goo blog サービス終了のお知らせ 

コニタス

書き留めておくほど重くはないけれど、忘れてしまうと悔いが残るような日々の想い。
気分の流れが見えるかな。

静岡県中部高校演劇公演@静岡市民文化会館

2010-06-28 20:34:31 | 
今月はSPAC「春芸」月間なのだけれど、この土日は行きませんでした。
ホントはメデイアもう一回、という気持ちはあったんだけれど、土曜の夜は祇園だしね~。


というわけで、
土曜日は国立劇場の歌舞伎鑑賞教室公演@GS
 解説+「鳴神」
やっぱり歌舞伎は佳いなぁ。
安心して楽しめる。
これぞ娯楽。
完売してなかったのは本当にもったいない。
11時の回だけで10人くらいは見たことのある学生がいたので、午後と合わせるとそこそこ来ていたんじゃないかな。
それは重畳。
皆さん、ちゃんと感想を言語化しましょう!




日曜日は、関係者(のお母さん)からの情報で、東高演劇部による「転校生」を観劇。

これは、「静岡県中部高校演劇公演」というので、なんと今回で53回目。
加盟校25。
今月の週末、清水・島田・静岡の三会場で24校が上演していたという大きなイベント。
なんだけれど、公式の詳細情報はネット上には見あたらないし、なんだかもったいない。

日曜は静岡市民文化会館中ホールで、14時から各1時間、5校が上演していた由。

もともと、「転校生」を4時からやるぞ、と言う情報に喰いつて駆けつけたので、我々が観たのは
 静岡県立静岡東高等学校の「転校生」と、
 静岡女子高等学校の「嵐になるまで待って」
の2作品のみ。

結果、女子ばっかりの出演で、平田オリザと成井豊の作品を続けて観るって、中々無い経験だし、2作品しか見ない場合のセレクトとしては面白いと思う。
アンケートには十分な感想を書けなかったし、無料で観劇させて頂いたお礼の意味も込めて、少し感想を書いておこうと思う。
関係者の方が検索でたどり着いてくれたら嬉しい。


「転校生」静岡県立静岡東高等学校。

飴屋さんも駆けつけ、SPAC「転校生」チームの顔もちらほら。
みんな、どういう気持ちで観いていたんだろう。

正味45分もなかったかな。役者は“転校生”入れて10人。
原台本を更に刈り込んだ印象で、本人たち曰く、テーマは“LIFE”に絞った由。
会場の“批評担当校”(資料によれば焼津高校)からは、台詞がかぶって聞き取りにくかったというような発言もあったけれど、飴屋版を識っている我々からみたらちょっと整序しすぎてないかな、とおもったり。
転校生役も女子高校生(前にSPACの研修で「風の又三郎」に出ていた娘さん)が演じたので、岡本さんのような異化作用はない。その、異化作用を狙ったのか、この人は他と比べて「演技」っぽかったのが気になった。
この作品を、今回初めてみた人がどう思うのか、というのにはとても興味があるのだけれど、我々は既に別の、とても刺激的なバーションを観ているので、「基準」がちがう。
私が飴屋版を初めて観た時に書いた感想の中にある
高校生たちは、演劇を体験すると同時に、それらの書物や情報について識る。学ぶ。
忘れる。
書物の中にあること、新聞の記事、それどころか、身近な人の病も、死も、出産も、他人の話だ。
それを、リアルに置き換えることはできない。

他者がいて、自分がいて。
他者のことはわかり得ないこと、それは、解ってもらえない自分の存在を映し出してしまうことでもあると気づく。

想像力の問題。
目をつぶってみてもわかりはしない。

「なぜ」と言う問いに答えはない。


参加した高校生たちが学んだことは、読書や、ネット検索では得られない何かだったろうと思う。

自分の名前の他者を通過すると言う体験が、彼女たちに何をもたらしたのかは、あるいはずっと先に見えてくるものなのかもしれない。


ということを、同じように体験し得ていただろうか、という、勝手な心配もした。
よく判らないのだけれど、何か「演劇」している、という感じがあった。
「知的」だった、といえばそうなんだけれど。
そして、平田脚本が、既に、今の高校生達の「リアル」から少し離れつつあるのかな、とか。



