信から始まっているようである。 

高信 ー 次男出羽守頼綱 ー 出羽守義綱…経氏

佐々木哲氏のブログ「佐々木哲学校」によると

http://blog.sasakitoru.com/201011/article_1.html

「『尊卑分脈』によると、頼綱(入道道頼)には出羽三郎頼信・五郎義綱・四郎氏綱・五郎有信があった。このうち五郎義綱が勲功の所領近江国朽木庄(承久勲功、祖父近江守信綱拝領所也)と常陸真壁郡本木郷(弘安勲功、頼綱拝領所也)を譲渡されて(朽木147佐々木左衛門尉頼綱譲状案)、朽木氏を立てた。三郎頼信は横山庄、四郎氏綱が田中庄と相伝の所領を相続しており、朽木氏は佐々木出羽家の惣領ではなかったようである。朽木氏が大きく飛躍するのは、朽木庄を相続した五郎義綱が、陸奥国栗原庄一迫板崎郷を母覚意から譲与され、嘉元の乱で活躍して出羽守に補任されるとともに越中国岡成名を得たことによるだろう。」

「元享二年(1322)十一月二十八日付平宗度置文によれば、池宗度は嫡子増一丸(顕盛)に所領を譲る旨を記している(朽木123)。池家は池大納言頼盛の子孫で、頼盛実母で平清盛継母であった池禅尼が、平治の乱で源頼朝の命を救ったことから、頼盛は平氏の都落ちに同行せず、鎌倉殿伺候の公卿となっていた。この置文が朽木家に伝わるのは、頼盛の子池河内守保業の子孫である池河内家の所領が、朽木氏に譲渡されたからである。」


中世久我家と久我家領荘園より
「吾妻鏡』元暦元年二一八四)六月二十日条にも「権大納言平頼盛、侍従同光盛、一三五号)にも、頼盛から保業.光度.為度.維度.宗度.顕盛,そして経氏へという流れが記され、・・・」

「義綱の子孫【朽木経氏】は、桓武平氏の嫡流池氏の池顕盛の猶子となり池氏の所領も相続した。」
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/7ca2760aca88c99ca727642bd674523b

2017年の記事なので、間違いも多々あると思うが、その時に調べた結果である。
つまり、朽木氏は池氏の所領も一部付加されて、より大きくなったという事になる。

===*===

今日の「麒麟が来る」にも朽木荘がでていた!!
しかも足利義輝!!!
九里が匿った「足利義澄」の孫に当たります~~♪



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