中さん

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ
kumagaya001nakanaka002

日記(11.19)

2023-11-19 14:57:51 | 日常
11月19日  (日曜日)  晴れ  
素晴らしい天気になった。
〇杓子菜を収穫して漬物つくりを始めた。初回なので小ぶりの樽にした。

〇青梗菜も大きくなってきたのでひとつづつ獲ってきては炒め物にしている。

~~~~~~~~~~~
〇菜園のかたずけ途中でKさんが作ったという干し柿をもってきてくれた。

良く出来ているので甘い。
〇ほうれん草も畑で観ていると小さいので、ほっとくと大きくなってしまう

〇落花生が夏の暑さで土が硬かったのか土にうまく落下しなかったせいか実が出来ていない。
 大失敗であった。根の張りも悪く残念だ!全部抜いて小さい実はカラスへの御馳走だなあ~!
=================================
毎日新聞 余録19日
 作家、筒井康隆さんの小説「毟(むし)りあい」は、
 不毛な報復をエスカレートさせる人間心理の闇を描いた短編だ。
~~~~~~~~~~~~~~
  要約「要約
  主人公の井戸が会社から帰ってくるとマスコミや警官が自宅を取り囲んでいる、
  というところから始まります。
 警察官からの説明によれば、凶悪犯が脱獄し彼の妻子を人質にたてこもっているといいます。
 犯人は娑婆に残してきた妻が別の男を作っていると
 聞きつけて愛する妻と子に会うべく脱獄したものの、
~~~~~~~~~~~~
潜伏している警察官たちに気づいて近場の家に侵入して人質を盾にとって、
 自分の妻子に会わせろと要求している状況です。
 犯人である小古呂(おごろ)の妻は怯えてしまい説得に赴くつもりはなく、
 警察も打つ手なしという段で、井戸は警官の案内によって小古呂の妻のもとに行き、
 説得するよう説得することになります。
~~~~~~~~~~~~~
ところが、小古呂の家に着くや否や井戸は一変して
案内してくれた警官を殴って昏倒させ、拳銃を奪ってから放り出し、
 自分も小古呂の妻子を人質にとります。
 警官に取り次いでもらって小古呂へと電話をつないで先に妻子を解放するように要求し、
 小古呂の子供を殴って泣かせ小古呂を追い込みます。
 小古呂は泣き叫ぶ妻子の声に動揺しつつ、自分も井戸の子供を泣かせて反発しますが、
 同時に井戸は小古呂の子供の指をへし折り、さらに圧力をかけます。
 テレビをつけて翌日になっても小古呂が出てきていないことを確認すると、
井戸は小古呂の子供の指を切断し警官に運ばせ、
 意趣返しのように小古呂は井戸の子供の指を切断し運ばせ、
 井戸はもう一本指を切断し運ばせ、小古呂も同様にし、
 二人は子供が失血死した後も死体から指を調達し、
 もはや切断する指がなくなると今度は根比べとばかりに互いの妻の指を切断し運ばせます。
 小古呂の妻もとうに死に、いよいよ切断する指もなくなるまで井戸と小古呂の応酬が続き、
 井戸が「さあ。次はおれの小指を切るからな」と宣言し、小説は終わります。
====================================
▲悪夢のような、現実のこれは、むしりあいではないか。
 イスラエルのハマス攻撃で、ガザ地区の子どもたち4500人以上がすでに犠牲となった。
 軍はガザ最大の医療機関であるシファ病院に突入、病院が戦闘に巻き込まれた。

~~~~~~~~~
▲発電機の燃料が尽き、すでに新生児ら多くの患者が亡くなった病院である。
 多くの遺体が腐敗したことで衛生上の危機に陥り、敷地で墓地が設営されているという。
 日々悪化する状況に胸が痛む・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
▲病院突入にあたり、イスラエルはハマスの地下司令部があると説明していた。
 地下トンネルを発見したと映像を公開したが、ハマス側と言い分は激しく対立する。
 いずれにせよ、病院にいる市民の命を奪うことは正当化できない。

▲後手に回っていた国連安全保障理事会もやっと、戦闘休止を求める決議にこぎつけた。
 米国などの思惑で機能不全を露呈したが、
 子どもを含む民間人を救うためという、誰も否定できぬ倫理が細い糸をつないだ

▲筒井さんの作品には、事態を傍観し続ける警察やメディアも登場する。
 憎悪と報復の連鎖や拡大を食い止めることができるのか。
 国際社会と世論の力が試されている、
 ガザの人道危機だ。
===========================
私の感じること・・
★報道で観る限りでは”人道”などという場面は何処にも映らない。
 唯々、どす黒い血にまみれた惨状が伝わってくるだけである。
 先日書いたが藤原先生の白黒つけるとすれば
 そんなものはなく・・・限りなく灰色から真っ黒な世界に変わっていく事態である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
メモ
WEB上にあったので借用する。
