狭き門より入れ

スペイン在住クリスチャン。聖書にある救いとは?罪の赦しとは? 礼拝などから、福音メッセージを載せています。

信じるだけで救われる 10

2021年02月08日 | 聖書

さて、前々回、十戒を含む律法は、異邦人の私たちに対してではなく、ユダヤ人に与えられたものであること、そして、律法を守ることによっては、誰も救われないということを書きました。
地獄からの救いは、神の御子イエスキリストが、十字架で私たちの身代わりに私たちが受けるべきだった罪の罰を受けてくださり、三日目に甦られた私たちの救い主と信じることによるのです。

では、救われたクリスチャンはどのように歩むのでしょう?
神様の祝福を得るために、律法を守るように努力しなければならないのでしょうか?
いいえ、答えは「否」です。
なぜなら、クリスチャンは、すでに神様の祝福を受けてしまっているからです。

“神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。“(エペソ 1:3 )

私も、初め、神様の祝福を得るためには、律法を守らなければならないのではないかと考え、実行しようとした時期がありました。 ところがそれは、大きな間違いでした。

律法を守ろうとか、神様に喜んでもらえるような良い人間になろうと、努力を始めると、何か、良い行いが出来た時は、満足感も優越感もあり、良い気分ですが、悪いとわかっていてもやってしまうこと、また、良いとわかっていても出来ないことは、毎日山ほどあるのです。

良心は痛み、自分で自分を責めるようになります。 また、神様もそんな私に対して怒っているように勝手に思ってしまい、落ち込みます。そうこうするうちに、救われた時に与えられた平安も喜びも消えてしまいました。 これは、典型的な律法主義の誤ったクリスチャンの歩みです。

けれども、福音の真理は、全く逆です。

*キリストを信じた私たちは、キリストにあって全ての祝福をもって祝福されています。

*キリストを信じた私たちは、キリストにあって、これ以上神に近づけないほど近づけられています。

*キリストを信じた私たちは、キリストにあって、これ以上神に愛されることができないほど愛されています。

神様は、私たちクリスチャンが、この真理を信じる信仰によって歩むことを求めておられるのです。 すなわち、祝福の高嶺を目指して登ろうと努力するのではなく、神が祝福の高嶺の頂上に私たちを置いてくださったことを信じ、信仰によって、そこに踏みとどまることが、私たちの責任です。

そして、キリストを信じるすべての者には、信じた瞬間に、助け手である聖霊が宿ってくださいました。 しかし聖霊も、私たちが律法を守るようには助けてくださいません。 聖霊は、聖書のみことばによって私たちを教え、私たちを励まし、私たちがキリストに心を捧げ、キリストとの親しい愛の交わりの中にとどまるように導いておられます。 その結果、私たちはキリストのみこころに従うことを喜ぶようにさせられるのです。 けれども、それは、決して強制ではありません。 私たちが私たちの心を聖霊の助けと導きに委ねることによって、聖霊は私たちを導いて下さるのです。(エマオ出版“恵みの真理“ 参照)

素晴らしく立派で恵み深く優しい王様がいたとします。 その王様は、家もなくお腹をすかせて道端に倒れていた孤児を見て、憐れに思い、助けました。 そして、自分の子として愛し育てようと決心し、養子に迎えました。 孤児は、王子という自分の新しい立場にそぐわない自分の乱暴な言葉使いや、身に付いた粗野な態度や習慣に気付き、一生懸命、王子にふさわしい人間になろうと努力しますが、うまくいきません。 「このままでは、お父さんに愛されない!捨てられる!こんな自分の姿をお父さんに見せられない!」と、必死ですが、自分を変えることができないどころか、失敗の繰り返しです。 孤児は、恐れと悲しみで食事も喉に通りません。 食事もせずに、自分を避けるようになった孤児を見て心配した王様は、事情を知り、その大きな誤解に悲しんで言いました。

「何も心配することは無い。 私はお前が王子になるのにふさわしい人間だから養子にしたのではない。 お前には、何の力もないことは、充分わかっている。 私はただ、お前を愛したいのだ。 そしてお前は、すでに私の息子で、王子なのだ。 そしてそれは、一生変わらない。 しかし、もし、お前が望むなら、私がお前を責任をもって教育しよう。」

孤児は自分が誤解していたことを悟り、愛されていることを確信し、こんな自分を愛してくれる父をますます好きになり、父のそばで、安心して過ごすようになりました。 父は常に孤児にとっての最善を考えてくれ、また、すべての必要を満たしてくれました。 どんなに失敗しても、正直に誤ればその度に許してくれました。 どんな時も常に愛情を注ぎ続けてくれました。 孤児は父を心から尊敬し、信頼するようになり、父に拠り頼み、助けられながら、一歩一歩父のアドバイスに従っていくようになったのです。

甚だ不完全で恐縮ですが、クリスチャンの律法主義の間違った歩み、恵みによる正しい歩みを簡単に例えてみました。

もし、読者の中のクリスチャンで、クリスチャンとしての歩み方で、悩みや問題を持つ方がいらしゃったら、エマオ出版の “恵みの真理“ を読むことをお勧めします。

その他、質問などありましたら、こちらへどうぞ。

semakimonkara#gmail.com

(#を@に変えて下さい。)


