狭き門より入れ

スペイン在住クリスチャン。聖書にある救いとは?罪の赦しとは? 礼拝などから、福音メッセージを載せています。

信じるだけで救われる 6

2021年01月30日 | 聖書
ずいぶん前のことですが、家庭の経済状況を世論調査したら、“中の上“ のランクが一番多かったという話を聞いたことがあります。 それでは、もし、
“あなたは、どのくらい良い人間か?“ と質問したら、どうでしょうか?
もしかすると、やはり、“中の上“ が多いかもしれません。

“私は、偉人伝にあるような、また、ノーベル平和賞をもらえるような人間ではないけれど、刑務所に行くようなこともしていないし、人にもそこそこ、親切にしているし…。 中の上ぐらいかな?"

こんな風に考える人が多いのではないかと想像します。
人間同士で比べたら、"中の上“だとしても、さて、完全に聖なる正しい神様の前では、どうでしょうか? 神様は、私たちの心の思いまでも、お調べになります。

例えば、あなたが、頭で考えたこと、心で思った全てのことが映るスクリーンが、体に取り付けられていたとしたら、皆さんは、人混みを歩くことができますか? いいえ、家族や 友人、恋人にさえ、会えなくなってしまうのではないでしょうか?
神様は、そのスクリーンを、いつも、ご覧になっているのです。 そして、こう、おっしゃっています。

“義人(神の前に正しいとされる人)はいない。 ひとりもいない。“
(ローマ 1:10)

“でも、その代わり、私は良いこともたくさんしているから!“ と、おっしゃる方があるかもしれません。
けれども、ちょっと待って下さい。
良いことをすれば、悪いことは、帳消しになるのでしょうか?
例えば、誰かを殺してしまった人が 、誰かの命を救ったら、殺人罪に問われなくなるのでしょうか?
人からお金を盗んでも、後に誰かに施しをしたら、盗んだことは許されるのでしょうか?

この世の法律でさえ、そんなことはあり得ないのです。 犯してしまった罪は、良い行いで償うことはできません。

それに、人間は自分本位なものですから、自分の悪い行いはすぐに忘れ、良い行いは、いつまでも覚えています。
自分が、人に傷つけられたことは、いつまでも覚えていますが、自分が人を傷つけたことは、気付いていないことさえあるものです。 私たちの、私たち自身に対する評価は、非常に甘いのです。 しかし、神様は、私たちを、正しく裁かれます。


(Semakimo)

信じるだけで救われる 5

2021年01月30日 | 聖書
人間は、色々な宗教の中で、救われるための多種多様な条件を作ってきました。

“お金を払えば救われる。“
“ ~ を買えば救われる。“
“その宗教組織に加われば救われる。“
“その宗教組織の戒めを守れば救われる。“
“ 死んだ者のために、残った者が供養をしたら、その死んだ者は救われる。"
"良い行いをしたら、救われる。“

しかし、天国に入れるか入れないかを決めるのは、神様ですから、神様の決められた方法でなければ救われないのです。

“わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。 わたしを通してでなければ、だれも父(父なる神様)のみもとに行くことはできません。“(ヨハネ 14:6)

イエス様は、こう語られました。 イエス様を通してのみ、人は罪の罰である地獄から救われるということです。

例えば、あなたが、ある会社に就職したいと願っているとします。
その会社に入る条件は、学校の推薦状を持って行くことだとします。
ところがあなたは、その代わりに、100点満点の期末試験、オール10 の成績表、自分で書いた推薦状など、思い付くすべてのものを 提出します。 もちろん、それでは、その会社には、就職できません。
今度は自分でためたバイト代1万円を袋にいれて提出します。 もちろん不合格です。
今度は、一生懸命、その会社の前の道を掃除してみます。 これでも無理です。
この会社に就職するために必要なのは、唯一、学校の推薦状なのです。

そして、天国に行くために必要なのは、神様が決められたように、イエス様を自分の罪の身代わりに十字架で罰を受けてくださった救い主として信じることなのです。

(Semakimo)

信じるだけで救われる 4

2021年01月28日 | 聖書
さて、前回は、

“聖書も、信仰も、信じる者を道徳的に改善して良くするためのものでも、また、この世界を良くするためのものでもない。“

と、いうことを書きました。
ところが、残念なことに、間違った教理を教えている教会もあります。 そのうちの二つをご紹介します。

1,社会的福音•••クリスチャンの数が増えれば世界が良くなり、神の国がこの世に実現されるという考えです。 それは、全く実現不可能です。聖書には明確に次のように書かれています。

“終わりの日には困難な時代が来ることを、承知していなさい。
そのときに人々は、自分だけを愛し、金銭を愛し、大言壮語し、高ぶり、神を冒涜し、両親に従わず、恩知らずで、汚れた者になります。
また、情け知らずで、人と和解せず、中傷し、自制できず、粗野で、善を好まない者になり、人を裏切り、向こう見ずで、思い上がり、神よりも快楽を愛する者になり、見かけは敬虔であっても、敬虔の力を否定する者になります。…“(第二テモテ 3:1~5)

“しかし、今ある天と地は、同じみことばによって、火で焼かれるために取っておかれ、不敬虔な者たちのさばきと滅びの日まで保たれているのです。“(第二ペテロ 3:7)


2,道徳的福音•••福音の目的は、信じる者を道徳的に改善することであり、救いとは、精神的なものであるというものです。 これは、宗教的な道徳運動です。 この世は、そのような人間改善、生活改良の宗教を歓迎しますから、人を集めることはできるでしょうが、これは、間違った教理です。

では、本当の救いとは、何を意味するのでしょうか?
それは、イエスキリストが十字架で全人類の罪を負って、その罰を受けて死んでくださり、三日目に甦られたことによって、すべてキリストを救い主として信じる者はすべての罪の赦しを得、罪に対する刑罰を免れ、すなわち、死んで後に受けるべきであった地獄の苦しみから救われ、永遠のいのちを無代価で受け、神の子どもとされ、神の国で永遠に愛され、栄光にあずかる特権を受けることです。


(エマオ出版 聖書教理Q&A 参照)


信じるだけで救われる 3

2021年01月28日 | 聖書
今回も下記の質問からの考察の続きです。

1) 無戒律な宗教は、人類の道しるべとして、役にたたないのではないでしょうか?