「毟(むし)りあい」
 要約
主人公の井戸が会社から帰ってくるとマスコミや警官が自宅を取り囲んでいる、というところから始まります。警察官からの説明によれば、凶悪犯が脱獄し彼の妻子を人質にたてこもっているといいます。犯人は娑婆に残してきた妻が別の男を作っていると聞きつけて愛する妻と子に会うべく脱獄したものの、潜伏している警察官たちに気づいて近場の家に侵入して人質を盾にとって、自分の妻子に会わせろと要求している状況です。犯人である小古呂(おごろ)の妻は怯えてしまい説得に赴くつもりはなく、警察も打つ手なしという段で、井戸は警官の案内によって小古呂の妻のもとに行き、説得するよう説得することになります。
ところが、小古呂の家に着くや否や井戸は一変して、案内してくれた警官を殴って昏倒させ、拳銃を奪ってから放り出し、自分も小古呂の妻子を人質にとります。警官に取り次いでもらって小古呂へと電話をつないで先に妻子を解放するように要求し、小古呂の子供を殴って泣かせ小古呂を追い込みます。小古呂は泣き叫ぶ妻子の声に動揺しつつ、自分も井戸の子供を泣かせて反発しますが、同時に井戸は小古呂の子供の指をへし折り、さらに圧力をかけます。テレビをつけて翌日になっても小古呂が出てきていないことを確認すると、井戸は小古呂の子供の指を切断し警官に運ばせ、意趣返しのように小古呂は井戸の子供の指を切断し運ばせ、井戸はもう一本指を切断し運ばせ、小古呂も同様にし、二人は子供が失血死した後も死体から指を調達し、もはや切断する指がなくなると今度は根比べとばかりに互いの妻の指を切断し運ばせます。小古呂の妻もとうに死に、いよいよ切断する指もなくなるまで井戸と小古呂の応酬が続き、井戸が「さあ。次はおれの小指を切るからな」と宣言し、小説は終わります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
感想
なかなかすごい話です。
 おどろおどろしいという意味での強烈さもありますが、それだけではない中身を感じさせます。
 実際、いくつかの賞を得ていて、日本だけでなく海外でもたびたび舞台化される作品と聞きます。
 舞台の感想を読み漁ると「狂気」という単語が目立ち、
 なるほど人がかように常軌を逸している姿の演技はたいそう見応えがありそうで、
 とても観てみたいです。小説を読んだのみなので演技の凄みに触れられていないのが少々残念です。
要約では割愛しましたが、前半では警察官や記者や被害者といった登場人物たちが自分の役割をまっとうしようとする姿が戯画的に強調されている印象があります。記者は事件を報道するべく井戸にインタビューをしますが、井戸がまだ事件に気づいていないと知ると、十分に現状を把握するための時間をおいて改めて「どういった心境ですか?」と聞いていました。言い換えれば、井戸が十分に被害者になるのを待ってから被害者として発言することを記者の立場から要求していると読めるわけです。記者たちの中でも立場はバラバラで7時のニュースに間に合わせたい人もいれば長尺のインタビューを取りたい人もいて、各々の思惑に応じた理想的な被害者の振る舞いを井戸に要求しており、その場における井戸の役割を定めようとする他者たちの勢力図が見て取れます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
井戸が妻子に会いたいという気持ちについて小古呂への同情を示すと、ある記者が
 「あなた。それ、本気で言ってるんですか」「嘘にきまってるじゃないか」と
 決めつけるように言います。記者の言い分としては放送されて犯人に聞かれた時のことを
 考えて発言しているんだというものですが、それはむしろ頭ごなしに
 否定したことの辻褄合わせという側面が強く、記者が求める被害者像にそぐわない
 発言への反発が実態でしょう。この応酬を経て、井戸は記者を「加害者」とみなしています。
 この場面を、井戸が他者からの要求に応えるのではなく自分の意思で発言をして、
  拒絶されていると読み換えることができます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
妻子が人質にとられた善良な市民ならば、普通は取り乱したり涙ながらに妻子の無事を願ったりということが普通です。しかし、必ず取り乱さないといけないということはありません。現実においてはコードから外れた感情を抱くことはとても一般的です。たとえば卒業式の日、これまでの思い出深い日々をしみじみ振り返ったり別れに感極まったりするのが普通と思いきや、実際には「この靴箱を使うことってもうないんだなー」とか、なんなら「今日やけに鼻の頭がかゆい」というようなことを、よりによって考えたりするものです。そう思うからといって別に異常者というわけではありません。しかし、そういうことを大々的に言うのはなんか違うわけで、そう感じさせる理由として外部から要求される振る舞いのコードとそぐわないから、ということを挙げられると思います。

