狭き門より入れ

スペイン在住クリスチャン。聖書にある救いとは?罪の赦しとは? 礼拝などから、福音メッセージを載せています。

信じるだけで救われる 7

2021年02月01日 | 聖書
聖書にはイエス様が話された、こんな例え話があります。 宮に行って祈る、パリサイ人と取税人の話です。 まず、パリサイ人と取税人について、簡単に説明します。

*パリサイ人…当時の一般のユダヤ教徒の中で、ユダヤ教の律法を熱心に研究し、厳格に守っていた。 自分たちは、義人だと自負していた。

*取税人…当時のローマ政府からの税金の取立人。 異邦人であるローマ人のために働き、同胞のユダヤ人たちから必要以上の税金を取り立てて、私服を肥やしていた人々。 一般のユダヤ人からは『売国奴』として嫌われていた。


“パリサイ人と取税人が祈るために宮に上った。 パリサイ人はこんな祈りをした。
『神よ。 私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。 私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから十分の一をささげております』。
ところが取税人は遠く離れて立ち、目を伏せ、自分の胸をたたいてこう言った。
『神さま。 このような罪人の私をあわれんでください』。
義(神様の目に正しい)と認められたのはパリサイ人でなく、取税人の方です。“ (ルカ18:10)

パリサイ人は、自分の勝手な視点から、自己評価をしています。 自分が戒めを守っていることを挙げて、自分に合格点を与え、自己推薦しています。
しかし、神様に受け入れられたのは、心砕かれ、自分を罪人として認めて、神に助けを求めた取税人の方でした。

神様は、他の聖書の箇所で、このようにおっしゃっておられます。

“私たち(人間の)の義は不潔な着物 のようです。“ (イザヤ 64:6)

この、“不潔な着物“ というのは、月の物で汚れた布、ボロ雑巾とも訳されています。 いかに神様が、人間が自己推薦して誇ることを嫌われているかがわかります。


“たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。 全焼のいけにえを、望まれません。 神へのいけにえは、砕かれた霊。 砕かれた、悔いた心。 神よ。 あなたは、それをさげすまれません。“
(詩篇51:16,17)

神様は、私たちがへりくだって、神様の前に悔い改め、自分を罪人として認め、神様からの恵みとしての救いを受けとることを望んでおられるのです。

(Semakimo)

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