狭き門より入れ

スペイン在住クリスチャン。聖書にある救いとは?罪の赦しとは? 礼拝などから、福音メッセージを載せています。

パンくずの恵み

2020年10月31日 | 生活
朝、トーストを食べていると、愛犬のジャッキーがテーブルの横に座って、じっと私を見つめています。 これは食べ終わりに、私が、トーストの切れはしをほんの少し、あげるからです。
たまに、考えごとをしていたり、お腹がすいていて食べることに熱中していて、切れはしをあげるのを忘れることがあります。 全部食べてしまってから、ジャッキーの熱い視線に気付くのです。 その視線には、脅迫や不満はありません。 あるのは期待だけです。 わたしは、この視線に勝てません。 新しい食パンを出して、ちぎって、与えることになるのです。

聖書で、イエス様に、悪霊に憑かれた娘を癒して下さいと、頼む女性の話があります。 この女性はイスラエル人ではなかったので、イエス様は

“子供たちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。“

と、言って、断ります。当時、イスラエル人は、異邦人を見下していました。犬は異邦人に対する蔑称です。けれども、イエス様は決して差別意識で、そんな事を言った訳ではありませんでした。これは、この女性の謙遜と信仰が、公に表されるためだったのです。なぜなら、この女性は、イエス様に、こう言ったからです。

“主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも、主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます。“

この女性の素直さ、謙虚さ、その信仰の強さ、純粋さには、驚かされます。 わたしだったら、ブーブー不満を言いつつ、怒って帰ったかもしれません。

イエス様は、“女の方、あなたの信仰は立派です。“ と、弟子たちの前でほめられました。そして、“あなたが願うとおりになるように。 “と言って、彼女の娘を癒して下さいました。

神様のパンくずほどの恵みには、偉大な力があります。

パンの切れはしを期待して、一心に私を見つめ続ける愛犬ジャッキーのように、わたしも神様のパンくずの恵みを期待し、素直に、謙虚に、真摯にイエス様を見続けなければと、毎朝、思わされています。

(Semakimo)


朝の散歩で

2020年10月29日 | 生活
今朝は、時間に追われず、ゆったりと犬の散歩をすることが出来ました。

肌寒いけれど澄んだ空気。
太陽の光の温もり。
青い空、白い雲。
木々の緑。
足元の落ち葉の色合い。
耳に心地良い小鳥たちのさえずり。

とても気持ち良くて、心のしこりが解されていくのを感じました。

神様は、一体どれほど、私たち人間を愛されているのでしょう?
残念ながら、人間の私利私欲のために、自然は破壊され続けています。 それでも、この、やっと残っているような片隅の自然でさえ、こんなにすばらしいのです。 壊される前の完璧な自然は、一体どんなものだったのでしょう?
子供の誕生を待つ妊婦が、生まれてくる子供のために、子供部屋や必需品をせっせと準備するように、神様も、私たちために喜んで 最上の環境を整えて下さったのに違いありません。


(Semakimo)



交通事故

2020年10月29日 | 聖書
“人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている…“
(ヘブル9:27)

“わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。“
(ヨハネ5:24)

私たちは、時おり、高速道路での事故死の悲観的な統計を知らされます。 警察は強化された統制を発表し、ショッキングな画像が広められ、メディアは高い事故の数字を報告しています。 しかし、それにもかかわらず、相変わらず、毎週末、または連休中などに、最悪の事態が見られます。
交通事故は、いくつかの国で依然として主要な死因のひとつとなっています。 今夜、何人の人が、二度と帰らぬ人を待つことになるのでしょうか?
何かをする度、常に、起こりうる事故について考えて、心配してはいられません。 しかし、私たちが生きている間、私たちは自分自身に、しなければいけない質問があります。

人生とは何ですか?

壊れやすく、短かく、しかし、かけがえもなく大切で、大きな価値があるもの…。
ただ、聖書だけが本当に私たちに人生につい教えてくれます。 聖書は私たちに、神は人間の幸福を望んでいるが、その人間は創造主を拒絶することによってすべてを台無しにしていると説明しています。 また、私たちは、死後、一人一人が神によって裁かれるとも警告していますが、同時に、神は 忍耐深い方であるとも書かれているのです。
神様は、これから私たちが、神様との関係を築き、この人生を終えた後に、はるかに良い永遠の天国での人生をおくる準備をするために、一人一人が悔い改めてイエス・キリストを信じ、神に立ち返ることを望んでいるのです。

(La buena semilla より)

逆境の恵み

2020年10月29日 | 生活
先程、新聞の人生相談のコラムで、ある女性が、こんな事を言っているのを読みました。

“若いときは、何もかも楽しかった。 学校、大学、就職、友人との交遊、旅行、恋愛、結婚…と、ここまでは、まるで、友人たちと一緒に同じベルトコンベアーに乗っていて、楽しみが、あちこちから自然にやって来る感じだった。 ところが、病気をして、子供を持つことが出来なくなった。 友人たちは、相変わらずベルトコンベアーに乗ったまま、今は、子育てに夢中になっていて充実して幸せそうだ。 それなのに、自分は、ベルトコンベアーから下ろされて、何にも興味が持てず、楽しみも見つけられず、虚しく、どうしていいかわからずに 困惑している。 “

この女性の言いたいことは、よくわかりますし、その気持ちもわかるような気がします。 また、ベルトコンベアーの例えは、言い得て妙、大変面白いと思いました。
この女性にとっては、友人たちと同じように生きることが当たり前で、物心ついた頃から、そうしてきました。 結婚するまでは、皆と同じだったのに、今、自分だけが子供を持てないから、皆のように幸せになれない、どうしていいかわからない、生きることの意味を見失ってしまった、というところでしょうか。 私は、これを読んで、聖書の、このことばを思い出しました。

“苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。…“ (詩篇 119:71)

一見、不幸に見える出来事が、本当に不幸であるとは限りません。 いいえ、その不幸に見える事柄が、実は幸せを見つけるきっかけだったということもあるのです。 私は、実際、そういう経験をしました。

この相談者の女性は、今、やっと、人生のスタート地点に立った様に私には、思えます。 今からは、人生とは何か、自分の存在の意味は何なのか、しっかり考えつつ、一歩一歩、自分の足で、自分の道を歩いて欲しいものだと思います。 そして、その結果、神の愛にたどり着けたら、これ以上の幸いはないでしょう。
“主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。“
(詩篇 35:18)

“人は心に自分の道を思い巡らす。
しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。“
(箴言 16:9)

“みことばに心を留める者は幸いを見つける。主に拠り頼む者は幸いである。“
(箴言 16:20)

まだ、ベルトコンベアーに乗っている人たちには、早く、降りる事をお勧めします。なぜなら、神様は聖書を通して、こうも、おっしゃっているからです。

“人の目にはまっすぐに見える道がある。 その道の終わりは死の道である。 “
(箴言16:25)
“あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また<何の喜びもない。>と言う年月が近づく前に。“
(伝道者の書12:1)

Semakimo


遅すぎることはない

2020年10月25日 | 聖書
プリシラは最近、読み書きを学びぶために、ケニアの “Ndalat“ にある学校に入学しました。 彼女はクラスメートのうちの何人かを知っています。 実は、クラスメートのうちの6人は、彼女のひ孫なのです。 プリシラは世界で最も高齢の学生になりました。 彼女は90歳です! さて、その動機は、何だったのでしょう? それは、“聖書を読みたい。 “ でした。

“ 聖書を調べなさい。 というのは、あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思っているからです。 その聖書は、わたしについて証しているものです。 “ (ヨハネ 5:39)

プリシラは神からのこの招待に応えたのです。
もしかすると、あなたの周りの多くの人が、聖書を読んだこともないのに聖書を批判するため、あなたは聖書を開いたことがなく、また、開こうとも思わないのでしょうか? 神の言葉を読むことを学ぶために学校に通うこの老婆の例は、あなたの心を動かしませんか?
神が私たちに言いたいことを聞くのに遅すぎることは決してありません。

“見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。“ (2コリント6:2)

確かに聖書は、神の人間への愛のメッセージが書かれた、唯一の本です。 ヨハネによる福音書の一節はこのメッセージを要約しています。

“神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。 それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 “ (ヨハネ3:16)

この「la buena semilla」の各メッセージには、“聖書を読むようにみなさんを招く。 “ という目標があります。 私たちの応答は、イエスへの弟子たちの応答と同じでしょうか?

“主よ、わたしたちはだれのところに行けるでしょうか。 あなたは永遠のいのちのことばを持っておられます。 “
(ヨハネ 6:6)

(La buena semilla より)