このコードを絶対視してみて、言い換えればコードに合わない応答をされるのが誰にとっても耐え難いかのような極端な設定にしたのが「毟りあい」であると理解しました。犯人に同情を示すというのは、妻子を人質にとられたかわいそうな被害者の反応としては0点で、井戸は記者たちが望む回答をするよう迫られているわけです。しかし井戸はコードに従いたがらず、他者から規定される役割ではなく自分の意思で動こうとする人間です。他者から要求される役割と自分の意思で動くことの闘争、これが前半で描かれているように感じます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
役割という言葉をここまで随分と否定的に論じてきましたが。それがポジティブな意味を持つことは普通にあり得ます。子供の頃の憧れを現実にして電車の運転手になった人や努力の成果で弁護士になった人が、自分の職業を誇りに思うならば、いかにも運転手や弁護士らしい振る舞いをする自分に酔いしれるのは不思議ではありません。その場合、自分の役割を全うするために他の人たちにも自分の相手役としてふさわしい振る舞いを暗に要求することもあるかもしれません。「毟りあい」に出てくる警察官の百百山は警察官という職業に誇りを持ち、井戸が自分の領分に踏み込んでくることを許しません。
自我が崩壊しそうになっているおれの様子を見て、百百山の眼には、きら、と優越感がひらめいた。小気味よげに唇の端を吊りあげ、彼は喜色を満面に浮かべてうなずいた。「警察にまかせておきなさい」
本文より
これを受けて井戸は「百百山もおそらく、おれに対して一瞬加害者の快感を覚えたに違いなかった」と感じています。そして小古呂の妻子を人質にとった後で百百山と電話するとき、「これ以上被害者であり続けるよりは、むしろ小古呂同様の加害者たらんとする道を選んだのだ」「自分は被害者としての適性のない人間だ」と述べます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ここでの被害者や加害者という言葉遣いは特殊で面白いものがあります。被害者とは文字通りには妻子を人質に取られ、かわいそうで善良な市民という役を指していると思われます。これは記者たちが井戸に望んだ役です。それが自分の望むものではないと井戸が感じているのは先に確認した通りです。他方で、百百山が「警察にまかせておきなさい」と言って自分の役割を全うすべく井戸を制限するときに百百山を加害者とみなしていました。これに対するものとしての被害者を考えるならば、誰かの役を引き立てるための犠牲として、他人にあてがわれた役を演じざるを得ない、受動的で主体性のない人間と言うことができそうです。これも割愛していた話ですが井戸は話のなかでエリートの側にいて、積極的に自分を作り上げてきた人間と示されています。であるとすれば、他人に求められるがままに動くことは望まず「被害者としての適性のない人間」であるという言い分もわかります。要するに井戸の言う「被害者」とは二重になっていて、妻子を人質にとられて泣きわめくといった被害者を意味するのみならず、他人の役のために自分の役やセリフを譲り渡すような被害者をも意味すると理解できます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ところで、自然にセリフや役という言い回しを使ってきてしまいました。これは自分としては小説から直接的に引き出してきたもののつもりで、だからこそこの作品が舞台化されやすいということに納得感があります。他人に求められる役や自分の望む役といったことが問題となっている以上、舞台の上でこのテーマが取り上げられるのも必然のように感じます。
踏み込んだ話をする余裕も用意もないのですが、舞台というのは役者がある程度主体的に演じると言えど誰かにあてがわれた役であるという点で、現実世界とは違います。われわれの人生を舞台に見立てることがありますが、われわれは誰かに筋書きを用意してもらうことはありません。だからと言って、舞台においても登場人物の主体性を強調してもその舞台が現実に似るわけではありません。むしろ「それだけではない」舞台の特殊さが際立つかもしれません。「毟りあい」は当然脚本がある話ではありますが、登場人物たちが誰かの思惑に乗ることなく自分の役を演じ、他人を従属させようと闘争しています。そのように各々が自分の意思に基づいている点では実際のわれわれの姿に寄っているはずなのに大胆に現実から離れていく、というこのことに何か舞台の特殊性が抉り出されているように感じます。だからこそ舞台関係者の注目を集めるのかも、と考えたのでした。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ここまでの読み筋ですが、井戸が被害者であることを選ばず加害者でいることを選択したと理解しています。自分で自分の役割を掴み取ることを目指しているわけで、好意的な印象すら覚えます。が、どう考えても井戸を好意的に捉えてはいけないというのが面白いところです。井戸は結局のところ二人を殺害し妻子を見殺しにしていますから、文字通りの意味でも加害者になっています。