九里 【九里】を探して三千里

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原氏から岡田氏となった「原胤栄」の系 原胤栄ー長男 原胤信・二男 原隠岐守勝胤ー二男 原浄可種信

2020-03-06 | 雑記

原氏から岡田氏となった「原胤栄」の裔を見ていこう。


上の資料は「岡田元繁」が見た系図から書き起こされたものである。

これによると、原胤栄 ー 二男 原隠岐守勝胤 ー 二男 原浄可種信 ー 男 長崎(岡崎?)義左衛門尉正種ー男 田中主膳元陳


美濃太田山城主 3万石 慶長5年9月15日 原隠岐守勝胤 関ヶ原西軍参加 関ヶ原で自刃別名を長頼というようで「豊臣秀吉に仕えて関ヶ原の戦いでは西軍についた美濃太田山藩主原長頼などがいる。 」とwikipediaの「常陸土岐氏」に出ている。


様々な違う系図と似ている名前があり、更に名前もいくつも変わる人もいて、複雑である。


嫡男原胤信は「原式部大夫胤栄の嫡男。幼名は吉丸。通称は左五右衛門、のち主水助。」
胤信は、徳川家康の小姓として召し出される。
「吉丸(=胤信の幼名)は若くして信濃国高遠に四百石の知行を受け、鉄砲組頭に就任した。しかし慶長5(1600)年、キリスト教に密かに入信し、洗礼を受けてヨハネと改称している。」
(千葉氏webページ 原胤栄・胤信より)https://chibasi.net/hara15.htm

wikipediaによると
「若くして御徒組頭や鉄砲組頭に抜擢されている。ところが、慶長17年(1612年)の岡本大八事件を機に江戸幕府は本格的なキリシタン弾圧を開始し、キリスト教を信じる旗本に対しても棄教が命じられた。胤信はこれを拒んで岩槻藩に住む親族の元に出奔して現地で秘かに布教を続けた。しかし、慶長19年(1614年)に藩主高力忠房によって捕らえられて棄教を迫られるものの、胤信はこれを拒んだため、激怒した家康の命によって額に十字の烙印を押され、手足の指全てを切断、足の筋を切られた上で元和元年(1615年)に追放された。」

岡田元繁の直接の先祖はやはり名前は書かれていないものの「原胤信」ではないだろうか。
しかも胤信が歿してから、寛政元年(1624年)に召し出され、その際の一代目は「岡田元泰」を名乗っている、と私には読めたが、間違っているかもしれない。

岡田元泰ー正元ー命嘉ー元芳―元繁 

「芳」の字はもう一つの系図に拠ると違う漢字になっている。




この系図の女子がお嫁に入った先に「町野氏」がいたようで、偶然 岡田忠兵衛が見つかった!
はやり、三善氏とのつながりがある系と思う。




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信長の首【原家記】日順上人 下総国小弓城=生実城(おゆみ じょう)と 尾張国の小弓庄(2)

2020-03-06 | 雑記


意外な事件から、戦国時代の原氏の動きを見ることができた。
ショッキングな題にしたように、信長の首を運んだ「原氏」なのである。
しかもその首を静岡の重須に運んだという。
「原志摩守が混乱の中から父と兄、それに信長公の首を持ち出し、山道伝いに駿河にたどりつき、 富士郡本門寺の本堂裏手に三つの首を埋めた」

http://www.city.fujinomiya.lg.jp/kankou/llti2b00000018hl.html

重須と言えば、富木常忍の後妻となった方の養子日頂が赴いたお寺。
同じお寺、しかも仏縁がある。と原家記にあるそうなのだ。

原家記は、まだ見ることができていないが、web情報に「信長の首」を運び、そのお寺に埋め、そこに柊の木を植えたそうなのだ。


その場面に出てくる名前は、
原志摩守宗安
原孫八郎清安
日順上人

何故、信長のいた本能寺にこの人たちがいたのかというと「囲碁」の為であったそうだ。
そこにいたのは【本因坊算砂】

そのお付きの人物であったのか?
原宗安は確かにいたのである。

つまり、私の想像では、
「原一族は西山と仏縁がある」というあたり、これは日蓮と富木常忍のことであり、常忍の後妻の息子が日頂となって「重須」に戻り…という所から始まっているとおもうのだ。

wikipediaの「日頂」をコピーすると以下のようになる。

「日頂(にっちょう、建長4年(1252年)- 文保元年3月8日(1317年4月19日))は、鎌倉時代後期の日蓮宗の僧。俗姓は南条氏。駿河国の出身。伊予阿闍梨と称される。日蓮六老僧の一人。