静岡女子高等学校の「嵐になるまで待って」
これは対極。
ウチのゼミには時々キャラメルボックスファンが現れるし、どうも、学生たちはこう言うのが好きらしいんだけれど、私は少し苦手意識がある。
仕掛の面白さとかは解るんだけど、その先の深みみたいな物が私に引っかかってこない種類なのだと思う。深く読もうとすれば面白い解釈も可能だし、「人の心を動かす」という作用についての考察もできるはずなんだけれど、どうも仕掛に踊らされてしまう。

2時間分の台本を1時間分に刈り込んだと言うことだけれど、それでもいらないだろう、というのがあったし、キャラメルボックスの雰囲気に引っ張られてるんじゃないかという気もした。
滑舌について指摘されていた狂言回しの教授はキャラクターを全く変えてしまっても良かったんじゃないのかな、とか。


こうやって気づいたことを書くと、つい「批判」になってしまうんだけれど難しい課題に良く取り組んだと思う。
そういうがんばりには拍手を送ろう。

こういう体験は、きっと、ずっと先に行って大きな収穫をもたらすと思う。



今回、ふたつの作品を見て、改めて演出の力ってすごいな、とおもった。
それは、突き詰めていくと、テクストの解釈力であり、生きている自分をどれだけ深く掘り下げているか、ということだ。

「転校生」を演じるということは、自分たちの“等身大”を、台本によってどう舞台に上げるのか、と言う恐ろしく大きなハードルをかかえてしまう。
上にも書いたことだけれど、自分を一旦外在化させ、同じ名前の他人になること、その上で、自分にとっての“リアル”を見つめること、世界を見つめることをちゃんと通過しないと先に進めない。
飴屋版は、元々知り合いでもなんでもない人たちがオーディションによって集まった集団。こっちは本当に同じ高校に通う仲間達。
その“リアルな生活”は“そのまま”では演劇になり得ない。“転校生”がやってくることによって起こる非日常の一日をドキドキしながら生き直すのは、簡単ではないぞ、ど。

「嵐……」の場合は、ディレクターや声優、音楽家、大学教授、といった、普段実際に会うことのない人たちを、様々なメディアから得たイメージで演じざるを得ないという、やっぱりややこしい問題が起こっている。その上で、多分、キャラメルボックスのイメージ。

どちらの作品も、もっともっと、いろんなアイデア(解釈)を出し合って、議論をしつくして欲しかった(やりました、と言われそうだけれど)。


しつこく言うけれど、演劇を通して学ぶことは多い。
一人で小説を読むのも良いし、感想を話し合うことも良いけれど、実際に人前で声に出して読んでみれば、感想を言わなくても「解釈」の多様性が存在することが直ぐに判る。演技をすれば、もっと見えてくる。

すべての芝居がそういう意味での“リアル”であるべきだ、などとは全く思っていないのだけれど、高校生が演劇を通して他者を、自己を、世界を、ちゃんと生きてみること、それを他の沢山の人たちと分かち合うことは、受験勉強なんかよりずっと大切なことだと思う。


このイベントはOさんから知らされなければ永遠に識らなかったと思うんだけれど、とても面白い。
6月はSPACもあり、祇園もありで、ホントに忙しいんだけれど、来年はなるべく多くの作品を見にいこうと思う。

関係者の皆さん、お疲れさまでした。
今後は大学にも是非情報を下さい。

それから、参加していた皆さん、静岡大学に入ってきたら、是非「参加してました!」と言ってください。

SPAC「転校生」の時のように、皆さんとも沢山話がしたいな、と。



おお、そうだそうだ。

劇場じゃなくても、少人数でも、こんなに面白い芝居が出来るんだ、ということで、是非、チャリカルキの芝居を見に来て欲しい。


静岡公演は、
7/15~17。島田・静岡・清水のカフェです。
期末試験まっただ中かな~。
でも、ホントに、芝居に興味のある人もない人も、近いところで是非!

詳細こちら!

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 不謹慎芸術を巡るメモ | トップ | 紫陽花の花 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。

」カテゴリの最新記事