そして最後には根比べという勢いで自分の指を切り放そうというところまで達しており、どうしようもなく盲目的です。事実、井戸が小指を切り離す直前から最後まで、数ページにわたって一度たりとも段落替えをしておらず、いわば冷静になる瞬間がないような書き方がされています。ですが、自分の役を自分で掴もうということまでは乗れる話であったはずです。どこでおかしくなったのでしょう。正しく見えたはずの決意が即座に狂気に裏返るというこの状況は一体なんなのでしょう。強烈な問いです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ひとつ思いつくのは、役を演じるために他人の役を食いつぶす必要があるという前提に乗っかるのがマズイということです。井戸は切り落とした指を警察官に運ばせることで、警察官を郵便屋の役に貶めてやったと悦に浸っていますが、自分の主張を通すこととは他人との闘争に他ならない(協調する余地がまったくない)というのは単純すぎる見方でしょう。そして興味深いことに、井戸の立てこもりが続くとあれだけ囲ってきた記者たちは引いていき、放送もほとんどされなくなります。舞台の比喩にたよって言い換えてみれば、自分のやりたい役にこだわるあまり、観客がいなくなっているという状況でしょうか。自分のやりたい役ができているのだからいいじゃないか、という見方もできるかもしれませんが、果たしてそれは本当に魅力的な舞台になっているのでしょうか。客観的に魅力がないのならば、自分の役を観客として見たときに満足できるかどうかは微妙です。また、自分の役を演じるために他人に特定の言動を強いていたように、役とはある程度以上は他人を要求するものであるはずです。にもかかわらず自分の都合だけ通そうというのは、視野が狭いと言わざるを得ないでしょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
自分の演じたいように各々が演じようとするこの状況は、ホッブズの想定した自然状態に似ています。本来人間は利己的であるから、社会的な制約がない自然状態では自分の利益だけを考えるもの同士の闘争となるだろうというものです。このような理解は安直で不完全ですが、ありふれた見解でもあります。限られた客層を企業同士が奪い合うと言われたとして、そのときにイメージされるのは自分の利益を拡大し、食いつぶし合う利己的なもの同士の闘争です。
以上を整理してみると、井戸は自分の価値観がどのような土台のうえに成り立っているのかを自覚せぬままに、自分の役を自分で掴み取ることに固執しており、土台を疑わないままに直進する姿勢が彼の盲目に対するひとつの説明となりそうです。そして他方、井戸やこの舞台の人物たちが前提している世界観がわれわれにも浸透している以上、自分がその狂気からまぬがれていて安全である保証はありません。井戸が狂ってるからと冷静にみることができたとて、事情は変わりません。井戸の狂気が人ごとならざるものだと受け取ったとしても、他人の指を切断するなんてことはまず思わないでしょう。あれが我々にとっても身につまされるものであるのは、彼と同じ種類の盲目に陥る可能性があり、あるいは現にそのように盲目であるかもしれないからであると考えます。もともと記者の振る舞いなんかも戯画的で、現実を部分的に強調したという面がありますから、井戸の異常行動もかなり極端にしただけの我々と考える余地は十分にあるわけです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
と、いうのを一旦の結論としつつ、やはりそれだけの話と考えるわけにはいかないでしょう。たとえば、指を切るまでいくのを極端な強調として片付けるのは単純化がすぎる感じがします。
有限な資源を食いつぶしながら自分の役を全うしようという消耗が表現されていると考えることもできるかもしれません。
独りよがりな生き方は外部からの供給もなければ、
 (記者という観客がいなくなったように)自分自身が需要になることもありません。
 他人との関係のうちで我を通すことだけを考えるならば、
 かえって身を削ってしか再現できないというのが、自分の読みとして言えそうなことです。
 が、やはりどこか単純化しているように思われます。
===================================
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日記(11.18)

2023-11-18 14:46:50 | 日常
11月18日  (土曜日)    晴れ  午後から風が出る。

まだ湿気が多かったが朝の8時には、キャベツ苗の残り”早生富士”というのを
20本程移植してみた。春先に大きくなってくれれば・・。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
〇同期の仲間から榛名山に来ているとLINEメール写真が届いた。
 登ったのは16日で天気最高とあった。
鬢櫛山(びんぐしやま、1350m)と烏帽子ヶ岳(えぼしだけ、1363m)に歩いたとあった。

紅葉はもう終わったか!

