表象文化論学会@駒場
この週末の見聞を分けて記録しておこうと。
これはその1。
表象文化論学会 第1回大会
7月1日(土)
13:30-13:45 開会の言葉(会長挨拶)
会長は松浦寿輝。駒場的教養をリードしてきたお一人。
言わんとすることは、解ります。人文知の危機も。
志も行動も、シンクロしています。
問題は中身ですから。
13:45-15:30 基調講演:ミハイル・ヤンポリスキー"Metaphor, Myth and Facticity"
すみません。居眠りしてないんですが、英語わかんないんです。
「Facticity」、what?
15:45-17:15 対談:浅田彰+松浦寿輝「人文知の現在」
ここから会場混み始め。
浅田彰の皮肉なコメントは、受けてました。ていうか、ファンが多いかんじ。
上に書いたことに通じるんだけれど、「表象文化論」という「ディシプリン」も、既に「古典的」な落ち着きを見せてしまっていて(或いは、十分に咀嚼される前に、看板だけすげ替えた旧来の研究に入れ替わられて)、結局、日曜のメニューに新味がない、と言う(ような)指摘は、笑って済ませられるようなモノではないと思う。
18:00-19:30 「身体の冒険――同時代の身体〈知〉をめぐって」
イントロダクション:桜井圭介+内野儀
パフォーマンス:チェルフィッチュ、室伏鴻、KATHY
さて、今回の学会、私としてはこれがメインだったわけですが……。
イントロダクション。
進行役の内野さんという人は「読む人」だった。
これは、演出?
あんまり効果無かったぞ。
自分の言葉に責任を持って何かを伝えようとすれば、文字化したモノを読み聞かせるというのは確かに有効なんだと思うけれど、肝心の対話が成立しないし、観客に伝わってくるモノがない。これが駒場的知の実体なのか。
桜井さんという人は「作曲家/ダンス・キュレイター」。
そんな言葉初めて知った。
話していることは、非常に解りやすい。
解りやすいことが、良いことだ、とは言えない。当然。
日本のコンテンポラリー・ダンス四半世紀の歴史を、短い時間で解りやすく語り、そのあと、「今」の3組が踊る。解りやすい。
それが良いことだ、とは言えない。いえない。
80年代、ピナ・バウシュやウィリアム・フォーサイスを受け、深い理解のないまま、エピゴーネン達の続出。頭の悪い体育会系の人たちしか踊っていなかった時代だと。
だから、ダムタイプのような重要なものがスルーされてしまった。
90年代、Jダンスの時代。サブカル(と言うより、ポップカルチャー)的、薄く、楽しく。
コンドルズが、その悪しき例らしい。
「芸術」ではないと。
2000年代。椹木野依の言う「悪い場所」である日本を逆手にとって「こんなモノはダンスではない」という地平に新しいダンスを創造している時代。批評性=art。クリティカルな身体行為としてのダンス。
西洋ののダンスが、身体を制御する欲望の上にあったとして、日本のダンスはそれを拒否し、或いは、身体の間違った使い方をしてみせる云々。そこから導き出される「子ども身体」という概念。
こんな感じ。
ジャズ・ロック・パンク・ラップ……、アメリカのポップカルチャーが日本に移入されたとき、いつもいつも起こっているのと同じ方法で説明がつくのだから、それはそこそこ間違った物語ではないんだろう。
文学史でも、まぁ、大概はこういう物語の型で説明できる。
その上で、問題は、「キュレイター」が、「天下の東大」で、コンテンポラリー・ダンスを語ることのポリティカルな意味について、どう自覚しているのか、と言う問題。さらにいうなら、あの会場にいた人たちが、そこに何を感じた(感じてしまった)か、と言う問題。
あぁ、そもそもあの場にいた人たち。
自分が、たまたまダンサーと知り合いになれたから、という特権性を主張したいのではなくて、それにしても、隣の大物風会員は、いびきかいてたし。
批評家は、いつでもうるさいし、しかし必要性を否定しようとは思わない。
善悪の基準を持ち出すことは控えたい。
「踊りに行くぜ!」の方がずっと健全だ、とか何とか。
ただ、あの場所の持つポリティックスが、ものすごく気になった。
資料を見た虹さんと空さんが皮肉っぽく笑ったことの意味。
人文知のサバイバルのために、artの現場と繋がることが重要だ、と言う主張その物は認めましょう。というか、私自身、ここのところ、そのことばかり考えてきたのだし(功利的・実用的な意味ではないけれど)。
しかし、(あとで改めて書くけれど、)現場とのつながり方を誤っているように思えた。
さて、パフォーマンスの部。
チェルフィッチュ
「クーラー」と言う作品。例えばこれを「エンタの神様」でやったらどうなるんだろう、と言うような、コントのような。セリフ有り。というか、対話。
身体表現というか、まさに日本の身体の表象、踊れない身体の踊りについて。或いは無自覚なものの意識化。ハイパーリアリズムっぽいんだけど、「振り付け」にあざとさというか、本当は踊れる身体がやっています、と言うのが見え隠れするのがうるさい。
長い時間反復することの意味?
