狭き門より入れ

スペイン在住クリスチャン。聖書にある救いとは?罪の赦しとは? 礼拝などから、福音メッセージを載せています。

天国への道

2018年12月30日 | 聖書
「主はこう言われる。見よ、わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。」(エレミヤ26:8)

「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。」(ヨハネ12:46)

登山者が、アルプスの、ある頂に着くためには、いくつかの道がありました。その道のひとつに、「外国人たちの墓場」と呼ばれていた道がありました。見た目には、良い道に見えるのですが、登り始めると遅かれ早かれ、それが間違いだったことに気付きます。

毎年、その警告にもかかわらず、危険を省みない登山者たちがその道を選び、道に迷い、行方不明になるのです。

私たちの人生においても、同じです。私たちの前には、たくさんの道があります。ある人生は、とても楽で、多くの快楽があるかもしれません。けれども、私たちは、それぞれの道の行き着く先をよく考えるべきです。

神様は、主イエス様を通して、ただふたつの道が在ることを宣言しています。ひとつは、広く、多くの人が行きますが、「滅びに至る」道です。もうひとつは、狭く、「それを見出だす者はわずかです。」が、永遠のいのちに至る道です。(マタイ 7:13,14)

しかし、神様は、「探す者は、見出だす」とも、おっしゃっています。(マタイ 7:8)

「私は今日、あなたがたに対して天と地を証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。……あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためである。まことにこの方こそあなたのいのちであり……」(申命記 30:19,20)
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ビデオゲーム

2018年12月26日 | 聖書
「木が南風や北風で倒れると、その木は倒れた場所にそのまま横たわる。」(伝道者の書11:3)

「見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。」(2コリント6:2)

ニコラスは、ビデオゲームに夢中でした。ゲームのボタンを押すニコラスの両手の親指の動きは止まる事なく、一生懸命、敵の攻撃をかわしていました。と、急に顔を上げ、「残りの命はあと、五個!」と、言いました。
これは、そのゲームで敵に殺されても、あと五回、生き返り、敵に挑戦できるということです。

これは、単なるビデオゲームの話です。もしニコラスがゲームで負けても、また、最初からやり直す事ができます。ただ、ボタンを押しさえすればいいのですから、簡単です。けれども、人間の一生は、こうはいきません。

しかし、こういったビデオゲームには、生と死を軽視するようになる危険性を孕んでいます。いつでも、人生のやり直しができるような思いになるのです。けれども、現実は違います。人生は一度きりです。死んでから、やり直すことはできません。死は、人生の終わりであり、誰もそれを避けることはできません。

私たちの人生は、唯一無二のものです。けれども、誰も、その寿命の長さを知ることはできません。この人生は、私たちにとって、死後の永遠をどこで生きることになるかを決める、非常に大切なものなのです。なぜなら、この地上で生きている間にこそ、神様の救いを受けることができるからです。

神様は、私たちを救うため、その御子なるイエス様を与えて下さいました。読者の方々、どうか今この地上で生きている間に、是非、正しい道をお選びになって下さいますように。

「私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。」(2コリント5:20)

(Buena semilla より)
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導きに従う

2018年12月20日 | 聖書
「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(使徒の働き4:12)

「イエスは彼に言われた。“わたしが道であり……わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。“」(ヨハネ14:6)

ある山火事での出来事です。百人近くの消防隊員が消火活動をしていましたが、火の手は早く、知らない間に、彼らは炎に囲まれてしまっていました。

上空で、火事を見張っていた小型飛行機のパイロットが、いち早く、彼らの危険な状況に気づきました。幸い、ひとつだけ彼らが炎から逃れることのできる逃げ道があったので、このパイロットは、すぐに携帯電話で消防隊長に連絡し、
「あなたたちは、火に囲まれて、危険な状態にあります。わたしが安全な場所まで誘導しますので、従って下さい。」と言ったのです。

もちろん、消防隊は、すぐにパイロットからの誘導に従い、無事に全員、火から逃れることができました。

消防隊にとって、このパイロットは知らない人間でしたが、彼の誘導に従う前に、彼の助けの信憑性を疑って、
「このパイロットは、本当に、良く状況を見たのだろうか?」
「このパイロットが誘導しようとする道筋は、本当に正しいのか?」などとディスカッションして時間を無駄にすることはなかったのです。彼らは、ただ信じて、すぐに従いました。

神様は全てをご覧になっており、全てをご存じです。私たちが道に迷っていることも、もし、このまま、神様の誘導に従うことなく進んで行けば、永遠の地獄に行くことも、ご存じです。神様は私たちが天国に行けるように、この世に最愛なる御子を送って下さり、その御子を犠牲にして、天への道をつくって下さいました。

「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。…」(ヨハネ3:17,18)

「御子を信じる者は永遠のいのちを持っている…」(ヨハネ3:36)

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こんなにすばらしい救い

2018年12月18日 | 聖書
「こんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、私たちはどうして処罰を逃れることができるでしょう。この救いは、はじめに主によって語られ、それを聞いた人たちが確かなものとして私たちに示したものです。」
(ヘブル2:3)

神様が私たち人間に備えて下さった救いは、なぜこんなに偉大なのでしょうか?

なぜなら、この救いは天の偉大な神によって備えられ、その御子によって成就されたからです。

また、この救いが偉大なのは、全ての人間のためのものだからです。「すべての部族、言語、民族、国民…」(黙示録5:9)

そして、さまよう汚れた罪人たちを、永遠の栄光のためにふさわしい者として下さるから、偉大なのです。

「しかし、こんなに偉大な救いを備えられたのなら、神様は人間にその代償として、称賛されるような良い行いや、模範的な品行方正な人生、あるいは多額の献金や自己犠牲や巡礼など、たくさん要求してくるのではないか?」ある人は、こんなふうに考えるかもしれません。いいえ!答えは、「NO」です!

「しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス•キリストを信じることによって義と認められる…」(ガラテヤ2:16)

「もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」(ガラテヤ2:21)

これらの聖句の、律法を行って義と認められようとするということは、すなわち、自分の良い行いによって神様に認められようとすることです。

この救いは、ただです。無報酬です。けれども、ひとつだけ必要なものがあります。それは、信仰です。信仰がなければ、救われないのです。聖書を見てみましょう。

「御子を信じる者は永遠の命を持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3:36)

使徒パウロとシラスに、救われるためには何をしたらいいのかと聞いた看守に使徒は、こう答えました。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒の働き16:31)

「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:9,10)

(Buena semilla より)
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