~~~~~~~~~~~~~~~~~^^
〇関東地方の北部の群馬県にある上毛三山の一つ、古来山岳信仰を受けてきた山である。
 山の南西麓に榛名神社が祀られている。
〇榛名山は赤城山などと同じくひとつの山体の総称であり、同名の峰は存在しない。

掃部ヶ岳(かもんがたけ、1449m) - 最高峰
杏ヶ岳(すももがたけ、1292m)
居鞍岳(いぐらだけ、1340m)
鬢櫛山(びんぐしやま、1350m)
烏帽子ヶ岳(えぼしだけ、1363m)

榛名富士(はるなふじ、1390m)
蛇ヶ岳(ジャガダケ、1229m)
臥牛山(ねうしやま、1232m)
伯耆大山(ほうきだいせん、1154m)
五万石(ごまんごく、1060m)
水沢山(みずさわやま、1194m)
二ツ岳(ふたつだけ、1343m)
相馬山(そうまさん、1411m)
三ツ峰山(みつみねさん、1315m)
天目山(てんもくざん、1303m)
伝承:榛名山に関係する伝承では、巨人ダイダラボッチが、
 富士山、浅間山、榛名山を競争で作り
 あと一息というところで富士山のだいだらぼっちが勝ったという民話、
 ●「榛名神社が諏訪神社から井戸を通して食器を借りたという民話、
 ●弘法大師(空海)が杖を刺して井戸を掘ったという民話などが残っており、
  山岳信仰が盛んだったことをうかがわせる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
観光:榛名山周辺には伊香保温泉をはじめ各種の温泉が出ている。
  中腹の展望台からの眺めがとても良く、渋川市を一望できる。
  信仰としては、有名なところだけでも榛名神社、水沢観音といった寺社が山中にある。
  伊香保温泉から榛名山へは群馬県道33号渋川松井田線の一本道で、
  毎年5月下旬頃、榛名湖畔の沿道は山つつじが満開になる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
私も、もう数年前になるが榛名富士には登ってきたが結構きつかった。
登るのにつれ榛名湖の水面が綺麗に見えてくるので励みになった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
いつの間にか真っ白い山茶花の花が咲いてきた。例年より遅いかな!

 〇花の少ない晩秋から初冬にかけて咲き出す。
  長い間咲き、正月を過ぎても楽しめる。
  椿(つばき)の漢名(中国名)の「山茶花」が、   
  いつの頃からか。このサザンカの名前として間違って定着した。
  読みは「山茶花(さんさか)」→「茶山花(ささんか)」→「さざんか」
  というぐあいに変化したらしい。
===================================
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日記(11.18)

2023-11-18 05:26:42 | 日常
11月18日  (土曜日)   晴れ

大分降った昨日の雨も午後には止んで青空が出た。
でも一日が長い日になった。趣味が家庭菜園では何もできない日。
〇うれしいことに大谷選手が2度目のMVPを獲った。
 今日は天気は大丈夫そうだ。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
群馬の上毛新聞のコラムの
三山春秋には
 ▼時代の予測が難しくなっていることを言い表す言葉に
  「VUCA(ブーカ)」がある。
  英語の変動性、不確実性、複雑性、曖昧性の頭文字からなる言葉で、
  主にビジネスの世界を中心に使われている

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ▼インターネットの登場やスマートフォンの普及によって、
  現代社会は目まぐるしく変化の速度を上げている。
  これに対応するために注目されているのが「非認知能力」である

 ▼非認知能力とは、学力など数値化できる能力以外のこと。
  自主性やコミュニケーション能力、やり遂げる力などの総称で、
  答えのない世界にあって、手探りで答えを探るのに欠かせない力とされる


 ▼子どもたちに「ブーカ時代」を生き抜く力を身に付けてもらおうと、
  県は非認知能力を伸ばす教育に取り組む。専門家による委員会を立ち上げ、
  中高6校を実践研究の指定校に選んで、独自の教育プログラムづくりを進める
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ▼山本一太知事は先日、非認知能力の教育に取り組むスコットランドを訪問。
  教育庁をはじめ先進的な都市や大学との共同研究に合意した。
  知事は「子どもたちの千差万別な能力を生かすことで、
      イノベーションを起こす始動人を育てる群馬県にしたい」
と意気込む
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ▼社会に出た多くの人が、学力以外の多様な能力が必要なことを感じていることだろう。
  非認知能力という個性を伸ばし、子どもたちの未来を明るくすることが、
  群馬の明日につながっている。
=============================
VUCA(ブーカ)とは
VUCAとは、一言でいうと「先行きが不透明で、将来の予測が困難な状態」を意味します。
 元々は1990年代後半に軍事用語として発生した言葉ですが
 2010年代に入ると、昨今の変化が激しく先行き不透明な社会情勢を指して、
 ビジネス界においても急速に使われるようになりました。