あ、もちろん、面白かったです。
「振り」から意味を排除することで、身体その物の不随意というか不如意というか、そういうモノが立ち上がってくることは理解できた。
室伏鴻
黒いスーツ。スカーフのようなモノで顔を覆ったまま、しばらく「舞台」を下見するような感じ。「はじめますか」。酔っぱらいみたい? 無音。オルゴールを巻かせて、それを音にしようと言うのだけれど最前列の学生風がうまく扱えず、顔に銀粉を塗り始めた頃になって後ろのおばさまが成功。こういうハプニングが面白いのだけれど、それはさして影響もなく。
「タカヤナギ! 来てるか!」とか。「おわります」とか。ことば。
銀色の裸体のグロテスクと美しさの危うい境界で、何を見ればいいのかよくは解らないのだけれど、身体とはこういうモノであったのか、とは。
KATHY
ストッキングを頭からかぶり、金髪のカツラを着けた3人の女性(少女風)が、「ボレロ」バックに踊る。かと思ったら、客席をめぐり、適当に人を捕まえて、同じ扮装をさせ、同じ踊りをさせる。最終的には20人近い群舞になったのではないか。「ではないか」というのは、私自身、10人目より少し前くらいの段階で捕捉され、踊らせれてしまったので、全体を俯瞰する視点をうしなってしまったので。
しかし、貴重な体験。知り合いが居ないせいもあったし、かぶり物があるので恥ずかしさはない。しかし、言葉はないのになんでみんな同じ動作をしようとするのだろう。
最初は予定されていた人がつかまっているんだろうと思っていたのだけれど自分がつかまるに及んでそういうモノではないと理解。
踊れない/踊らない身体を暴力的に集団の中で、集団の前で踊らせること。ダンス技法の問題ではないこと。表現と言うことも軽く超越してる。
どんな人がつかまったのか、観察する余裕もなかったんだけれど、偉そうにしてる教授達にどんどんやらせるべきだな。
出口のところで、唯一、予め連絡してあったひと、シェクスピアの河合祥一郎さんとばったり。
こっちの容貌を余り憶えていらっしゃらなかったところに「踊らされました」と話しかけたので面食らったご様子。憶えてない、といえば、いろんなところですれ違う沼野先生にも、なかなか憶えて頂けないのが悔しいなぁ。
7月2日(日)
9:30-11:30 パネル1:日本芸能史における〈女性的なもの〉
【司会】横山太郎(跡見学園女子大学)
遊女をめぐって――古代・中世を中心に/沖本幸子(日本学術振興会特別研究員)
男性芸能集団「猿楽」における女性性――稚児および天皇をめぐって/松岡心平(東京大学)
出雲の阿国をめぐって/小笠原恭子(武蔵大学名誉教授)
勉強になりました。というか、知らなかった情報がいろいろもたらされたのは、良かったと思います。
で?
そこから、「起源として〈女性的なもの〉を抱えながら、それをのちに排除することを繰り返してきた日本芸能の歩みの検討を通じて、日本文化史のなかで作用する重要な「性の政治」の一局面を浮かび上がらせ、その意味について考察」されていたのかどうか。というよりむしろ、そういう問題設定の是非、前提としての情報整理・事実確認は十分であったのか否か。そういう問題の困難。そして「表象」なのか、と言う……。
時間配分その他、パネルその物の問題も大きい。
* 前夜一睡もしてないので力尽きて、午後の部、「スクリーンの近代――遮蔽と投射のあいだで」、面白そうではあったのだけれどここでリタイヤ。
長くなったので、このへんで。
こんなの誰も読まないでしょう。
この週末の見聞を分けて記録しておこうと。
これはその1。
表象文化論学会 第1回大会
7月1日(土)
13:30-13:45 開会の言葉(会長挨拶)
会長は松浦寿輝。駒場的教養をリードしてきたお一人。
言わんとすることは、解ります。人文知の危機も。
志も行動も、シンクロしています。
問題は中身ですから。
13:45-15:30 基調講演:ミハイル・ヤンポリスキー"Metaphor, Myth and Facticity"
すみません。居眠りしてないんですが、英語わかんないんです。
「Facticity」、what?
