ブッダの説法は、「そのようなことをするのは、こういう理由でよくないし、悪い結果が出る。
このようなことをすれば、こういう理由でよい結果が出る」と、あくまで説示するだけです。
「法則、真理」を示し、「どうだろうか」と相手に判断をゆだねます。
相手は自らの意志で「じゃあ、やってみよう。ためしてみよう」と決めて実行するわけです。
ブッダが押し付けることはまったくない。
聞く人には、いつでも自由があります。仏教徒は自由な人間なのです。
※ブッダの教え一日一和(今を生きる366の智慧)ヨリ
ブッダの説法には、その場でただちに人々を苦しみから
解き放ってしまうほどの力がありました。
ブッダは、悩み、苦しみについて説き、
悩みそのものをなくす実践方法を示されたのです。
ですから、聞いた人たちはたちまち幸福になったのです。
大富豪でいい暮らしをしていた人が、
散歩の途中でブッダに出会う。
説法を聞いただけで、もう家には帰らず、
そのまま出家してしまうほどでした。
ブッダの教えはいつでも具体的、
現実的な苦しみをなくす教えなのです。
死後の天国を約束するだけの教えではありません。
※ブッダの教え一日一和(今を生きる366の智慧)ヨリ
大乗仏教には大日如来、阿弥陀如来、お地蔵さま、
観音さまなど無数の如来・菩薩がいます。
彼らは、超人的な力をもって人々を救うと約束する「救済者」です。
我々はそれらの仏さまをひたすら信仰して、すがる以外ありません。
しかし、本来ブッダ(お釈迦さま)は拝む対象というより模範にすべき人格完成者です。
人間として生まれ、修行によって人格を完成し、
悟りに達してから四十五年間、人々に正しい生き方を説き示したのです。
ブッダは人間の師です。
我々はブッダから学び、智慧の完成を目指すのです。
※ブッダの教え一日一和(今を生きる366の智慧)ヨリ
如来は、パーリ語で”タターガタ”と言います。
”タターガタ”には二つ意味があります。
一つは、真理に達したという意味。
もう一つは、真理からきたという意味。
そして、ブッダ自身で、”タターガタ”の定義をしています。
自分が他人に説くのは、すべて自分が行っていること。
自分が行ったことを他人にも教える、ということ。
「言うとおりに行う」「行っているとおりに言う」という意味で、
”タターガタ”なのです。
※ブッダの教え一日一和(今を生きる366の智慧)ヨリ
ブッダは、私たちの偉大な師匠であり、
慈愛をたたえた母親のような存在と言えます。
ブッダが歩んだ道は、私たちの模範になるのです。
ブッダは雲の上の人ではありません。
人間として生まれて人格を完成した人なのです。
どんな悩みに対しても、ブッダは見事に答えを出しています。
ブッダを礼拝するのは、ブッダという人格を尊敬し、
生き方を学び、教えを実践するためなのです。
ブッダを念ずることで、
励みになり、自らを高めることになるからです。
※ブッダの教え一日一和(今を生きる366の智慧)ヨリ
勉強すれば「頭がよくなる」と思われていますが、
勉強するとかえって「頭が悪くなる」場合もあります。
世間では勉強と称して、「何のためか」を考えず、
情報や知識をやみくもに詰め込んでいます。
役に立たない知識で頭が雑然とするばかりで、
結局、何も理解していない。
でも、「何も知らない」とも言えません。
ほんとうは知らないのに、知識のせいで「知ってる」と思ってしまう。
雑然と詰め込まれた知識は実際の役に立たず、
しかもよけいな知識によって、明晰にみることができなくなるのです。
※ブッダの教え一日一和(今を生きる366の智慧)ヨリ
「捨てる」ということは、「何物にも依存しない」ということです。
それは単に、ものに頼らないことだけではありません。
神であろうが仏であろうが、まったく何物にも依存しない生き方なのです。
それが真の自由ということです。
※ブッダの教え一日一和(今を生きる366の智慧)ヨリ
一人の人間の力というものはどうしても限りがある。
その限りある力以上のことをしたり、させたりすれば往々にして失敗する。
力にあった適正な範囲で事を行うのが一番よいのであって、その事が力に余るようであれば、
それを分割して何人かの力によって行わせることが望ましい。
指導者としては、仕事を適切な大きさに分け、その分野については責任と権限を委譲して、
各人の力に応じた仕事を徹底してもらうことを考えなくてはならないと思う。
それぞれの責任範囲をはっきりさせることによって、仕事にムダがなくなり、
能率もあがるようになるのである。
※松下幸之助【一日一話】より
みなさんが、それぞれの会社の社員である以上は、
多数の同僚と相接して仕事をしなければならないということになりますから、
人の立場を重んじない、いわゆる協調性の少ない人は困ると思うのです。
自分はこう思うが、あの人はああ思うのだな、それも一つの考え方だろうな、
というように人の言葉に耳を傾ける、というところに協調性が成り立つのです。
もちろん、自己というものを卑屈にして協調せよというのではありません。
けれども自己にとらわれた主張は協調性を欠きます。
この点は、どのような立場にいようと考えなければならない、
非常に大事な問題ではないかと思います。
※松下幸之助【一日一話】より
本を読むのは喜びを感じるため、楽しみのためと理解していれば、
リミットを守って依存症にはなりません。
飲まず食わず本を読みっぱなしとはなりません。
結果が出たら終わります。
体を維持するために食べているのだと知っている人は、
適量の栄養をとったところでやめます。
依存していることを理解していれば、
リミット、適量を知るのです。
※ブッダの教え一日一和(今を生きる366の智慧)ヨリ