「真理の探究 仏教と宇宙物理学の対話: 佐々木閑、大栗博司」(Kindle版)
内容紹介:
人生に生きる意味はない。
大いなる叡智が告げる、この世界の真実
心の働きを微細に観察し、人間の真理を追究した釈迦の仏教。自然法則の発見を通して、宇宙の真理を追究した近代科学。アプローチこそ違うが、この世の真理を求めて両者が到達したのは、「人生の目的はあらかじめ与えられているものではなく、そもそも生きることに意味はない」という結論だった。そのような世界で、人はどうしたら絶望せずに生きられるのか。なぜ物事を正しく見ることが必要なのか。当代一流の仏教学者と物理学者が、古代釈迦の教えから最先端の科学まで縦横無尽に語り尽くす。
2016年11月30日刊行、257ページ。
著者について:
佐々木 閑(ささきしずか): http://www.hanazono.ac.jp/education/teacher/s-sasaki.html
花園大学文学部仏教学科教授。文学博士。一九五六年、福井県生まれ。京都大学工学部工業化学科および文学部哲学科仏教学専攻卒業。同大学院文学研究科博士課程満期退学。専門は仏教哲学、古代インド仏教学、仏教史。九二年日本印度学仏教学会賞、二〇〇三年鈴木学術財団特別賞受賞。著書に『出家とはなにか』『インド仏教変移論』(ともに大蔵出版)、『日々是修行』(ちくま新書)、『「律」に学ぶ生き方の智慧』(新潮選書)、『仏教は宇宙をどう見たか』(DOJIN選書)、『ゴータマは、いかにしてブッダとなったのか』(NHK出版新書)、『出家的人生のすすめ』(集英社新書)、『科学するブッダ』(角川ソフィア文庫)、『ブッダ100の言葉』(監修・翻訳、宝島社)等。佐々木先生の著書: Amazonで検索
理科系から文転し、仏教学を科学的に立証する
佐々木閑氏 (花園大学文学部教授)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/4026
大栗 博司(おおぐりひろし): https://ooguri.caltech.edu/japanese
米国カリフォルニア工科大学理論物理学研究所所長、フレッド・カブリ冠教授。東京大学カブリ数物連携宇宙研究機構主任研究員と米国アスペン物理学センター所長も務める。一九六二年生まれ。京都大学理学卒業、東京大学理学博士。シカゴ大学助教授、京都大学数理解析研究所助教授、カリフォルニア大学バークレイ校教授などを歴任したのち現職。専門は素粒子論。アメリカ数学会アイゼンバッド賞、フンボルト賞、仁科記念賞、サイモンズ賞、中日文化賞などを受賞。アメリカ芸術科学アカデミー会員。著書に『重力とは何か』、『強い力と弱い力』(ともに幻冬舎新書)、『大栗先生の超弦理論入門』(ブルーバックス、講談社科学出版賞受賞)、『数学の言葉で世界を見たら』(幻冬舎)、『素粒子論のランドスケープ』(数学書房)など。監修を務めた科学映像作品『9次元からきた男』(日本科学未来館)は国際プラネタリウム協会の最優秀教育作品賞を受賞。大栗先生の著書: Amazonで検索
理数系書籍のレビュー記事は本書で322冊目。(科学と仏教の本だが理数系書籍に分類しておく。)
本書は名古屋の中日文化センターで3回にわたって行われた「宇宙物理学と仏教の対話」という講座の内容をまとめたものである。この講座は仏教学者の佐々木閑先生と理論物理学者の大栗博司先生という、一見とんでもない組合せに見えるお二人によって行われた。
佐々木先生のことを僕はまったく存じ上げなかったから、この講座の案内を大栗先生のツイッターで見たとき「ありゃ~、先生大丈夫なのかな?」と心配していた。科学に無知な仏教の先生と論点のすれ違った不毛な討論になってしまうのではと危惧していたのだ。でも大栗先生のことだからこの話を引き受けるにあたって慎重に検討されたにちがいない。とても気になったので受講したかったのだが遠方なので申し込みには至らなかった。
受講者による参加報告を検索してもブログ記事が見つからない。どんな講座だったのか気にしながらもやもや感をもっていたところ講座が2回、3回と開催されたことを知り、内容はわからないけれどうまくいったのだとわかってきた。だから本書でどのような対話が行われたのか知ることができ、もやもやを来年に持ち越さずにすんでスッキリできたわけだ。
科学と宗教が相容れないことはガリレオの異端審問裁判で強く印象づいていたし、中世キリスト教が科学の発展を阻害していたこと、日本で生まれたいくつもの新興宗教のあり様を見ていて、宗教からなるべく遠ざかっていたいという考えを僕は持っている。仏教は檀家としての行事に参加したり最低限の役割を果たしているだけで、信仰しているわけではない。