15:45-17:15 対談:浅田彰+松浦寿輝「人文知の現在」
ここから会場混み始め。
浅田彰の皮肉なコメントは、受けてました。ていうか、ファンが多いかんじ。
上に書いたことに通じるんだけれど、「表象文化論」という「ディシプリン」も、既に「古典的」な落ち着きを見せてしまっていて(或いは、十分に咀嚼される前に、看板だけすげ替えた旧来の研究に入れ替わられて)、結局、日曜のメニューに新味がない、と言う(ような)指摘は、笑って済ませられるようなモノではないと思う。
18:00-19:30 「身体の冒険――同時代の身体〈知〉をめぐって」
イントロダクション:桜井圭介+内野儀
パフォーマンス:チェルフィッチュ、室伏鴻、KATHY
さて、今回の学会、私としてはこれがメインだったわけですが……。
イントロダクション。
進行役の内野さんという人は「読む人」だった。
これは、演出?
あんまり効果無かったぞ。
自分の言葉に責任を持って何かを伝えようとすれば、文字化したモノを読み聞かせるというのは確かに有効なんだと思うけれど、肝心の対話が成立しないし、観客に伝わってくるモノがない。これが駒場的知の実体なのか。
桜井さんという人は「作曲家/ダンス・キュレイター」。
そんな言葉初めて知った。
話していることは、非常に解りやすい。
解りやすいことが、良いことだ、とは言えない。当然。
日本のコンテンポラリー・ダンス四半世紀の歴史を、短い時間で解りやすく語り、そのあと、「今」の3組が踊る。解りやすい。
それが良いことだ、とは言えない。いえない。
80年代、ピナ・バウシュやウィリアム・フォーサイスを受け、深い理解のないまま、エピゴーネン達の続出。頭の悪い体育会系の人たちしか踊っていなかった時代だと。
だから、ダムタイプのような重要なものがスルーされてしまった。
90年代、Jダンスの時代。サブカル(と言うより、ポップカルチャー)的、薄く、楽しく。
コンドルズが、その悪しき例らしい。
「芸術」ではないと。
2000年代。椹木野依の言う「悪い場所」である日本を逆手にとって「こんなモノはダンスではない」という地平に新しいダンスを創造している時代。批評性=art。クリティカルな身体行為としてのダンス。
西洋ののダンスが、身体を制御する欲望の上にあったとして、日本のダンスはそれを拒否し、或いは、身体の間違った使い方をしてみせる云々。そこから導き出される「子ども身体」という概念。
こんな感じ。
ジャズ・ロック・パンク・ラップ……、アメリカのポップカルチャーが日本に移入されたとき、いつもいつも起こっているのと同じ方法で説明がつくのだから、それはそこそこ間違った物語ではないんだろう。
文学史でも、まぁ、大概はこういう物語の型で説明できる。
その上で、問題は、「キュレイター」が、「天下の東大」で、コンテンポラリー・ダンスを語ることのポリティカルな意味について、どう自覚しているのか、と言う問題。さらにいうなら、あの会場にいた人たちが、そこに何を感じた(感じてしまった)か、と言う問題。
あぁ、そもそもあの場にいた人たち。
自分が、たまたまダンサーと知り合いになれたから、という特権性を主張したいのではなくて、それにしても、隣の大物風会員は、いびきかいてたし。
批評家は、いつでもうるさいし、しかし必要性を否定しようとは思わない。
善悪の基準を持ち出すことは控えたい。
「踊りに行くぜ!」の方がずっと健全だ、とか何とか。
ただ、あの場所の持つポリティックスが、ものすごく気になった。
資料を見た虹さんと空さんが皮肉っぽく笑ったことの意味。
人文知のサバイバルのために、artの現場と繋がることが重要だ、と言う主張その物は認めましょう。というか、私自身、ここのところ、そのことばかり考えてきたのだし(功利的・実用的な意味ではないけれど)。
しかし、(あとで改めて書くけれど、)現場とのつながり方を誤っているように思えた。
さて、パフォーマンスの部。
チェルフィッチュ
「クーラー」と言う作品。例えばこれを「エンタの神様」でやったらどうなるんだろう、と言うような、コントのような。セリフ有り。というか、対話。
身体表現というか、まさに日本の身体の表象、踊れない身体の踊りについて。或いは無自覚なものの意識化。ハイパーリアリズムっぽいんだけど、「振り付け」にあざとさというか、本当は踊れる身体がやっています、と言うのが見え隠れするのがうるさい。
長い時間反復することの意味?
あ、もちろん、面白かったです。
「振り」から意味を排除することで、身体その物の不随意というか不如意というか、そういうモノが立ち上がってくることは理解できた。
室伏鴻
黒いスーツ。スカーフのようなモノで顔を覆ったまま、しばらく「舞台」を下見するような感じ。「はじめますか」。酔っぱらいみたい? 無音。オルゴールを巻かせて、それを音にしようと言うのだけれど最前列の学生風がうまく扱えず、顔に銀粉を塗り始めた頃になって後ろのおばさまが成功。こういうハプニングが面白いのだけれど、それはさして影響もなく。
「タカヤナギ! 来てるか!」とか。「おわります」とか。ことば。
銀色の裸体のグロテスクと美しさの危うい境界で、何を見ればいいのかよくは解らないのだけれど、身体とはこういうモノであったのか、とは。
KATHY
ストッキングを頭からかぶり、金髪のカツラを着けた3人の女性(少女風)が、「ボレロ」バックに踊る。かと思ったら、客席をめぐり、適当に人を捕まえて、同じ扮装をさせ、同じ踊りをさせる。最終的には20人近い群舞になったのではないか。「ではないか」というのは、私自身、10人目より少し前くらいの段階で捕捉され、踊らせれてしまったので、全体を俯瞰する視点をうしなってしまったので。
しかし、貴重な体験。知り合いが居ないせいもあったし、かぶり物があるので恥ずかしさはない。しかし、言葉はないのになんでみんな同じ動作をしようとするのだろう。
最初は予定されていた人がつかまっているんだろうと思っていたのだけれど自分がつかまるに及んでそういうモノではないと理解。
踊れない/踊らない身体を暴力的に集団の中で、集団の前で踊らせること。ダンス技法の問題ではないこと。表現と言うことも軽く超越してる。
どんな人がつかまったのか、観察する余裕もなかったんだけれど、偉そうにしてる教授達にどんどんやらせるべきだな。
出口のところで、唯一、予め連絡してあったひと、シェクスピアの河合祥一郎さんとばったり。
こっちの容貌を余り憶えていらっしゃらなかったところに「踊らされました」と話しかけたので面食らったご様子。憶えてない、といえば、いろんなところですれ違う沼野先生にも、なかなか憶えて頂けないのが悔しいなぁ。
7月2日(日)
9:30-11:30 パネル1:日本芸能史における〈女性的なもの〉
【司会】横山太郎(跡見学園女子大学)
遊女をめぐって――古代・中世を中心に/沖本幸子(日本学術振興会特別研究員)
男性芸能集団「猿楽」における女性性――稚児および天皇をめぐって/松岡心平(東京大学)
出雲の阿国をめぐって/小笠原恭子(武蔵大学名誉教授)
勉強になりました。というか、知らなかった情報がいろいろもたらされたのは、良かったと思います。
で?
そこから、「起源として〈女性的なもの〉を抱えながら、それをのちに排除することを繰り返してきた日本芸能の歩みの検討を通じて、日本文化史のなかで作用する重要な「性の政治」の一局面を浮かび上がらせ、その意味について考察」されていたのかどうか。というよりむしろ、そういう問題設定の是非、前提としての情報整理・事実確認は十分であったのか否か。そういう問題の困難。そして「表象」なのか、と言う……。
時間配分その他、パネルその物の問題も大きい。
* 前夜一睡もしてないので力尽きて、午後の部、「スクリーンの近代――遮蔽と投射のあいだで」、面白そうではあったのだけれどここでリタイヤ。
長くなったので、このへんで。
こんなの誰も読まないでしょう。
次の記事にkeeさん登場予定。
お楽しみに。
趣旨はわかるけど方法論が・・・実践が・・・。
なんでもそうですよねえ。難しい。
とりあえず一歩を踏み出した、という解釈でいいのかな?
ラッダイト。
http://homepage.mac.com/ryutei/Pynchon_Luddite.html
ちょっと勉強になりました。
大いなる矛盾抱えたまますすむ。