VUCAは、こちらの4つの単語の頭文字をとった造語です。

V(Volatility:変動性)
U(Uncertainty:不確実性)
C(Complexity:複雑性)
A(Ambiguity:曖昧性)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
VUCA時代にはどのようなことが起こるか?
想定外の出来事が次々と起こる
 経済やビジネス、個人のキャリアに至るまで、
 ありとあらゆるものが複雑さを増し、
 将来の予測が困難な状態にあります。
例えば、グローバルの流れに目を向けても、
 さまざまな国の政治の先行きが不透明であり、
 今までやってきたことやスタンダードだと思われてきたことが、
 ここにきて崩れていっているような気さえします。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
さらに、新型コロナウイルスの流行や、
    地球温暖化に伴う気候変動や異常気象、
    台風や地震といった災害など、予測が困難な事象が次々と起こっています。
また、日本や先進国では、少子高齢化が深刻な問題として取り上げられています。
   働き方においても、従来の日本の企業では当たり前だった終身雇用や
   年功序列といった制度もなくなりつつあり、人材の流動性も高まっています。
これらの事象が今後、世界や日本社会、個人にどう影響を及ぼしていくか、
   全てを見通すことは難しいでしょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
業界の概念を覆すサービスの登場
ビジネスにおいては、次々と画期的なサービスが生まれています。
 一方で、これまで想定していなかった業界の企業と競合しなければいけなくなったり、
  売上低下の原因がまったく予測できなかったりするなどの事態が起こっています。
例えば、タクシー業界では「Uber」という新しいサービスが競合として登場しました。
  Uberは、一般の人が運転手になって、一般の人が顧客として
  利用するというビジネスモデルを作り、従来のタクシー会社とは違って、
  運転手や車などの固定資産を持たないノーリスクの商売を可能としています。

そのほかにも、ホテル業界では「Airbnb」というサービスが競合として生まれました。
 従来のホテル会社は、ホテルをたくさん建て、従業員を雇い、
 日々稼働率を意識しながら空室を埋める施策を考えてきましたが、
 Airbnbでは、一般の人が持っている施設と旅行者をうまくつなぎ合せ、
 会社としてはリスクを取らずに宿泊したら収益が入ってくるという
 ビジネスモデルを作りました。

元々の業界は、まったく異なるサービスモデルが生まれても、
 始めはなぜ売上が下がっているか分かりません。
 気付いたときにはそれらの競合が、業界の概念を覆すような
 新しいサービスへと成長しているのです。
このように、今までは自分達と同業界の競合を意識していればよかったのですが、
 そもそもの業界というくくりの概念自体がなくなりつつあります。
「自分達は何と戦っているのか見えない」という状態が出てきています。

今までの常識が非常識になる
「企業資産の負債化」という、
 経営資源が足かせとなる現象があちらこちらで起きています。
 これまで企業は「設備投資をする」「自社に必要な人材を雇用し育成する」などを行って、
 それらを固有の資産とし、競争優位を築いてきました。
しかし、テクノロジーの著しい進化によって、
 経営資源として抱えていたものが意味を持たなくなるような製品・システムが
 次々と生まれています。
経営資源は、即座に組み替えることは不可能です。
  例えば、「過剰だから」といっていきなり従業員を半分解雇、といったことはできません。
  そうこうしている間に新しいビジネスモデルで、新しい企業が勝ち上がっていく。
このような事態が今まさにあちこちで起きています。
つまり、既存プレイヤーの破綻や撤退が起き始めているわけです。
 今まで「常識」だと思っていたものが「非常識」に、
 今まで「非常識」だと思っていたものがこの先の「常識」になっていくのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
VUCA時代に必要な3つのスキル
VUCA時代を乗り切るために必要な3つのスキルをご紹介します。

〇テクノロジーの理解と情報収集力
〇自らの頭で考える力
〇ポータブルスキル

◆テクノロジーの理解と情報収集力
  変化の起点であるテクノロジーの理解は必須です。
  それが自社の業界や自分のキャリアにどう影響するかを押さえ、
   危機を感じたら先手先手で身の振り方を考えておきましょう。

◆自らの頭で考える力
「AIに人間の仕事が奪われる時代が来る」といった話を聞いたことがある人も
 多いのではないでしょうか。
 オックスフォード大学の調査結果によると、
 10~20年後には日本の労働人口の半数が就いている職業が
 AIやロボットに代替されると推計されています。