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信じるだけで救われる 9

2021年02月06日 | 聖書
さて 私は、神の御子イエスキリストが、十字架で私の身代わりに私が受けるべきだった罪の罰を受けてくださり、三日目に甦られた私の救い主と信じました。 今から28年前のことです。
その結果、信じる前に犯した罪、その時点で犯していた罪、また、それ以後に死ぬまでに犯すであろう罪、すべてが許され天国に行ける者となりました。
その後、皆さんは、私が、「すべての罪が許されるのなら、これからますます罪を犯そう!」と、考えたと思われますか?
いいえ、そんな事は、思い浮かびもしませんでした。
私は、イエスキリストを信じた後に それまでに無い大きな平安を得、喜びに満たされました。 背中に背負っていた大きな重荷が取り除けられて、まるで、宙に浮くのではないかと思うほど、心が軽く、楽になったのをよく覚えています。
本当に神様に感謝しました。そして、神様に喜んでいただける生き方がしたいと心から思いました。
それから、まだ地獄に向かっている人たちも、早く救われて欲しいという願望が与えられ、家族や友人に伝道しました。

救われた後のクリスチャンの歩みは、人それぞれですから、皆が、私と同じとは言えませんが、「罪をますます犯そうと思った。」というクリスチャンには、今まで出会った事はありません。 もし、そんなクリスチャンがいたとしたら、その人が、本当に悔い改めて信じたのかどうか、甚だ疑問です。
なぜなら、人が、イエスキリストを救い主として受け入れると、新しいいのちが与えられます。 その神からの新しいいのちは、新しい性質を持っています。 それは、神を愛し、神に従い、また同じ信仰を持つ者を愛する性質だからです。
しかし、クリスチャンにも、相変わらず、罪は宿っています。 ですから、残念ながら、罪を犯さずに生きることはできません。 罪を犯しても救いが失われることはありませんが、神様との交わりが絶たれます。 そういう時は、悔い改めて、神様に祈りを通して罪を告白すると、交わりは回復されるのです。

“もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。
もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。“ (1ヨハネ 1: 8 ,9 )
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信じるだけで救われる 8

2021年02月03日 | 聖書
さて、旧約聖書の中には、律法というものがあります。 その中でも“ 十戒“ は、映画にもなって、とても有名です。
みなさんの中には、クリスチャンが、一生懸命、十戒を守って、救いに到達しようと頑張っていると誤解している方もいらっしゃるかもしれません。 実は、私も、クリスチャンになる前には、そのように誤解していました。

人間には、十戒を守ることは、不可能です。

“なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。“ (ローマ 3:20)

"律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。“ (ガラテヤ 3:11)

では、何のために、十戒を含む律法というものが与えられたのでしょうか?
まず、第一に律法は、ユダヤ人のために与えられたものです。
そして、それは、ユダヤ人を良くするためではなく、彼らの中には罪があり、彼らが律法を守ることができない罪人であることを自覚させるためだったのです。

“律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。“ (ローマ 3:20)

“ では、律法とは何でしょうか? それは約束をお受けになった、この子孫(イエスキリスト)が来られる時まで、違反を示すために付け加えられたもので…“ (ガラテヤ 3: 19)

ユダヤ人は、彼ら自身をよく知りませんでした。 それで、彼らは、律法をすべて守ると誓約してしまいました。 彼らは、自分たちがそれを守れるか守れないかを、経験によって教えられなければならなかったのです。

ユダヤ人は、律法を守る努力によって、しあわせになったでしょうか?祝福を受けたでしょうか?
いいえ、彼らは、のろわれてしまいました。 彼らの歴史がそれを物語っています。

“律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。“ (ガラテヤ 3:10)

しかし、キリストが、律法の下にあるユダヤ人の代表となって、十字架でのろわれた者になることによって、律法の時代を終わらせて下さいました。
それで主イエスを信じるすべての者に、ただで、無代価で、救いの祝福が与えられるようになったのです。

“…神の恵みを無駄に受けないようにしてください。
神は言われます。
「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。
見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。“ (2コリント 6:1,2)


(エマオ出版 “聖書教理 Q&A“、“恵みの真理 “参照)


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信じるだけで救われる 7

2021年02月01日 | 聖書
聖書にはイエス様が話された、こんな例え話があります。 宮に行って祈る、パリサイ人と取税人の話です。 まず、パリサイ人と取税人について、簡単に説明します。

*パリサイ人…当時の一般のユダヤ教徒の中で、ユダヤ教の律法を熱心に研究し、厳格に守っていた。 自分たちは、義人だと自負していた。

*取税人…当時のローマ政府からの税金の取立人。 異邦人であるローマ人のために働き、同胞のユダヤ人たちから必要以上の税金を取り立てて、私服を肥やしていた人々。 一般のユダヤ人からは『売国奴』として嫌われていた。


“パリサイ人と取税人が祈るために宮に上った。 パリサイ人はこんな祈りをした。
『神よ。 私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。 私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから十分の一をささげております』。
ところが取税人は遠く離れて立ち、目を伏せ、自分の胸をたたいてこう言った。
『神さま。 このような罪人の私をあわれんでください』。
義(神様の目に正しい)と認められたのはパリサイ人でなく、取税人の方です。“ (ルカ18:10)

パリサイ人は、自分の勝手な視点から、自己評価をしています。 自分が戒めを守っていることを挙げて、自分に合格点を与え、自己推薦しています。
しかし、神様に受け入れられたのは、心砕かれ、自分を罪人として認めて、神に助けを求めた取税人の方でした。

神様は、他の聖書の箇所で、このようにおっしゃっておられます。

“私たち(人間の)の義は不潔な着物 のようです。“ (イザヤ 64:6)

この、“不潔な着物“ というのは、月の物で汚れた布、ボロ雑巾とも訳されています。 いかに神様が、人間が自己推薦して誇ることを嫌われているかがわかります。


“たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。 全焼のいけにえを、望まれません。 神へのいけにえは、砕かれた霊。 砕かれた、悔いた心。 神よ。 あなたは、それをさげすまれません。“
(詩篇51:16,17)

神様は、私たちがへりくだって、神様の前に悔い改め、自分を罪人として認め、神様からの恵みとしての救いを受けとることを望んでおられるのです。

(Semakimo)
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