そもそも仏教について僕はほとんど知らない。高校の世界史で学ぶ程度の仏教史と小学生のときにマンガで読んだ「おしゃかさま」という伝記の知識で終わっている。あとはいろいろな宗派の名前を知っているくらいでそれらの違いはわかっていない。
一般教養レベルでいいから仏教や仏教史を学ぶとしたらと思いついてAmazonで検索すると、どれを選んでよいのかわからなくなるほどたくさんの本が見つかる。科学に無知な人が思いったって科学教養書を検索しても同じようなことになるのだろうなと思った。もちろん大栗先生の本がベストだと思うわけだが、本書を読んでみて仏教については差し当たり佐々木先生の本から読んでみるのがよいと納得できた。
読み始めてすぐわかることだが、佐々木先生は京大工学部(化学系)を卒業された理数系マインドを理解されている方である。ご実家が寺であったことと、化学向きではないことが学生時代にわかったため、文学部(仏教系)に転身されたのである。詳細は「理科系から文転し、仏教学を科学的に立証する佐々木閑氏 (花園大学文学部教授)」というページでお読みいただける。
大栗先生が安心して講座をお引き受けになったのはこういうことか!と僕は理解できた。そしてお二人ともお互いの著書を読んだ上で講座に臨まれたのである。京大工学部を卒業できたレベルの佐々木先生ならば科学教養書は楽々読み解けていたはずだ。最先端の超弦理論の入門書にしても同じことである。
このようなわけで僕は安心して読み進めることができた。そして次に気になってきたのが仏教で説かれている世界と科学が明らかにした世界の間の矛盾がどのように討論され、お二人の間でどのように決着されるのか(あるいは決着されないのか)だった。
本書の章立ては次のとおり。この流れで仏教と科学の両面にわたって解説と対談が紹介されている。
序 心のフィルターを外す営み―仏教と物理学の接点 佐々木閑
第1部 宇宙の姿はどこまで分かったか―大栗博司/聞き手 佐々木閑
第2部 生きることはなぜ「苦」なのか―佐々木閑/聞き手 大栗博司
第3部 「よく生きる」とはどういうことか―佐々木閑x大栗博司
特別講義1 「万物の理論」に挑む―大栗博司
特別講義2 大乗仏教の起源に迫る―佐々木閑
佐々木先生のご研究の中心は次のように古代仏教と大乗仏教の成立史である。
- アビダルマ哲学の歴史的研究
- インド仏教僧団における戒律の研究
- 大乗仏教の成立史
- 科学と仏教の関係性の研究
日本に伝わったのは大乗仏教で、もともと釈迦が創始した仏教とは正反対のものだという。釈迦が説いた仏教はずっと緩いもので全面的に信じるか信じないかの2択をせまるものではなく、人が生きていく中で心の中に生まれる「老・病・死」などの苦を取り除くための教えであり、個人的な心の持ち方を教えてくれる「病院のようなもの」なのだそうだ。科学と相容れない教えは信じても信じなくてもよいということらしい。佐々木先生ご自身も「輪廻」や「業」、「死後の世界」は信じていらっしゃらないということを読み、大栗先生と同様僕も驚いた。それほど自由が許されている宗教だったのかと。僕にとって輪廻とは三島由紀夫の「豊饒の海」に描かれている世界であり、あってほしいと願っているもののうちのひとつだ。
日本以外の国で僧侶はサンガと呼ばれる組織で集団生活をするのだという。日本の僧侶はそのようなことはないから例外中の例外というわけである。また大乗仏教が日本に取り入れられていった過程を知ったとき、僕は日頃仏教やその行事に対して感じていた疑問や違和感の理由がわかった気がした。
その疑問や違和感は先月妹を亡くしたばかりのときにも感じたものだ。(参考:その日に書いた記事)葬儀にかかる費用の明細、寺へのお布施や戒名にかかる金額を知ったとき、日ごろ本業の仕事で見積書を厳しくチェックしている僕としては唖然とすることばかり。慌ただしい中で葬儀を決めなければならないから相見積もりをとる時間的猶予は与えられず、いわば「相場」や「言いなり」の金額で費用がほぼ自動的に決められてしまう。市場の競争原理が働いていないことがよくわかった。その状況の大もとの原因は、仏教が本来教えていたことに根差していたのではなく、日本独自のスタイルで受け入れられていった大乗仏教に起因する寺および葬儀、そして葬儀ビジネスのあり方にあったのだと思った。(ご注意:佐々木先生がそのようにお書きになっているのではなく、僕がそう感じただけである。)