一方で、AIは万能ではなく、
 これまでにない課題を解決する仕事(=過去のデータがないもしくは不十分な仕事)や、
 数値化できない人間の感性や経験に基づく創造的なアイデアを生みだす仕事については不得意です。

AIとの共存社会がやってくる中で、
 私たちは人間にしかできない「考える力」にフォーカスし、
 高めていく必要があります。
==========================================
★さて、
 凡人の頭ではこれからの不確実性の課題が何なのかもわからない!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日記(11.17)

2023-11-17 06:12:10 | 日常
11月17日 (金曜日)     雨

昨夕の西空は夕焼けであった。もう実りもないピーマンや唐辛子の木を抜いていたら
時間が経ってしまった。

16時半を回って先ほどまで沈む陽を観ていたら、一気に薄暗くなった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
子供のころ、夕焼け空の次の日は晴れると覚えたが
どうも気象予報では結構雨が降ると言っていた。
3時ごろ目覚め外を観れば、その通り雨が降っている。
天気図は

午前中で雨も上がりそうだが・・・
============================
新聞 コラムに
▼正岡子規は無類の果物好きであった。
 親友夏目漱石の小説『三四郎』には
〈いくらでも食える男だった〉と実名で登場する。
 特に好んだのが柿で一度に7、8個食べた
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ▼友人や門人たちも知っていたから、
  病に伏せった時はこぞって見舞いに送った。
  ところが食べ過ぎて腹をこわし、医師に止められるありさま。
 〈柿くはぬ病に柿をもらひけり〉
  悔しさと恨めしさも詠んでいる
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ▼酒樽に渋柿を詰め、アルコール分で渋を抜いた「樽柿」が好きだったという。
  縄文時代や弥生時代の遺跡から種が見つかるほど歴史は古いが、もともとあった品種は渋柿。
  先人たちは工夫を重ね、おいしく味わえる方法を見いだしたのだろう
~~~~~~~~~~~~~
 ▼干し柿はその代表格。
  製法は中国から伝わったと考えられ、
  平安時代の「延喜式」には祭礼用の菓子として使ったとの記述がある。
  和菓子の世界では「甘さは干し柿をもって最上とする」と言われるほど。
  時間がつくる味わいは殊の外、上質に感じる

 ▼干し柿作りに最適な時季となり、精を出している方も多いだろう。
  わが家では両親が空模様を気にしながら軒下に出したりしまったりと忙しそうである。
  色や形が変わっていく様を眺め、出来上がりを待つのも楽しい

 ▼何かと不人気な渋みの成分だが、二日酔いの予防に効果があるという。
  飲酒の前に食べるのがお勧めとか。
  宴席が増えるこれからの時季にぴったりではないか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

子規と言えば・・
柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺

 秋である。
 良い季節になった。色鮮やかな柿をほおばる。
 すると、まるで私が柿を食べるのを待っていたかのように、
 どこからともなく鐘の音が聞こえてきた。法隆寺の鐘に違いない。
 こういう時、生きている実感が沸き起こってくるというものだ。
~~~~~~~~~~~~~~
 日本人で知らない人はいない有名な俳句です。
 松尾芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」もそうですが、あまりに有名すぎて、
 たいていの日本人にとっては、どこが
 どうすごいのかよくわからないぐらいになっています。

 それほどまでに、日本人の心の中に融け込んでしまっているという言い方もできると思います。
 この俳句を「日本人教師」の観点で鑑賞してみます。


==========================
 この句が詠まれた時期について
 優れた文学作品は、
 本来その作者の人生や生活と結び付けて解釈すべきではないとは思います。が、
 この作品は正岡子規の34年の短い生涯の中で、
 おそらくもっとも豊かな感性を持ちえた時期に作られています。(子規28歳時の作です。)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
1895年4月 日清戦争に従軍記者として参加、満州に渡る
5月 大連から船で帰国の途中、喀血。神戸病院に入院、生死の境をさまよう。
7月一命をとりとめ須磨保養院で静養 
この時期に「六月を綺麗な風の吹くことよ」の句を詠んでいる。
===================================
〇中学時代、晩秋の頃近くの成田川に行って川岸のへり「端」に空いた穴に
手を入れて小魚を手掴みで捕まえに毎日のように出かけた。
途中何度もザリガニに指を挟まれたがその奥に潜む魚を逃げ穴を塞ぎながら捕まえた。
いくらでも獲れた。
途中で柿の実った龍淵寺の鐘が鳴る。多分16時半だ帰る時刻だ。
 「魚とり・もう帰れよと・鐘がなる」
なんて遊びで真似をした。
「柿はない・鐘が鳴ってる・龍淵寺」
こういうのって小さいころから好きだった。
ズボンは泥だらけで、母親の渋い顔があったが怒りはしなかったなあ~!
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
竹串に小魚20匹を刺して数本溜まると家に帰って火で炙って猫「たろう」の餌にした。
香ばしい匂いに猫も喉をゴロゴロ鳴らしたなあ~あっという間に食べつくした。
~~~
当家の柿もなんだか甘柿なのに、渋さが抜けないので獲っても食べてもらえない。
まだ木に残ったものを干し柿にしてみようか・・!
~~~~~~~~~~~~