さて、聖書は、どのような理由で書かれたのでしょうか?
神様がご存在されるということは、神様のお造りになったこの世界を見ればわかります。 動物、植物、そして、私たち人間の体の、良くできた仕組みを調べてみれば造り主がおられることはハッキリわかります。

“神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。“(ローマ:1:20)

“天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。“(詩篇 : 19:1)

と、書かれている通りです。
しかし、神様のお造りになったこの世界を見て神様のご存在はわかったとしても、神様がどんな方であるのか、人間に何を望んでおられるのか、などは知ることはできません。 それで、神様は人間に理解できることばで、聖書を通して語って下さったのです。

さて、では、神様は私たちに何を望んでおられるのでしょうか?
それは、私たちが、地獄の刑罰から 救われることなのです。

“しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。“(ヨハネ 20:31)

“神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。 それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。“(ヨハネ 3:16)

と、書かれている通りです。
神様は、聖書を通して、どうすれば私たちが天国に行けるのかを教えて下さっているのです。

そして、聖書が書かれた一番大切な目的は、神様が、どんなに素晴らしい方であるか、私たちが知ることができるためです。

“それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。“
(エペソ 1:3)

そういうわけで、聖書も、信仰も、信じる者を道徳的に改善して良くするためのものでも、また、この世界を良くするためのものでもありません。
但し、そういう間違った教理を教えている教会もあります。
次回は、その間違った教理について、ご紹介します。

(Semakimo)



信じるだけで救われる 2

2021年01月27日 | 聖書
1) 無戒律な宗教は、人類の道しるべとして、役にたたないのではないでしょうか?

続いて、この質問に答えていきます。

前回、人間の造った宗教と真の神を信じるクリスチャンの信仰とは、全く関係ないと書きました。
しかし、残念ながら、聖書に啓示された真の神を信じずに、宗教としてのキリスト教組織に属することで、自分はクリスチャンだと勘違いしている人が大勢いることも、事実です。
例えば、ここスペインは、カトリック(*注1)の国と言われており、ほとんどの人が、“ 自分はクリスチャンだ。“ と言いますが、その理由は、

"幼児洗礼(*注2)を受けているから"

です。
けれども聖書を読んだことのある人は、ほとんどいませんし、教会に通っている人もほんの一部です。 日本の仏教に非常によく似ていて、冠婚葬祭の時だけは、カトリック式で、という感じです。 彼らのやっていることは、宗教です。

また、アメリカなどのプロテスタント教会でも同じような現象があります。

“親がクリスチャンだから“
日曜日に教会に行っているから“
“洗礼を受けたから“

と、いう理由で、自分がクリスチャンであると誤解している人が大勢いるのです。 彼らのやっていることも宗教です。
また、他にも、

“自分は聖書の律法を守るように、あるいは、罪を犯さないように努力しているから“
“祈って病気が癒されたから“
“異言を語るなどの特殊な体験をしたから“

などの理由で自分はクリスチャンだという人がいたとしたら、それも間違いです。

真のクリスチャンとは、聖書の神様を信じ、自分を罪人と認め、悔い改めて、イエスキリストが自分の身代わりに十字架で自分が死後受けるべき罪の罰を受けてくださり、三日後に甦られた自分の救い主であると受け入れた者のことです。
極端に言えば、たとえ、その人が、聖書を読んだことがなくても、教会に行ったことがなくても、洗礼を受けていなくても、特殊な体験をしなくても、本当に心から上記のことを信じたのであれば、罪の赦しを受け、天国に行ける者となるのです。

イエス様と共に、十字架につけられていた、二人の犯罪人のひとりは、その死の直前に悔い改め、信じて救われました。
私の友人の父親も、病気で入院し、もう、助からないと自覚した時に、心砕かれ、イエスキリストにある救いを受け入れ、数日後に亡くなりました。
また、私の知り合いの牧師は、4才の時に、母親にイエスキリストのことを聞いて信じて、救われました。
彼らにできたことは、信じることだけでした。けれども、それで、救われたのです。


(*注1)カトリック•••カトリック教会という組織が聖書の神のことばより権威を持ちます。 ローマ法王やその側近が、教会の都合によって、聖書に無い儀式や教理を作り、それらは法王が替わる度に変わって行きます。 その為、聖書の教えから、離れてしまいました。
しかし、カトリックに限らず、聖書の言葉に何かを付け足したり、差し引いたりする教会もたくさんあります。 それによって、どんどん聖書の教えから離れ、異端となります。

(*注2)幼児洗礼•••赤ちゃんが受ける洗礼のことです。 洗礼は、救われるために受けるものではなく、信じて救われた者が、その信仰を表明するものなので、幼児洗礼は非聖書的です。 聖書の中にも例がありません。

(Semakimo)