日蓮の有力な檀越である下総国八幡荘若宮(現在の千葉県市川市若宮)の富木常忍(日常)の養子となり、幼くして日蓮に師事した。日蓮の佐渡配流の際にも日蓮に従って奉仕している。身延山では本圀院山本坊を創り日蓮の墓所の輪番に参加している。下総国真間(現在の千葉県市川市真間)の弘法寺を拠点として布教につとめた。1293年(永仁元年)養父常忍と対立し、晩年は故郷駿河国の日興のもとに赴き、重須本門寺の学頭となった。本門寺の近くの正林寺に墓所がある。 」

南条氏?
富木常忍の養子となったことで、原氏となったのか?
それとも、橘氏の後妻とあったので、それが原氏ではなかったのか???
そこのところは?であるが、日興上人は橘光長であると書かれている。

日興上人(橘光長)(1246~1333)
寛元4年(1246年)甲斐国鰍沢大井庄領主橘光重の男として生まれる。駿河岩本の実相寺で出家し、文永年間(1264~1274)、富士郡に来た日蓮上人に師事して、以後は佐渡流罪の時にも日蓮に従い、日蓮が身延に入ってからは出生地の鰍沢をはじめ甲斐、駿河などで布教活動に専念した。日蓮没後、正応3年(1290年)南条時光に大石ヶ原の寄進を受け、10月12日大石寺を建立。正慶2年(1333年)「日興遺誡置文」を表し、その後没す。先祖の菩提寺として、恵命山蓮華寺を弟子の日華上人に建立を命じる。
https://seiseiruten.jimdofree.com/%E6%A9%98%E6%B0%8F%E9%96%A2%E4%BF%82%E7%B3%BB%E5%9B%B3/%E3%81%9D%E3%81%AE%E4%BB%96%E3%81%AE%E6%A9%98%E5%A7%93%E4%BA%BA%E7%89%A9%E4%BA%8B%E5%85%B8/

同じページにある日頂上人
日頂上人(1252~1317)
建長4年(1252年)千葉で生まれる。父は伊予守橘定時。文永4年(1267年)に日蓮上人に帰依。母は富木尼御前と呼ばれた妙常。後に常林寺を創建。
(正林寺?どちらが正しいのだろう?)

他のページに
「伊予阿闍梨日頂
にっちょう
1252-1317頃(下総国真間・現千葉県市川市)幼少の頃、母が富木常忍と再婚したので、養子入りした。大聖人滅後、富木常忍と縁のある真間弘法寺にいたが、別当及川宗秀に讒言され、また、墓輪番を放棄し富木常忍から勘当された。天台沙門を名乗り申状を提出。正安四年(1302)、重須の日興上人の元に行き帰伏。その後重須に正林寺を創設した。」

===*===

千葉のいまむかし 「新発見 小弓・臼井原氏関係文書について」黒田基樹著 と その続きともなる「今井町福正寺ならびに静岡県西山本門寺所蔵史料について」(担当今井氏)によると、日順の父は「原胤重」=道清日清であり、母は臼井入道 道受 となっている。

https://nortonsafe.search.ask.com/web?chn=1000720&cmpgn=&doi=2018-11-17&geo=ja&guid=870a8106-5a13-4e8a-9d3e-2157d85af489&o=APN12179&p2=%5EEQ%5Efh00jp%5E&prt=ngc&trackId=&ver=22.16.2.22&tpr=2&enc=2&q=FZ5myD5aBVQpEDjaFQLymZ8lOCgtDWsXuI-cHBv4ghvcngjvBGLSpucGM84KBHwCXhM1KaHK-qYn9xISkjuABifrFdKfYALWFzfvHnzQIgE4ObGEQ_E5AjbN1hWscB_3Q65vSNY1QbxHiYpobgDYvmPt6xRSoDEcXJFtL5yov5eWqdvFCz7H5UKzi75z9EgQl_4RqOGK5Z5L4CZgzv5BZqZCEchs8nFhgE7Om12ZRI7d5wKuQPgCd3qxi1UlY6STqqozFSrssaFqtChrJ-knkKwdog1AZk_FmuETL9VYjkgHkBDBQigj3N1k-1gEnyHZslz12oCMa_F_ZQC2BH7yXA&ts=1583412897180

この上記の資料と、系図と、千葉氏の記事と、信長の首の件とを考え併せ、千葉の小弓原氏と小弓庄良峯原氏のつながり、小弓原氏と臼井原氏の関係が見えてくるように思えるので、ご興味のある皆さんには是非上記の「千葉いまむかし」を読んでいただきたい!

===*===

小弓原氏のほうに原志摩守胤重がいる。
臼井原氏と小弓原氏、牛尾氏、まだ私にはわからないことがたくさん!
これから、勉強します。

http://chibasi.net/hara12.htm


コメント (3)
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