若いお坊さんが葬儀でお経をあげてくださったときにも違和感をもった。生前の妹のことをほとんどご存知ないのに、お経をあげてもらっても僕としては「この人はいったい何?」と思ってしまうわけだ。罰当たりには違いないけど。でも妹は僕と正反対で世間体や常識をとても大事にするやつだったから、こういう形式張りの葬儀を喜んでいたに違いないと思って納得することにした。
佐々木先生が担当された解説は、最初のうちは仏教用語に慣れていないので読み解くのに時間がかかったが、次第にペースを上げて読むことができるようになった。科学に不慣れな読者が大栗先生が担当された部分をお読みになるときもきっと同じようなことになるのだろう。
キリスト教やイスラム教が絶対的な神の存在を前提としているのに対し、仏教には神に対応する絶対的な存在がないという説明も僕の偏見を解いてくれた。「仏」がそうなのだと誤解していたわけなので。釈迦の教えの中にもある死後の霊魂の存在も信じていらっしゃらない佐々木先生は仏教者としては異色の存在なのかもしれないとも思った。他の仏教入門書を読むときに参考のために覚えておこう。
大栗先生が担当された科学の解説は、これまでの著書で知っていることがほとんどだった。僕のブログの読者はおそらく著書を読んでいらっしゃるはずだから、詳しい説明は省かせていただく。ただしこれまでの著書には書かれていなかった、ブラックホールの防火壁問題、大栗先生が仏教や宗教をどのように考えているか、社会における問題をどのように思っていらっしゃるか、外国人と話すとき宗教についてはどのような点に注意すべきか、などを知ることができる。これらの点が僕にはとても興味深かった。
対談にあてられている第3部 「よく生きる」とはどういうことか、が本書のいちばんの読みどころだ。科学が示す事実を共有できるお二人であるが、対立を避けるために無難で遠慮がちな対話が繰り広げられたわけではない。共通の認識や相互の信頼関係を確信したうえで、率直な疑問、質問を大栗先生はいくつも投げかけられている。特に僕が強烈だと思ったのは「単刀直入にお聞きします。釈迦の教えを宗教として信じていらっしゃいますか。」という質問である。聞いてみたいが、はばかられるこのようにストレートな質問が、その後の対話を大いに膨らませてくれているのだ。本書の面白さはこのようなところにもある。
本書の最後は大栗先生、佐々木先生それぞれによる特別講義。先生の『「万物の理論」に挑む』はカラビ-ヤウ空間のオイラー数の一般化(超弦理論の質量公式を与える公式)がラマヌジャンが導いた公式と密接に関連していたという話が僕には新しい知識で特に印象に残った。
佐々木先生の「大乗仏教の起源に迫る」は本書の途中から僕も疑問に思っていたことを解き明かしてくださったので、読後感が爽快だ。釈迦が説いた仏教と正反対の大乗仏教がなぜ生まれたのか?本書を読んだ誰もが不思議に思っていたことだろう。人為的な意図のもとに書かれた歴史書ではなく、自然な形に残された原著や「アショーカ王碑文」を科学的な視点から分析、歴史的な事実を発見されたことに、他の仏教学者には(おそらく)備わっていない佐々木先生の独自性と今後のご研究がもたらすものの大きさと価値が見えたような気がした。
僕には目新しかった佐々木先生ご担当の部分が中心の紹介記事になってしまったが、本書は理数系の方はもとより、科学に関心がない方、仏教にたずさわっている多くの方にも読んでいただきたいと思う。科学にしても仏教にしても、自分の考え方、心の持ち方の指針を与えてくれる本である。
関連記事:
まず、大栗先生が本書についてブログに書かれた紹介記事をふたつ。
『真理の探究』
http://planck.exblog.jp/26156451/
出家的な生き方 → 大栗先生がお書きになった本書の「あとがき」をお読みいただける。
http://planck.exblog.jp/26187718/
そしてこのブログ記事をリンクしていただいたのがこちら。他の方がお書きになった書評も読むことができる。
「重力は一番弱い」 という予想
http://planck.exblog.jp/26208223/
佐々木先生の著作は本書以外読んだことがないので、これまでに書いた大栗先生の著書の紹介記事をリストアップさせていただく。
重力とは何か アインシュタインから超弦理論へ、宇宙の謎に迫る:大栗博司
https://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/f63cdcd45ec542fa62d535b4cc715d69
強い力と弱い力:大栗博司