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日記(11.16)

2023-11-16 09:22:53 | 日常
11月16日  (木曜日)     晴れ
ツワブキが遅れてどんどん咲きだした。
陽に当たると黄色が映える。

今日も午前中は天気もいいらしい。
~~~~~~~~~~~~~~~
春先に2本植えた”京とうがらし”「万願寺」も沢山獲れた。
15㎝程度に伸びてきたものを収穫。炒め物に使うと色合いも良くって美味しい。
辛くなくって利用しやすい。ピーマンも混ぜて使っている。
来年の種を獲ってみようと思い赤くなった実を乾燥させている。
~~~~~~~~~~~~~
庭の椿の木から実が落ち始めた。
============================
毎日新聞  余録
 「わては宝塚でハネられたのが残念だんね。
  こうなったら意地でも、道頓堀で一人前になって……」。

 NHKの朝ドラ「ブギウギ」のモデルの歌手、笠置シヅ子は
  松竹楽劇部の楽屋に乗り込んで頼み込んだそうだ(「歌う自画像」宝島社)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
思い出すことは
〇小さい時ラジオから流れてくる笠置シズ子「東京・ブギブギ・・・」「わて・ほんまに・よいわんわ」
 の歌声で育ったんだなあ~。もちろん三橋美智也。春日八郎・なども同時期だ。
 その前世代の父や母は ”近江敏郎”・”田畑よしお”・”ディックミネ”・」””東海林太郎”・”林伊佐緒””並木美智子”であった
 古い話だなあ・・・・
まだTVはなかった・・ラジオが主体で小学校に上がる前には流行歌と”ペギー葉山”の声で”ビリーパック”の物語を
聞くのが最高の楽しみであった。5~6人でラジオにかじりつていたあの頃が懐かしい。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「ブギの女王」を落としたのは今の宝塚音楽学校。
 「東の東大 西の宝塚」と呼ばれる片りんがうかがえる。
 「清く正しく美しく」のモットーは初代校長を務めた阪急電鉄の創業者、
  小林一三が提唱した。


「他にまねのできない設備が整っているのに……
  危険が伏在するものだというならば、他に安全な場所があるでしょうか」。

  小林作の劇で女学生が宝塚観劇を禁止した校長に反論する。
  当初は色眼鏡で見る風潮もあったのだろう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
▲今では国民的人気を確立し、来年110年を迎える宝塚歌劇団を揺るがす悲劇である。
 25歳の劇団員が急死し、遺族は過労や先輩劇団員のパワハラが原因と訴えている。
 安全な環境かが問われているのに劇団側の危機感が乏しい。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
▲「永田町の常識は世間の非常識」といわれるが、宝塚も同じか。
  記者会見に調査報告書をまとめた弁護士チームが同席せず、
  過重労働を認める一方でパワハラやいじめの認定を避けた。
  遺族側の弁護士は「一時代前、二時代前の価値観に基づく思考」と批判している。

「常識は十年ごとに飛躍する」とは太宰治の言葉だ。
  音楽学校時代の上下関係をひきずる人間関係や拘束力の強い就労形態。
  現代の常識から乖離(かいり)した伝統や慣行は見直すしかない。
======================================
★宝塚の舞台は父の会社の招待で小学校6年生の時に連れていかれた。
 なんだか訳も分からず、レビュウを観劇した記憶が強く残っている。
 確か当時の2階席部分で観たがズーッと見回したが
 周囲に男の人は誰もいない。とても恥ずかしい思いであった。
 それにしても田舎の小学・男の子には初めての宝塚だ!綺麗であった。
話には聞いていたラインダンス、舞台に長身のスターが大きな羽飾りをつけて
並び大きく足を振り上げ何か声を張り上げたりまた歌っている。
ただただ、見とれていた覚えあり。
当時も裏舞台では厳しい上下関係が続いていたのかなあ~!
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする