山楽ぶらり探訪

国のまほろば大和の山野、寺社をぶらっと訪ね歩きます。
山川草木。日々是好日。

明日香 甘橿丘01-3

2008-03-31 18:54:17 | Weblog
明日香 甘橿丘01-3

 飛鳥、白鳳から奈良時代、日本の政治文化の中心となった大和地方。そこを一望できる甘橿の丘に立つと、畝傍山、天香具山、耳成山の大和三山、藤原京などが眼下に広がり古代の人々が蘇ってきます。

明日香 甘橿丘03-3

2008-03-31 18:47:53 | Weblog
明日香 甘橿丘03-3

 甘橿丘の東麓から約300mほど東に飛鳥寺が見えます。
 飛鳥寺は、587年、蘇我馬子の発願により百済からの技術者を招いて造られ、606年に完成しました。本格的な建造物の寺院としては日本最古の寺です。
 
 

明日香 甘橿丘02-2

2008-03-30 09:29:40 | Weblog
明日香 甘橿丘02-2

 甘橿丘西麓の菜の花畑

  この西麓に冬の間、休耕地となっている棚田(民有地)がありますが、ここにも菜の花が植栽されると、石舞台北側の棚田のように、すばらしい景観になることでしょう。

明日香 甘橿丘03-2

2008-03-30 09:28:46 | Weblog
明日香 甘橿丘03-2

明日香 甘橿丘02-2

甘橿丘 豊浦展望台から東の飛鳥集落を望む。

 ここから150mほど下ったところに、明日香村名誉村民でもある犬養孝先生の揮毫による万葉歌碑が建立されています。

媛女乃 袖吹反 明日香風    うのめの そでふきかえす あすかかぜ        京都乎遠見 無用尓布久  みやこをとほとみ いたづらにふく
       志貴皇子 (万葉集巻1-51)
  (歌意)采女の袖を吹き返した明日香風は、都が遠いので、今はただむなしく      吹いている.

明日香 甘橿丘04-2

2008-03-30 09:19:25 | Weblog
明日香 甘橿丘04-2

 「甘橿丘東麓遺跡」現地見学会1

 昨日見学会が開催されました。一昨日新聞に掲載されたにもかかわらず他府県からも大勢の考古学フアン?が詰めかけていました。午後1時開始にかかわらず30分前に始まったようで、専門的な質問を投げかけていました。

 蘇我入鹿の武器庫? 甘橿丘東麓遺跡
 大化の改新(645年)で暗殺された権力者、蘇我入鹿(いるか)の邸宅跡とされるこの遺跡で、7世紀中ごろ廃絶した倉庫と見られる建物跡(武器庫?)が見つかりました。これは、日本書紀が入鹿邸のことを記した「門の傍に兵庫(武器庫)を作る」と一致するものです。

明日香 甘橿丘04-3

2008-03-30 09:16:50 | Weblog
明日香 甘橿丘04-3

 「甘橿丘東麓遺跡」現地見学会02
 日本書紀の皇極3(644)年には「蘇我蝦夷(えみし)・入鹿父子は甘橿丘に家を並べ建てた。蝦夷の家を「上の宮門(みかど)」、入鹿の家を「谷(はざま)の宮門」と呼ぶと記述。

 蘇我蝦夷・入鹿父子は邸宅を構え、城柵を巡らし武器庫などを置いて、多くの兵士が外敵から守っていたのでしょう。翌年(645年)、入鹿は中大兄皇子らに暗殺され、蝦夷は宝物を焼いて自殺した、という。

 今回の調査では、須恵器などの土器類が多数発掘されましたが邸宅跡の軒瓦などは発掘されていません。奈良文化財研究所の豊島博研究員は「建物の廃絶の時期が分かったことが成果。蘇我氏の邸宅の可能性が30%から、60%に高まった。」としその場所も推測していました。

明日香 甘橿丘01

2008-03-27 21:30:04 | Weblog
明日香 甘橿丘01

 甘橿丘(あまかしのおか)は、古くは日本書記などの中にもその記述が見られ、7世紀前期には当時の有力者であった蘇我蝦夷・入鹿親子が大邸宅を構えていた場所であるとも言われています。展望広場(標高148m)からは眼下(東)に飛鳥古京の集落、西北に大和三山とその中央に位置する藤原京(橿原市内)、また遠く生駒山や二上山・葛城山などの金剛山系の山並みを望むことが出来ます。

明日香 甘橿丘02

2008-03-27 21:16:42 | Weblog
明日香 甘橿丘02
 
 甘橿丘東麓に植栽された菜の花が満開でした。下段の菜の花は一週間後に満開となるでしょう。
 西麓には冬の間休耕田になっている棚田がありますが、ここにも植栽されたら素晴らしい景観になることでしょう。