https://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/06c3fdc3ed4e0908c75e3d7f20dd7177
大栗先生の超弦理論入門:大栗博司
https://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/75dfba6307d01a5d522d174ea3e13863
数学の言葉で世界を見たら: 大栗博司
https://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/8ffea17402dcf34e5991b154acef39d9
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「真理の探究 仏教と宇宙物理学の対話: 佐々木閑、大栗博司」(Kindle版)
序 心のフィルターを外す営み―仏教と物理学の接点 佐々木閑
- 人は生まれながらにして偏見・先入観が刷り込まれている
- 「宇宙の真ん中に自分がいる」という思い込み
- 釈迦と物理学が教える「世界の正しい見方」
第1部 宇宙の姿はどこまで分かったか―大栗博司/聞き手 佐々木閑
- 科学とはそもそも何か
- 宇宙には「始まり」があった!
- 「時間と空間の常識」が覆される
第2部 生きることはなぜ「苦」なのか―佐々木閑/聞き手 大栗博司
- 釈迦は宇宙の法則の発見者
- 仏教とはそもそも何か
- 仏教が広まった二つのルート
- 神秘性ゼロの哲学「アビダルマ」の世界観
- 大乗仏教はなぜ生まれたのか
第3部 「よく生きる」とはどういうことか―佐々木閑x大栗博司
- 世界を正しく見るということ
- 「人生の意味」はどこにある?
特別講義1 「万物の理論」に挑む―大栗博司
特別講義2 大乗仏教の起源に迫る―佐々木閑
私は高校生の頃から宗教哲学には興味をもっており、現在に至るまで、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教について機会あるたびに本を読んだり、お話をお聞きしたりしています。ところが仏教については少々手薄です。
高校生の時、日本史の勉強からかなり脱線して小乗仏教と大乗仏教、民間仏教の色々な宗派について本を読みまくって調べたことがありますが、為政者の都合の良いのが大乗仏教で、仏陀の教えはむしろ小乗仏教に残っている...といった当時の理解のまま、その後あまり深く調べていません。
そんなわけで、今回ご紹介の本には、とても興味を持ちました。
個人的興味を満たすために大学で文化人類学を専攻しようと、割と真面目に考えたこともあります。実際には父の強い勧め(将来食いっぱぐれないという理由)で医学部か工学部へ行けということで、工学部の化学系へ進みました。
(化学というよりも材料工学全般に興味があり、機械や電気・電子を下支えする素材・材料こそが技術の根幹という産業史観をなぜだか高校生(ガキ)の頃から持っていて、将来ビッグになるなら化学や物性を攻めるのだ!なんて、今思えば理系的というよりも文系的な思考でした)
進学した大学では、趣味で文化人類学研究所の先生の講義を取ったりもして、今でもヒトと宗教に関する興味は衰えていません。
私自身は特定の宗教を信じてはいません。無条件に信じる対象は家族のみで、それ以外の神とかそういうこのを信じる思考パターンは私にはありません。
しかし現実に多くの人間には宗教が必要であり、何故ヒトは宗教を求めるのかと言う問いへの答えを、個人的には探し続けています(のんびり、まったりとしたペースですが...)。
単に宗教と言えば、そこには利権が絡むことが多く、利権を追いたくなるヒトの性から切り離して考えるには、宗教哲学という表現が良いように思っています。
昨日のNHK地上波の番組で、ネアンデルタール人とホモサピエンスの過去の集落の遺跡の情報をまとめたデータベースがあることが紹介されていました。
ネアンデルタールとホモサピエンスは共存していた時代が長らく続いていたと考えられていることは私も知っていました。そして、昨日の番組ではホモサピエンスは、集落同士の交流で生活圏を拡大していったという調査結果が紹介されていました。
ここに、宗教を使って集団内で価値観を共有するというのがホモサピエンスの特性かも知れないという類推が出来るわけで、私にとってはまさに今回ご紹介の本に繋がるテーマというわけです。
早速、とね書店からポチッとしました。届くのが楽しみです!
