狭き門より入れ

スペイン在住クリスチャン。聖書にある救いとは?罪の赦しとは? 礼拝などから、福音メッセージを載せています。

十字架につけられたのは、あなたのためです。

2022年02月23日 | 聖書
「彼らはイエスを、ゴルゴタという所(訳すと、どくろの場所)に連れていった。…彼らがイエスを十字架につけたのは、午前9時であった。…彼らは、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右に、一人は左に、十字架につけた。」(マルコ 15 : 22, 25, 27)

イエス•キリストがこの地上に住んでいた時代、ローマ帝国で死刑を宣告された者たちの中には、十字架に磔にされた者たちがいました。彼らは手足を十字架に縛り付けられ、そこで窒息死したのです。時々、彼らは彼らの苦しみがより大きくなるように、手足を十字架に釘付けにされました。
十字架刑はその残忍性のため、ローマ帝国でも国家反逆罪の者のみが受けたそうです。

当時は、十字架刑は、特に珍しいものではありませんでした。それなのに、エルサレムでの十字架のイエス•キリストの死は、なぜそれほど重要なのでしょうか?

なぜなら、神のひとり子なるイエス•キリストをこの世に来ることによって、イエス• キリストを通して、神が人間にご自身を示されたからです。イエス•キリストは、真実、愛、そして平和のメッセージをもたらしました。しかし、人々はイエスを憎み、彼を軽蔑し、そして最終的に彼を十字架につけてしまったのです。聖書は、“なぜなら彼らの行いが悪かったから“ と、説明しています。

「…光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛した…」(ヨハネ3:19)

「悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。」(3:20)

なぜ神は、人がそのような悪を犯すことを許されたのでしょう?
イエス•キリストを十字架から解放するのは、神にとって、いとも簡単なことだったでしょう。けれども神はそうなさいませんでした。
なぜなら神は、私たち人間を愛しているのです。そして、罪の無い、イエス•キリストだけが、私たちの罪に値する罰を、私たちの身代わりに受けることができたからです。

イエス•キリストも、一瞬のうちに、敵を滅ぼすことも出来たのに、そうはせず、自分が十字架につけられるままにされました。イエス•キリストは、ご自身の犠牲を通して、人類を、そしてあなたを、私を、地獄での永遠の罪の刑罰から救いたかったからです。

私たちには、そのような、あまりにも大きく、崇高な愛を理解することは 難しいです。しかし、それを信じて、イエス•キリストが私たちの身代わりになって、私たちの罪の罰を受け、苦しみ、死んだことを受け入れましょう。
神の前での悔い改めと、イエス・キリストをあなたの救い主と信じることがなければ、神の赦しを受けることはできません。

イエス・キリストが死んだのはあなたのためであるのです。
どうか、罪の赦しと、天国での永遠の命を、あなたのものとしてくださいますように。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
(ヨハネ 3: 16 )

(みことばの日めくりカレンダー、
La buena semilla より)

*信じたいけれどどうしていいかわからない方、救いの確信がない方、聖書や信仰についての質問などありましたら、こちらへどうぞ。semakimonkara#gmail.com

(#を@に変えて下さい。)

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悔い改めとプライド

2022年02月10日 | 聖書
「神はそのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今はどこででも、すべての人に悔い改めを命じておられます。」(使徒 17:30)

「…悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ 1:15)


聖書の言う悔い改めとは、今まで神に背を向けていたのを改めて、神の方に向きなおることを意味しています。ちょうど、ひまわりの花が、陽が昇ると太陽の方向を向くように、です。
しかし、私たち人間は、悔い改めという言葉に、良い印象を持たないのではないでしょうか。 それは、この言葉が私たちのプライドを攻撃するからです。悔い改めるということは、過去の自分の間違いを認めなければなりません。間違いを認めるというのは、人間にとって、屈辱的なことなのです。
しかし、聖書は、神が私たちを連れて行きたいと思っている場所がまさにそこにあることを示しています。

「(神は)だれも滅びることなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(第二ペテロ 3:9)

神が人に悔い改めるように命じられる根本的な理由は、神は聖なる方であり、いつの日かすべての人が、創造主なる神の前に立たされ、自分の人生について弁明しなければならないからです。
聖書には、こう書かれています。

「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、…」
(ローマ 3:23)

しかし、また同時に、神の愛を宣言しています。

「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。」(第ーテモテ2:4)。

神の御子イエス・キリストは、今から約二千年前に、人間の姿をとってこの世に来られ、私たち人間のすべての罪をその身に背負って十字架にかかり、私たちの身代わりとなって、罪の刑罰を受けてくださいました。 そして、死後三日目によみがえられました。
だれでも、悔い改めて、このイエス・キリストを、自分の罪のために死んでくださった唯一の救い主と信じるならば、すベの罪が許され、神の子供とされ、永遠の天国へ行く者とされるのです。

イエス・キリストの犠牲のおかげで、神はすべての罪を赦すことがおできになります。しかし、私たちのプライドは、しばしば、私たちが罪の赦しを得るために、神に向き合うことを妨げます。
悔い改めは、私たちを救うために十字架につけられたイエス・キリストの愛を確信した人々の心に生じます。それは、神に背いたことへの悲しみを伴う、深い内面の変化を生み出します。その悔い改めは、ただの、感情の高揚による、一過性のものではなく、私たちの未来に、思考と行動の完全な変化を伴います。主イエスを信じることによってのみ、私たちは死後の罪の裁きである永遠の地獄から救われ、完全な平安を得ることができるのです。

「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせます…」(コリント第二7:10)


la buena semilla " より。
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