やすさんは本当に興味、関心をもたれることの幅が広いですねぇ。見習いたいと思います。
とね書店からのご購入ありがとうございます!
それは異色じゃなくて僕でも知ってる仏教の基本です。(仏教は他人の信念を否定しないのが基本だから大声で言わないけど)
キリスト教の元のユダヤ教でも本来は信じてなかったし、キリスト教の一部にも信じてない分派があるから仏教の専売特許じゃないけどね。
僕の父方の仏教は真言宗で母方は浄土真宗ですが、両方とも大乗仏教だけど方向は全く逆。
浄土真宗の方が元の仏教に近いと感じるけど、真言宗が富国強兵みたいな国家政策で導入されたのに対して浄土宗は一般民衆のために発生したからでしょうね。
元々の仏教も宗教と言うより一般民衆のための人生の知恵みたいだったし。
その知恵の中に「自分の信念に執着して他人の信念を否定するのは不幸の元」がありますから、科学否定なんてするわけもない。
国家宗教になると逆に思想統一になるが、キリスト教も酷かったねーいや今でもか。
戦前の日本も国家神道で侵略を進めたから仏教は利用されなかったけど、少し違ったらどうなったやら。
> 仏教の基本
霊魂や死後の世界は信じていないと佐々木先生が本書にお書きになっていたので僕も「え、それで大丈夫なの?」とまず思いました。
> 仏教は他人の信念を否定しないのが基本だから
これについても佐々木先生は「信じるのも信じないのも自由」、「信じている事柄を他人に押し付けたりしない、他人が信じていることを否定しないのが釈迦の仏教だ」とお書きになっています。
真言宗と浄土真宗も方向が逆なのですね。向学のために調べてみます。
http://teenaka.at.webry.info/201207/article_25.html
などは日本ではやはり少数派だと思います。
「霊はあるか―科学の視点から (ブルーバックス)」に「日本の仏教の各宗派への霊に関するアンケート」の回答があって現時点での日本の仏教者の(霊に対する)考えが分かるのですが、「霊魂はない」というのが仏教の基本とは言い難いと思います。
それから、とねさんはお気づきと思いますが、堀田先生のご指摘で、上座部仏教に対して佐々木閑先生とは違うことを言っている方が居るということも注意したいです。
堀田先生は「悟らなくたって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想入門 (幻冬舎新書)」を推薦されていました。
この著書の一人の魚川 祐司氏の「仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か」「講義ライブ だから仏教は面白い! (講談社+α文庫)」は面白かったですが、上座部仏教は出家主義なので、在家はどうしたら良いのか?と私は思いました。いわゆる大乗仏教はそういうことを埋めるために生まれたのではないか?とも感じました。
という訳で、仏教はあまりに広がりすぎて統一的に語るのが困難なものかも知れません。
仏教の基本ということでは輪廻や霊魂、死後の世界を信じるということだと思います。
本書の中で佐々木先生は「輪廻」(そして霊魂や死後の世界)を信じていないとお書きになっていますが、釈迦については当時のインド社会(バラモン教)の社会全体の通念として輪廻的世界を受け入れていたと言ってよいでしょう、そして釈迦はこの世の法則は、誰かがつくったものではなく、そういうものとして世界の中に本来的に存在していると考えていたとお書きになっています。ですので秋月龍眠師と同様、佐々木先生は日本では少数派なのでしょうね。
佐々木先生と大栗先生の共通の認識としては、霊魂や輪廻、そして意識などはその定義ができていないことから(今のところ)科学で扱う対象ではないということでした。存在を肯定も否定もできないということですね。佐々木先生は他の人に対しては輪廻を受け入れるのも受け入れないのも自由だとお書きになっています。
佐々木先生がもし僧侶だとしたら輪廻を信じないということは問題になると思いますが、先生にとって仏教は学者としての研究対象であることがこの矛盾を解決してくれそうな気がします。
以下のページを読むと輪廻や死生観よりも人生に活かすための仏教のほうに意識を集中されているように思います。
「ブッダの教え」で生きるということ 仏教は心の病院
http://www.koushinkai.net/15sasaki.shtml
堀田先生のツイートもリツイートさせていただきましたので、先生が推薦されている本も読んでみたいと思います。
T_NAKAさんがおっしゃるように仏教はひとくくりにしては語れませんよね。